アーカイブ一気読み!
後から「ほぼ日」を
読みはじめた人のために。

 
#10 「信頼の時代を語る。」


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「正直は最大の戦略である」というと、
矛盾した言い方に聞こえるかもしれません。

もともと、人を騙したり攻撃したりすることが
勝利のための条件であるとは、
誰も思いたくはなかったわけで。

そこに、山岸俊男さんの研究が登場してきたのでした。
「最後に勝つのは正直のほうです、実験の結果、ね」
というような内容だったわけですよ。
これには、びっくりするやらうれしいやら。

「ほぼ日」の父が、『情報の文明学』(梅棹忠夫)なら、
「ほぼ日」の母は
『信頼の構造』(山岸俊男)だったんですよ。

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このdarlingの「まえふり」にたがわぬ、
山岸俊男さんとの対談のアーカイブを、一気にお届けいたします。
しかも、ワンクッションおかずに、直にこの下から紹介だ!
おたがい、しゃべりに、力が入ってるよー。

(↓では、どうぞ)

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★正直は最大の戦略である?!


(※とっかかりを丁寧に話したいので、
  はじめは少し長くなっちゃったけど、
  どうか、よろしくおつきあいください)

こんにちは。
今日からしばらくの間、ほぼ日のわたくし木村が、
「かっこよかったなあ・・・」
と、対談終了後の数日間はひたり続けていた、
そんな対談を、毎日連載でお届けしてまいります。

おすすめしてお送りできる内容だと思うので、
よかったら、読みつづけてみてくださいませっ。

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(7月4日の、「今日のダーリン」より抜粋)

まだ一度もお会いしたことはないのだけれど、
山岸俊男さんという人は、「ほぼ日」に
大きな影響を与えている。
最近では、『社会的ジレンマ』(PHP新書)で、
またまた「画期的と言える当然のこと」を
ていねいに語ってくれている。
この最新刊は、息をのむね。
こういう、肯定のエネルギーに満ちた社会学の本、
そうそうあるもんじゃないですよ。
心と社会の関係についてずっと研究している方だけど、
仰天するくらいおもしろいんですよ。
ともすれば、世の中が複雑になっていくことで、
いやな意味で大人になって行かざるを得ないと、
あきらめちゃうものですが、
その悲観的な状況に逆転ホームラン!みたいな研究だ。

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今日からの対談は、ここで書かれている、
社会心理学の山岸俊男さんとdarlingの対談になります。

「人は利己的な存在だけど、
 しかし人々がみな、自分だけの利益だけを考えて
 行動をすると、社会的に望ましくない状態になる」

これを、社会的ジレンマと呼ぶようです。
例えば、火災が発生した時に、狭い出口なのに
誰もが人を押しのけて脱出しようとしたら、
いつまで経っても、数人しか出られないままで
ビルが崩れ落ちてしまうかもしれないでしょう?

おなじ時間をかけるなら、淡々と
一人ずつ、先をあらさわずに脱出していたほうが、
効率よく、より大勢の人が助かったかもしれない。
でも、自分がその「大勢の助かった人」に
入れるかわからないので、みんながみんな、
一番先に出ようとしたりするわけで・・・。

そんなジレンマは、日常生活の中に、
火災とかではなくても、いくらでもありますよね。

そんな中で、人は人と、どう協力をするの?
人は人を、どう信頼するの?
つまり、どういう動機を持って、人は行動するの?
・・・こういう方向が、
山岸さんが研究を通して考えている内容です。

「科学の進歩がすばらしい未来を
 もたらしてくれるというシナリオを
 私たちが全面的には信じられないのは、
 科学をコントロールするかしこさを
 私たちが持ち合わせていないと
 直感的に感じているからです。
 そのようなかしこさを私たちが本当に
 持ち合わせているのかいないのかは、
 私にはわかりません。
 しかし、次のことだけはわかっています。
 それは、私たちは私たちが作り出している社会を
 コントロールするために十分なかしこさを、
 まだ持ち合わせていないということです」

「科学がいくら進歩し自然界をコントロールするのに
 成功しても、社会をコントロールするための科学を
 私たちはまだ手にしていません」

「社会的ジレンマの研究とは、私たちの社会を
 自分たちでコントロールするための
 科学を作り出すための研究なのです」

(※PHP新書・山岸さんの『社会的ジレンマ』から抜粋)



科学に対して「捨てちゃえ」と懐疑を述べるだけの
ポストモダンな動きは、簡単にいくらでも起こるけど、
「どこまで何を、科学的に分かることができるのか?」
山岸さんは、そんな立場にいたいみたいなんです。

実験と研究の日々の中で、ひとまず暫定的に辿り着いた
「正直は最大の戦略である」という山岸さんの考えに、
まずはdarlingが感想を述べて、対談は、はじまりました。


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糸井 最近の「ほぼ日刊イトイ新聞」では、
考えたことを、まずはナマで全部出して、
「まあ、あとは、何とかなるだろう?!」
というような作り方をしているもので、
自分でも、良いのか悪いのか分からなくって。
裸で毎日暮らしているようなものですが・・・。

ただ、山岸さんの著書は、
そういう今のぼくの仕事に対して、
「やっぱり、そうだよなあ・・・。
 そういう結論になって欲しいなあ」
と、勇気を持てる源になっているんです。
山岸 私の特徴は、
「原理からしかものを考えない」
という所でして・・・だから実は、
トレンドからものを見るのが、すごく苦手です。

だから、私が原理を突き詰めて
実験をしながら出した結論に関して、
糸井さんのように現代のことを見通す方が
評価してくださるというのは、すごく嬉しかった。
糸井 まあ、ぼくのやってることは、
トレンドにも見えますが、基本的には
「騙されないぞ」というスタンスでいます。
・・・というのは、ぼくは、
「テストを配られて、書かされて、
 本当には思っていないことでさえも、
 書かないと点をもらえないから、書く」
という時代に広告屋をやってきたので、
「違和感を持ちながら何かさせられる」ことが
ほんとうに、嫌で嫌でたまらなかったんですよ。

だから、トレンドのようなものに流されながらも、
「わからないことは言わないようにする」
「考え途中のことは、途中だと思うようにする」
といったことだけを唯一の原則のようなにして、
何とか、喋ったり考えたりしてきたと思います。
でも、それを続けるのは、
けっこう辛いことでもあった。

そこで山岸さんの本を読んで
ありがたかったのは、正直がいいということが、
きちんと実験で実証されていたところなんですよ。
「実験をしても、そうなるんだ!」と思えたから。

著書を読んでいて、山岸さんが、
どうしてこのような研究をしてるのかを、
とても知りたくなったんです。
散々裏切られて来たからこういう研究なのか、
それとも失敗をした経験があるからなのか・・・
その辺り、山岸さんの研究の動機を伺えますか?
山岸 一番の動機は、ですね・・・。
アメリカで10年くらい研究をした後に、
日本に戻って、北海道大学で教えはじめましたが、
おそらく、その時のカルチャーショックでしょう。
まったく「理が通らない」んですよ!

いくら正しいことを言っても、まったく通らない。
そのシステムが嫌で嫌でたまらなかった・・・。
そんな中で、3〜4年教えまして、辞めました。
その後、アメリカにまた4〜5年行きましたが、
ともかく、理の通らない仕組みが、嫌だった。

そこで戦略的に、変なことを言う人になった。
普通の日本の学者がやらないようなことを、
徹底的にやったり言ったりするようにしましたが、
その私の言動については、もう、
「私が悪いのではなくて、
 私はアメリカに長く居過ぎてそうなっちゃった」
という「せい」に、意識的にしていました。
糸井 「しょうがないな、あの人は」
と言われる感じね(笑)。
山岸 それで、まわりもだんだん
そういう私の言動に、慣れてきた(笑)。

だけどやっぱり、日本のシステムが嫌で嫌で。
だからどうして嫌なのかを、
自分で考えてみることにしました。

例えば、日本的な賢さとして、
「人間関係に長けている」とされるのが
全然納得できないのですが、それならば、
私の欲している「そうではない世界」とは
一体どのようなものであって、どうしたら
それを作り出すことができるのか・・・?
そんなように、考えはじめました。
それが、動機の一つだと思いますね。

もう一つとしては、社会学の人が
実験をすごく馬鹿にすることへの嫌悪感です。
ところが、実験は嘘をつきません。
だから私にとっては、ものすごく大切なのです。
いくら賢いことを頭で考えていたとしても、
実験したらデータがうまくいかないことなんて
いくらでもありますから。
・・・でも、実験を通す時には、
どうしても細部まで考えざるをえなくなる。
それがとても良いと思っています。

つまり、日本のシステムが嫌だというのと、
実験を大事にしたいという二つの動機が、
いつのまにか、つながっていたというか・・・。
糸井 なるほど。最初の動機は、ご自分の抱えている、
とても大きな不自由感からだったんですね・・・。
山岸 そうですね、それはすごくありました。
「お前の考え方にはバイアス(偏見)がある」
と、だから、実際にも言われるんですよ。
そしてそれは、まあ、そうだと思います。
だって、嫌いなものは嫌いなわけですから。
しかし、だからと言って、
実験データは私の主観ではないのです。

バイアスを持って、
自分なりの視点からものを見ていながらも、
なおかつそこで自己満足しないで実験をする、
そういう研究がうまく行けばいいと思います。
糸井 山岸さんの本を読んでいると、
相当な情熱のようなものを感じました。

「俺のやっている方法以外の方法でも、
 もしも、解決できるなら全然いいよ?
 でも、ほとんどの人が、
 絶対に何も解決できない方法で、
 延々と研究し続けているじゃないか!」

という叫びさえも聞こえるような、
まあ、冷静にお書きになってはいますけれども
その根っこにある気持ちは相当なものだぞ、
と、ぼくは思っていたんですよ・・・。
そのあたりを、お伺いしたいんです。

山岸さんのお生まれは、確か1948年。
ぼくも同じ年の生まれなんです。
そこには、性格の差だとかはあったとしても、
いくつか共通点のようなものがあると思います。
ちょうど「正しいこととは何か」を探そうとする
若者の世代に、一度は当たっていますよね。
そこで、ぼくとしては、自分が18歳の頃から、
騙す側にまわった気がしていたんですよ。

自分がその騙す側からこぼれ落ちることは、
一人でいくらでもできるのですが、
でも、その時の騙すロジックというか戦略は、
ぼくが外れようが外れまいがずっと残っていく。
政治的に右であろうが左であろうが、
その戦略で、人はコロっとだまされる・・・。

その仕組みに対して、ぼくはもう、
体が縛られてしまうような嫌さを感じていて、
その嫌な仕組みへの疑いが、ずーっと、
ぼくを冷めさせ続けてきたような気がします。

今言われているロジックに疑いを持った場合、
そのロジックとはまったく違ったものを見たくて
オカルトに行く場合もあると思いますし、
また、一方では、生活の論理と言うか、
「生きていくことが仕方がない」と、
昔に中野重治の書いていたような方向に行くか、
あとは、まったく何も考えないでいるか・・・。

不完全なロジックから離れる方法は
たくさんありそうなのですが、結局はどれも、
「ポスト**」とでも言える形になったりする。
だけども、それをいくら体系づけたところで、
最初に疑いを持ったあとの、頭がさまよう状態は、
一向に拭い去ることができていないわけです。

その時に一番負けてしまいがちな論理は、
「勝てば官軍」のロジックだと思います。
「結局、負けたら何も言えないじゃないか」
というところで息を止めて勝ちに行くのですが、
そこにもやはり体を縛るような不自由さがあって、
勝たなければいけない拘束衣を着るようなのは、
ぼくには、どうしても価値だとは思えない。

山岸さんのお書きになったものは、
「人はこう動くから、こうすればいい」と
政治にフィードバックするわけでもなくて、
「正直は最大の戦略である」と言っていますから、
読んだ時のぼくのショックは、すごかったですよ。

ちょうど、今までの考え方が
ぜんぶ壊れていくような時期に読んだので、
ぼくが漠然と考えていた憧れのようなものと、
社会の仕組みを重ねて、何かをできるのかなあ?
・・・そう思って、だから山岸さんの考え方には、
かなりわくわくしながら、本を読んでいましたよ。
「正直は最高の戦略である」は、ちょうど
今の時代にフィットするなあ、とも思ったし。

自分ではじめた「ほぼ日刊イトイ新聞」も、
「青くさいことだけど」と注釈をつけなければ
なかなか言えないことでも、一生懸命になって、
「違うかもしれないけど、ぼくはこう思う」
と言っていると、それに対する読者からの反応が、
予想していたよりもずっとビビッドに感じられて、
その進行の度合いがとても早いんです。
山岸 そうでしょうね。
糸井 そこは、正直にやっていて
ほんとうに嬉しかった。

    ★   ★   ★

糸井 ぼくは、山岸さんを尊敬していながらも、今まで、
お会いするのを、ある意味では遠慮していました。
ぼくは、勝ち負けの論理のなかで、
「で、オマエ、それで勝てるのかよ?」
と問われる立場でずっと生きていまして、
その立場を超越していたい気分が、自由のためには
すごくあるのですが、負けつづけるところでは、
生きていけなかったんですよね。
そこは、ぼくが、
研究を商売にしていなかったせいもあったけど。

だからこそ、ぼくは自分の自由のためには、
山岸さんの研究には個人として興味を持ってたし、
おもしろいなあと思って読んでいたのですが、
あまりにすぐにお会いしてしまうと、
『安心社会から信頼社会へ』で
書かれているような内容を、ぼくが過ごしてきた
勝ち負けの論理の中に取りこんでしまうという
可能性があると思っていたんです。
だから、お会いすることを遠慮していました。

今ぼくがインターネットでやろうとしたり
やれはじめていることというのは、
勝ち負けの中に閉じこもることを馬鹿らしいぞ、
と、自分として確信を持てたらいいだろうなあ、
というようなことですから、
今までぼくのしてきたこととは、
すごくジレンマがありますし・・・。

ですから、自分の体力と、
自分の体力を支えるチームを
どうやって作るのかが、ものすごく大切で。
たぶん山岸さんの研究室なんかでも・・・。
山岸 はい、まったくおんなじですね。
それについては、よく考えます。
糸井 おんなじですよね?
自分の体力を支える組織論って、
意外に出ていないんですよね。
どの本も、例えば意外と古いところで、
「心意気に感じた」だとかいうまとめ方だから。
そこの組織論のところで、もうすこし科学的に、
「組織論の山岸俊男」みたいな人が出てきたら
読みたいなあと思っていますけれども。

山岸さんも、そういう組織論を待っていますか?
それとも、今のままでも
しょうがない状態だ、と思ってますか?
山岸 うーん、それはほんとに、
しょうがない状態ですよね・・・。
私自身もしょっちゅう失敗しますし、
で、一回失敗すると数年間沈滞するわけです。
糸井 うわあ、そうなんですか・・・。
山岸 そうですよ。
うまくいっていたのが、だめになる。
糸井 組織への信頼関係や動機といったものが、
絶えずないと、チームがうまくいかない、
あるいは、「休む」だとか「楽しむ」だとか、
そういうことも、組織論には絶対に必要ですから、
研究室やチームでリーダーシップを取る人は、
絶えずこういうところを考えていきますよね?

山岸さん本人は「研究好き」で、
「ワガママ = 研究」でいいのですが、
チーム全体を考えることは要るでしょうし・・・。
山岸 そうですね。
そこは、ずいぶん失敗もしましたね。
糸井 そうですか・・・。
そうなるともう、
キチガイを集めるしかないのかなあ、
とも思いますけど。あはは(笑)。
山岸 研究室を立ち上げたときは、
実際に、そうだったんですよ。
全員が新しく研究室を作る立場でしたから、
みんながキチガイのようなものでしたね。
その組織が一度できあがった後に、
難しくなりました。
研究室がそこにあるのが当たり前の中で
入ってくる人たちは、キチガイじゃないわけです。
糸井 おおっ、わかります。
山岸 そこで、おなじような状態で運営しようとしたら、
私は、失敗したという・・・。
糸井 そうとう、長い時間、
山岸さんの研究室は存続しているんですよね?
山岸 いやいや、まだ10年ですね。
糸井 10年ですか。
10年のなかでも、やはり、
組織についての教訓がたくさんあると思いますが、
例えば、どんなことを思い出しますか?
山岸 いやあ、やっぱりさきほどの、創業と、
創業からある程度軌道にのったときの転換ですね。
それは、すごく難しい・・・。

創業当時の頃には、私自身も、
一週間で毎日研究室におりまして、
朝の7時から夜の10時まで、ずっと居るわけです。
ま、今もある意味ではそうなんですけど。
糸井 はい(笑)。
山岸 で、最初作ったときには、
学生たちもみんなそうだったんですよね。
はじめはその雰囲気の中で、一気に研究をしてた。
糸井 何年くらいですか?
山岸 3年ですね。
糸井 3年は続いたのですか?すごいなあ。
山岸 で、3年たったら・・・それが・・・
糸井 (笑)。
山岸 もう、やっぱり、だめになりましたね。
糸井 そこを3年は続いた理由って、おそらく、
企業体じゃなかったというのがあるでしょう。

つまり、ボランティア的なメンタリティがあって、
「好きだから研究やってるんだろ?」
という言い方がかなり成り立たせられる、
劇団のようなシステムですから。
山岸 そうかもしれないですね。
糸井 そこは、給料で雇った人間たちだったら、
ブーイングが起こりますよね。
山岸 ええ、とんでもなくなりますよ。

研究室を作ってしばらく頑張って、
ある程度、国内でも評価を受けられると、
もう、その評判で来る学生が出てきますから、
その時点で研究室の中身が変わってしまうんです。
糸井 「7時〜22時」じゃなくなりますよね?
それに、学生さんですから、
恋愛とかも、当然あるでしょうから。
「彼女と研究どっちが大切なんだ」
みたいなジレンマも、当然ありますよね?
山岸 (笑)いやあ・・それでずいぶん失敗しました。
糸井 (笑)絶対に、それはありますよね!
これは大きい話ですよ(笑)。
例えば、洗濯物がたまっちゃってるというだけで
研究の邪魔になりますから、生活もあるし・・・。

今、ぼくが一番悩んでいることは、
実はこの組織論についてなんです。
「一生懸命やりたい」という動機があっても、
生活を維持したいし遊びたいし楽しみたい・・・。

ぼくのチームは、今、遊ぶことそのものを
研究しているのですから、その時に遊びを忘れて、
「お前、7時22時で毎日やれよ!」というのは、
ぼくは自分に課すことでさえも、
ほんとうはおかしいんだと思っているんです。

それは、成果として目の前に見える研究で
3年間ぶんだけ内容が進展したとしても、
きっと、おかしいんだと思うんです。

研究漬けだけでは済まない、
寝がえりにあたる部分が自分の中に出ますから。
そこは、どんなに研究の好きな山岸さんでさえも、
あると思うんですよ。

その研究漬けのような中で、
自分が豊かでなくなる・・・それが、
当の「豊かさ」や「遊び」を考えている自分が
そうなってしまうのならば、そのムードは、
当然、チーム全体が共有してしまうわけだし。
きっと、おそらく3年間くらいは
「今は、戦争なんだ。つべこべ言ってられない」
という言い方で持つと思うのですが、
そのうちにチームの中から、
「・・・じゃあ、平和は来るんですか?」
という声が出てくるのかなあ(笑)。
山岸 (笑)私も、それで失敗したんだと思います。
糸井 いやあ・・・どこのチームもそうですよ。
山岸 やっぱり、大きく停滞したことがあって、
その原因を反省してみると、
「楽しくなくなる」んですね。
やってることが楽しいという雰囲気がなくなると、
もう、何やってもだめという・・・。
糸井 その兆候は、最初にご自分の中に現われますか?
それとも周囲からですか?
山岸 どうだろう?・・・両方あると思います。
糸井 このへんは、わからないですよねぇ〜。
「停滞感」みたいなものを、まずは感じますよね?
それで、楽しくなくなってきて・・・。
山岸 だから、そのう・・・研究室に、
「仕方ないからやっている」みたいな雰囲気が、
どこかで出てきてしまうんですよねえ・・・。
糸井 うわあ・・・! 
あははは(笑)。
痛ったいなあ、その話(笑)。
でも・・・・はい、そうなりますよね。
山岸 そういう雰囲気が出てくると、
「だめだなあ、これ、どうしたらいいかなあ」
と思って、まだ今も模索しているところですから。
糸井 今ベンチャーでチームを作っているところなんて、
みんなそういうことを模索してますよね?

そこに、インセンティブという言葉で
いろいろと経済的な仕組みを作ってみたり、
あるいは新興宗教的な理念で引っ張ろうとしたり、
チームの中で、文化的衣装を着なおすわけです。
「こんなにいいことをやってるんだよ」とか、
「景気づけに、祭りをやってみる」だとか、
そういうことをやってしまいがちなのですが、
それは・・・違うんですよね。
衣装を着なおしてしまうだけですから。

せっかく裸になってベンチャーではじめたことを、
別の衣装を着なおしてしまうのなら、違うと思う。
・・・でも、その時に、衣装のデザインが違うと
着る気になるということも、これはこれで、
実はあるんですよね。自分にもあるわけだから。
山岸 はい。
私自身に鑑みて、
組織を打開できることというのは、きっと、
本当におもしろいものを、新しく作ることです。
学生たちと一緒に新しく作ったり見つけたり、
そういうプロセスで「やっていくんだ」という
感覚を持てればいいと思うのですが・・・。
糸井 でも、そのプロセスにいる途中で
恋をしてる学生は、それ聞いていないですよね?
山岸 (笑)うわあ〜っ!
・・・この話、おもしろいですね。
糸井 うん(笑)。すごくおもしろい。
この組織の研究は、その研究として、
誰か、きちんと本気でやっている人がいれば、
会いたいくらいですもん。

    ★   ★   ★

山岸 私は、同世代の人たちを見ていて、
かっこいいことを言うというよりは、
いろいろなことをきちんと確かめたい、
と思います。

原理で考えるというのは、
「原理を考えるための公式」を使うのではなくて、
ほんとうに原理を使って考えることだと思う。
公式を使って考えようとした人は、
たぶん失敗してどこにも行き着けない。

何が正しい原理かはわからないんですが、
私が今使っている原理というのは、
「人間というのは、単なる適応の機械である」
「心というのは、適応の機械の特性だ」という。
これは一つの極端な考えかたですけど、
その考え方をつきつめていくと、
一体どこまで行き着けるんだろうと・・・。
論理で考えきれないところは実験でやって、
そこで行き着いたのが
「正直さ」という結論だったのですが、
自分でも、最初は実験結果を信じられなかった。
糸井 そうなんですか。
山岸 だから、面白かった。
ほんとにそんなことがあるのかなあ。
じゃあ、もう一回実験をしてみよう・・・
何回かくりかえしてもやはりそうなるから、
ようやく「やはりそうなのだ」と思えました。
糸井 ところで、
「正直が最高の戦略」という発想には、
山岸さんの側に、日本人ならではの予測が、
前提としてあったのですか?
山岸 いえ。そういうことはないです。
言い方がちょっと難しいですが、私自身としては、
文化という言葉を抹殺したいと思っているんです。
文化によって何かを説明するというのは、
おそらくいいかげんであろうと考えていまして、
「**文化」という言葉を使わなくても
同じようなことを言い得る論理を作りたいのです。

つまり、何かを予測するにしても
「日本人だから」「日本文化だから」という言葉を
使わないで何かを説明してみれば、実は、
今までとは違ったものが見えると考えています。

具体的に申しますと、
最近、オーストラリアと日本の被験者を、
コンピュータでつないで
社会的ジレンマの実験していますが、
日本人よりもオーストラリア人のほうが、
明らかに協力率が高い。
しかも、ものすごい差で。

日本人は社会に存在するしがらみから
解き放たれると、本当に協力をしない。
システムで縛られる時にのみ、協力をします。

だけど、オーストラリア人、自発的に協力する。
この結果の予測はしましたが、その予測は、
「日本文化だから」ではなくて、日本人が社会で
一つの均衡状態を作って生活をしている中での、
その均衡状態をきちんと見てから、
行動する仕方も予測してみると、
そういうことが起こる、と予め考えられるんです。
糸井 今聞いていて急に思ったんですけど、
その結果は日本が島国だからということも、
関わりがあるのですか?
山岸 いえ。島国だからというよりも、
日本的な集団主義的な生き方というのは、
人類に共通のものではないでしょうか? 
おそらく、500万年の人類の歴史において、
99%以上の社会がそのような生活だったでしょう。

私は研究をしている中で、
日本とアメリカや西欧を比べて
つくづく思ったことがあるんです。
普通は、発想としては、
「西洋がスタンダード、日本が特殊」
と、思いますよね。
でもそれはたぶん、完全に逆なんですよ。
糸井 おもしろいなあ、それ。
山岸 日本的な集団主義的な社会の作り方は、
放っておいても出てくる集団のあり方なんです。
何にも手を加えなくても、大勢が集まって
その中でうまくやっていこうとするのならば、
外部の人間を寄せ付けないようにしたり、
差別することによって集団を強めたり・・・
これは、猿も行います。

むしろ非常に不思議なのは、
「どうして西洋的な普遍主義が出てくるか?」
ということのほうなんですね。
集団の境界を重視しないやり方が、
どうして出てき得たかを考えるほうが、
私にとっては、おもしろい。
糸井 前に、古代ローマを研究している
青柳正親さんという先生と対談していた時に、
ポンペイが紀元前4世紀に、どうしてあそこまで
豊かで政治の発達した社会になったのかを聞くと、
「非常に困難な立地条件だったから」。

国の外の外敵が非常に多かったし、
微妙なバランスの階級制度もあったわけで
(生産力の源が奴隷だったことも関係する)、
つまり階級と階級の間で上手に政治をやらないと
社会が成り立たない。だから政治家が育った、と。

青柳さんをおもしろいなあと思ったのは、
「そういうめんどくさいことを
 やらなくてもいいような環境では
 政治は育っていかない」
とおっしゃっていた点です。
その話には驚いたんですけど、今の西洋の話も、
「いろいろ難しい状態だったから普遍が進化した」
ということになりますか?
山岸 たぶん、集団を作って、
その中だけで生きていくのは、
すごく簡単な生き方なんですよね。
西洋が、なぜそういうやり方をしないで
集団の境界を弱めて、効率をよくしようとするか?
・・・そこに興味があるんです。

その原因としては、基本的には
商業的な考え方から、来ると思います。
集団の中にある限界を定めて、
その中で人々を支配する人にとっては、
集団主義はむしろ都合のいいシステムなのですが、
そうやって集団の境界を定めてしまうやり方は、
商業にとっては、完全に「敵」になりますから。

そういう意味では、支配層の中に
「商業的な人がどれだけ入っていたのか」
が、とても重要なことになってくるでしょう。
例えばベネチアの貴族はみんな商人ですよね。

しかし、商業が普遍主義を作ったのだとしたら、
なぜ中国にはそういうものが興らなかったのか?
そこが、すごく不思議なんですよ。
貨幣経済の程度が違うからかな?
というような気もするのですが、
そこのところは詳しくはわかりません。
糸井 そうすると、信頼という概念は
簡単には生み出せなくて、必然性がないと
信頼というのは、もともと発生しないのですか?
山岸 それはそうだと思います。
それが私の研究の基本的な発想です。

    ★   ★   ★
 
糸井 関係ないんですけど、ぼくは、
アリを眺めているのがすごく好きなんですよ。
山岸 私も、好きですよ(笑)。
糸井 それぞれのアリの動きは、
何か意味ありげに見えるのですが、
そのアリの群れを全体として見ると、
結果的にはひとつの動きに、
「だいたい、こんなもんだろうなあ」
という動きに落ち着くじゃないですか。
さっき「文化」という言葉を外して、
とおっしゃっていたけれども、人も、
遠くから見るとアリのようなものかなあ、と。

ぼく、毎年正月に、
アリを、1日3〜4時間とか見てるんですよ。
バリにでかけて・・・
そこでは何にもしないことにしてるから、
アリを眺めるのが、もう恒例の行事なんです。
「ああ、そろそろアリを見てこよう」って思う。
アメをなめてツバ出してみたり、
パンを置いたり・・・まあ、結局は、
エサとの対応関係だけなんですけど(笑)。
でも、別のアリが出現すると、
全然違う動きをしたりするのが、おもしろい。

そうやってアリを見ていると、
「ああ、何だかんだ、いろいろ言うけど、
 人も、本当は、遠くから見てみると、
 こんなような動きをしているんだろうなあ」
と思えてしまうんです。
これをニヒルに見てしまうと
勝ち組のマーケティング至上主義のように
なってしまうだろうし、ニヒルでなければ、
あたたかい海岸で動いてるアリを見ながら、
「人もこうなら、まあ、これはこれで、
 おだやかな、けっこうなことだよなあ」
という見方にもなるんですけど・・・。

ともかく、アリを見て何かを思うことって
ある意味ですごく気持ちがいいんですよね。
「文化」という言葉を抹殺したい、
というものの見方が、ぼくがアリを見てるのと
そっくりだなあ、と、今、ちょっと思った。
山岸 (笑)そうかもしれませんね。
糸井 吉本隆明さんも、そうだよね。
「いやあ、だいたい、そういうものだから」
という言い方をしますから。
諦めているわけではないのだけれど、
「そういうものだから、そういうものだ」
という視点は山岸さんとピタリとあうと思います。

ぼくが、10年くらい前に
ものすごく興味を持っていたのは、
「何で人は寝がえりを打つのか?」で、
寝ている時ですから、いやすいかたちを
自分で意識的に選んでいるわけではないですよね。
ところが、自然に寝がえりを打っている。

元気でいる時の人間は寝返りを打っているけど、
同時に、病人が長く寝て動けないままだと、
床ズレを起こして、背中が皮膚病になってしまう。

それをよく考えると、
文化的制約がたくさんある中で、
人は、起きている時にも、
寝がえりを打つのではないかと思うんです。

女性で、足をきれいに揃えて
傾けて座っている人がいますよね。
あれは無意識にやっているんじゃなくて、
非常に大きな文化的制約の中で、
約束を守っているわけで。

ぼくはそういうのがすごく薄い人間で、
まあ、だいたい形からだらしないんですけど。
でも、一応ちょっとずつ守っているんだけど、
そのだらしなさは、
実は寝がえりを打っていると
考えればいいのではないだろうか?と
思ったことがあるんです。

思想的にも寝がえりを打つことで、
人は自分を守っているのではないかなぁ。
・・・そう思うと、アリを見ている時の
アリの動きは、寝がえりそっくりだなあと、
最近、思っていたところでした。
山岸 アリはおもしろいですよね。
「お前は、アリを見ているように
 人間を見ているんじゃないか?」
と私は言われたこともあるんですけど、
たぶん、そうなんですよ。

そうやって認めた上で、
アリと人間がどこが違うかというと、
遺伝子の共有率が違うわけです。

それぞれのアリは、女王蜂以外は、
自分の遺伝子をまったく残さないですから、
利己的に行動する原理が、行動の中に
入ってこない・・・そのことによって
アリの群れ全体がうまくいくようなしくみが
アリの社会の中には、できあがっているんですね。
だからこそ、アリは自己犠牲をする。

一方で人間は、自分の子どもを残せる。
これは、まったく違うところなんです。
要するに、子供を育てない人間の
遺伝子は絶えてしまうということによって、
つまり人間は、どうしても利己的に
行動をせざるを得ないように作られているんです。
そこが、私の考えている
一番面白いところだと思います。

なぜなら、どうしても利己的に
行動しないといけないはずなのに、
社会の中で利己的に行動すると、
これがたぶんうまくいかないようで・・・。
そこのところの仕組みが、
おもしろいなあとぼくは考えています。
糸井 その仕組みを調べている時に、
「こうなると、いいなあ」
という基本的な想定というのは、
山岸さんの中に、あるのですか?
山岸 それは、ありますね。
そういうものがなければ、たぶん、
研究のエネルギーというのは出ないと思います。

「ある結論を導きたい」
という気持ちはあります。
だけど、そのためには、
導くためのデータをつくらないといけない。
糸井 そして、そこに、バイアスが
自分の考えでかかってはいけないという
注意深さはお持ちになりますよね、当然。
そういう目から見て、大まかに言うと、
今、希望というものが持てる気分には、
山岸さんとしては、なっているのですか?
山岸 そこは本当に、すごくわかりません。
私は原理的にものを考えているのですが、
原理的にものを考えていると、
短期間の予測がまったくできないんです。

だから、社会科学に関して短期予測をする人を、
私はうそつきだと思っています。
「短期的な変動があっても、絶対に起こるだろう」
ということしか、私にはたぶん予測できない。
そういう点から考えてみると・・・
進化の過程で人間の脳と心ができてきましたが、
それに適した社会がつくれるかどうか? が、
今はとても重要な問題だと思っています。
山岸 私が以前「信頼の構造」に書いた社会は、
色々な制約がなくて、かなり自由に
好きなことができるわけですから、
今の我々からは望ましい社会かもしれません。
ところが、これが本当に、人間にとって
幸せな社会なのかどうかということに対しては、
私は、ものすごく強い疑問を持っています・・・。
つまり、人間の脳は、
そういう環境で幸せになるようには、
たぶん、できていないと思うんですよ。
糸井 それ、おもしろいなあ。
おもしろいし、怖いなぁ。

    ★   ★   ★

山岸 そこのところは、
私自身が抱えている、ものすごいジレンマです。
つまり、たぶん人間は500万年の歴史の中で
たぶん99.9%位は集団主義の社会だったわけで、
人間は、そういう集団主義の社会の中で
行動していると幸せになるように作られている。

だけども、その昔のままの仕組みでは、
今の社会の運営はできなくなって、そこで、
今の社会を運営させる仕組みがあるだろうと・
・・・そう考えてみると、妥当なのが、
ある種の知性を働かせて、
信頼を生み出していくような社会で・・・。
だけど、ほんとうにそういうところで
人にとって幸せな社会になるかどうかは、
まったくわからない。 
糸井 そのジレンマは大きいですよね。
山岸 だから、私自身は
害悪を流すような研究をしているのではないか?
という気が、しなくもないですね。
糸井 そこで早急に答えを出そうとしてしまうと、
相当に乱暴なことを言わないといけなくなるし。
山岸 だから短期的な予測には使えないんです。
糸井 とすると、今の視点は
ジレンマとして仮にとっておくにしても、
自分の命が限りあることを指標にして考えると、
できることならばこうしたいもんだ、という、
別の話が生まれてきますよね。

少なくとも、今のかたちで固定されているよりは、
寝がえりをうっていたいというような、
個人としての情熱みたいなものが、
また、別にありますよね・・・。
そのへんは、また、どうなのでしょうか?
山岸 それは、研究に入る動機について、ですか?
とにかく今は、謎解きというのがおもしろいです。
糸井 前にぼくは、いつ地球が滅ぶのかを、
人類は全員が知っておいたほうがいい、
と思った時があって、天文台の人に聞いて
「ほぼ日」に掲載したことがあるんです。
そしたら、50億年で。

いろいろなものごとが、
あたかも永遠に続くと見なしている幻想が、
今を我慢させるという不自由を、
人にものすごく強いているように思えるから。
ともすれば、その永遠のために今を犠牲にして
エコロジーやその他のものに対して、
何かと奉仕しなければいけない状態というのは
ぼくは、すごく嫌だから、それに対して
「でも、地球だって、終わるんだよ!」
と宣伝したい時がありました。

そのへんで言うと、
非常にクールで科学的なお話とは別に、
「俺は今うまいものが食いたいんだ」
「今、友達とたのしくやりたい」
というようなことと研究とのせめぎあいは、
やっぱりあるのですか?
山岸 私自身ずいぶんわがままな人間ですし、
勝手なことをやってきていますし、ある意味で、
世間の常識とはずいぶんずれた生活をしています。
そういう意味では、やりたいことは
それはあると思うんですけど、
でも私はやはり、研究していくことが、
なにものにも代えられず楽しいわけです。
どうしてこんなに楽しいのか、わからないんです。
そんなに研究を楽しんでいることに対して
不思議だと言われれば不思議でしょうけども、
研究って、いろいろな楽しさがあるんですよね。

ひとつはすごく単純なゲームとしての楽しさ。
他の人よりうまくやったという、
戦国時代の武将が
「やあやあ、我こそは・・・」
と言うような楽しさですよ。
あとの楽しさは、もうひとつ、
本当に自分にとって意味のある問題を見つけて、
たぶん、解答なんて見つからないんですけど、
納得できる解決に向けて
近づいていっているという感覚だと思います。

私が研究をしていて一番おもしろいことは、
新しい考え方を作り出して、常識的なものの見方を
変えさせていくというところにあると思います。
そういう意味では、科学と文学は、
そんなに違わないかなという気がしています。

私も若い頃には
文学をやりたいなあと思ったものですから、
文学で何かを作るということを、
文学の才能がなかったものですから、
別の手段でやっているんだと思っています。
ですから、今、時間がたくさん与えられたら
あなたは何をやりたいですか?と聞かれれば、
私は、やはり研究をしたい。
すごく変な態度かもしれませんけれど。
糸井 なるほど!
研究自体がそれだけ楽しいので、
そこからいろいろなことを生んでいるわけですね。
実験の方法も、昔に比べたら、システムが
とても高度になっていくわけでしょうし。
山岸 実験というのは、ほんとうに職人仕事です。
研究のおもしろさの一つでもあると思います。
つまり、実験の結果を外から見ると、
その方法がとても何気なく目に映るのですが、
実はそこに至るまでの、方法を選ぶまでの
ものすごい試行錯誤が含まれているんですね。
そこがすべて研究者の手作りで、
学生は、そこのところを、ほとんど徒弟のように
先生のやっていることを見ながら
「こういうところを気をつけなければ」
というように学んでいるので、実験には
ほとんど文学作品を作るような楽しさがあります。
糸井 へえ〜。
はじめてお会いした時に思うんですけど、
まるでウィトゲンシュタインみたいですよね。
社会的事象の一つ一つというものは、
山岸さんの興味の対象から外れているんですか?
山岸 いや、そういうものでもないのですが、
今見ているものの見方だけではなくて、
もう一回突っ込んでみたら、どう見えてくるのか、
そこに一番興味があります。
糸井 時事に則して何かを考えることはあります(笑)?
山岸 ははは(笑)。それはしますよ。
糸井 いやあ、おもしろいなあ。
話を聞いていると、まるでUFOから
地球を見ている方のような気がしたから。
そこがまた、聞いていて
気が遠くなるたのしさがあるんですけど。

ぼくのレベルで言うと、
まずは社会に対して、いちいち何か感じますよね。
そしてその感じたものが、今までの枠組みの中で
簡単に解説されているのをどこかでぼくが見たり、
今までの枠のままで怒っている人を見かけたり、
あるいは工夫している人を見たりしますが、
そんな中で、
「でも、そういうのって、もう前に
 さんざんやり尽くしたじゃないか?」
と感じて、取り残されたりします。
ものを考えることは、
必ず取り残されることのようで・・・。
そんなぼくが山岸さんの話を聞いていて
すごくおもしろいのは、ものすごい遠くのほうで
星を見ているように人を見ているんですよね。
山岸 (笑)いやあ、まあ、
そうなんだと思いますけどね。
糸井 その星の部分があって、
でも、例えば山岸さんも、ふだん、
「何を食べたい」
とかいうような話もするんですよね。
そのふたつの間を往復している・・・
そこに非常に個人的に興味がありますよ。
ぼくは、そうやって往復すること自体が楽しい。
自分はたぶん根っこに商人の感性があると思う。
ぼくにとっては、
交流だとか交易のそれ自体が楽しいんです。
山岸さんが研究を楽しいとおっしゃるように。

    ★   ★   ★

山岸 ぼくが研究者として非常に幸せだったのは、
サラリーマンの家庭に生まれなかった点です。
オヤジは中小企業の経営者だったんだけども、
50歳くらいでやめて絵描きになっちゃいまして。
糸井 (笑)ほーっ。
山岸 やはり世間の常識だとか学歴が
まったく関係のない世界なんですね。
自由に発想できるというところがあるから、
そういう意味では、
商人の世界にも近いのかもしれない。
糸井 つまり、いわゆる安心社会と言われているものが、
「そんなの、あやしいものだよなあ」
と、山岸さん、子供のときから知ってたんだ?
山岸 まあ、そうですね。
かみさんと結婚した時に、
それですごく驚いたことがありました。
かみさんはエリートサラリーマンの家庭で
育っているのですが、そこの家庭では、
学歴というものを、ほんとうに重要なものとして
考えているんだなあ、と知ったものですから。

私は、学歴はマスコミが書き立てるお話で、
あったほうがいいけど、なくてもどうでもいい、
と思っていて、まあ家が中小企業ですから、
あんなものはあったってなくたって関係ない。
でも、その学歴を、本気で、
何よりも重要だと考えている人が
世の中に存在していると知った時は、
すごいショックがありました。
糸井 「ショック」とまで言うということは、
そうとう「大事だと思ってなかった」んですね。
ご自分が大学にいくときは、
研究をしようと決めていたのですか?
山岸 いや、まったく思っていませんでした。
糸井 大学に入る時は、何をしたいと思っていましたか?
山岸 いやあ、何も考えていませんでしたよ。
糸井 わかるなあ、その感じ。
山岸 最初は理系にいく勉強をしていたんですけど、
大学から帰省してきた兄貴に、
「お前、工学部なんか遊ぶヒマないぞ」
と言われて文系に変えたぐらいですから。
大学を選ぶ時でも、まあ、出身が名古屋ですから、
名古屋大学になんて行った日には、
親元を離れられずに大変なことになりますから、
だから、ともかく東京の大学に。
糸井 逃げたんだ(笑)。
じゃあ、遊び人だったんですか?
山岸 遊び人になりたいと思っていたんですね、本当は。
糸井 研究というフィールドで
遊びをはじめちゃったんですか?
山岸 たぶん、そういうことになりますね。
やってみると、本を読んだら興奮するわけですし、
とにかく研究がおもしろくて、そちらに
のめりこんでしまったということだと思います。
糸井 山岸さんの動機は、何なんだろう?
キーワードは、やっぱり「自由」でしょうね。
山岸 そうだと思いますね。
糸井 最近会っておもしろいなあと感じる人って、
みんなどこかで、言葉としては発していないけど、
「自由」については、ものすごく欲深だと思う。
山岸 それは、そうだと思います。
私にしても、今、研究業績を
なるべく外国の雑誌に出すようにしていますが、
出す理由は、要するに自由を獲得するためです。
「嫌になったらいつでもやめられる」
「研究するために、どこの大学も選べる」
という自信をつけておくためですね。
糸井 自由のためなら不自由もするという。
山岸 それに近い状態ですね・・・変ですよね?
糸井 いやあ、それわかりますよ。
我慢して我慢して、賞をとるための小説を書いて、
芥川賞を取ったあとには、もう大丈夫だといって
好き放題に書けるというようなものですよね。
山岸 実は、50歳になったら、実験はやめて、
アームチェアーに身を沈めて、好き放題に
いろいろしようと、本当は思っていたんですよ。
ところがまだ実験から開放されませんね。
糸井 実験がおもしろかったから?
山岸 実験もおもしろいですし、
自分自身をやっぱり実験で縛らないと、
いろいろと、ものを考えられない。

実験というのは、考える道なんですね。
いくらいいことを考えていても、
結果が出なければどこかが間違っている、
そういうものが、私には必要です。
糸井 脳にボディがついてるみたいな、
そのボディに、実験があたっているわけですね。
山岸 そうです。
実験をするというのは、ところが、
わざと自分で鞭打つようなもんなんですよ。
糸井 まったく白紙のところからの自由というのは、
やっぱり、ないんだ・・・。
山岸 そこであまりにも自由に考えたら、
意味のあることを考えられなくなる、というか、
まあ、そういう信念になっちゃいました。
糸井 あはははは(笑)。おもしろいなあ。
まるで数学者と話しているみたいだ。

山岸さんとは、とても近いものを感じるけど、
どうやって道が分かれたのかな?と思ってた。
考え方の根っこにあるものは、そっくりだと思う。
ぼくも、商人の子どもというか、
自営業の息子だったんですよ。
自分で「今日は仕事をやめよう」とか
決める親父が近くにいましたから、みんなが
あくせくして「これは大変だ」と言ってる内容は、
どうも、大変じゃないみたいだなあと思いながら
ぼくは育ってきたところがありまして。

小さい頃から、周囲と適応はしているのですが、
そういうものは、我慢すれば
いくらでも適応できるわけでして・・・。
ぼくは、不自由感を探すのが好きなんです。
ちょっと、マゾですけど。
「このへんが、不自由だなあ」
というのを探してゆくのが、趣味で。

だから、一斉に全員が間違えてゆく瞬間だとか、
自分はまわりとこのように違うふうに考えている、
というものを見つけることがぼくのフィールドで、
これは山岸さんにとっての研究にあたるような
ことだと思うんですけど・・・。
ただ、それは研究の筋道があるわけじゃないから、
百個考えた中でも、一つか二つしか役に立たない。
今までの中で、今がいちばん、
いろいろな人にとって「不自由」の発見が
ある一つのムードを出しているような気がします。
今が転換期だからだと思うのですが、
今までなら馬鹿にされてしまうようなことが
聞いてもらえるようになっているじゃないですか。

特に今は、ネットがつながったおかげで、
ほとんどの人に直に問いかけられるようになった。
だから、昔に比べて「そうなんです!」という声が
すぐに反応として見えるようになったと思います。
ぼくにとっての実験例のようなもので、
そういう声が集まってきたら、妙に自信がついて、
「じゃあ、言っていいんだ」だと思えてきました。
今までは不自由な人がイニシアチブを取ってきて、
その主導下でみんながガマン比べをしていたけど、
それが、なくなるのかもしれない・・・。

    ★   ★   ★

糸井 「市場がないからできない」ということが、
すべての不自由のはじまりだったように思うけど、
今、ネットにつなげていろいろな声を聞けるのは、
そこの不自由を、ぽーんと広げてしまえるのでは?
・・・そう、思うようになりました。

まあ、ぼくの生きているうちにできるのかは、
よく分からないのですが、少なくとも、
将来に自由になれる、自分のわがままを
通せるかもしれないと思うと、うれしくなる。
「ほぼ日刊イトイ新聞」なんてやっていると
疲れるのですが、実はこれをはじめてからの2年、
先生が夢中になって研究しているのと
おんなじくらい、毎日がおもしろいですよ。
山岸 そうでしょうね。
あのホームページを見たら、そう思います。
糸井 間違えた時には間違えたと言えばいいのは、
そこはやっぱりネットというメディアのおかげで、
こんなことができるんだったら、俺は何で
もっと早くこういうことをやっていなかったのか?
とまで思うくらいです。

もちろん、今も、ぼくのまわりに、
ガマンのチェックリストは、山ほどあります。
だけど、それは俺が好きでやっていることだから、
そこは山岸さんが外国で研究論文を発表するために
徹夜する時もあるでしょうし、
語学も余計にやらないといけないし、
というようなものだとぼくは思っています。

今までよりも仕事はずっと大変なのですが、
「あ、できるかもしれない!」
というためには、ガマンできますので。
山岸 そうですね。
糸井 そうすると、ネットがこんなに楽しいなら、
みんなが、もう、こうなってしまえ!と思う。
最終的には、みんなが自分の情報開示を
徹底的にやることが、きっと、
何をどう間違えてしまうかは別として、
少なくとも、次の時代のものごとがどうなるかの
ヒントにはなるだろうなあと思っています。

長い目で見て、そういう社会が
良いか悪いかはわかりませんけれども、
不自由やガマンだけで生きていって、
ガマンガマンで死んだ人が美徳とされて
伝記を書かれるような社会は、
少なくとも「ふざけたもの」ですもんね(笑)。
ガマンし続ければいいという考えは、
ある意味では、一番不真面目だとさえ思います。

ぼくはもう少し真面目ですから、
みんなが毎日寝返りを打てて、自由を味わえて、
ああ楽しかった、というように死んでゆくのが
いちばんかっこいいなあと思ってるんです。

だから、山岸さんのやっている研究が、
どれだけ、うれしかったか・・・。
くりかえしちゃってますけど、
あの研究は、もう、すごくいいなあ。
山岸 私が、糸井さんにほめていただいた
いろいろなコメントのなかで、研究結果を、
「すごい当たり前のこと」と言ってくださった。
その表現は、いちばん嬉しかったです。
研究の結果というのは、
やっぱり、当たり前のことなんです。
だけれども、当たり前の当たり前を
主張することで、ものの見方が変わってくる。
おそらく私がやりたいと思っているそこを、
きちんと理解してくれたことが、嬉しかった。
糸井 さっき「文化の衣装」のようなものを
重ね着しているところをはがして、
裸にすることで見えるものもある・・・
山岸さんのしているのは、そういうことですよね。
「裸に見えるけど、それは実は文化の衣装だ」
というような指摘は、たぶん、
フーコーのような人たちがはじめたと思いますが、
そういうようなことについては、
ぼくも、ずうっと、のどが渇いた時に
「うわあ、水があった!」
というような感覚で読んだ覚えがありまして、
いろいろなものを読んで理解していたかどうかは
わかりませんけれど、でも、ほとんどの物事が
文化の重ね着の中での不自由だと思っていました。

そういう中で、山岸さんが
「だって、実験しても、そうなるじゃないか」
と見せてくれたものですから、
あれは、気持ちよかったですねぇ。
山岸 「何かいろいろと言ったって、
 実験すりゃこうなるじゃないですか。
 反論できますか?」というのは、
私がやりたいことなんです。でも、
「山岸のやってることは心理学の実験に過ぎない。
 私が見ている現実から言うと、違う」
なんて言ってる人もいるんです。
その人が言う「現実」というのは、
自分の個人的な経験なんですけども。
糸井 (笑)うわあ。嫌な奴がいるんだなあ。
要するに、俺はこうやったら失敗したとか?
山岸 「日本は低信頼社会で、
 オーストラリアやアメリカは高信頼社会だ」
と私が書いたことに対して、
「だけども私は
 オーストラリアでたいへんな目に遭った」と。
糸井 (笑)うわあ。
それで反論しているつもりなのかあ?
山岸 きっと、その人には、私が話しても
どうしようもなくわかってもらえないと思います。
糸井 きついなあ。そういう時に、
無力感のようなもので、うなされませんか?
山岸 いやあ・・・時々。
でも、うなされるような時というのは、
たいした「時」ではないですね。
こちらにエネルギーがない時期だけです。

やっぱり最終的には、
その反論もエネルギーにするしかないから、
無視をするか、あるいはもっと
グウの音もでないネタを出すぜ!と思います。
糸井 なるほど、そうかあ。
「エネルギーですね」って言えるところまで、
やっぱり山岸さんは、闘いをご自分の中で
もっと激しく、されていらっしゃるんですね。

ぼくも「ほぼ日刊イトイ新聞」で、
たくさんのメールをもらう立場にいますが
メールあたりという言い方をしているんですよ。
「暑気あたり」とか「薬にあたった」みたいに、
メールに、あたることがある。
たくさんのメールがあるということは、
それだけ反論もいろいろありますし、
間違った賛成意見だって、ありますし・・・

でもやっぱり、ぜんぶ目を通さざるを得ない。
ぼくもどこか研究者なところがあるので、
「どう読んだら、こういう意見が出るのかな?」
と思ってそういうメールもきちんと読むのですが、

やっぱり、体力が弱ってる時には、
読むと落ち込みますねえ・・・。
やっぱり何を言ってもだめなのか、
という、無力感が出るんですね。
山岸 そこは、最終的にはやっぱり体力ですよねえ。
糸井 (笑)そう。体力ですよっ。
山岸 私も、ほんと〜に、そう思いますよ。
研究者の条件のひとつは、体力だと思います。
いろいろなところで批判されもしますし、
実験がどうしてもうまくいかない時もありますし、
落ち込んだ時に、どう乗り越えられるかというのは
とても大切だと思うんです。
私の場合は、とにかく食べて寝るしかないです。
糸井 つまり、「自分全体として元気である」という
ことでしか、はねかえせないんでしょうね。
そういうことも、気になってました。
ぼくにとって、自分の指標になるような
原理的な研究をなさっている方のひとりに、
三木成夫さんがいらっしゃいます。
あの方もアリを見るように人間を見てますけど、
やっぱり、三木さんの研究そのものが体力ですよ。

「脳は、神経系のほんの一部であって、
 からだ全体としては、自分が生存できる
 チャンスを得られるように行動しているんだ」
というような、三木さんの書かいることを読むと、
「やはり体力ですね」ということでさえ、
まったく理論的に、納得できますもん。

時々、そうやって、
ぼくに勇気を出してくれるような人がいて。
やはり原理のところでも自分を支えていないと、
やっぱり、ふらふらしてしまうんですよね。

    ★   ★   ★

糸井 ぼくが組織論を知りたいのは、
動機だけで、純粋な興味として
「研究は面白いなあ」と集まったはずなのに、
どうしてうまくいかなくなるかを、
知りたいからなんですよね。

生産をするだけでは動機を維持できないし、
アメリカで事例が出てるサンタフェ研究所とかは、
経済構造として社長がいますというかたちで
研究機関が作られていて、本でだけ読むと
うまくいっていそうに見えてうらやましいけど、
実際は、そんなに甘いもんじゃないでしょうし。

だって、キチガイを集めようとすればするほど、
組織をどうしていくのかは、怖くなりますよ。
サンタフェみたいにノーベル賞の人たちが
何人もいるところで楽しくやってるなんて、
そんなの、実際は、あるわきゃないもん(笑)。
集団というのは、機械ですよね?
組織というその機械と、信頼や動機という
キーワードを、どう結ぶのかを知りたいんです。

利己的な人間でもある一方で、
研究という生産のために集まった人たちが、
どうなっているのかの仕組みは、
よろしかったら研究してほしいくらいですね。
山岸 その研究は、私にはとても難しいですね。
原理で考えられる部分が非常に少ないからです。

学問には、科学と芸能があると思うんですよ。
組織は、その芸能の部分だと思うんです。
アメリカの大学で言えば、
プロフェッショナルスクールでやっている部分は、
ほとんどが芸能なんですよ。つまり科学ではない。
例えば、医学や法解釈やビジネススクール・・・
そういったものはすべて、基本的には
スキルの集積であって、芸能だと思うんです。

そこには根本的な原理があるわけでもなく、
その根本的な原理を適応させるところで
解決する問題もないと感じるんですね。
糸井 歴史で言うと、原理ではわからない時には、
必ず、当面の解決法として宗教が入りますよね?
宗教以外で解決したものは、もうほとんど
基本的には見たことがないというか・・・。

宗教というものすごい分厚い衣装を選ぶのか、
何も選ばなくて済んで、やっていけるのか・・・
そんなようなことは、ぼくはすごく興味あります。
ですから、当面の計決法としての宗教を、
ぼくは、否定しきれないんですよね。

今、山岸さんが芸能とおっしゃったことと、
宗教とは、とても似たものだと思うのですが、
でも、今ある宗教は、嫌なものが多いわけで・・・
だったら、嫌じゃない宗教ならいいのではないか?
そう考えたりもしているんです。
でも、宗教が嫌じゃないって、何なんだろう?

不自由を体感しやすいぼくのような人間にとって、
嫌ではない宗教はどのようなものかを考えたら、
今のところ一つだけはっきりと考えられるのが、
「出入り自由」というキーワードなんです。
でも、これがまた、出入り自由にすると、
宗教ではなくなるんですけど。
山岸 なるほどー。そうだと思いますね。
糸井 組織論にしても、出入り自由としたときには、
今までの範疇では考えられなくなるのですが、
ほとんど言語矛盾とさえ見えるのですが、
「出入り自由な宗教」という言葉を使い続けて
何かを見つけるしかないのかもしれないなあ、
というのが、今のぼくの仮の考えだと思います。

山岸さんがおっしゃっていることにしても、
「信頼をしたほうが得だ」という仮の宗教を
身にまとわせているわけですよね?
つまり「正直は最大の戦略である」という
その「戦略」という言葉は、限りなく宗教に近い、
勝ち負けの論理の言葉なわけですから・・・。
いったん仮着を着せたほうがうまく回転するぞ、
というのと同じように考えていくことですよね。
山岸 それは、おもしろいですね。
みんながあることを信じている社会においては、
そのあることが、本当のものになってしまう・・・
宗教というのは、
そういうものかもしれないですね。
糸井 かつてあった宗教で、ぼくが一番
嫌じゃないなと思えるものは、親鸞なんです。
一番「勝手な宗教」です。

現世の状態を、ぜんぶ否定も肯定もしないで、
ただ、「ある」とみなすんです。
アリさんがいるのとおんなじように、「ある」。
で、余計なものはぜんぶ省いてしまって、
「南無阿弥陀仏」と一言言うだけでいいとしてて。

そう決めたことについては、そうとう、
思想家としての経験から来てもいるだろうし、
苦しみ抜いた結論だろうし・・・そう考えた
親鸞の脳には、ものすごい膨大な宇宙を見ますね。

南無阿弥陀仏の一言で、
すべてを救ってしまう「ことにした」人の、
心の大きさと痛み、これがかっこいい・・・。
今のところ、それが一番マシかなあ、と思います。
山岸 新しく実験のシリーズをはじめたんですけど、
それはその問題に近いと思います。
放っておくとだめになる状態があるので、
集団の中で何らかの制度を設定する必要があって、
でも「強制」の制度は絶対にみんな嫌がるんです。

そこで、強制でもなくて、
みんなが自分たちで情報を整理できる仕掛けには、
どういうシステムが考えられるのか?という。
そんなシステムを作れるかは、わからないですが、
それをうまく作ることについて、考えています。
誰もがそういうシステムを願っているだろうから。
糸井 たぶんぼくのやれることは、例えば
山岸さんが仮に提出された「正直」について、
それをしたら成功したという例を、
生めるかどうかが重要になるのでしょうね。

でも「仕事として例を見せる」となってしまうと
これは別次元の「キャンペーン」になるから、
そこが難しくなってきますけども。
山岸 そうですね。
糸井 だから、正直のまま放っておいてみて、
「何だか、失敗も含めて楽しそうだなあ」
と言われた日には「イケる」かな?・・・
そういうところで、ぼくは現在、
「ほぼ日刊イトイ新聞」をやっているような。
ぼくにとっては、「おもしろそうだな」と
言われるあたりにカギがあるという気がします。

・・・いやあ、このへん膨大な話ですね。
政治も経済も絡んできますから。
貨幣だけで動かせないものがあるというのは、
さっきの組織論が完成できないこととも絡むし、
つまり人間は、とても困ったモノであって・・・。
やっぱり、組織論にとても興味があります。

山岸さんの話、おもしろいなあ。
哲学であり宗教であり、ぜんぶあるから、
もう、社会学じゃあ、ないですもんね。
山岸 そうなんだと思います。
「何学?」といわれるとこまるんですよ。
私自身としては、今から生まれつつある
ほんとうの社会科学を、やりたいんですね。
今までの社会科学というのは、エセ科学なわけで。
糸井 そこで、サンタフェ的な学際的な組織があったら、
研究って、楽しいでしょうね。
・・・あとは、きちんとやるための
研究費が欲しくなってくるでしょう?
山岸 はい。そして、それはじめちゃうと、
そっちに時間が取られてしまうんですね。
・・・そこは、すごいジレンマです。
予算がないとできないことがたくさんあるし、
かといって、予算を取ることを真剣にしていると
自分の研究がおろそかになってしまう・・・。
糸井 やっぱり、プロデューサーを、
日本が育ててこなかったんでしょうね。
理解して「お金、出しますよ」という
テクノクラートが、やはり研究には必要ですよ。
山岸 ただ、今は、新しい学問ができる場面に
何らかのかたちで直面できているので、
そこがすごくうれしくて続けています。
そういう、新しさに直面しているといった
幻想のようなものがあるから、
私も研究をしているんだとは思いますよ。
糸井 やっぱり、動機の源は幻想ですね(笑)。
ほんとに、ぜんぶのことを言い足りないままで
考えを進めたくなるところで対談が終わりますが、
ほんとにありがとうございました。
お話をしてて、わくわくしましたよ〜。

(※ここまでで、終了時間になりました。
  「おっ。ここからじゃん?
   おもしろいから、もっと続けて欲しい」
  と思った人もいるのかもしれませんね。

  再度の山岸さんの登場を望む人は、
  メールをお送りくださいませっ。
  「ほぼ日」としても、とても楽しかったので、
  もしかしたら、また、別の機会に、
  何らかのかたちで登場していただけることを、
  かなり切に思っているんだよー。


次回は、また別のページの簡易版をお届けします。

このページへの感想などは、
メールの表題に「アーカイブ」と書いて、
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2001-02-28-WED

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