第1回 いやあ、どうもこんにちは。


[前口上の巻]
さあ。インパクがはじまりました。
その、ひと月くらい前に、インパクの編集を
コアにやっているふたりが、対談をしたんですよー。
荒俣宏さんと、darlingです。

そこで・・・。
雑誌「編集会議」での対談時のテープだけをもらって、
「ほぼ日」のわたくし木村が勝手に編集をして、
新春特別企画としてお届けしようということになりました。

さっそく、読んで欲しいのだぜ。ほほえめるよー。

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糸井 いやあ、こないだはどうも。
こんな暮らしだから、
最近は、しょっちゅう会っていますけど・・・。
(※インパク準備中による頻繁なミーティング)
ただ、荒俣さんがウェブに夢中になっている、
ということを聞いたのは、わりと最近なんです。

荒俣さんと言うと、ぼくのなかでは、まあ、
グーテンベルクの申し子みたいなところがある。
荒俣 ええ。
糸井 あれだけこう・・・何て言うんだろう?
ほとんど、フェティシズムに近いような感じで
本を愛してきていた人でしょう?

そんな人が、インターネットに関して
かなり強い興味を持っているとうかがいまして、
そうやって、本を愛しながらも
インターネットが好きな人もいるんだよなあ、
という感想を、それ聞いた時にはまず持ちました。

一般的な話をすると、ひとつフェチがあると、
それ以外を否定する感覚があるじゃないですか。
ひとつのパイを分割するような、
ゼロサム的な世界に入りがちで・・・
荒俣 はい。
糸井 でも、荒俣さんがインターネットにのめりこむ
その自由さを聞いたら、
ものすごくうれしくなりました。
その自由さがあっちこっちにあったら、
もっと、本の世界にもウェブの世界にも
いいんじゃないかなあと思っているんです。
メディアの分類の垣根を超える代表者として
荒俣さんのことぼくは見ているんだけど・・・
パソコンへの抵抗は、なかったでしょうか?
荒俣 おおもとのところから話しちゃいますけど、
本が好きというのは、
もうそれこそ子どもの時からで、
あの「ブック」というかたちが
いちばん大好きで・・・。
だいたい、それを抱いて寝ていたくらいですので。
糸井 (笑)そんなに、好き!
荒俣 買った本があると、うれしくて抱きました。
・・・ま、ふつうの人は18歳くらいになると
女の人を抱いて寝るようになるんですけれども、
私は、その・・・ず〜っと、本を(笑)。
糸井 わははは。
荒俣 なんかだいたいその頃のぼくは、
「三歳にして心朽ちたり」
という中国の熟語が、とても好きで・・・。
どうせ世の中なんて大したことはないのだから、
せめてくだらないことに拘泥して生きていこう、
という一種のあきらめの境地があったんですね。
糸井 (笑)ほおー。おもしろくなってきたっ。
荒俣 それが好きで、そのあきらめの境地に達さないと、
なかなか本を愛したり買ったりできないんです
よ。
と言うのは、本よりおもしろいことなんて、
どう考えても世の中にはいっぱいあるのですから。

僕が本読んでる時、みんなはスポーツをやったり
連れ立ってハイキングに行ったり、合コンしてる。
そいつらのほうが、そりゃあ絶対楽しいと思う。

そこであえて本にこだわろうとすると、
西行や芭蕉のような心境にならないと、
なかなか、そうは思えない(笑)。
糸井 「朽ちたあ」と思わないと。(笑)
荒俣 そう。
「朽ちた」って思わないと・・・。
特に、本フェチみたいな人が
本を買おうと古本屋に行くと、だいたい高いし、
2万か3万だみたいな本を買う時は、
もうこれは、大変ですよっ。
糸井 いやあ、命がけですよねえ。
荒俣 (笑)はい。もう命がけ。
その時にまわり見わたせば・・・
2万か3万くらいあったら、それこそ、
どっかでおいしいものが食べられたり、
教習所で車の運転をできたりするじゃないですか。
糸井 うん。
荒俣 そういう使いかたに比べてみると、
本を買うよりもそっちのほうが、
絶対いいに決まってるんですよ。

本を買って、ただ自分が喜んでいるだけで、
両親はぜんぜん喜ばず
に、しかも、
「こんなにすごい本持ってるよお」
って見せたって、女の子は絶対に寄ってこない。
糸井 ははは(笑)。寄ってこないですね。
荒俣 そしたら、運転免許を持ってる男の方が
絶対に効率いいわけです。
そうなると、そこで本を買っちゃう自分に
どうやって言いわけをするかと言うと、ですね。
「持ってたものがスリにすられたと思って」
「悪い女にだまされたと思って」
「火事になって家が燃えちゃったと思って」
・・・で、買おう!というようなところで
だんだんエスカレートさせて、
自分をなぐさめるしかなくなるわけで。
糸井 あははは(笑)。いいなあ、それ。うん。
荒俣 そういう言い訳が最後はとうとう年代を超えて、
「第二次世界大戦に遭遇して、
 東京空襲に遭ったと思って、この本を買おう」

と自分を言いきかせていたんだけど、
そのへで小松左京が『日本沈没』を書いたから
これはちょうどいいなあと思って、
「小松左京の言うとおり日本が沈没したと思えば、
 何を買ったって、ぜんぜん惜しくないぞ」と。
隣の人間がモテて、こっちがモテてなくても、
どうせ日本が沈没しちゃったら、
どちらに転んでもおんなじだ・・・(笑)。
糸井 (笑)そうですよ!
荒俣 で、そう考えて本を買うようになったり、
本にこだわるようになっていったので、いつしか
「いろいろなものを諦めて本を買う」
という仕組みになっていったんですけども、
そうやって集めていたら、
ひどいことがわかっちゃったんですよ。
糸井 え? 何ですか?
荒俣 世の中の本は、だいたい、
そんなに大したものがない
というのが
わかっちゃったんです。これはコワい。
糸井 おお! 
その世界に入ったあとでまた戻っちゃったんだ。
荒俣 これがコワいところで、以前は
芥川龍之介の初刊本なんか喜んで買ったけれども、
実はそんなのは大したことがなくて、
その前に出たものとしては、
もっといい本がぞろぞろあるし・・・。

海外に目を向けたら、目の玉の飛び出るような
いい本もあって、で、やっぱりまあ、そういうのを
どんどんエスカレートして買うじゃないですか。
糸井 (笑)やっぱり、買う!
荒俣 そうしたら、そのうちにだんだんだんだん
そーいうことがバカバカしくなっていって、
「本をこんなに集めていって、
 いったい何の役にたつんだろうか?」
というある種の無常感みたいなのが出るんですね。
糸井 ええ・・・ついにそこまで(笑)。
荒俣 (笑)そのために、まあ・・・長い道のりで。
生きている時の彩りだとか楽しみだとかを
捨ててきたことの代償としてわかったのが、結局、
「自分が集めていたものは大したものじゃない」。
糸井 (笑)
荒俣 極端な話をすれば、本のことを考えてみると、
一番残る本って、粘土板なんですよね。
糸井 そこまで!(笑)
荒俣 メソポタミアの奇形文字で作った粘土板を
天火で焼いたものは、まあ何万年も持つけれど、
紙になると耐久年数が「数百年」になって、
更に酸性紙になると100年持つかどうか・・・・。
CD−ROMになると20年かそんなもんになるとすると、
ハードウエアとしての本は、どんどん
だめな方向に行っているわけです。
糸井 なるほどー。そうか。
おもしろいなあ、それ。
もっと言ってえ!(笑)。

第2回 本への愛情が、醒めちゃったんです。


[新春・前口上の巻]
荒俣宏さんとdarlingの対談をお届けしています。
インパク開催にあたって、その前の月に収録した
対談をお送りしているんだけど・・・。

「ウェブ」とか「デジタル」とか、そんな話とは
ほとんど無縁の会話がくりひろげられているでしょう?

・・・実は、だからこそ、このふたりが
インパクに関わっているんですよ。
と、伏線をはりながら、今日の対談にすすみませう。
どうぞお楽しみくださいませ。

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荒俣 本は粘土板の頃がいちばんいいわけで、
それに、デザインも、年を経つにつれて、
どんどんだめな方向に行ってるじゃないですか。
糸井 ほーほー。
最近50年とかの話じゃなくて、
「粘土板の時期に比べて悪くなる」
という荒俣さんの感覚が、おもしろいなあ。
荒俣 特に最近の電算システムなんかもそうで、
一見、よくなったようにも見えるんですけど、
ひいて考えるといろいろとだめな部分が見える。

極端な話で言えば、
コンピュータの漢字制限があるから
イメージとおりに活字に組みなおそうとしても
ほとんどできないんですよね。
それは糸井さんも本を作っていて感じますよね?
糸井 うん。ほとんどできない。
荒俣 「最近の本は、最近の読者のために
 優しい漢字で読みやすいようにしましたよ」
とか書いてありますけども、実は大うそで、
「読みやすくなくてもいいから、そのままやってよ」
と言ってもできないから、その方便として
読みやすくなりましたと言っているんですから。

以前はトータルなかたちとして
あんなに自由に本を作っていたのに、
そのうちに必ず校正者のようなやつが出てきて
「こちらではひらがなだけど、
 こっちでは漢字だから、統一しろ」
とか言っているというか・・・。
でも、こっちではひらがな、
こちらは漢字を使いたい、
そういうことは、あるじゃないですか。
糸井 多々ありますね。
荒俣 そういう自由度がどんどん失われて、
ふと見たらいつのまにか統一されたものだけが
流通されたものになってきていますよね。

・・・江戸時代の書き方なんて、
もう、むちゃくちゃじゃないですか?
糸井 点とかマルなんて、ないですからね。
荒俣 そう。めちゃくちゃ。
それでも何とか読めるし、
「変体仮名」なんて好きなように書いてますよね。
それでもちゃんとメディアとして成り立っていて、
「滝沢馬琴風」だとか
「十返舎一九風」みたいなものができて、
滝沢馬琴なんて、挿絵の指定やレイアウトまで
自分でやっているぐらいでしょう?

つまり、けっこういろいろなことができていて、
「わがままがきいた」んですよね。
やりたいことをかなりストレートに表現できた。
糸井 ソフト優位ですよね、完全に。
荒俣 はい。
わがままを最大限に容認できるところがあって。
いま糸井さんがおっしゃったように、
ソフトがいちばんの中心で、
ソフトがハードを否定するからおもしろいんです。

なのに、それがだんだん逆転していって、
そのいちばん極端な例が、
中国の漢字を使いたいのに、
日本の漢字のフォントしかない
という関係でできない。

だから、本づくりは
だんだんとだめになってきているんだな、
と、本を集めた結果でわかってきたので、
「粘土板のくさび形文字がいちばんよかった」
という結論に行くわけです。
糸井 (笑)そこにいくか。
荒俣 例えばよく言われるような、
デジタルになるとページをめくる感覚がない、とか
生理的にいやだというのは実は瑣末な問題でして、
全体的に本というものをオブジェとして見た時に、
明らかにいい方向に進んでいないわけで・・・。
糸井 デザインとして「やせて」いってるんだ。
荒俣 やせてきているんだ、と思うと、
そんなに本への
こだわりもなくなっちゃったんです。
あんなにねえ・・・抱いてたのに。
糸井 ははは。
荒俣 ぱっと気がついたら愛していた人が実はババアで、
この人が若かりし頃にはビーナスだったはずなのに
気がついたらただのアホだったとわかって(笑)、
一気に熱が醒めた・・・。
糸井 (笑)醒めたというのがあったんですか。
荒俣 どんどん醒めちゃった。
糸井 あ、それは知らなかったですよ。
荒俣 そうなると、今のように
デジタルであろうが何であろうが
ここまで「やせて」しまったものは、
もう、何とかだましだまし使うぐらいしか、
とてもじゃないけどやっていけないので、
そこで問題は、何がいいのかというよりも、
今あるものをどう使うかということ
に、
まあ、すりかわってくるわけですよね・・・。
糸井 おもしろいなあ〜、その感覚!
荒俣 なんかねえ・・・。
本を集めるのは、まあ、
やって損したっていうのが実感ですね(笑)。
糸井 だってそれ・・・
ひとつひとつ、人生賭けてたじゃない?(笑)
荒俣 そう・・・。
だから逆に言うと、
もうここまで来たら
ネットになろうが何になろうが、
悪くなるぶんには変わりないんだから、と、
こだわりがなくなっちゃたんです、ある日に。
糸井 なるほどなあ。
荒俣 むしろ、それよりも、
ババアになったぶんだけたくましくなった、
その部分に目を向けよう、というか・・・。

若い頃には知らないこともあったけれど、
おばあさんになったおかげで
いろいろな知恵を引っぱり出せるとか、
美しさにかまけていた頃には
わからなかったことも、わかった
とか(笑)。

そういうもので
デジタルみたいなものも、
救えるかもしれない点があると、
思うようになってきました。
糸井 うん。わかるなあ。なるほど。

第3回 部分を愛することができるようになった。


[前口上の巻]
粘土板を本にしたような、
あるいはタタミ半畳ぶんもあるような、
全体を完璧な美術品として愛せるたぐいの
本は、どんどんなくなってきている・・・
フェティシズムと言われるほどまでに
本を愛しつづけてきた荒俣さんは、
収集の結果、そういうことに気づきました。

かたち、大きさ、重み、中身、
すべてを愛せるほどに手作りの味や
個別の思い入れの入った本は、もう作られない。

「気づいたら、本という美女が、
 いつのまにババアにすりかわっていた」
という荒俣さんは、そのババアを、
ババアとして見はじめたおかげで、
やり手な部分とか、どうにかこうにか
それをうまく活用する部分とかを
見つけたんだけど・・・。

このへんの話は、
本とか女性とかが比喩になってますが、
デジタルとアナログに対して持つ
荒俣さんのイメージを、わかりやすく
語ってくださっている内容になるんです。

じっくりお楽しみくださいませ。

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荒俣 今までは、美しい女性っていうのは、
だいたいは例外なく、ぜんたいを通して
キレイなのが好きだったわけです。
・・・まあ、時々変態の人で
腰の部分だけ好きだとかいうのはいたけど。

髪の毛から足のつま先までがキレイなのを
ワンセットとして持っていないと、
なかなか気分が悪かった、ですよね?
糸井 うん。
荒俣 別の言い方で言うならば、
ひとつの人格と個性がワンセットになっていた。

本もそうだし、ソフト優位という時代には、
だいたいワンセットのぜんぶがよくて、
そのどこも切れないっていう魅力があって・・・。
でも、それがばあさんになってくると、
ワンセットじゃなくて、要素を
ばらばらに切って判断できちゃうんですよ。
糸井 「ここだけでもいい」という。なるほど。
荒俣 そう。おっぱいだけはいいから、
ここだけもらおうか、とか。
尻の肉のつきかただけはいいから
ここは生かしてゆこう、とか・・・。

本への見方だけじゃなくて、
人間に対しても、そうなってきますよね。

あるところだけを特化して切り取って、
のこりは冷たく捨てることが、
デジタルの世界に入って、
どんどんできるようになってきたと思う。
糸井 ある意味では、自由になったとも言えますよね。
荒俣 そうなんです。
そういう意味では、それまでにあった
人格の呪縛や、トータルな美しさの呪縛や、
オーラの呪縛みたいなものから
本が解き放たれましたよね。

谷崎潤一郎や川端康成の本も、昔の本だったら、
人格が入っているように言われていたから、
なかなかありがたくて
ぜんぶ切り離せなかったものですけども、
今はデジタルになって、
こんなペラペラな文庫本になったことで、
どんどん中身を切れるようになって・・・。
糸井 うん。それは、感じるなあ。
荒俣 いろんなものを切り刻めるようになったのは、
かなり大きな出来事だ
と思うんです。

本の歴史で言うと、
目次をつけたのは大発見で、
「頭から全部読まなくても
 部分ごとに参照できるしかけ」
ができたのは、つまり、
本をばらばらにすることだったんです。
だから、捨てることもできる。

18世紀の本って、やっぱり・・・
人格ですから、破る気がしないんです。

日本の本で言っても、戦前くらいまでのやつは
岩波で出ていた『夏目漱石全集』にしても
例えば初期のものは破る気がしないですよね。
糸井 オレンジ色みたいなやつですよね?
荒俣 そうそう。
糸井 あの、色まで覚えてますよね。
荒俣 ね、覚えているでしょう?
『我輩は猫である』の中身は忘れても、
あの猫の木版画みたいなやつは、
覚えてるじゃない?
あれも、トータルだったんですよね。
糸井 うん。
荒俣 今は誰がデザインして作っても、
その時にはキレイだと思いはするけども、
まず最初にカバーが外されてしまうし、
帯なんか実際には意味ないんですよね。
糸井 本を作る側の都合を書いただけですからね。
荒俣 つまり、本はただのハードになってるわけですよ。
全体のハードを切れるようになったおかげで
ついでに、ソフトも切れるようになっちゃった。
これがものすごく大きいと思うんです。

そういうデジタルの世界に入って、
めった切りのできるツールがスタートすると、
もう、乳首だけとかほくろだけとか、
そういう愛し方も、充分ありえますからね。
糸井 なるほど。
荒俣 そう思いながら、
3〜4年前からネットでいろいろ見てみると、
もうばんばん切っちゃおうというのが
如実にあらわれてきているのが、
よくわかりました。

切る快感というのも、やってみると
なかなか気持ちのいいものですよねえ。
糸井 おおお・・・。
本を抱いていたところから、ここに!
それは、ある意味では、
本に捧げた人生に対するリベンジでも?
荒俣 まあ、リベンジでもありますね・・・。

第4回 カミは死んだ。


[前口上の巻]
ほとんど人格が宿っているものとして、
全体的に愛してきた本への思いが、
荒俣さんの中では変化してきた、
というのが前回の話でした。
本を、ばらばらにでも消費できるのを、
いいと思ってやっているんじゃなくて、
「そうするしかしょうがないから」
というのが荒俣さんらしいなあ・・・。

あ。
インパクだとか、インターネットの
テクノロジーだとかに関係ないと思う?

でも、ここで話されているぜんぶが
実は関係あることなんだということが
あと数回読んでもらったら、
わかるようになっていると思います。
すでにメディア論には、なっているもん。

では、つづきの本文を、どうぞ。
今回も、本への愛情についての話だよ。

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糸井 でも、本への愛が
なくなったわけじゃないんでしょ?
荒俣 どこかで愛そうという気持ちは・・・。
糸井 (笑)ありますよねえ?
荒俣 最後のほんとに・・・
ひとかけらまで、最後の一滴まで、
愛せる要素があるのならば、愛そう・・・
そうなるんじゃないかなという感じはしますね。
糸井 荒俣さんでいうと本とかいったような
自分の中にあった価値体系が、
どこに価値があったの?
そうやってチェックを受けている時期が
今なんだと思います。
捨ててしまうなら今のうちに捨てないと、
みたいな感じで世界的に企業でも組織でも
どうしていくのかを、
模索しているような気がします。
捨てるなら捨てないと、自分の部屋の中に
新しいものが入らなくなってきますから。
荒俣 そうなんだよ。
年をどんどん取ってきたということは、
逆に言うと、
ゴミが増えてきていることでもあるから。
糸井 うん。
荒俣 以前に、本を
20代の女性のようにトータルで愛せれば、
例えばその人がちょっと捨てたハンカチでも
ありがたいなあと思って、
拾って、なめて、頭にのせても
良かったわけですよね。

だけども、相手が60歳70歳になると、
ただのゴミになって拾わなくなって・・・。

だから、生理的なものと切り離して本を見る時に、
本の愛せるところだけを選別して
デジタルなかたちにしてゆくというのは、
ひとつのきっかけになると思います。
たとえば紙をなくすということは。
糸井 「カミは死んだ」りするんだなあ。
荒俣 (笑)うん。

第5回 荒俣さんの愛の経費って、億単位でしょ?


(※本をきっかけにした、荒俣さん&darlingの
  「メディア論」みたいなものをお届けいたします。
  今回のさいごから、インターネットの話に移るよ)

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糸井 本に対する、芯ではない部分の信仰は、
最近なくなってきた感じがありますよね。
健康になったとも思うのですけど。
荒俣 自分で本を書いていてもよくわかるのですが、
やみくもに膨大な本、例えば『資本論』にしても、
それが本棚に並んでいた時に、
圧倒されるような感覚って、実はごまかしですよね。

私の実感から言うと、
ほとんどの本が、詰めれば1行で済むんじゃないか、
という感じがするんですよ。
タイトル1個あればいいというか・・・。
「自分のことを書いた本だよ」
というだけでもいいような気がして。
あとはぜんぶゴミだったりすると思います。
糸井 おなじようなことをぼくも考えてて、
最近、本を読んでいて思うんだけど、
ある程度の本というのは、だいたい、
前半だけは絶対におもしろいですよね?
「俺はこういう問題を解決するぞ」
とホラを語っているところは、
問題意識が出ているから、すごくおもしろい。
逆に言えば、その問題を出した時点で
答えが出ているとも言えるわけで。
荒俣 ほとんどの人が、
最初の1ページに全力をかたむけますよね。
で、あとのほうは、
ただ、束を出しているだけで・・・。
最初の1ページがあればいいわけです。
糸井 そうです(笑)。
糸井 荒俣さんほどのフェチじゃなかったけれども、
やっぱりぼくにも本に対する愛着があって、
ぼくの場合は、本を売ろうとした時に、
逆に本への宗教が芽生えちゃいまして。
荒俣 なるほど。
糸井 古本屋に行ってお金にする時に、
悲しいと思う自分に気づいて。
「脳の一部を売り渡してしまうのか?
 俺はバラじゃなくてパンを取る人間か?」
という、怖れのようなものを感じました。

そういう、当時なりの幻想がなければ、
ぼくはもっと自由でいられたような
気がするんですけど・・・
ようやく最近になって成熟したわけです。
荒俣 なるほど。
わかります。
本に対するぼくの熱がさめた理由の
ひとつが、糸井さんの体験と少し似てるから。

本を買いすぎていたし、会社も辞めたし、
次の本を買うお金がないので、
しょうがないからサラ金に行きました。
糸井 おお!(笑)
荒俣 でも、
会社を辞めていたから貸してくれなかった。
しょうがないから、今まで買ったもののうちの
何冊かを売って、そのあがりで
次の本を買おうとしたんです。
糸井 それでも、やっぱ買いたかったんだ。
荒俣 「本を担保にするのは、どうか」
と聞いたら、本なんてだめだって言われて、
じゃあ、ということで、10万円もした洋書を、
古本屋に持っていったんです。そしたら、
「こんなの買う人いないから、1000円」。
それではじめて目が覚めました。
糸井 (笑)
荒俣 私が10万円だと思っているのに、
世の中の人は1000円にも思っていない。
ぼく、ブックオフに、15000円くらいの
分厚い年鑑を持っていったこともあるんです。
買って1年くらいしか経っていなかったし、
2〜3回きれいに使っただけだから、
きっといいだろうと思って。
ついでに、となりに置いてあった
「モーニング」か何かのマンガ雑誌も
一緒に持っていきました。
だいたい1割くらいで売れるだろうから、
年鑑は1000円くらいで、マンガのほうは
ぜんぶあわせて50円くらいかなあと思ってた。

その本をぽんと置いたら、
お店の人が、シャーッと明細書いて。
「150円」って。
聞いたら、マンガが100円で年鑑が50円・・・。
マンガのほうが、高かったんです。

そういうようなことで、
本の価値が、わかっちゃったの。
私の愛しかたは、実は
とんでもない幻想であったということが(笑)。
糸井 (笑)痛いですよねえ。
そうやって、ことあるごとに
おとなにされていくわけですよ。
荒俣 読書界の永井荷風になっちゃった。
糸井 私の愛していたものは、
私の中にしかなかった(笑)。
荒俣 流通面でも、マンガのほうが
経済的に価値があるとわかったのが、
はっきり言って、ショックだった。
内容や紙の品質的には、
昔の本に今の本は負ける、
と若い頃にわかっていたけれど、
経済的価値が、ぼくの持っているものには
まったくなかったんだというのを知らされて。
・・・これはもう終わりですね(笑)。
糸井 (笑)そこでがっかりしても
荒俣さん自身が壊れなかったというのは、
最初に「三歳にして朽ちたり」という
負のイメージを、自分に性格に課していたから?
荒俣 そうなんです。
世の中に期待していなかったからですね。
糸井 それは、哲学だなあ・・・。
荒俣 はい(笑)。
だからもう、悪い女に何人ダマされたか。
あんな思いをして集めた本が50円・・・。
糸井 荒俣さんの愛の遍歴の経費って、「億」でしょう?
荒俣 ええ、それは軽く。
昔に『帝都物語』を書いて売れた印税が
1億5000万くらいだったけど、その時も、
こりゃいいやってことで
ほとんど本を買いましたからねえ・・・。
悲しいですよ。
糸井 (笑)うわあ。
・・・ぼく、最近、世の中には、
いろんなことの軸になる言葉があると思っていて、
そのうちのひとつに、
「王の掟は街の掟に破れる」
というベトナムの諺があるんです。
かっこいいなあと思って・・・。
民を信じるか信じないかは別にしても、
民とともにいない限りは、
どんなに先端のことを考えていても
世界に生きていることにはならないというか。

王は、孤独で気高いかもしれないけれど、
孤独を守っている王の言葉を
理解する人がひとりでもいるかと言えば、
実はこれが、いないんですよね。
荒俣 (笑)はい、いないです。
糸井 だったら、民が変わっていくことには
意味があるような気もしてきたんです。
多数決の力でものを動かすというのでもなくて、
いちばん大勢の人たちが、
安楽に自由に生きられることを、
ぼくは考えたくなってきて・・・。
そういう意味では、けっこう
否定的に見ていた民主主義が、
今ごろぼくの中ではじまった。
荒俣 うん。
糸井 そういう、大勢の人の自由という点で見ると、
インターネットというものは、そのための道具に、
今のところ、いちばん近いんじゃないかと思います。
荒俣 なるほど・・・。

第6回 何かをしている個人を発見した。


(※darlingがインターネットに対して自由を感じた
  としゃべりはじめたところで前回が終わったけど、
  今回は、その先です。いよいよ、ネットに対して
  お互いの持っているイメージを話しはじめます。
  では、今回も、どうぞお読みくださいませっ)

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糸井 大勢の人にとっての自由を
何でインターネットに感じられるのかというと、
例えば、荒俣さんがおっしゃっていたように
ホクロひとつでも愛せるところがあるとすれば、
そのホクロって、民のぜんぶに
ひとつやふたつは、ありますよね?
荒俣 あります。
糸井 そこに目を向けてあげれば、
そのホクロは成仏するんだと思います。

本を書くにはまだまだ資格がいるとされるけど、
たとえ本を書く資格がない人だったとしても、
すれちがった時にいい匂いがあるんだったら、
それだけでも肯定されていいような気が、
ぼくにはしているから。

そのホクロやいい匂いを認めることが、
ネットの中に可能性としてあると思います。
道を歩いている人に
「本を書きませんか?」
とは言えないけれども、インターネットだったら、
「ちょっとおもしろいから、やってみない?」
って、お願いをしてみたらすぐに載せられますもん。

そこは、すごいと思うんです。
逆に言えば、本の世界は、
道を歩いているいい匂いの人に
声をかけることができなかったんだなあ、
と気づきました。
荒俣 昔、新宿の街頭で
「私の詩集を買いませんか?」
と言っていたことを、今は全員ができる。
糸井 ある意味、インターネットの世界では、
それまでと比べると、異常な事態が
起きているということですよね?

以前に荒俣さんと、
インターネットでぼくたちが
どう自由になったかを話していたことを
いま、偶然思い出しました。

ぼくたちが本の世界から自由になったことは、
インターネットとも関係してると感じるんです。
本を捨てるには、代替物がなければ
捨てられなかったような気がして。
荒俣 それは、そうですね。
その話を引き継ぐかたちで言うと、
ぼくが本に対する幻想から目覚めた時の
その「幻滅感」というのは、
妙にイヤじゃなかったんですよ。
それが割と重要なことで。
糸井 うん。
荒俣 目覚めた時、例えば哲学者とかは
死んじゃうじゃないですか?
糸井 (笑)だいたい、怒ったりしますよね。
荒俣 気づいたことが抜けていく場所が、
どうも、人生を終える方向にいくんだけど、
幻滅することはそれだけじゃなくて、
逆にいいこともあると思うんです。
「解き放たれる」というか。

深情けでひっぱっていた女の人が
いなくなるようなものですから、
これは、必然的に次の相手を探せるわけです。
糸井 ああ、なるほど〜。
荒俣 世の中でいろんなことをやる時に、
重婚をするのが許されない仕組みがあるとすると、
次のステップに行く時には、
何かを一度切り離さないといけない。
幻滅してみても、案外客観的でいられるんです。
糸井 はい。
荒俣 自分が愛してきたものをいろいろ見た上で、
どこにいいものがあるかどうかを探せるようになる。
次の相手につきあう時にも、前の相手のよさが
逆にわかってきて、ある意味では
ステージアップした愛情みたいなものが
本に対して出てくるんですよね。
糸井 長い恋愛が終わって、
家族になっていくということか・・・(笑)。
荒俣 (笑)はい。
生きていた頃には大ゲンカしていたけれども、
相手が墓に入ってみると、もしかしてあいつは
ちょっといい奴だったんじゃないかというような
そんな感情に似ているかもしれません(笑)。
ぼくの場合は、本をちょうど、
墓に入れるような感じがありましたから。
糸井 (笑)あああ。
さっきぼくがたまたま言った
「成仏」させるという感じが。
荒俣 はい。成仏ですね。
戒名つけたという感じですね。
糸井 (笑)そうですよねえ・・・。
きっと荒俣さんは、今でもふつうの人よりは
本の道楽をやっていらっしゃるでしょうし。
荒俣 今でもまだやってますけど、もうねえ、
まさに昔の遊女の墓の塵を掃くというか・・・。
糸井 (笑)それ、あのう・・・
たぶん、いいことなんですよね?
荒俣 ええ。
ある意味ではハッピーでラクになった。
ワンステージアップしましたよね。
正大師に近づいたというか・・・(笑)。
糸井 うん(笑)。
かと言って、フェティシズムの中に
どっぷり漬かって生きたいと思う人の
邪魔をする気はないですよね?
荒俣 まったくないです。
それはそれでいいわけで。
糸井 否定しないと自分が持てないほど、
弱い人間がいることも認めるというか。
荒俣 はい。
あとひとつ重要だと思うのは、
さきほど糸井さんがおっしゃったように、
新しくインターネットの世界に入ってみると
「どの人間も何かをやっている」
ということがわかったんですよね。
これは大きいです。
糸井 そう思います。
荒俣 インターネットやってから4年経つんですけど、
これをやらなきゃ書けなかった本が、
もう3冊くらいあります。
最近書いた『セクシーガールの起源』も、
インターネットがなければ絶対にできなかった。

あの・・・変なことやってる人間って
けっこう多いんですよ。
昔からピンナップを集めたり
第二次大戦中の兵隊が持っていたような
変な絵葉書を、今だに持っている人がいるわけで。

普通に暮らしていると、
そんな人とは絶対にひっかからないんだけど、
インターネットでは、そういうものを
自分のサイトで公表していたりする。

その人をトータルに見ると、
人格としては普通のおじさんなんです。
でもそのピンナップは、さきほど言った
ホクロの毛のようなものかもしれないけど、
でも、単品としてすごいものではありました。
だから、インターネットでホクロの毛だけが
抜き出されて発表されてあると、
「おお! こいつ、スゲエなあ」
と思わされます。

その、クローズアップした時の
それぞれの人間のすごさが見えてきました。
誰もが、どこかにそういうのを持っていることが
非常によくわかったんです。

万博の歴史を書いていた時でも、
その時使った図版、例えば1920年代の
スカイスクレーパー、あの摩天楼に
いかに人々が感動したのかということを
冷静に理解できるのは、当時書かれた
摩天楼の絵ですよね?

ああいう絵を、ふつうに集めようとしても
なかなか集められないんですけれども、
インターネットを見たら、
これがばかな人が多くてですね(笑)、
その当時のスカイスクレーパーの絵ばかりを
集めている奴だとかがいるんですよ。
こういう画家が摩天楼の絵を描いていたのか、
ということがよくわかって、
そのサイトを頼りに文通なんかはじめると、
「たくさん持っているから、譲ってやるよ」
という具合に話がばんばん展開していくわけで。
糸井 おおおー。
それは愉快だなあ。

第7回 おもしろいことをする前の、胎内にいる。


(※今まですべてを、個人の総合的なものとして
  判断していたのだけれども、それを分離して
  部分としていろんなものを見られるようになった、
  というところからのつづきのお話です。どうぞ)

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荒俣 人の持っているしわの部分や白髪の部分とかを
みんなで持ち寄って集めているうちに、
何かとんでもない一個の人間ができちゃう。

それをネットで見たので、
「もしかして、総体としての人間を
 一度バラバラにして『いいとこどり』をすれば、
 結構おもしろいものできるんじゃないか」
とぼくは思うようになりました。

だからもう、人の見たいものは
今は、人格じゃないかもしれないです。
合成的に作ったり育てたり教養をつけたり
いろいろなものを身につけて、
地位も名誉もつけてひとつの人格のセットとして
ある人間を見るのではなくて、
「ある人間の鼻毛」というように
ものをバラバラにして見るんでしょうね。
糸井 そうですよね。
荒俣 トータルとしてはあまり好ましくないものも、
その鼻毛だけはいい、ということがある。
糸井 経験を除いてはすべて再現できることになって、
だから足りなくなるのは、経験ですよね。
荒俣 はい。
糸井 経験にこめられるものっていうのは、
純粋に「ソフト」ってことでしょう?
ソフトはソフトで、ある部分は移植できますが、
移植できるほど選別はできないものもあるから、
経験から来るソフトの部分というのが、
無限に足りなくなると思うんです。

ばらばらに何かを要素として扱えても、
それでも経験が、足りなくなると感じます。
荒俣 ものごとがバラバラになったことには、
ふたつの意味があると思います。

一つは、総体としての人格が使えなくなる・・・
つまり人間個人としてのいちばん大切な部分が
拒否されるってことになりますよね?

だから倫理的には悪い方向に
向いているかもしれません。
倫理や道徳や生きるうえの基本的なやりとりは、
人格をベースにしているはずなのに、
それが古くて使いものにならないのだから。

そういう意味では、倫理的には、我々は
だめな人間になっているのかもしれないけれど、
その代わりとしてとても重要なことが
もうひとつあると思うんです。

さきほど言ったような鼻毛やホクロのような
以前は何かの一部だったものが、
一部であるという切り離され方をできたおかげで、
誰かが別の使いかたをできるようになりますよね?

ある価値を持った「いち部分」を、
それぞれが好きなように使ったり
移植をして育てたりできるという意味で、
所有権や版権のなくなる自由さが出る。
そのよさは、あると思います。
パーツを寄せ集めて育てられるという、
そういう知の枠組みが出てきつつあるというか。

全体の人格がなくなったわけだから、
ある意味では自由にもなって、
使えるパーツが残せながら、
そのパーツを各人が自由に使えるという
余地が広がったかのように見えます。
糸井 だから、かたちだけなら
おんなじものがコストをあまりかけずに
いくらでも作れますよね?
いま、ないのは「市場」だけなんですよ。
作ることができるのに、売るところがない。
必要なのは、かたちというメディアに
封じこめてある謎は何なのかということで。
「謎」というか、かたちに封じこめてある
「価値」が何かということになるのでしょう。

インターネットという
とんでもなく大きな道具をもらっている中で、
保存や運搬がしにくい、各個人に属する情報が
これから価値を持ってくるんじゃないか・・・。
それは経験でもあるだろうと思います。

B.C.とA.D.のあいだの線引きにあたるものが、
もしかしたら、このへんでひけるのかもしれない。
荒俣 そうかもしれないなあ。
バブルが崩壊したり、出版社が壊れたり
書店もほとんど崩壊しかけていますし、
それだけではなくて、いろいろなものごとにとって
けっこういい区切りの時期なのかもしれないです。

ネットにいろいろなものが載るといううねりは
短期的に見れば困る人がいるかもしれないですし、
フェチの人にとっては
ものに感情移入できなくなるから、
オモチャを取り上げられるような気持ちを
させられるものかもしれませんが、
長い目で見れば、案外、新陳代謝の
ひとつのプロセスかもしれないです。

我々がもう一回おもしろいことを発見したり、
刺激的な生活を送るための、
休憩機関とは言わないまでも、準備期間のような。
糸井 胎内にいる感じですよね・・・。
荒俣 そうですね。
だから今は、まだ何やってるんだか
みんなわからない。胎内にいるわけで、
まだリングにあがってないのだから。
糸井 胎内にいる時は、新しい個体でいるよりも
母親の内臓の状態に近いものだから、
基本的には「過去」に属していますよね。
最初に肺呼吸をして、
オギャーとおたけびをあげるのが、
インターネットによって、というか。

そこで「痛い」という叫びが出るのは、
生まれてしまったからしかたがないわけで。
胎内の状態では、生まれたあとに
どういうものが出るのかは、まだ、見えない。
・・・そういう言いかたをすれば、
IT革命という言葉も今持たれている
イメージほどにはいかがわしくないと思う。
荒俣 うん。
糸井 ごく自然のことですよ、みたいな。


(つづきます)

第8回 多重人格と、商品以前の企画。


(※インターネット論になってきたところで、
  ネット社会で人が何をするかというような
  パソコン雑誌のよろこびそうな話題になるよ。
  だけども、やっぱりこのふたりなので、
  先端技術の成り行きというよりは、
  生き方の方向に話が進んでいくのです。
  どうぞ、おたのしみくださいませ)

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荒俣 IT革命が革命かどうかは別にして、
ぼくが見る限りでは少なくとも最近の変化は、
人間の業のごく自然なプロセスであって、
もうこういう方向に行くのは、2000年くらい前から
あらかじめわかっているという感じがします。
最初は、みんな文字が読めなかったですよね。

しかも、文字を読めても、その意味や
昔の格言だとかソクラテスが誰かがわからないと
読んでいても意味がないので、そうなると
当時の1億人もいなかった人類のうちで
本なんてものが必要だったのは、
たぶん10人か20人くらいじゃないでしょうか。
糸井 うん。
荒俣 だから当時は粘土版でよかったわけです。

それがだんだん、印刷でコピーを取るようになって
字を読みたくなる奴が多くなった。
でももともと根本的に必要なアイテムではないから、
本を読むのに動機やこだわりが要ることになる。

「知恵を得るためには読書だ」
みたいなところで、みんな勢いをつけて
要らないはずの読書に携わったのだけども、
その勢いをもう少しうまくやる方法が、
本の幻想の低下によって
出てきたんじゃないかとぼくは思います。

ネットくらいになると幻想がないから、
エネルギーの使い方がずっとうまくなった。
切り貼り自由というようなことは、
昔の本のルールからすると反則だったのだから。

我々は、
人間の業の最終レベルの一歩手前くらいまで
辿りついているというような感じがします。
糸井 辿りついてますよね。
荒俣 この辿りつきかたというのが、
我々人間にとって本当に幸せなのかどうかは
なかなかむつかしいところです。
そこそこ業が深いのはいいのだけれども、
あまりにも深すぎると自滅してしまう。
最後の一歩はどこなんだろうというところが
次のステップなのではないかと思います。
糸井 つまり、何もかもが解放されちゃった時に
自分が生きてるところがわからなくなるような、
そうなる予感は、もうすでにありますよね。
荒俣 ええ。
糸井 「トゥルーマンショー」を見て
ぼくらは笑うけれども、
見ているという意味では
すでにそれと同じ世界を体験しているわけで、
どこまでが「最後の一歩手前」なのかは
判断がなかなかむつかしいです。
荒俣 今は、ハード面の
メモリやディスクの容量をでかくしたり、
機械の速度を早めることを進めているけれども、
人間がそれを超える量を使いたがりますよね。
だから、これはだめだ、次のコンピュータ、
というようにうまい具合に幻滅せずにすむけれど、
たぶんそのうち、人間の知識をすべてつめて、
いろんな人のホクロやワキの下の毛などを
みんな集めても、それでもまだまだ
容量がたくさんあまっているようになったら、
人間が進んでいい最終レベルの時だと思うんです。
・・・その時が来たら、
自分のパーツから提供できるものが
なくなってしまうのではないかという気がします。
糸井 自分のパーツが出せなくなる時期が来るというのは、
けっこうインターネットをやった人は、
みんな考えているところですよね・・・。

つまり、情報を出し入れしている以外の時間に、
自分が何を求めているのかを、それぞれの人が
本気で考えなければいけなくなってきますもん。

幸せ観とか世界観とか人間観とかいった、
高校の倫理の先生が言うようなことを
自分で一から組み立て直す必要が出てきたというか。
それぞれで、生きるためのプライオリティを
どっかのところで曲がりなりにも決めていくのが、
避けられない自分自治なんだろうなあと思います。
荒俣 パーツで言うと、インターネットには
いろいろな個人のパーツが出ているんだけど、
このパーツがほんとかどうかが
実際には分からない・・・。
ただ、一つは言えるのは
インターネットに出てきたものは
嘘であろうが本当であろうがデマであろうが、
まあ情報であることには違いないわけです。

この雑多な情報を組みあわせて
嘘どうしでつなげたものが、もしかしたら
パーツとしては嘘かもしれないけれども、
トータルとしては何も嘘ではないものが
できてくる可能性があります。
それがおもしろい。
糸井 覆面レスラーの登場みたいなもので。
荒俣 インターネットができて、
使う人にとっておもしろいのは、
自分で覆面レスラーになれるところですよね?
糸井 そうですね。
荒俣 もっと言うとマリリンモンローにさえなれる、
つまり、ネットの中での自分を作れる・・・。

ここ10年くらい、
自分好みの女子高生を育てるゲームが、
よく流行ったじゃないですか。
ファイナルファンタジーにしてもやはり、
自分の好きなキャラを設定して、
その点数をあげて、バーチャルな中での
主人公を育てるゲームだったんだけども、
これからネットの中では、いろいろなかたちで
自分を育てることになるんですよね。
それはたぶん、嘘の自分でもいいわけです。
そうすると、自分が2倍になる。
糸井 自分で自分を編集していくんですよね。
荒俣 裏自分と表自分というか、
プリティ自分とダーティー自分みたいなものが
どんどんできてきますよね。

さっき、パーツが尽きるとぼくは言いましたが、
それは本当の自分という点でなので、尽きた時に
今度は自分パート2を出せば、それを出しただけで
自分のフェイズを変えることが可能になります。
この「リアリティではない」というところが
非常に重要なポイントになると思うんですよ。
糸井 なるほど。
ただ、実は言うとぼくは、インターネットで
発信しはじめたのが98年の6月なのですけれども、
そこで自分なりには、休まないと決めたんです。
休まないことの恐ろしさは、
多少ともものをつくって来た人間には
もう充分わかっていることですよね?

だからぼくも可能ではないということも
考えにいれていたんです。可能じゃない時には
たとえ1行だけ「今日の朝飯」を書いてでも、
とにかく多少なりとも更新してみようと考えました。
それがいつ果てるかと思いながらやってるけど、
これが・・・果てない。

怖かったんだけど、
「できなかったからやめました」
と書くことも含めてスタートしてみたら、
実は、書けなくなることがなかったんです。

今は2年半ですけれども、
たぶん、100年でも続けられますよ。
だって、その時々の俺がやっていることや
俺の考えていることって、
何かしら違ってきますから。
荒俣 昨日の自分と今日の自分で、
もうバージョンが変わるわけですか。
おなじことを書いても、違うわけですね。
糸井 そうなんです。
そこで、カラになることの恐怖から
ぼくは解脱できると思いました。
荒俣 みんな、それで苦労してるもんね(笑)。
糸井 そう!(笑)
荒俣 みんな、文章を書く人たちは、ネタと称して
いろいろ仕入れなきゃいけないと思ってますから。
糸井 そうそう。
ネタを仕入れて自分を工場にして
そのサービスを商品化して発信するという
これまでの考えそのものが、
工業化社会的な発想の表れなんじゃないかなあ。
荒俣 まさにそうですね。
糸井 仕入れに対する怖れはなくしたところで
何かをするという時の気持ちが、
これはもう一つ別の恐ろしさや楽しさを
味わえるという気がします。
そこが、ネットのすごいところで。

ぼくは自分自身が進化したとは思わないけれど、
ネットで毎日吐き出していくことで変わったのは、
さっき「本は一行でいいです」とおっしゃっていた
その「1行の本」が、山ほど増えていったことです。
人にひとり会うごとに、また本が一冊増える。
荒俣 1日1行1冊書いてるようなもんだ。
糸井 そうですね。
実際、人に会うことが随分おもしろくなったし、
ちょっと危なく見える仕事でも
引きうけちゃったほうが自分で楽しめるぞ、
と思えるようになっちゃっていました。

「ここで俺のネタの何を出そうか」
というような考えかたを昔はしていましたが。
荒俣 だいたい、若い時にはそんなものですよね。
糸井 何かを人と人とのあいだでひっぱりあっていれば、
そのひっぱりあいだけでも充分に注目される。
今までは商品のかたちをしていないものが
迷惑がられていたけれども、
これからは、それもそのまま出せるんです。
荒俣 それ重要だなあ。
さっきの書物と人格の問題につながると思いますが、
つまり、完成品を発売する必要が
なくなってきたんですよね。

第9回 虚業が、21世紀の実業になるのかな。


(※前回の、ほんとうに完璧な
  完成品を作る必要がなくなってきた、
  という話をきっかけに、今回の話に移ります)

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荒俣 今はもう、
ほんとうの完成品を発売する必要が
あまりなくなってきたとも言えますよね。
糸井 うん。
荒俣 ぼくたちもそうでしたけども、
若い頃には、人を驚かしたくて
ガチガチにがんばった装丁とか
400ページくらい書いたりいろいろしていて・・・
よく考えたら、1行ですむのにね。
あれはやっぱり無駄だったのかなあ(笑)。
糸井 ふふふ。
まあ、その時はその時で、
恋愛がなければ結婚がないのと同じように
センスにも「青春」が
必要だったんじゃないかなあ。

自分をふりかえっても、
ガチガチにやっていた時のことは
それはそれでほんとによかったと思うし、
今の若い人も、それに似たようなことを
やっていると思うんです。
だけど、そいつらも、どっかで気づくというか。
荒俣 なるほど。
糸井 だから完全を目指したい人は
それでいいと思うし。
だいたい、インターネットに関しても、
ぼくはすべての人にはオススメしてないです。
ただ「使えるよ」と言っているだけで・・・。
要するに、ぜんぶの時間をムダなく
使えてしまうのだから、全員には薦めないです。
「やんないならそれで構わないと思うけど、
 やっていいこともいっぱいあるよ。
 ・・・でも、いっそがしいよ〜〜っ」
いう感じで。
荒俣 確かに忙しいですすよね。
ただ、24時間体制でやっているところの
ほとんどが、ただ忙しがっているだけという
気もするんですよ。
糸井 ネットにずっとつながることは、
自分ではコントロールできない
妙なおもしろさがあるから、
思いきってその濁流のような中に
ふみこんでいくんだけども、
濁流には濁流なりの
力の抜き方があるんでしょうね。
荒俣 それも微妙で、
下手に流れに逆らうと死んじゃうけど、
流れに則してずっと動いていけばけっこう楽しくて
それなりのおもしろさがあると思います。
パーツを使うってことは、
そういうことじゃないですかね。
24時間体制で人格で勝負するのは、無理だから。
糸井 異性にたとえると、
誠心誠意の恋愛をしようとしたら、
ひとりに1日でさえ、できやしない。
だけども、パーツをつなげれば
愛情が成りたつというか・・・。
荒俣 それ、大きいですね。ぼくは、
女性にしても男性にしても、
「おともだち」という形態が非常に好きで。
糸井 ぼくも「おともだち」好きですね。
荒俣 恋人という関係を持つと、
忠誠を誓わなきゃいけないじゃないですか。
ともだちの場合なら、いいかげんにでも
顔をあわせればああ友達って言える。
おともだちって何十人も作れますから。
糸井 お友達って、じゃあ「リンク」ですね。
荒俣 まさに、そうですよ。
糸井 別の世界を持っていて、
おたがいが王様どうしでいられて。
荒俣 恋人っていうと、そこで終わりなんですよね。
つまり、人格を所有しなきゃいけないですから。
・・・これは重いですよ。

一方で、おともだちだと
リンクが次々とできていく。
お友達は10人持てるけれども、
愛人を10人持っていたら大変ですよ、そりゃ。
糸井 大変ですし、破産します。
荒俣 今までの知の形体って、よく考えると、
愛人を10人持とうとしていたところがあって。
20世紀に脱構築の動きなどの起きてきたのは、
それの大きな象徴だと思いますね。
糸井 そうですよね。
だけど、商売になるのは、
脱構築の前の段階しかないんです。
ぼくは、できればそこに、
自分の後半の人生をかけてみたいなあというか。

つまり商品の形が変わってきていて、
半端な製品や、単なるホラでしかないものが、
実は次の時代の商品だと証明してみたいんです。
荒俣 なるほど。
情報化時代だとかいうのは、
商品としてはまさに今言ったような、
実態がなくてウソかホントかわからない、
お腹がふくれるわけではない商品を
売るということですからね。
それをどう売るかが課題ですから。

やっぱり一番大事だとぼくが思うのは、、
そういう中途半端な製品や、
うそかほんとかわからない商品というのは
高級品ではないというところです。
圧倒的に「量」があるから、
10万個でもストックできるんですよ。

虚業と言われていたようなものが
21世紀からの実業になるかもしれないですね。
糸井 それはほんとにそうですよー。
7、8年前の年賀状で、ぼくは
「夜空の満天の星をつなぎあわせて
 ヒシャクだの熊だのを見出した古人達の仕事が
 我々の仕事である」と言っていて。。

あれは商品ですからね。
動物占いとかも、あれを考えたことで
それが無数に配られて、
しかも商品でも通ったわけですよね。
そういうものが流通される可能性が
これからはどんどん出ますよね。

・・・あ、ぼくはよく聞かれるけど、
荒俣さんも、インパクを、
どうして引き受けたのって、言われるでしょう?
荒俣 言われますね。
何て説明しています?
糸井 税金を払うようなものだ、と。
荒俣 ぼくもおなじで、
これはもうしょうがない。
ひとつの運命だと思って
あきらめるしかないなあというか。

ただ、糸井さんも
実はそう感じていると思いますが、
誰かが1回、先に飛び降りないとだめなんですよ。
これ。ええ。お国がやってるからなんか嫌だし、
結局、実際に飛ぶのは我々になるのですけど、
それをまずは見せないと、たぶん
誰も飛びこんでこないような気がしたんです。

だからぼくは、捨石というか。
だから、動機は税金払いですよ。完全に。
糸井 税金ですよね。
荒俣 だって、我々は、やっていて
何のメリットもないですもん・・・。
糸井 敢えて言えば、インパクがあるから
荒俣さんとこういう話ができて、
その時間は漠然とおもしろくすごせるというか。
荒俣 (笑)うん。

第10回 インパクで、やってみたいことは。


(※今回で、この対談は最終回になります。
  話題は情報化に関していちばん重んじたいこと、
  つまり、インパクで何をやりたいか、についてです)

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糸井 インパクが成功するかしないかで言ったら、
どんなに成功しても
成功とは言われないと思うんですよ。
荒俣 言われないですね。
糸井 じゃあ失敗してもいいのかと言えば、
失敗はしたくない。
やっぱり単純に、ソフトこそが
インターネットでいちばん大切なものなんだ、
ということが漠然とわかりさえすれば、
それがぼくのしたい仕事なんだろうなあ、
そういうイメージを持っています。
荒俣 糸井さんの言い方だと
「町人の祭り」というイメージで
みんなが納得すると思うのですが、
ぼくのやりたいところがそこで、
国や大企業よりも
怪しい個人が出したもののほうが
たとえ中がエロであっても勝つ、
というようなところを見せたいんです。
糸井 無数の「深川丼」とか「お母さんのカレー」とか
そういうものが山ほど出るのが理想ですよね?
荒俣 フランスの三ツ星のシェフを連れてきて
出した料理よりも、その辺のおばさんが
適当に作ったチャーハンがうまい、
というようなことを見せたい。
糸井 見せたいですね
荒俣 そうなると、インターネット社会にとって
大きな力になると思うんですよね。
糸井 個人に実は力があるとわかった時に、
ひとつひとつの企業パビリオンのサイトや
地方事業のサイトが「そっちがいいなあ」と
思ってくれたら、その場所は変わりますから。
荒俣 変わりますし、
ちょっとした一念でそうとうに
いろいろなものを生みつけられます。

今までの万博は各国のパビリオンだったり
各企業のパビリオンだったりして、
三菱電機は三菱電機のパビリオン、
ソニーはソニーのパビリオンだったんだけれども、
21世紀の博覧会は、ネットの性質上、例えば
「糸井重里が作ったソニーのパビリオン」
だったりするんですよ。
ある個人の個性やカラーが、企業を代表する。
そうなると例えば、
ソニーはこういう人間を使う、とか、
こういう個性があるんだ、とかいうことが、
よくわかるようになるんじゃないでしょうか。

ぼくは日本のシステムの中で
法人は税法上も法律上も守られるのに
個人だけは何でもいじめられるというのが
いちばん気にいらなかったんです。
それで法人には、カラーが出ない。

この法人がコーヒーが好きなのか
お茶が好きなのかもわからないし、
ソニーの奴が来た時には
コーヒー出していいのか
お茶出していいのかわからないでしょ?
隣の家にソニーの人が引越してきた時にも、
どんなおじさんなのかは、全くわからない。
糸井 うん。
荒俣 これは21世紀的でないんですよ。
つまり・・・まったく個性がない。
パーツがない。

トータルしかないわけで、
つまり、人格しかないのと同じですよ。
ソニーがスケベなのかどうなのかがわからないと、
これからの新しい商品は、出ないと思います。

今まではハードを作っていたから、
個性がわからなくてもよかったのですが、
情報を提供することになると、
その情報を提供する人間が明確にならないと、
まったく意味がないというか・・・。
そこのところをインパクで予行演習できます。

「私はこの企業の人間です」ではなくて、
「この企業は、俺なんだ。俺が企業だ」と
パーツの側にいる奴が全員言えないとだめですよ。

ぼくは、インパクがそういう個人にとっての
訓練のスタートだと思うので、たぶん、
誰がどのサイトを作っているかの顔が見えないと、
まったく意味がないと思います。
それなら、単なる会社案内になります。
糸井 うん。
荒俣 今だって、農業が既にそうなってるじゃない?
新潟県から出るコシヒカリじゃもうだめなんです。
「どこ産のなに郡の誰の農家から出た米」
というように言っていまして。
農業は案外進んでいるのかもしれないです。

本来は、例えば「日立」がソフトなんじゃなくて、
「日立のだれだれ君」がソフトなんですよ。
糸井 農業は、おおぜい食わしていけなくなって
はじめてそういうことが分かったんですよね。
荒俣 大企業がまとめてリストラやるのは
ある意味では逆方向の可能性ありますよね。
つまり、会社の法人性を保つために
人をつぎつぎと切っているわけだから。
逆に言えば、給料払わなくても
あんたもソニーだというようにしても
いいわけですよね?
糸井 それは、「ほぼ日刊イトイ新聞」でもやっていて、
読者に給料は払わないし、逆に月謝もとらないけど、
でも会員証は配るというのは、
そういうところから考えたんです。
荒俣 その方向なんじゃないかなという感じがするんです。
糸井 つまり、前に話した
「おともだち」の関係ですよね。
荒俣 まさにそうですね。
企業で持っている人間というか。
昔の各マスコミや出版社なんかは
そういう感じだったじゃないですか。

給料はもらってないけど何となく来て
新聞なんかに勝手に書きたい原稿作っている奴が
けっこう、いましたよね?
糸井 いいことですよね。
荒俣 そういうやつを置いておけるということが、
けっこう企業のカラーになってたりする。
外国の新聞でも
「この記者がいるから、この新聞を買う」
というスタイルになっていますよね。
そういう広がりはとても重要だと思う。
日本の新聞がだめなのは、
結局は会社の新聞だからで。

例えば新聞社員たちはみんな常に
「自分の意見」としてではなくて
「朝日新聞の意見」として書いていますもん。

エンターテイメントと宗教と生活が
渾然一体となってるというのが、
ぼくは農業の核だと思っています。
意外と進んでいるかもしれない農業をテーマに
いろんな催しを開いても、いいと思います。
今まで、あらゆるものを分離しすぎていましたよ。
糸井 そうだよね。
荒俣さん、おもしろいなあ。



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