_____プロローグ_______
精神の埋蔵金を掘りに
行くとか言っちゃった。
はじめに好奇心ありき。
好奇心とは、昔、自分で作った自分のコピーでいえば
「不思議、大好き。」の心なのである。
不思議が、珍奇が、とても好きのコトよなのである。
なにゆえに不思議が好きなのであるかと問われれば、
答える用意もあるにはある。
世の中というものは、不思議なんかなくったって、
「だいたい間に合ってる」ものなのである。
これは、現代の日本が不況とはいえ豊かだから、ではない。
貧しい地では貧しいなりに、
戦乱の国では戦乱の国なりに、毎日、だいたい
「あり得うべきことがあり、
あり得べからざることはない」ものなのだ。
しかし、そのことについて、
気持ちのどこかにカユミのようなものを覚えたりする。
「だいたい間に合ってる」ことを、
そのまんま認めてやりすごしてしまうことが、
ごく自然にできるなら、そりゃもう悟りってことじゃないの?と、
私は思うのだ。
青年期の私に多大なる影響をあたえた
ビートルズの臨終のアルバムが
「レット・ イット・ビー」(在るがまんまの、そのまんま)
という題名だったことも、
「ま、そうだよな ぁ、そういうふうに考えられたらなぁ」と
憧憬に似た気分をひきおこしてくれたりもするが、
同時に「そういうこと言ってるから終わったんだよ」
と怒りたくなるのも事実だ。
サイババの居住地であり、信者の修練場でもある ブッタパルディはインドの南部、バンガロールから クルマで4〜5時間のところにある小さな村だ。 丘の上にある宮殿のような建物はVIP用の宿舎。 サイババの住まいは木々に隠れた神殿にある。 |
炎天下の大通りでいかにも何も
考えてません風に寝ている犬に、
時々はうらやましい気持ちを抱いたりもするけど、
その犬になりたいかと言われりゃ冗談じゃないと言う。
この 感じが「不思議、大好き」の原形なのである。
スカートやらパンストやら、小さくまるめたら
消えてしまうのではないかと思えるパンティやらに
秘匿された物件に、私たちがあんなに注目しているのも、
「不思議、大好き。」の 心がもとになっている。
好奇心ぬきの性欲などというものは、
穴のないドーナツやアルコール度数ゼロの
ウイスキーみたいなものである
(もっとも、そういうものがどこかに存在するとしたら、
そいつはずいぶん珍奇だから、
あらためて好奇心の対象にはなるけれどね)。
演説をさせてもらえば、もともと生き物ってやつは、
「だいたい間に合ってる」状態で海のなかに
レット・イット・ビーしていたわけだ。
ところが、どこをどう間違ったかその状態に
カユミを覚えたやつがいて、
生存条件最悪の陸にあがってきたわけだ。
エライと思わないか諸君!
生きるチャンスを天に預けて上陸してきたギャンブラーは、
おそらく大多数が失敗して死んだ。
それを知ってか知らずか、
また次々に「だいたい間に合ってる」
海にサヨナラを言って
上陸を試みるやつが出てくる。
このくりかえしのなかで、
生物は陸にも生存圏を拡大して、
はびこってきたというわけだ。
私たち陸地にいて酸素を
吸ったり吐いたりしている人間たちの
御先祖様というのは、
たいしたギャンブラーだったわけだ。
命知らずとも言える彼らのおかげで、
私たちが 毎日毎日なかなか立派な
ドライな生活をおくれているということだ。
ついでだけど、
私たちの御先祖様が「だいたい間に合ってる」海に
別離のあいさつをしている時、
「なーに考えてんだか、このバカは」と、
そのまま海んなかでゆらゆらしてたやつらの子孫は、
いま(1994年現在)イカやタコやイワシをやって いる。
だからつまり、好奇心ってのは、
そうナメ たもんじゃないということで、
奇なるものへと向かう心をなくしてはイカンと
言いたいのでありました。
ブッタパルディの町を歩く糸井氏。 この町はサイババ様でもっている、 城下町のようなものだった。 |
秘匿されたるもの
(海にいる生きものにとっての陸。
男にとっての女のパンツのなか。
日常生活の間に合ってる感に対して
カユミを覚えている視聴者にとっての超常現象などなど)
のことを、ひっくるめて、
私はオカルトと呼んでいる。
この論でいくと、 世間のオカルト好きは、
必ずスケベであるということにもなる。
逆に、スケベなやつは
必ずオカルト好きであるとも言えるので、
ヌードグラビアを穴のあくほど眺めたり観察したりしようと
企画して「月刊プレイボーイ」を購入した読者には、
この私の原稿はたまらなく素敵なオマケとなるはずである。
だから、ま、そこに座って、
ゆっくり私の話を聞きなさいお若いの。
インドに行こうと言いだしたのは、私である。
どこで言ったかも記憶している。
「徳川埋蔵金発掘プロジェクト」が、
そのプレハブ小屋の本部の看板を外して、
東京へと帰ろうとしているロケバスのなかである。
埋蔵金に負けた私たちではあったが、
その敗北を噛みしめる時期はとっくに過ぎていた。
五年間も大量の土の山と格闘しながら、
私たちが闘っていた真の敵だれなのかを考え続けていた。
直接のゲーム上の敵は、小栗上野之介やら林鶴梁やらの
幕末の知恵者である。
彼らとの根気比べ知恵比べが、
私たちのゲームの肝ではあった。
しかし、もうこれ以上進めないと
ゲームの敗北を宣言した時、
私は百年も前に生きていた彼らのことを、
格上の実力を持つ同好の士のように感じていた。
むろん、私たちは好奇心のおもむくままに
パワーショベルで地面を力まかせに
掘り続ける遊び人ではある。
江戸幕府を、ひいては日本の将来を動かすために
国家予算規模の計画 を考えていた彼らは、
一人一人の人生以上のものを賭して
本気の試合を組み立てていたはずだ。
しかし、遊びの側には本気が、本気の側には遊びが、
微妙な配分で互いに混じりあっていたように思えるのだ。
詳しく語ってもキリがないからやめるけれど、
地下五十メートルに
唐突に存在していた岩をくりぬいた大穴には、
生真面目な官僚の仕事として片づけられない
「愉快犯」的な匂いが確かにあった。
私たちが胸を借りていた幕末の知恵者たちもまた、
海から陸に追いたてられるようにして移り住もうとする、
「不思議、大好き。」な御先祖様の血をひいていたと
思えてならないのだ。
彼らは、好敵手であって、敵ではない。
私たちは敗北者であって負け犬ではない。
そんなふうな、他人からみれば調子のいい整理をして、
私はロケバスに乗っていた。
赤城山五年間の、何よりの収穫は、
チームの成長であった。
テレビ番組の制作プロダクションの連中、
地元の建設会社の親方や若い衆、
そしてさらに「大ボラ番組」とも
「夢物語」とも言われる番組を、
見続けてくれることで、
このゲームに参加していた熱心な
視聴者という名のチームメイト。
赤城山の埋蔵金には敗北宣言をしたものの、
これだけのチームを解散させるのは惜しかった。
関越自動車道を、もう何度も往復することはないけれど、
この愛すべき馬鹿者どもの動きを止めるのは、
人類の損失である。
人類は大げさでも、日本 の、いや、オレがサミシイ。
半年後だの一年後だのに同窓会のように集まって、
山の思い出を語り合って何になるんだ。
どうせその頃には、それぞれが「だいたい間に合ってる」
世間にむけての放屁一発程度の仕事を
やらされているにちがいない。
好奇心のエンジンに本気のガソリンをぶちこんで
高速で回転するような仕事が、
そうそうありようはずもない。
サミシイじゃねぇか。
そんな気持ちを、車内で寝たふりをしている
チームメイトたちに打ちあけたくて、
私はずっと目を閉じながら考えていた。
「インドにさぁ、どうも正体はよくわからないんだけど、
ふんだんに指輪とかを出す超能力者がいるらしいんだよな」
ブッタパルディの丘に生える 「奇蹟の樹」。若き日の サイババはこの樹に 人々が望むもの (リンゴやら桃やら) をならしたのだという。 |
喋りながら、私はひとりのテレビ視聴者になっていた。
ユリ・ゲラーのように、止まった時計を動かしたり、
その後のほとんどの超能力者たちのように
スプーンを曲げたりするのは、もう飽きている。
スプーンは曲がるけど、
五百円玉は曲がらない超能力なんてものじゃ、
ただの能力ではないか。
超がつく以上は、硬いものも柔らかいものもおなじように
ぐにゃぐにゃにしてくれなきゃ困る。
それに、なんだ、最近の霊能力者とかってやつらは。
断定的に言えば、何だっていいんだろう。
ちょっと前までなら、
おはらいバアさんくらいのあつかいだったものが、
先生みたいになっちゃってさ。
それに比べたら、空中から指輪とり出しちゃったり、
ネックレスとり出しちゃったりするのはスゴイよ。
そんな場面をテレビでみたいもん、オレが。
すでにけっこうおおぜいの人々が、
トリックではあり得ないと証言してるらしいし、
何百万人が神様あつかいをしているってからには、
簡単に考えてもまだバレてないってことだろう。
それ、じろじろ見たいよ。
超能力オタクに近いくらい「不思議、大好き。」の私だが、
その世界に近づけば近づくほど、
否定的になっていくことが多かった。
しかし、どこかにホントの超能力があったらいいぞ、
という気持ちはなくなっていはいなかった。
「だから、もし、さ、人間が空中のなにもないところから
指輪をとり出すなんてことがあるとしたら、
あらゆる可能性が変化しちゃうわけだろ。
ないに決まってるものが、あるんだって話になったら、
こりゃ、何百兆円の埋蔵金以上だぜ」
ディレクターは観念より具体性を考える。
「それ、いまも生きてるんですか?」
そうだよ、死んでる人じゃ番組にならない。
「毎日出してるのよ、指輪、ポンポン」
私は、友人の自慢でもするように、
知っていることを話しはじめた。
サイババ、という妙な名前は、
前からうっすらと知っていたように思う。
ハレ・クリシュナだとか、マハリシだとかいう名とともに、
なんだかインドだかチベットだかのあたりにいる
導師みたいなもの、
として聞いたことがあるという程度だ。
このサイババさんが、「物質化」とかいうらしいが、
指輪を空中からとり出すと知ったのは、
一冊の本によってだった。
ニューエイジ 関係の書籍に強い
「青山ブックセンター六本木店」の、
私の大好きな「哲学・思想・宗教・ その他怪しいもの」の
集まっているコーナーにその一冊はあった。
サブタイトルが、
「科学と知識のさらなる内側」というのだから、
このあたりの本の好きな人間なら、
F・カプラあたりの流れの、
学者が精神世界に目を開かれました、
といった内容の本だろうなと見当をつける。
タイトルは、平凡で「理性のゆらぎ」。
青山圭秀さんという理学・医学博士という肩書きの
三十何歳かの人が著者だ。
そういう理性の人が、
ゆらいじゃった話だろうということは、
読まなくてもわかる。
読んでみて、もう少しわかったのは、
サイババという人が生きて
毎日奇蹟を起こしているということと、
著者が理性をゆらがせっぱなしにして
「ボクは冷静にしてるんだけど、
ホントにすごいんだからァ」
と大宣伝していることだった。
少し真面目に言いなおすと、
本の前半は、自分は科学者だが、
信じ難いようなこともあることをわかっている。
しかし、インチキも多いのも知っている。
インドに行って、なんたる幸せサイババに会えて、
スッゴイんだからもう……と、
ちっとも言いなおしてないか。
で、後半は、ホンットにスゴイぞ、と書いてあるわけ。
サイババはブッタパルディののほかに バンガロール郊外にも別宅を持っている。 ウサギやシカなどの小動物も飼っていて 可愛がっている。 |
近頃では、夢中になって読みあさっていた
ライアル・ワトソンを疑っている私である。
コリン・ウイルソンについても、
ちょっと問題あるよなぁこのオッサンは……と
平気で裏切っている私である。
昨日今日出てきた新参オカルト本に厳しいのは、
当然なのである。
でも、万にひとつでも、このサイババって
「神の化身」さんが、モノホンだったりした日には、
それを無視していた私はきっと後悔するだろう。
行ってガッカリするよりも、
行かずに気にしてるままのほうがカラダに悪い。
あれもこれも信じられないと、
悲しい思いの「不思議、大好き。」中年男は、
万が一の、 つまり数字になおせば
0.0001パーセントに賭けたくなったのである。
赤城山の負け戦の直後だったから、
何でもいいからもっと掘りたいという気持ちは、
たっぷりあった。
私の話を聞き終わったディレクターは
「本が出てるんですか」と言った。
もう少し、番組にするための
具体性を探るつもりなのだろうと、
私は思った。
インドに行って、
神の化身が空中から指輪をとり出すところを、
テレビで見る。
「あの手つきが怪しい」だの
「どこに隠してあるんだろう」だのと、
ガチャガチャ文句を言いながら、
「ホントかもしれないぞ、これは」
などと録画したビデオを巻き戻す。
日本中の好奇心の強い人たちに、
そんな楽しみをプレゼントしてやりたい。
自分が現場にいかなくても、
そんな不思議をテレビで見ることを、してみたい。
実に混じりっけのない、
100パーセント天然の好奇心であった。
_____出発の前_____
腸内異常発酵的に、
期待は腹部に膨満した。
こんどは精神の埋蔵金を掘りに行くんだよ、
というヤマッ気の強い私のホラが効いたのか、
TBSから「やりましょう」という連絡がきた。
テレビ局という、好奇心の権化のような商売人が、
この企画を見逃すテはない。
ただ、このところテレビ局の好奇心が衰弱しているように
思っていたから、ダメかもしれないとも思っていたのだが、
さすがは「埋蔵金のTBS」、反射神経がにぶっていない。
不景気の時代には倍働いて帳尻をあわせるという、
原始的な景気対策をしている私は、
春過ぎまでの仕事の予定をバリバリ入れようとしていた。
あと半月遅れて「インド、行きましょう」と言われても、
物理的に動きづらくなっていたろう。ナイス・タイミング。
早速、ニューエイジ本のカタログを入手して、
サイババ関係の本やらアーユルヴェーダ
(インド式生命科学といったところか)の資料を集める。
サイババ関係の本は、ほとんどひとつの出版社から
発行されているので、一気に集まった。
本には二種類があって、
ひとつはイエス・キリストの言行録としての聖書のように、
サイババが語ったり言ったりしたことを「誰か」がまとめて
「聖典」として出版されているもの。
もうひとつは、
サイババの「奇蹟」をレポートしてるという形式で
「神の伝記」を語っているものである。
「聖典」のほうは、信者でないものに読めというのは、
ちょっと無理だろうという構成で、ヒンドゥ教の基礎知識を
現代の人々に通じやすく語っているといった内容。
斜め読みした印象では、キリスト教の概念がツナギとして
ずいぶん含まれている。
早い話が、「LOVEっけ」が強いのだ。
もう少し気になるのは、
欲望の抑制についてかなり多くの発言を
していることである。カーマ・スートラの国で、
禁欲を訴えることの違和感が気になったわけではない。
こだわるようだけれど、
金や宝石を材料にした指輪やネックレスを
「物質化」して分けあたえる神が
「清貧の思想」みたいなことを
教義に組みこんでいることが、納得できなかったのである。
献花や献金をおよろこびにならないという神の化身が、
指輪を出すのはどんなもんでしょうねぇ、という気分だ。
私は欲望を否定する人々を怪しむ、
という性癖を持つ者である。
自分が欲望をコントロールすることは、
趣味としてあってもいい。
しかし、他人に強制しちゃいかんですよ。
世界中が「清貧」になったら、
GNPが激減して人類は滅亡するね、
乱暴な言い方だけど外しちゃいない。神の化身ってのは、
資本主義経済をひっくりかえそうとしているのだろうか。
信者でないものが信者用の本を読むと、
そんな不埒なことを考える。
もうひとつの、「奇蹟のレポート」本も、次々にサイババ様の
奇蹟を体験した人たちの報告が並んでいるだけ。
何かに似ていると思ったら、健康本のスタイル。
「野菜スープでガンが治った」(静岡県・医師62歳)みたいな
事例がこれでもかこれでもかとページを埋めつくす、
ああいう本とつくりが同じなのだ。
しかし、こっちのほうは読む気になる。
ライアル・ワトソンだって
コリン・ウイルソンだって、やり方は同じようなものだ。
「話はんぶんだとしても、たいしたものだ」と、
好奇心優先の私なぞは、すっかりいい気持ちになってしまう。
ただ、「話はんぶんだとしても」という感想を抱かせる
書き方というのが、オカルト本の定石だということも、
知ってはいるのが、
長年好奇心中心で生きてきたスレッカラシの
油断ならないところだ。ポルノ小説読みながら、
すっかり気持ちよく前をふくらませて、同時に
「こんなやつは、いねぇよ」と本を閉じるような、
だまされ上手の部分が、まだ残っている。
「話はんぶん」としても、という姿勢は、
もう、十分に積極的であるともいえる。周囲の人たちに、
サイババのことを語ると、
「ウソくさいなぁ」という苦笑とともに、
興味は大アリですぜという表情がはねかえってくる。
「月刊プレイボーイ」の
ムラマツが企画にのっかってきたのも、
私の事務所のマネージャーであるサイトーが
「私、行こうかな」と
言いだしたのも、
私自身が「話はんぶん」と言いながら発していた
熱のようなものに、心を動かされたものだろう。
おかしなもので、「話はんぶん」と語る私なのに、
相手が「話よんぶんのいち」くらいの反応をしてくると、
もうちょっとこっちへ来いよォと説得を開始する。
サイババが、単なるインドの超能力者という存在ではなく、
政府の中心的人物たちにも崇拝されている大宗教人とも
言えるらしいこと。近隣の村に、立派な学校や病院を建て、
インド再建の英雄的な見られ方をしているらしいこと、
寄付や献金を求めないこと等々を、まるで弁護人のように
言いつのって、疑似折伏のようなことをはじめる。
自身の、この心の動きは、なかなか興味深いものだった。
「ホンモノであってほしい(もんだぜ)」という願望が、
他者に対して
「せめて自分と同程度の信じ方」を要求するようになる。
考えを押しつけようとは思わないけれど、
ニュートラル(という名のヒイキめに)
なっちゃあくれないか、
とやっぱりソフトな押しつけがましい人になりはじめる。
サイババが、まったくの
大ペテン師でもかまわないとはいうものの、
こんなに何冊も本を読んだり、わざわざインドくんだりまで
出かけていくんだから、元本保証くらいしてほしいものだと、
欲が出てくるのだ。
サイババは教育に非常に熱心で、 別宅の隣に大学を創設。 インド国立大学もその教育水準を 見習うくらい超優秀な 学生を輩出する。 |
インドに呼ばれる、というコトバがある。
インドという場所は、人を呼ぶのだそうだ。
サザエさんがカツオ君を呼ぶように、だろうか。
私がインドに行くということは、
つまり呼ばれたから行くのであって、自分の意志で
押しかけていくのではないということになるらしい。
神秘ではないか。謎ではないか。
インドに、神の化身サイババ様に、
おいでおいでと呼ばれているのだ。
私は、「物質化」した指輪をほこらしげにはめ、神に出会った
生き証人の一人として、
ご近所の人たちに「信じられないことが、
信じられるのだ」と、わけのわからない自慢をする。
否定はするわ、のめりこむわ、インドに着く前から
私の胃腸はおかしくなった。
たぶん腹にくる風邪をひいたのだろう。
私の下腹部は不健康に膨満し、
ガスが出口をもとめて内側から
肛門を刺激する。こんな状態で「下痢の聖地」へ向かったら、
私、生きて帰れないんじゃないかしらん。
みにくくふくらんだ私の腹には、インドの神秘ガスが、
きっとたまっているにちがいない。
そんなことを思ったわけではないけれど、
インドへの異常なまでの助走は、
「何かが起こる」と私に確信させるものだった。
ブッダパルティのアシュラムという 宮殿に集まった信者の前に お出ましになるサイババ 。 朝夕2度、ダルジャンとよばれる 儀式がおこなわれ、 サイババは信者と交流する。 数千人は集まるという このダルジャンの場で いろいろな奇蹟をおこす。 |
その時期に、テレビスタッフによる
第1回にして出発前最後のミーティングがあった。
話題の中心になったのは、
口数の少ないディレクターの恩田さんだった。
彼は、かつてサイババを取材したことのある
オランダのテレビ局に行って、撮影の段取りについて、
そこで彼らの経験した不思議な現象について
インタビューをしてきたのである。
恩田さんの表情は硬かった、
小さな咳ばらいをくりかえしながら、
彼は取材の成果を報告した。
「まずは、サイババに会うということは、
ローマ法王に取材を申しこむのと同じような
ものらしいってことなんですよ」
あ、そう。そうなんだろうな。そうかもしれないねぇ。
「オランダのテレビとか、アメリカとか、イギリスとか、
何度か取材には成功してるらしいんですけどね。
けっこう、みんな信者になって帰ってきちゃうんですよ」
そ、それは、ホンモノの実力に
ねじふせられちゃうってことかいな。
「だいたい、トリックがあるだろうってことで、
カメラが入るわけですよね。
だけど、どうにもわからないってことらしいんです」
「だけど、信者になって帰ってきちゃうってのは、
曲がりなりにもジャーナリストとしては、
あんまり恥ずかしいんじゃないの。
信者でもなく、ガンコな科学万能主義者でもなくさ、
あホントなのかァ!? って立場はとれないもんかね」
ミイラになってもいいとさえ言っていた私なのに、
そういう反論をしたりもする。
「で、外国のテレビ局は指輪ももらってるのかな?」
オレって、そんなに指輪が欲しいのか。
恐竜の卵の化石を手に入れたみたいに、
空中から「物質化」された指輪を欲しいということなのか。
「全体に奇蹟の部分は減ってきてて、
全盛期ほどじゃないらしいんですけどね。
指輪とビヴーティ(聖灰)は、
毎日必ず出してるみたいですよ。
やっぱり、みんなビックリしちゃうらしいです」
「聖灰はいいや。灰はいらない。
オレ、そういう信仰じゃないもん。
聖灰を一俵あげようとかって言われたら、困るよ。
コシヒカリに交換してもらいたい」
ちょっと冗談を言ったら、恩田さんの顔がけわしくなった。
「イトイさん、この、いまの会議もサイババ様には
お見通しらしいんですよ。どういう気持ちでインタビューを
望んでいるのか、もうわかってるっていうんです」
だから軽率な発言に注意してほしいということらしいが、
口で信じているふりをしたって、
神様なら心のなかまで透けて
見えちまうってことだろう。
演技をしても、全部お見通しなら、
しないほうが正直でいいや。ラクだし、そのほうが。
「いろんな芸が、あ、いや、芸ってことじゃないや、
奇蹟があるんですけどね。その、まだウラをとってない
話らしいんですけど、すごいのがあるんですよ」
笑っちゃうくらいすごい話を、恩田さんは語った。
オーストラリアのテレビ局クルーのひとりのところに、
プッタパルティ
(サイババの居留地で修練場のある土地)から
本国に帰ろうって日に電報が届いた。
彼の妻が死んだという報せだ。
うなだれてサイババに別れを告げる彼に、神の化身は言った。
『おまえの帰る所はどこだ?』。
目の前の壁をサイババが叩くと壁に突然世界地図が現れた。
妻を失ったばかりの男は、『ここです』と、
オーストラリアを指さした。
『そうか』再びサイババは壁を叩く。
すると地図は、オーストラリア全図に変わっている。
『このどこだ』と尋ねるサイババに男は、シドニーの位置を
さし示した。こんどは、シドニーの地図になり・・・
何度目かの地図は、もう、彼の家の玄関になっていた。
驚くイトマをあたえず、
サイババは男を壁に向かって強く押し、
叫んだ。
『すぐに行ってやれ!』。
「で、その人は一瞬のうちに
自宅に着いてたっていうんですよ」
さすがの恩田さんも、
サイババ様にお見通しであることも忘れて、
苦笑いしている。
「サイババ様は、クルマのナビゲーション・システムか?
衛星対応か?」
ここまで信じろというのは、難しすぎる。
神か奇蹟かどうでもいいけど、そんな面白すぎる話は、
かえって信じたい人には邪魔になるのではないか。
「ウラはとってないっていうんですけどね」
「神様ならできるかもしれないってか。
それは、ちょっとなぁ」すごすぎるぜと、誰だって思う。
スプーン曲げ、というあの控えめな、
つつましやかとさえいえる
超能力を、笑い飛ばすようなダイナミックな伝説である。
ただの超能力ではないのだ。
神なのだ。比べちゃいけないのだ。
信じろとは言わないけれど、実際にアンタが
そういう奇蹟に立ち会ったら疑う余地はないだろう?
ってことなのだ。
「ほんとに、ウラはとってない話なんですけどね・・・」
「とれないよ、そんなウラ」
「オランダ人から聞いたんですけど、
全然冗談言ってる感じじゃないんですもん」
ダルジャンに出席していた 信者のなかには、 空中からとり出したという 指輪をもらった人も 数人いた。 |
ウソのカタマリのような話をされて、
笑った後で怖がったりもしている。
なんてお調子者なんだオレたちは!?
「神の化身って、こういう顔してるのかよ、マジに」
みんな気になっていたことを私が言ってしまった。
サイババの写真をはじめて見た人は、
誰でもインドの田舎の
魔術おやじぐらいのことしか思わないだろう。
ヘアスタイルは、篠山紀信型というか、つのだ★ひろ型。
どす黒い顔に、鋭いというよりオトロシイ目つき。
一般的な基準をそのままあてはめたら、
典型的な「悪人顔」なのである。私は、家人に、
「もしオレがインドから帰ってきて、すっかりサイババ様の
信者になっちゃってたらどうする?」と聞いたことがある。
「インドかぶれみたいな?」
「そう、お香をたいて祈っちゃうわけよ。
ゴキブリなんか見つけると、救っちゃうんだよ。
愛を! なんつって」
「いいけど、なんでも。だけど、この人の写真を
家に飾るんだったら考えちゃうなぁ」
「なんで? 神なんだぞ、私の信仰するところの」
「だって、コワイんだもん、顔が」。
縁なき衆生めと思って、その話はおわったのだが、
実は、私だってその気持ちはわかると、
ホンネでは納得していた。
いくらサイババ様に夢中になっても、
なんとか写真を飾らない
信仰生活というとこで手をうってもらえないものかと、
いらぬ心配をしていたものである。
ホンモノの神が、誰にでも好かれるような二枚目でも、
また、これはこれでありがたくないんだろうな。
ちょっと認めにくい悪人顔の男の身体を、
神が現世の宿として
選んだってところが、かえって奥深いのかもしれない。
男は顔だ、などと言うと、自分の墓穴を掘るようなことに
なってしまうが、私は私の友人たちの顔を、みんな好きだ。
信仰する神があの顔だってのは、悩んじゃうよなぁ。
だが、この難問については、
それ以上考えないようにしていた。
でも、時々ね、ふっと思いだすわけよ。
「先代のシルディのサイババ(今のサイババは二代目で、
初代サイババの生まれ変わりということになっている)は、
いい顔してるんですけどねぇ」
「聞かれてると困るから、この話はやめとこうや」
「さんざん、言っといて」
神に出会ってない人間なんて、こんなものなのさ。
それを、神は「馬鹿だなぁ、おまえは」と、
優しく包みこんでくれるのさ。
私はそう信じていたので、心からそう言った。
それにしても、
オーストラリアまでテレポーテーションかぁ・・・。
飛んだ本人は、どんな気持ちだったのだろう。
人工衛星から地球をながめた宇宙飛行士だって、
ずいぶんアッチの世界へ行っちゃってるみたいじゃないか。
説明できない力で、インドからオーストラリアに
瞬間移動させられたテレビ屋さんは、その後の人生を、
どう送ればいいのだ。それを想像すること自体が、
もう私にとってのトリップ体験だった。
腸内にたまるガスのように、サイババの奇蹟への好奇心は
異常発酵していった。
(つづく)
_____インドの日々_____
夢のようなお家やお庭を拝見して、
マイケル・ジャクソンを思い出してしまった馬鹿。
葬式の時にかぎって
笑いだしたくなるというやつがいるけれど、
インドに到着してからの私は、
冗談を言いたくてたまらなくなっていた。
知らず知らずのうちに、
聖と俗のバランスをとろうとしているのだろうか。
手のひらを下に向け、
くるくると回転させて聖灰を出すのが、
サイババのひとつの「芸」なのだが、
そのマネをして煙草の灰をまき散らしてみる。
「オレが、ジジ様だ」やっていて虚しいのはわかっているが、
そんなことばかりやりたくなる。
灰をまき散らすのも、煙草の灰であることが、
いちおうギャグのポイントで、
ババ様(私たちは、信者たちがサイババと呼ばずに
『ババ』とか『スワミ』(先生)とか呼んでいると知って、
いつのまにか彼のことを、
ババ様と呼び習わすようになっていた)は、
喫煙の習慣を「悪癖」であると、おっしゃっておられる。
アシュラム(修練場)内は禁煙であるということが、
行く前から、私にとっては大プレッシャーであったのだ。
もうひとつ、とてつもなくくだらない小咄。
サイババは、直接奇蹟を与えるだけでなく、
まったく思いがけないかたちで
神の御心を現すことがあるという。
前号でちょっと登場してもらった青山圭秀さんという人は、
サイババに「物質化」してもらいたいと思っていた
ムーンストーンのついた指輪を、
アシュラで知り合ったユーゴスラビアの女性の指に見つけ、
「フフフッ、じゃあ、あなたにあげるわ」と、
頂戴しちゃったのだという。
こんなさりげないやり方で、
望みをかなえてくれるサイババは、
やっぱりスゴイぞってことになるわけだ。
で、ね、ここからは冗談なのだが、
<ある男がサイババに会って、帰国した。
夜中にふと小便をしようと思って息子をとり出すと、
いつもと違う重みを感じる。
「おお、大きくなっている」。
彼の妻も微笑んで証言した。
「すっかり頼もしい夫になって、幸福です」。
サイババは、こんなふうに奇蹟を与えることもある>
くだらない。しかし、こんなくだらないことを言ってないと、
何か不安なのだ。
信者になってもいい、と覚悟を決めて来たはずなのに、
冗談で武装している。
これは私の血のようなものなのかもしれない。
さて、ニューデリー経由でバンガロールという、
「南インドの軽井沢」と
誰か日本人が仇名した地方都市に私たちは向かった。
サイババの本拠地はここからクルマで
5時間ほどのところにあるブッタパルティという村なのだが、
この軽井沢近郊のホワイトフィールドという
(何故か英語名で、しかも少女趣味な地名)
ところにもババ様は支所を持っている。
夏のあいだは、そこにいらっしゃるらしい。
神の化身も夏は避暑地にいるというのが、
人間の姿をしている因果を感じさせてくれて笑える。
|
お菓子のコトブキみたいな、
白やピンクや淡いブルーを基調にした
おとぎ話に出てきそうなデコラティブな家、
ひと昔前の原宿でヒッピーくずれの画家が売っていた
風景画のような庭園。
そこでウサギに餌をやっている
篠山紀信ヘアーの色黒の老人...
これでは、マイケル・ジャクソンの
インド判パロディではないか。
幼いころから、生きものを殺生することを嫌う
少年だったというババ様だけど、
1926年生まれの68歳の男が、
こんな景色のなかで小動物と遊んでいる図を、
本気でありがたがれる信仰者とは、
ふだん何を考えている人々なのだろうか。
おっと、また不遜なことを考えてしまった。
少年を犯罪的なまでに可愛がり過ぎた世界的アイドルと、
神の化身を重ね合わせて考えてるなんてことを、
当のババ様に見通されたら、
インタビュールームに招かれて指輪を
「物質化」してもらえなくなっちまう。
その後、アシュラムに隣接する、
サイババが総長を務めるという大学を見学。
学生たちは、みんな利口そうで、体格も立派で、
いかにも将来のインドを背負って立つエリートという印象。
文字を読めない人が60パーセントともいわれるインドで、
大学教育を受けているというだけでも、
もうすでに大エリートの
資格を持っているということになるのだろう。
こういう学生たちという優秀な(神ならぬ)人間たちを、
現世で活躍させることで、
サイババは「神に甘えるのではない」
人間たち自身による幸福の国を
建設させようとしているらしい。
このあたりの考え方は、
神というより政治家の発想にも似ている。
大学をつくるマイケル・ジャクソン?
いや、いかんいかん、また余計なことを想像してしまった。
大学の構内には、いたるところに、
サイババの御言葉を英語で表現したスローガン看板がある。
私ゃ、英語は仏語や独語と
同じくらいしか理解できない人間なので、
正確には読みとれなかったのだが、
「LOVEが大切さ」というようなことが、ほとんどだった。
一時期のフォークソングや、
素人バンドの歌詞のような印象で、
私としては、
「ちょっとイージーに走りすぎてるんじゃねぇか」
と思わざるを得なかった。
しかし、単純なメッセージほど、深そうに見えるし、
遠くまで届くし、長持ちする。
「LOVE」は、
メッセージ界のジョーカーみたいなもので、
効率よく他人をひきつけられる絶対の単語だ。
しかし、ラブって、西洋の概念じゃなかったっけ?
しかも、ラブの上に、エゴを超越した
アガペーとかいう愛の上位概念があるんじゃなかったっけ?
私は、再々度マイケル・ジャクソンと
少年とのあいだに愛はどうだったのかなぞという
清らかでないことを考えてしまった。
結局、サイババの教えって、LOVEか?だとしたら、
この神の化身は、指輪を「物質化」して
プレゼントしてくれること以外に、
メジャーな表現はしていないということにもなりそうだ。
私の好奇心の方向は、
インドに着いてから「不思議、大好き。」から
「不思議って何?」のほうへ向かっているようである。
好奇心だけでインドにやってきた
テレビカメラかついだ馬鹿どもは、
心の奥では奇蹟を信じたいのであります。
スプーン曲げや霊視を笑いとばすような、
とんでもない力に出会って、
その前にひれ伏したいのであります。
いろいろと難クセはつけておりますが、
これはシンディ・クロフォードのボディにも
盲腸の手術跡があるんじゃないかとか
噂しあう井戸端会議みたいなものです。
サイババ様が、私たちをその有名な
「奇跡工場」のようなインタビュールームに迎え入れ、
「ほんとに不信仰なやつらめ、見よ!」
とばかりに心を改めさせてくれることこそ、
願っているのです。
会えるような気がしていた。
私個人としては、変な自身を持っていた。
私たちに会って目の前で奇跡を見せて、
悪いことはサイババにとって何もないはずだもの。
あとは、煙草の問題だけだなぁ。
招待状とひきかえに禁煙するなんてこと、
神様がよろこぶとは思えないし、なぁ。
ホワイトフィールドのアシュラムと
学校を取材してから4日間ほどはサイババに近づく仕事はなかった。
|
本来なら、せっかくインドの奥地みたいなところで、
いまも行われている神秘について教えてもらえたのだから、
「われわれは、企画のパクリをやるつもりはないのです」
というあいさつをして、
できたら一緒にその神秘について考えたかったのだが、
残念だった。
サイババについて教えてもらい、
さらに神秘の占いについても知らせてくれた医学者に
何の断りもなく現地に向かうというのは、どうも気が重かった。
「ま、本を読んで、それをたよりにインドへ行く
OLみたいな感じで行くってことにするかね」と、
仕方なく自分を納得させて腰を痛める長旅に出発した。
その古代インド神秘の占いというのは
「アガスティアの予言」というものだそうで、
エッセイを読むと、とにかく気持ち悪いほど当たるらしい。
文脈から判断すると、
インドの人もよく知らないような奥地の村に、
2千年前の予言をいまも行っている占い師がいて、
青山さんは運よくそこを訪れることができたらしい。
やしの葉っぱに、ひとりの人間のデータが
こと細かに刻み記されていた、そこに、
過去、現在、未来のその人の運命が書かれている、と。
エッセイには、驚異的な占いの的中の様子が書かれ、
オチまでついている。
「この葉は、世界中の人の数だけあるのか」
とたずねたら、
「(運命的に)ここの来る人の数だけ」
と答えられたというのだ。
どうです。すごいでしょう。
サイババに会えるかどうかも、
この占いでわかるに違いない。
「あなたは、近いうちに神の化身に会うであろう」とか
「神の化身を見るが、面接はできないですぞ」とか、
イトイの葉っぱに刻みこまれているというわけだ。
結果は...短くすませよう。
「アガスティアの予言」は、
インド人コーディネーターの尽力で、どこにあるかわかった。
そして私たちは、往復宿泊含めて4日間も、
そのためにかけた。
「せっかく来たんだから、 やってもらおうか」と気乗りのしない 糸井さん。占いによれば79歳までは 生きるらしいが‥‥。 |
占いのシステムはどの「店」も同じであるという。
まるで、温泉まんじゅうの土産屋を選ぶみたいなものだ。
いちばんうまいと評判の行列の
できる店に行こうという発想だ。
私は、占いの村という存在を知った時点で、
もうすっかりやる気をなくしてしまった。
実際に見せてもらった「やしの葉」は、
こっちで勝手に想像していたような
葉っぱ型の葉っぱではなく、
たんざく状のカード型に成形されていて、
ひもを通して1冊ずつの本のようになっている。
私の生年月日をたずねて、1巻の「本」を探すと、
占い師は質問を始める。ごく簡単に言えば、
「あなたは男か?」と聞いてきて、
私が「はい」と答えたら、
そのカードの続きの質問にうつる。
「いいえ」と答えた場合は、
ページをめくるように、次のカードの質問に切り替える。
早く言えば、古代インド式のイエス・ノー・テストである。
無理にインドの神秘と結びつければ、
1と0の組み合わせの
プログラムで人間の運命を知るのだから、
手動式コンピューターであるとも言える。
さすがは「0」の概念を発見した人々だ。
私の占い結果は、どうやら私は79歳で死ぬらしい。
未来のことは、当たっている可能性もあるが、
過去については、
あれほど私がていねいに答えてやったにもかかわらず、
あきれるほど外れている。
オレは新聞屋じゃないってば!
もちろん、サイババに面会
できるかできないかなんてことには、
いっさい触れてない。
なんだったんだよ、この4日間の強行軍はよォ。
「アガスティアの予言」について知るキッカケになった
青山博士の名誉のために付記しておけば、
私たちは「アガスティア」の名が冠につく
「店」には入ってはいない。
ひょっとすると、「アガスティア」の予言だったら、
もっと奇蹟的に当たったのかもしれないという可能性はある。
とまれ、私たちは、無駄にした4日間にこだわってないで、
御本尊のおわしますプッタパルティに急ぐことにした。
「占い師のところに、
すいぶん深刻な顔をしたインド人の客がたくさんいたけど、
あれ、信じてるんだろうなぁ」
「遠くから来てるんだから、
信じなきゃモトがとれないって気持ちになりますよね」
「それ、オレたちに似てる?」
(つづく)
_____聖地の馬鹿ども_____
煙草が吸いたいけど、吸ってもまずいのは
ババ様の思し召し?
「イトイさん、煙草減らしてるんですか」
『月刊プレイボーイ』の編集のムラマツが怪訝そうに聞く。
ムラマツとは1年に50日くらいは会っている仲で、
彼は私がヘビースモーカーであることはよく知っている。
いい質問だ。この2〜3日、煙草がまずいので、
ヘビースモーカーが
トカゲスモーカーくらいにいなっているのだ。
そのことを説明すると、「僕もまずいんですよ」と、
つまらなそうな顔でいう。
「ババ様のさいだろうかねぇ」
「そう都合のいいことは考えたくないんですけどね、
こんなに吸わないことって、なかったですよね」
私の1日の喫煙本数は、4分の1に減っていた。
たいして吸いたくないのだから、吸わない。
そんな感じを味わったのは、初めてだ。
喘息の時だって吸っていたし、
高熱の出てる日も吸っていた私が、だ。
「まずいのは嫌だよなぁ。
オレのマールボロを、うまくしてくれぇ!」
言葉こそ反抗的だったが、
ムラマツも私もサイババが煙草を通して
私たちに何かを伝えようとしているのではないかと、
半分は思っていた。
東京でのミーティングで聞いた
「ババ様はすべてお見通し」の話は、
こんなふうに余震として
私たちに影響を与えていたのだ。
聖地プッタパルティでの宿舎は、
基本的にアシュラム内にある
宿泊施設ということになっていた。
インドとしては高水準の清潔さが確保されていて、
シャワーもあるしトイレもある。
ただ、そこは修羅場の敷地内であるがゆえに、
当然のように禁酒禁煙なのである。
ブッタパルティの 修練場のなかにあるババ様のお家。 ババ様は可愛らしい デザインがお好きのようである。 |
アシュラム内に入ったとたんに、
私の半ズボンがとがめられる。
脚を露出していてはいけないらしい。
昔の「ゴダイゴ」のタケカワユキヒデみたいな
白い上下の服に着替えて、
それから受付場に行き、さまざまな手続き。
けっこう細かいことまで書き込んで、
パスポートを1日預けることになる。
規則らしい。
代金の踏み倒しを防止するわけでもないのに、
パスポートを預けるというのは、ちょっと抵抗があったが、
返してくれるんだから、ま、いいか。
アシュラム内の訪問者受付窓口。 意外とこういうことはシステム化されていて、 訪問者には慣れている感じ。 |
宿舎の部屋をせっかくとっていただいたことについては
申し訳ないとは思ったが、「信者」のふりをして、
ババ様のご機嫌を伺うようなことをするより、
本来の自分たちの姿を、
そのまま表現するほうがよいだろうということで、
案内をしてくれた日本人信者のMさんには説明して謝った。
アシュラム内では、男女の行動は基本的に別々である。
そういう戒律があるらしい。
夫婦の信者が立ち話をしていても、
時間が長くなるとボランティアの係員から注意される。
私たちは、沈黙の規則を破ることが多く、
しばしば、指を唇にあてて
「しっ」というポーズをとる人々に出会った。
こういう人種は、大昔にジャズ喫茶という所によくいた。
おまえの「しっ」のほうが気うるさい!
なんてことを考える余裕はなかった。
禅寺に修行に行ったらもっとキツイだろうと、
私は自分を納得させた。
とにかく、イイコでいようと、
いつも自分に言い聞かせていた気がする。
ローマに行ったらローマの法律に従えというのは、
マナーというものだ。
まず従ってから、
間尺に合わないことがあったら考えなおせばよい。
基本的にこれは弱者の論理ではあると思う。
排除されてしまったら元も子もないのだから、
何とか踏みとどまっていられるように
努力しなくてはいけない。
「出ていけ!」と言われて
「嫌です」と反抗することは許されないのだ。
だってボクらは、ここに望んで来ているのだし、
相手はボクらを「ぜひいらっしゃい」と
招きいれたわけじゃないんだから。
この感じは「免許停止処分」を
軽減してもらうための講習に似ている。
「いねむりをしている方は、即座に退出していただきます。
この講習は、皆さんが免許停止期間の短縮を希望して、
皆さんのほうから望まれて開かれているものでありますから、
嫌なら受けなくて結構なんですね。
どうぞ、お帰りください!
皆さんの、自由なんですから・・・」
自由! あの時に耳にした自由は、新鮮な驚きだった。
あ、そうそう、ここは鮫洲でも府中でもない。
インドのプッタパルティなんだ。ここでも私たちは、
自由を味わわされていた。
男女で立ち話をするのも、半ズボンで歩くのも、
笑い声をたてるのも、自由なのだ。
でも、そういう自由な人は、
「ここでない所」に行ってくださいね。
規則でがんじがらめになっている私立高校の子供たちも、
おんなじようなものか。
遣えない大金のような自由を、
長いこと遣わずに心の底に沈めておくと、
自由はかたまって化石のようになってくる。
私たちのような短期滞在のたんなる好奇心グループは、
つい自由を小出しに無駄遣いしてしまうけれど、
信仰者の方々はそんなことはしない。
洋服をあれこれ選ぶことや、
食いもののうまいまずいを考えること、
男や女の品定めをすること。
そんな、自由という名の「世俗的欲望」を、
ひとつひとつ捨てていく。
心の座敷牢に閉じこめるのかもしれない。
これを日々くりかえしていくと、
「自由からの解放」という素晴らしい、
「総合的な自由」が得られるということらしい。
このあたりのことを、解脱とか悟りとかいうんだろうな。
戒律の助けを借りた禁欲は、
アシュラムで暮らす人々にとって、
無くてはならない条件なのだ。
だから、長く滞在している、
修練場での経験の多い人ほど尊敬される。
「自由という名の欲望」は、生きている人間の心のなかに、
嫌な言い方をすれば、
ドブ泥のなかのメタンガスの
ようにふつふつとわいてくるものなのだ。
わいてくるものをそのままにしていたら、
霊的な到達点は永遠に見えてこない。
だから、アシュラムに暮らす人々は、
「欲望」に「利己心」という名をつけて、
わいて出るたびにしょっぴいて、
心の座敷牢に閉じこめてやるのだ。
だが、これも、終わりのない闘いである。
毎日息をして、モノを食っているだけだって、
欲望のカケラくらいは生じるはずだからだ。
文字通り成仏して、つまり、オダブツになって
呼吸まで止めてしまわないかぎりは、
欲望から解放されることなんてあるはずがない。
過激なエコロジストが、
鯨をたすけるくらいじゃ足りなくなって、
動物実験の反対を始めて、
そのうちにバクテリアの保護まで唱えだすようになるという
冗談を聞いたことがあるけど、
宗教の戒律や禁欲というのも、おなじようなところがある。
こんなに余計なことを考え始めたのは、
そうだ、私が煙草を吸いたいというだけのことからだったっけ。
喫煙や飲酒を、
そんなに悪習あつかいするこたぁねぇじゃねぇかよォ
という、一見些細なことに、不平を言っているのだ。
サイババ様が、灰皿をさしだしてくれて、
「ま、一服しながら話そうじゃないか」とか、
あるいは「今日も暑いねぇ、まぁビールでも一杯やって・・」
とかいうようなケツの穴のでかい神様だったら、
私はこんなこと考えなくて済んだのだ。
男と女は離れろだの、半ズボンはいけねぇだの、
動物の肉は食うなだのと、
あんまりミミッチイことを言うから、
何かなじめなくなっているのだ。
私たちは、できるかぎりは
イイコにしていようと思っていたし、
事実そうした。
だいたい、ブッタパルティまで遠路はるばるやってくる、
それだけで、一般的な快適な旅行になれた人間なら
「ひと修行やってきた」ような気になっている。
宗教の聖地というものは、
だいたい辺鄙な場所にあるものらしく、
交通至便、駅から3分なんていう
不動産屋のよろこびそうな聖地は、
あんまりないのではないか。
ブッタパルティという村は、
もともとサイババの生まれた所で、
サイババは基本的にはここから
一歩も動かずに彼の教えを広めてきた。
いまでは、バンガロールからここへ至る道は
それなりに鋪装されていて、
クルマで4〜5時間あれば着くが、
昔はそんなものじゃなかったらしい。
このサイババ道路ともいうべき道を、
両側の岩山などみながら走っていると、
文明の中心からどんどん外へ外へと
遠ざかっていくような気になる。
途中の村に人間が少ないというせいもあって、
清浄な聖地へ向っているのだという気もしてくる。
私のような者さえ、
「空気がどんどん清くなっていくなぁ」などと、
信仰の窓口で順番を待っている人のような
感想をのべていたのだから、
神に会いに行く信者たちが、
この道が天国に続いていると感じるのは当然かもしれない。
聖地ブッタパルティに近づくと、
まず病院という名の大看板が見えてくる。
これは、サイババが建てた病院ということだが、
なにも彼が大工作業をしたということでもないし、
手のひらをくるくる回して突然広野に病院を
「物質化」したわけでもない。
世界各国にある
「シュリ・サティア・サイセンター」という
支部のような団体が寄付を集めて、
それで建設されたものだ。
あえて、ここにサイババの奇蹟があるとすれば、
「考えられないほど短い建設期間」で
完成したということらしい。
これも、ババ様がご自身で設計したから、
奇蹟的に成就したということだ。
高い鉄柵。門番のいる正面の扉は閉じられていて、
急病人なんかはどうするんだろうと思う。
さらに、ラブ関係のスローガン看板が
並んでいる広い芝生の庭が、
病院入口までの距離をますます遠いものにしている。
イスラム教を信仰しているというインド人の通訳の若者は、
「私が病人なら、
医者にあえるまでに死んじゃうよ」と皮肉を言う。
不信心な私たちは、この建物のデザインを見て、
琵琶湖畔の「雄琴」という地名を
ちょっとだけ想起してしまったのだが、
それくらい許してもらえますよね。
病院を見た後は、飛行場も見る。
ふだんは使われていないが、サイババの誕生日には、
世界中から100万人もの信者がやってくるので、
こういう設備も必要なのだという。
こうゆうコースをたどって、
私たちはアシュラムに入ったのだから、
本当はもっと「何かたいしたスゴイ所」に来たという
感慨にふけってなければいけないのだ。
それが、ここに来る人が必ずしておかなければならない
「予習」だったのだと、後になって私は思った。
しかし、私たちは、やっぱり、信じに行ったのではなく、
仕事に行ったのだ。
その差異が、どうしてもその後の私たちの体験に
大きく反映されてしまったような気がしている。
私たちの最重要課題は、
信仰にとって都合のいい宿舎の特別待遇ではまったくなく、
撮影にとっての特別の待遇が得られるかどうかだった。
幸か不幸か
(これは、私たちにとっても、サイババにとっても)、
当初懸念していたよりもずっと簡単に撮影の許可がおりた。
アシュラムの内部は、室内を除いて基本的にOK。
サイババの姿を見る
(見るだけでご利益に与れるという)ために
朝夕開かれるダルシャンという儀式も、
テレビカメラ1台、スティールカメラ1台にかぎっては
撮影を許可するという。
早い話が、ババ様が信者のいる所に現れて聖灰を
「物質化」したりする様子を、
カメラで撮ってもいいよということだ。
しかも、このダルシャンに入場するには、
炎天下や早朝、順番待ちの列に2時間ほど
並ばなければならないのだが、
それもしなくてよいことになった。
VIP用の入口から入場させてくれて、
しかも信者の憧れにもなっている
「最前列」に座らせてくれるという。
目の前に、サイババが来る。
不信心で欲望の強い馬鹿どもではございましたが、
ババ様の病院を見て「雄琴」を思い出してしまうような
失礼なこともいたしましたが、
やはりババ様はケツの穴のでかいお方でございますよね。
インドに来てから一度もオナニーをしなかったのを
高く評価なさったのでございましょうか。
ともかく、ありがたきしやわせ!
考えてみれば、他の信者より
前の列に座りたいというのも欲望である。
ちょっとでも神様に近い所で、神様をよく見たい、
あわよくば聖灰も出して欲しいし、
インタビュールームに呼んでくれて指輪なんかももらいたい。
こんな強欲な話はない。
なのに、そんな欲望まるだしの私たちに、
ババ様はVIP待遇をしてくださるというのだ。
喫煙や飲酒には厳しいババ様だけど、
やっぱり「魚ゴコロあれば水ゴコロ」
なんていう日本のファジーな考えも知ってらっしゃるのだ。
さすが神の化身は、ひと味違う。
「さいさきがいいですね」ディレクターの恩田さんだって
こういうことに不満はない。
いい画面を、日本中の好奇心に向けてオンエアできるぞ、
と機嫌もいい。
(つづく)
_____サイババ登場_____
ババ様ったら、
ほんとに恋の駆け引きがお上手。
私たちが初めて参加するダルシャンは、夕方から始まる、
その日2度目のものだった。
話に聞いていたよりも参加者が少なく感じるのは、
大きな祭が前後にあるせいだという。
それでも、大きな小学校の朝礼くらいの人数が集まっている。
数にして1千人ほどの信者が、地面に
あぐらをかいて待ち続けているのを見ると、
彼らが待っている対象について、ますます興味がわいてくる。
あぐらをかいた人々が、そろそろ尻の位置をなおすころ、
信者たちにとっての「天上の音楽」が鳴り響く。
使い捨てライターの工場さえないというインドのことだから、
スピーカーもきっと輸入モノだと思うのだが、
ずいぶん歪んだ音である。
音楽が流れ出すにあたっては、
誰かがスイッチを入れてるんだろうねぇ、きっと。
とにかく、それと同時に
サイババが登場することになっているから、
人々は一斉に、ババ様のお住まいである「おとぎの家」
(これは私が勝手にそう呼んでるだけ)
のほうへと視線を飛ばす。
おお! なのである、やっぱり。
あの、写真で見なれたシノヤマなヘア。
さらにまた、写真で見なれたオレンジ色の衣装。
ライブで見るサイババは、思ったよりずっと濃い味である。
「あれが、神かもしれない人間か」、私はかなり緊張した。
偉い人とか立派な人というようなものではないのだ。
死んでも復活する人、何でもお見通しの人、
無から有を生ぜしめる人、人類の生死を握っている人、
つまりは神としか言えない人が、
歩いてこっちに向かってくる。
ダルジャンにお姿をお見せになるババ様。 インド国内はもちろん各国から 信者が集まって来るのだが、 ヨーロッパやアメリカからの訪問者 がかなり多いのに気がついた。 ババ様の教えが宗教を問わず、 しかもキリスト教のテイストが 強いことも関係ありそう。 |
写真で知っているサイババより、少し顔の色が黒く、
少しと言えないほど髪の毛が薄い。
エネルギッシュではあるが、
想像していたよりも老人っぽい印象だ。
身長は150センチと説明されたが、
なかなかそうは見えない。
頭が異様にでかいところに、あのカーリーヘアだから、
そのぶんで20センチ近く背が高くなってしまうのだろう。
そして、やっぱり、顔が怖い。
ひどく不機嫌な深海魚といっても、
やはりその怖さは表現できない。
若き日のサイババの写真には、
笑顔らしい笑顔も見受けられるが、
近年の写真には笑った顔がないようだ。
口の両端が軽く
持ち上がっているものは
あっても、
目は笑っていない。
威嚇するような視線が、信者たちの人垣に向けて、
突き刺すように発射されている。
これが、「お見通し」の視線に感じられたら、
もう逃げられない。
あの視線ひとつで、
サイババに会った人たちは自分の心のなかの
「不信仰」や「利己心」「欲望」「疑い」
といったものに対面してしまうことになるのだ。
怖いのは、本当は「サイババの顔が怖いだけ」
なのかもしれないのに、
私たちは「自分の悪いココロ」を
見られているから怖く感じるのだと、
錯覚してしまうのである。
私もそうだった。あの目でにらまれて、
「おまえは悪いやつだ」と怒鳴られたら、
震えあがってしまっただろう。
そんなに悪いやつだという自覚はないけれど、
少なくとも「神の化身」に対して疑いを持ったり、
神を冗談のタネにした覚えは確かにあったのだから。
しかし、私の目もサイババの移動に
張りつくように動いていた。
よく、見たい。あの、怖いものを、よく見ていなきゃ……。
考えてみれば、「神である人間」などというものは、
ただの人間から見たら「フリークス」として
認識されてしまうものなのだろう。
サイババの修練場の囲いの外には、
身体の歪みや欠落を職業上の
武器にしている物乞いが大勢いる。
その憐れまれ同情される人々と、
このカーリーヘアの「神人間」は、
平凡な人間たちから、
同じ好奇心で見つめられているのである。
神という化物をもっとよく見たい。
あ、神という化物が歩いている。
神という化物がしゃべったぞ。
この日の私の好奇心は、おそらくそんな視線を
サイババに送っていたに違いない。
きっと私たちは、
翼を背中につけて空中を漂う天使を見つけても、
羽根がどんなふうについていて、
どんな具合いにそいつをはばたかせ飛ぶのかを、
目を凝らして見ようとするに違いない。
地上に神はいないことになっていた。
しかし、ここにいるというのだ。
神であるという人間が、
足を互い違いに動かして歩いているとしたら、
私たちは、とても立派な人間を見るように見ることなんか
できはしない。
まったく目を閉じてしまって「見ない」か、
珍しい化物を見るように見るか、どちらかだ。
そんな私の目に映るサイババは、
やはりどんよりと黒く重く怖くて、気味が悪い。
もしかすると、サイババは、
最も「神の化身」としての資質を豊かに持った
風貌をしているのかもしれない。
小柄で、やたらに頭部が大きく、ぬめっとした肌合いと、
爬虫類のような威嚇的な表情。
フリークスとして、超人間として、
神として、平凡な私たち人間の前に登場するのに、
これ以上に最適な姿かたちはないのではなかろうか。
長身痩躯の端正な顔立ちの人間が、質素な服装で現れたら、
「神の化身」と感じるよりも「高度な人間」
と考えられてしまうのではないか。
感受性に逆転を迫るようなインパクトが、
やはり「神の化身」には必要なのだ。
「神の化身」は、時計の短針のような
じっとりゆっくりした歩みで進み、
信者たちが手を伸ばして渡す手紙を受け取り、また進む。
|
サイババは受け取った手紙は、封を切らずに読むという。
それなら、わざわざ手紙を受け取らなくても、
書いた者の意志だけ読み取ればよいと減らず口を
たたきたくもなるのだが、
儀式として重要なのかもしれない。
手紙の受け取りがないと、
サイババがただ歩いているだけということになってしまい、
ちょっとカッコがつかないという気もする。
手紙を受け取ったり、顔を動かして
視線をあちこちに飛ばしたりしていて、
ふと、サイババが立ち止まる。
さっきまで、
衣装の腰のあたりをつかんだり、
手紙を受け取ったりしていた右手を、
下に向け、あわただしくといった感じの速さで
何度か空中を撫でるように回す。
開き気味で回転させた手のひらを、
ものをつかむようなかたちに閉じ、前に差し出す。
信者たちは、聖灰を「物質化」したということを察知し、
驚きの表情で、両手でとっさの容器をつくり
「私にください」とばかりに腕を突き出す。
そこに、サイババは、
ちょうどお焼香をする時のような手つきで、
聖灰を頒け与える。
神のなす、厳かな行為というには、
あまりにもあっけない出来事に思えた。
なんというか、「べらんめぇ」な感じというか、
粗雑な印象を与える振る舞いというか、
「当たり前のことを、いつものようにやっただけよ」
と言っているようなアッケラカンな秘儀ではあったのだ。
お供の学生が、聖灰を配ったサイババに、
お手拭き用のトイレットペーパーのようなものを差し出し、
これで「聖灰で汚れた手」を拭うという「後技」も、
妙に日常的でユーモラスに映った。
しかし、その時、その場では、
そんな観察記録を心に刻んでいるような余裕はない。
肉眼で神の奇蹟の業を見せられるのはたまらない。
怖さは、ますます増していった。
やがて、化物が、いや、化身が、私の前に近づいてきた。
「ああ、許せるものなら許してくだせぇまし。
神の化身様のことを冗談にしたり、
信じなかったりしたオラに、お許しを!
そして、オラの、自分でも気づいていなかったような
善行やら前世での業績を評価してですねぇ、
インタビュールームに招き入れて、
指輪を出すとこを見せてくだせぇまし!
あ、さらにできたら、そこにテレビカメラ同行の許可も
お願ぇしますだ! ドキドキ」
そんな身勝手なことを考える私の気持ちを、
もっと短くひと言で表現すれば
「ババ様に気に入られたい!」であった。
ババは、私の正面に来る前に、
もう、背筋も凍るような視線をぶつけてきた。怖い!
そして正面に来た。視線は、まだ私の目だ。
何も言わず、そのまま通り過ぎ、
「今日は呼ばれなかったな」と私たち一行が思った時、
サイババは振り向き、肩ごしに私に言った。
「ジジュ・カム」
私の耳にはそう聞こえた。「Did you come」か。
頭のホワイが聞き取れなかったとすれば、
「なぜ来たのだ?」。
ホェアがあったなら、
「どこから来たのだ?」ということになる。
蛙のような声に聞こえた。
神に恫喝されちまった。
そんなふうには考えたくなかったのだが、
サイババが私に向かって怒っていたとしか思えなかった。
私や、私たちのスタッフが
「神の敵」だということなのだろうか。
敵になるほどたいしたやつらじゃないんだけどなぁ。
指輪を「物質化」してもらって、神の化身と語り合って、
日本に帰って近所の人気者になるんだー♪
という、いかにも馬鹿らしい私の希望は、
叩き割られたガラスのコップのように、
こなごなに砕け散ってしまった。
もうダメだ。オレは、こんなに愛しているのに、
あいつはオレに怒っている。
惚れた女の憎しみをかってしまった青少年のように、
私は打ちのめされてしまった。
私の近くに座っていたスタッフも、
「何を言ったかはよくわからなかったけど、
怒ってるみたいでしたね」と語る。
「なぜ来た!?」と、怖い顔で言った人がいたら、
その人は、きっとあなたが嫌いです。
人間関係の法則では、そういうことが断言できる。
しかし、待てよ。私たちが特別入口から入場できて、
この条件のいい場所に座れたことも、
カメラの撮影が許可されたことも、
サイババ自身が認めなければ、なかったことではないか。
このアシュラムには管理の責任者はいるけれど、
サイババの指示で動いているという。
だとしたら、ババ様は、
私たちを自分の近くまで引きつけるだけ引きつけておいて、
突然カミナリを落とすような
パフォーマンスをしたのだろうか。
さまざまな特別待遇をしているということは、
「敵」として扱っているわけではないということではある。
私は混乱した。
サイババは怒っていたのではなく、
怒っているように見えるほど怖い顔をしていたのかね?
こっちの気持ちが汚れているから、神の化身に怒られたと、
勝手に感じてしまったのかな。
惚れた女の心を確かめることもできずに悶々とする男のように、
私は苦しんだ。
それに、こっちも、自信を持って「愛してる」
なんて言えない弱みもあるわけだから、
見破られても仕方がないし。
夜になって、狭いホテルの部屋で、
ダルシャンの様子を収めたビデオをモニターで再生してみた。
サイババが、「カム」と最後に言っているのは確かだ。
そういうことで、英語のヒアリングの解答は一致した。
その、カムの前に何と言っているのかは、
何度テープを再生してもわからない。
たぶん「ホワイ ディド ユー カム」
だろうということにしたが、
正解が誰にもわからないので、いつまでも気持ちが悪かった。
実は、その時には、
かつてサイババにインタビュールームに呼ばれたという、
日本人信者のMさんもいたのだが、
ニューヨーク滞在も長いという彼も、
「カム、は確かですけど、ちょっとわからないですねぇ」
と首をかしげていた。
Mさんによれば、面接に招く信者には、
短く「ゴー」という場合が多いという。
とにかくどんなことを前にしゃべっても、
「ゴー」さえ聞ければブラボーなんだそうだ。
「カムでも、来いってことでいいんじゃないの?」と、
英語を仏語やヒンドゥ語と同じくらい得意とする私が
冗談を言ったが、虚しい笑いさえもかえってこなかった。
いくら話し合ってもラチがあかない。
翌朝は午前3時とか4時に起床しなくてはいけない。
そういう時の私たちのシメの言葉は
「とにかく、4回の可能性のうち、1回はダメだった。
あとチャンスは3回だから、
何とかインタビュールームに入れてもらえるように、
ガンバリましょう!」であった。
何だかとにかく、ガンバルっていうことだ。
そういうその日の結論だった。
招き入れるも入れないも、奇蹟を見せるも見せないも、
すべての決定の鍵はサイババが一方的に握っている。
歩み寄りとか、交渉とか、妥協、話し合いなんてことは、
いっさいないのだ。
あらゆる決定権が相手側のみにある時、
決定の場に参加できない側の人々は、
「不自由な状態にある」ということがいえる。
また、自由について悩まされちまった。
私たちは、この日サイババに、不自由を恵んでもらった。
ホラ、やっぱり片思いの男と同じ立場だよ。
「どうしたら彼女(ババ様)に
気に入っていただけるか?」と、
それを次々に考え続けることになっちまうんだ。
この関係を続けていくと、
知らず知らずのうちに「信仰」が
深まっていくことになるわけだ。
どうやって気に入られよう。
信仰についてもっと求道的なポーズを取るべきか。
しかし、本気で取り組んでない信仰にだまされるようじゃ、
神とは言えないよな。
日本人なら日本人らしく、
金を積むという方法はないものかとも考えたが、
私たちに金はないし、それを受け取ってくれる神様じゃ、
これまた信用ならない。
何も通用しないのだ。
すべて、ババ様の御心のおもむくまま。
自由という名のカードは、
神であるババ様のみが持っているということを
思い知らされた第一日ではあった。
「初めてのダルシャンで
声をかけられただけでもスゴイですよ。
インタビューの可能性は大いにありますね」と、
Mさんは、なぐさめともはげましともつかぬことを
言ってくれた。
しかし、私たちは、信仰への階段を
昇っているわけではないのだ。
運動会の騎馬戦のように、帽子ならぬ指輪を取ったら、
すぐに逃げ帰ってもいいというくらいの気持ちなのだ。
そんな馬鹿野郎どもの目を醒まさせてくれるような出来事を、
馬鹿野郎自身も期待していた。
翌日、早朝4時から準備して
朝のダルシャンに出席した私たちに、
惚れた相手は、一瞥をくれただけで通り過ぎた。
1度目で声をかけてもらったから、
2度目はもうちょっと親しくなってという、
私たちの甘い期待は、水をかけられたかたちになった。
眠いし、無視されたし、で、私は少々不良化していた。
ダルシャンという儀式が、
サイババに招かれるチャンスなのだが、
信者たちはその後ももう一度集まって、
バジャンという集会をやる。
バジャンは神を讃える歌を一斉に歌う儀式で、
「歌の好きな」サイババは、
ここでは椅子に腰をかけて信者たちの
歌を楽しげに聴いているという。
ババ様は、神を讃える歌を、
信者の集団と対面するかたちで聴く。
つまり、天だかどこだかにいる目に見えない
絶対神のようなものを讃える歌かと思ったら、
神そのものであるババ様を讃える歌を聴いているらしいのだ。
不良化した私は、そのバジャンという儀式は退屈なだけで、
招かれるチャンスもないと考え、参加をお断りした。
参加してくれと頼まれたわけじゃないけれど、
「惚れたが悪いか男」も、たまには、
小さな自由のカードを行使してみたくなるのですよ。
後で聞くと、神の化身は、
バジャンの後でちょうど私たちの
座っていたあたりに戻ってきて、
近くのインド人学生たちと
長々と語り合っていたというではないか。
なんか、考えようによっては、
ずいぶん当てつけがましい行動ではないか。
「せっかく私があなたに会いに行ったら、
あなたったら、いなかったじゃないの。
愛してるとか言ってたくせに、ホホホ」と、
怖い顔してババ様が笑ったかどうかは、知らない。
そうそう、そういえば、信者の方々の話では、
ババ様というのは、
とてもユーモアのある方で、
たまにおっしゃるババ様のジョークは
腹を抱えて笑うほどおかしいのだそうだ。
しかし、これだけは断言できるね。
そんなことは絶対ない!
曲がりなりにもお笑いの審査員だってやってた私だ。
あの顔の、禁欲をすすめる男のジョークが、
そんなに面白いわけがない。
それこそが、アバタもエクボというやつだ。
せいぜいが昔に流行した
「なんちゃって」程度のものに違いない。
「アジャパー」くらいなら、まだましなほうだ。
こんなことでムキになってもしょうがないんだけどさー。
ま、とにかく、半分のチャンスを逃した。
次こそ、その日の夕方のダルシャンこそと、
私たちは気を取りなおした。
そのころには、サイババのことを怖いとも、
感じなくなっていた。
不良学生が教師をなめるようなことなのだろうか。
最初はフリークスにも思えた。
「生きている神」という実感が、
いつのまにか消し飛んでいた。
「高慢な女にもてあそばれてるみたいだな」
と話し合った相手のムラマツは、
「イトイさん、あの女は性格が悪すぎますよ。
別れたほうがいいかもしれない」
と、逆に立腹し始めていた。
実際、私も似たようなことを考えてはいた。
サイババについての本を、資料としては読んだけれど、
信仰の対象としては読んでいなかった私たちだ。
「神の化身」という超大看板をかかげているサイババが、
こういう馬鹿を相手に「神であること」を証明するためには、
午前と午後に2回ずつ手から灰を出すだけでは
足りなかったということなのであろう。
アシュラムのなかでは、各国から来たさまざまな信者たちに
「ババを信じてから幸せになった話」を聞いたり、
「ババに甘露を物質化してもらってなめてみたら、
この世のものとは思えない味がした話」を
してもらったりしたけれど、
私たちにとっては、何の腹の足しにもならなかった。
ババ様がインタビュールームで
物質化してくれたという指輪をはめている信者も、
ずいぶんいて、
うらやましい気持ちでひとつずつ見せてもらったけれど、
緑の石のついた指輪と、
サイババのプロフィールが
レリーフされた指輪がほとんどだった。
その2種類とも、別々の人の指にはめられていたのだが、
まるで大量生産品のように同じであることも、
ちょっとサミシイものがあった。
同じタイプの指輪は、
取材によると同じ年に「物質化」したものらしい。
それにしても、神様が「自分の横顔」の指輪を
わざわざ出すものかねぇ、
といった、押しの強さに対しての反撥もあった。
たった2度、「神の化身」を目撃して、
つれないそぶりをされただけで、
もう私たち好奇心のみ野郎は、グレ始めていたのだ。
だが、何千人もの信者の群れは、
1カ月も2カ月も、
さらには半年も1年も声をかけられなくても、
うれしそうにダルシャンに出てきて、
行列をつくって炎天下の地面に腰をおろして待っている。
その人たちは、
そうやってサイババを崇め続けていることそのものを、
互いのはげみにして信仰を持ちこたえているのかもしれない。
「101回目のプロポーズ」の武田鉄矢を見ている恋する男なら、
99回目、100回目のひじ鉄に耐えられるということなのか。
それにしても、わざわざいい席に呼び入れておいて、
テレビカメラも回させておいて、
近づくことを許さないとは、
まったく神様にしちゃずいぶん
ケツの穴が小さいんじゃないのかね。
煙草のことで考えたことを、また私は考え始めていた。
もう最初の時みたいに、緊張もしてないし、
次のダルシャンでは、
こっちから強い目でサイババを見てやろう。
そのくらいの度胸はついていた。
人間のカタチをした神だっていうから、
恐れてもいたが、イ
ンドの小柄な超能力者だと思えば、怖くはない。
ほんとうにホンモノなら、
ユトリで私たちを招き入れて、目の前で奇蹟を見せればいい。
何でもお見通しの神様だったら、
日本から来たこの馬鹿どもの胸のうちくらいは
スケスケに見えているはずだ。
奇蹟の逆転サヨナラ満塁
ホームランで驚かせてくれるに違いない。
そしたら、オレなんか、
もう大改心して崇めたてまつって、
ババ様のために命だって投げ出しちゃうくらい
軽率な男なんだぞ!
自慢じゃないけど。まいったか、神様野郎。カモン!
実は、いま、原稿を書いてる時点では、
こんなふうに整理して自分の心理を誇張してますが、
インドの奥地にいる時の私は、もう少少混乱していたのです。
心の奥では、ま、こんな感じだったのだが、
表面的には、やっぱり多少イイコを続けてみて、
なんか好かれたいという考えも、捨てきれてはいなかった。
ただ、その日の夕方のダルシャンについては、
私には、サイババのシナリオが読めるような気がしていた。
これは、ババ様が「人間」であると仮定しての予想だが。
声をかけて、見つめて、
いない時に寄ってきて……と展開してきたら、
次は「まったくの無視」がくる順序立てになる。
女が男と恋の駆け引きをするなら、
そういうシナリオを描くに違いない。
ここで、強い情熱を引き出すための「休符」が必要なのだ。
私たちの座る位置の近くには、
インド人の子供たちの集団があった。
サイババは子供が大好きだから、
きっとこっちに来るとMさんが私に耳打ちする。
いや、来ない。来るとしたら、
一気にインタビュールームに招き入れるという
大穴的展開しか考えられない。
しかし、それはないだろう。まったくの無視。
うれしいわけじゃないけど、賭けてもいいや。
彼が人間なら、そうする。
(つづく)
_____イイコをやめた馬鹿_____
赤城山の苦労に比べれば、こんなこと、
なんてことないさ。
残念ながら、図星だった。
小学生くらいの子供たち200人ほどを含めて、
私たちのいる周辺は、500人ほどブロックごと無視された。
見もしなければ、近づきもしない。
まるで、私たちのいるブロック全体が、
そこに存在していないかのような歩き方で、
変則的なコースを描いてサイババは帰っていった。
読めた。やっぱりだ。
こう書いてくると、読者は、
私のことを自意識過剰な日本人ではないかと
疑い始めているのではないかと心配になる。
神の化身で、世界中に100万とも
200万とも言われる信者を持つサイババが、
1千人2千人も集まっている儀式のなかで、
私たちのことをそんなに意識するはずがないではないか、と。
そう思われても仕方がないが、現場では、
このダルシャンの主役はもちろんババ様ではあるのだが、
「ニッポンのテレビ」が取材に入っているということが、
かなり大きな話題でもあったのである。
2度目のダルシャンからは、
特にサイババの歩きに合わせて
カメラが移動してもよいということになっていたし、
VIP席に陣取って、
でかいブームマイクまで立てている日本人の集団も、
目立たざるを得なかった。
サイババとしては、この2日間は、
ライブのパフォーマンスであるだけではない、
テレビ用の表現を意識してダルシャンを仕切っていたことは、
確かな事実なのだ。
イトイを、ではない。ニッポンのテレビをどう扱うか。
これをまったく考えずに、
サイババがダルシャンに現れたというふうには、
逆に考えにくいではないか。
さて、そして、シナリオは最終章だ。
こうなったら、最後の早朝の
ダルシャン一発に賭けるしかない。
確率は、私のカンでは5割。
明日、私たちがプッタパルティを発つことは、
サイババたちは知っている。
しかし、朝と夕と2度のダルシャンに出てから帰るのか、
それとも朝のみの参加で帰るのかはわからないはずだ。
とにかく、最後の最後に、奇蹟的に会えるというドラマが、
いちばん効果がありそうだ。
しかし、私たちは午後にはここを
出発すると決めているのだから、
確率はふたつにひとつ。私は、そういう読みをしていた。
しかし、その読みは当たったのか当たらなかったのか。
私たちにとっての最後の最後という機会は、
ドラマチックにではなく、
「つづく」のようなかたちで決着をみた。
|
しかし、私たちの普段の生活のなかに、インド服はない。
文化が異なるのだ。ハローとあいさつをする文化圏の人と、
こんにちはとおじぎをする文化圏の人が出会う時、
それを一方に合わせる必要はないはずだ。
3回はインドの服で相手に合わせてイイコにしてきた私だが、
最後くらいは、こちらの礼儀を通させてもらおう。
スーツにネクタイをするという姿は、
私たち日本の社会では相手に
失礼のないマナーと考えられております。
ついでに、酒でカンパイをする習わしもあるけれど、
それは必要ないからしないけどね。
オレは、スーツにネクタイでダルシャンに出て、
オレの礼儀をつくして帰るよ。
こっちで買った白いインド服は、
日本に帰ってパジャマにでも使うさ。
そんな意思表示をしているつもりで、私は地面に座った。
私の目には、小柄な老いた超能力者くらいにしか
見えなくなってしまった「神の化身」は、
この朝も、いつものように群衆の前を歩き、
手紙を受け取りながら、こちらに向かって歩いて来た。
明らかに信者たちと違う服装の私の目をじっとのぞきこみ、
何も言わずに私の前を過ぎ、すぐに立ち止まった。
そして、私たちの列のすぐ隣の、私によく見える場所で、
見せつけるように派手に聖灰を出して見せた。
その瞬間をよく見ようと、私は目を凝らして見たけれど、
その視線は神様を見るものではなかった。
どうだ、と言わんばかりに、
もう一度サイババはちょっとこっちを振り向いて、去った。
声をかけられて、
インタビュールームに招かれるということは、
この時点で可能性がなくなった。
さぞかしガッカリしているだろうと、
日本人信者のMさんが、
「どうも噂ではサイババは、
夕方のダルシャンで日本のテレビクルーを
呼ぶつもりだったみたいですね」とか言ってくれたけれど、
その噂がどういう根拠のものであれ、
私は夕方まで残る気にはなれなかった。
もう、私はサイババに片思いしていなかったのだ。
恋の駆け引きを、たった2日やっただけで、
惚れ続ける気がなくなってしまったらしい。
指輪でもネックレスでも、
わざわざインタビュールームに
呼び入れた人間にだけ渡さないで、
神様の気まぐれとして、
聖灰の後でヒョイと出したっていいのではないか。
その聖灰も、ダルシャンの時に2〜3回と、
妙に規則的に出すのではなく、パジャンの時でも、
その後でも、
惜しみなく「物質化」してもいいのではないか。
そんな、当たり前の疑問にサイババは、
どう答えるのだろうか。
身分の高い人には、ゴーカな指輪が「物質化」され、
一般のちょいと運のいい信者には、
シンプルな(世俗的には価値の低そうな)
大量生産品にも似た指輪が「物質化」される。
そんなことが、信者でない馬鹿どもの目には、
とても「魅力的でなく」映るのだ。
もう一度テレビカメラを連れてインドにやって来たら、
こんどはインタビュールームに入れるかもしれない。
いや、さらにもう一度プッタパルティまで
来る意志があるとわかられてしまったら、
また会えないことになるかもしれない。
そんな駆け引きをする気は、もうない。
それに、ご近所の人気者になるためにあんなに欲しかった、
あの指輪も、実際にあれだけ単独で見せても
「何、これ?」という程度のものだ。
神様が、何もない空中から取り出したという
証言があって初めて、
スゴイものなのだ。
私は、もう、仮に目の前でババ様が空中から
指輪を取り出してくれたとしても、
驚きを持って証言することはできそうもない。
鑑定に出したら紛失するという伝説も聞いたけれど、
平気で鑑定に出して、世俗的な価値以上の要素が
少しでもあるだろうかと調べるくらいが関の山だ。
信者になって帰ってきたら、どうする?
と、出発前には考えてもいたが、
そんな心配は杞憂に終わった。
きわめて「霊性」の低い、
好奇心しかないようなテレビ屋たちは、
しかし、ほんとうに
ある種の覚悟をしてインドに向かったのだ。
「信じさせてもらえなかった」この馬鹿どもが、
信じられなかったからといって、
不幸になるようなことがあったとしても、
それは神のお仕置きなんかではないはずだ。
たぶん、悪魔の仕業だ。
私や、テレビのクルーは、黙りがちにバスに乗り込み、
聖地プッタパルティを後にした。
赤城山敗北の後と、姿は似ていたが、
あの時ほどのサミシサはなかった。
たった2日の恋だったもんなぁ。
_____さよなら、生き神様。_____
神様っていったい、なぁに?
この原稿をほぼ書き終わったころ、
音楽評論家の湯川れい子さんから手紙をいただいた。
私信ではあるので、詳しくは書かないが、
いちばんのテーマは、サイイバが最初の日に
私をにらみつけて言った謎の英語についてだった。
英語に堪能で、ご自身もサイババのインタビューに
招かれた経験を持つ湯川さんの耳には、
あの一言は「アイル・ミート・ユー、カム!」と
聞こえたというのだ。
彼女は私たちのテレビを観ていて、
地団駄を踏んでいたという。
さらに、ババは、インタビューに呼ぶときには
「カム!」の一声だけをかける場合が多いという。
終わってしまったことだが残念であると、
湯川さんは教えてくれた。
こういうのを見ると ちょっと驚いちゃうよなぁというのが、 アシュラムの外に数多く並ぶ 「サイババ・グッズ」の店。 ま、お土産屋です。 ババ様のプロマイドからキーホルダー、 バッジなどなど。 「サイババTシャツ」が欲しかったが、 なかった。 |
サイババの圧倒的な存在感に 、
畏怖を感じているような
状態で、彼に招かれ、彼の近くに立つことになったら、
それだけでもう私はサイババを全面的に信じる心の準備を
してしまっただろう。
そして「イトイ」と名前で呼びかけられ、
「おまえが心の清い人間だということは、
私にはわかっていた」
なんて言われたら、もう頼まれもしないのに
額を床にこすりつけて土下座しちゃう。
「おまえの探している宝は、見えないが大きなものだ」
なんて追い打ちをかけられたら、
勝手に埋蔵金のことを考えて驚いてしまうだろう。
さらに「しかし、宝はここにあり、
おまえの心のなかにある。
それが、おまえにはわかっているね」
などとおだてられたら、
ねずみ花火のように部屋中を火ィ吹いて走り回っちゃう
かもしれない。これだけでババ様は許しちゃくれない。
「しかし、見えない宝ばかりでなく、おまえがその心を
いつも強く持っていられるように、
見える宝をあげよう」と、
死者にムチ打つような歓ばせ方をするのだ。
そして、目の前で指輪を
「物質化」して見せてくれるはずだ。
「おまえには、この色の石が似合う」
なんてお見立てまでしてくれて、
「大切なのは、ラブだ」とシメてくれる。
こんなことをされて、サイイバの信者にならないと
自信を持って言える人間がいるだろうか。
私は、正直言って、自信がある。
必ず、信者になってしまうほうの自信だ。
あの時の「カム!」で、ついて行っていたら、
絶対にそうなっていたのである。
ババ様のほうも、考えこんじゃってたに違いない。
「カム!」と言って招いたのに、やつらは来なかった。
何を考えているんだろう、わからんやつらだ。
もう少し、とにかく様子を見てみよう。
そんなふうだったのだと、私には思える。
「あら、私の魅力にまいっちゃわない男なのかしら?」
といったところであろう。
しかし、とにもかくにも、指輪を持たずに
帰ってきたのである。これで、ほんとうによかったと、
負け惜しみでなく私は思っているのだ。
日本に帰ってから、あらためてサイババの説教集ともいえる
本を何冊も読みかえした。彼の伝説と、
彼を「研究」した本と、
あわせてほとんどサイババ関係の日本語で書かれた本は
読んだが、どうしても私には、彼が「神の化身」だとは
思えなかった。
私にはピンとこないが、読む人が読めば
立派なことを
言っているのだろう
といった説教が、
どんなに素晴らしくたって、
それは「立派な人」とか
「たいした坊さん」
ということにしかならない。
学校や病院を建てたことは、
政治家として
評価されるかもしれないが、
神の御業であるとは言えない。
空中から指輪を出すという奇蹟は、どうやらインドには
伝統的で宗教的なマジックとして、何人もの人間が
やっていたことらしい。もっともそのトリックはたいていは
暴かれてしまっているらしいが。
では、サイババが「神の化身」を自称してもよい根拠
というのは、どこにあるのだろうか。
突き詰めて考えていくと、やっぱり
「奇蹟」を根拠にするしかなくなってしまうのである。
サイババの奇蹟の数々は
、ほとんどが「また聞き」のかたちで
流布している。前号(雑誌には
二度にわけて連載されたので、
ここでの前回は、「ほぼ日」とは異なる。
「ほぼ日」では、このエピソードは、
連載の第2回目にあたる)でちょっと触れた
「オーストラリアへ
瞬間空間移動させられたテレビスタッフ」
の話などが、その典型的な例だ。
インタビュールームという限定された空間で行われる
「指輪の物質化」以外に、正確な証言を取れる奇蹟は、
現在ではもうほとんど見せられていない。
私たちのスタッフが、出発を1日遅らせて、
ブッタパルティの名士の家の結婚式でサイババが、
白昼、ネックレスを「物質化」する場面を
8ミリビデオで撮影してきたが、
これなどはどうしても「袖口から飛び出るように」
見えてしまうので、サイババ弁護人としては資料として
提出しにくいものであるに違いない。
それでも、信じている人間にとっては
「奇蹟の重要な記録」にしか見えないはずだ。
私だって、もし「ゴー!」と
「カム!」の合図を取り違えずに、
彼に直接会えていたら、感動とともにそのビデオを見て、
「これだけはホンモノだ」と、宣伝していたに
決まっているのである。
それは「不思議、大好き。」の好奇心とはまったく正反対の
ココロが成せる業であって、だからこそ、私はサイババに
会えなくてよかったと思っているのだ。
現在「西洋の科学の限界」を語ることは、
「愛が大切」と語ることと同じように、
人々の同意や支持を得やすい。
これに、科学雑誌的な次元の「量子力学の最新理論」や
「ニューサイエンスの諸理論」をコラージュしてやれば
「何だかよくわからないけれど
十分に科学的でもある新しい夢」
を見ることができる。
何せ、「いままでの科学は、行き詰まっていて、
さんざん害毒を垂れ流している」
と考えることが前提にさえなっているのだから、
少しくらい理論に欠陥があったとしても
「東洋的な伝統に裏打ちされた新しい考え」
のほうがましだと思われやすいのだ。
そこまでは、私も同病の人間であることを認めよう。
しかし、「科学の限界」を語る者が、
「不思議だがほんとうだ」という立場で
「神秘」や「超」のつく能力について報告する時には、
ある一定のルールを持たなければならないだろう。
それは、とても簡単な、子供でも守れるルールだ。
たったひとつ、「嘘をつかない」ということだけだ。
オカルトの世界は、賭博に似たところがあって、
賭け金が積もり重なっていくほど、
後に引けなくなるものだ。
早い話が、日本からインドの奥地まで
2日もかけて行ったら、
その労力や経費のモトを取らないわけにはいかない
という気持ちになってくるということだ。
これに、大酒飲みが禁酒するとか、
ヘビースモーカーが禁煙するとか、
夜型の生活になれた人間が早起きするなどという
「投資」が追加されていったら、
「あれはインチキでした」と言って
サラッと帰ってくることが困難になってしまう。
当然のことだ。
しかも、この「賭場」では、誰それが大勝ちしただの、
昔ある人がこんな大儲けをしただのに類する「物質化」やら
「瞬間移動」「予言」などの会話が
四六時中交わされているのだ。
賭博に勝って帰らないことには、大損してしまう。
いま私たちが毎日暮らしている「近代社会」は、
勝つべき人が勝ち、負けるべき人が負ける
「本命ガチガチ」の世界である。
奇蹟もなく、幸運もなく、
無感動に時間が流れていくと感じる人間がたくさんいても、
それはそれで当たり前ではあるだろう。
かつて農業圏と工業圏の境界で
起こっていた「公害」問題が、
現在では「工業圏」と「情報圏」の境界で
「精神的公害」の問題として
噴出していると捉える考えがある。
近代は、いま、新しい「疲労」を生み出している。
その、近代への疲れが、主婦に泥付き大根を買わせたり、
女子高生を占いの館に向かわせたりしているのであろう。
サイババの修練場で見た多くの西洋人たちは、
例外なく「優しそうで、ひ弱そう」な表情をしていた。
あの白人たちにとって、サイババの黒く怖い顔は、
泥付き大根のように、信じるに足るものとして
映っているに違いない。
近代への疲労感、というキーワードで解くと、
(私も持っている)恐竜の卵の化石も、
(私は持っていない)
ブルセラショップのしみ付きパンティも、
(私は持っていない)サイババの指輪も、
同じものであることがわかる。
とすれば、サイババの信者は、
これからもますます増えていくに違いない。
テクノストレスは、さらに加速的に拡大する病気であると、
考えられるからだ。
しかし、信者が増殖していった時、
現在のサイババの世界は、
持ちこたえることができるのだろうか。
マイケル・ジャクソンのように小動物を愛し、
お菓子のコトブキの店鋪のような少女趣味の建物に住み、
愛を語り、指輪を出す、という
「プリミティブな善意のデザイン」に疑問を抱く巡礼が
増えてくると思えるからだ。
現に、近代への疲労度が低いとも言えない私は、
サイババのデザインポリシーに、
「いい年をした大人にしては、
子供っぽすぎる善意の表現」
を感じて、
逆にその裏に隠しごとを見るようになってしまった。
あれで、サイババがもう少し
「一般的な人間」のような姿をしていたら、
それにもっと早く気づいてしまったかもしれない。
サイババがイメージし、デザインした「神の国」は、
インドの奥地では十分に
通じるものだったのかもしれないが、
もう古くて半端なものになってしまっていると、私は思う。
しかし、私は、自分に問いかけてみた。
自分が「神の化身」だったら、私という神の住む場所を、
どんなふうにデザインするだろうか。これは難しい。
単純に考えて、神が自分の家や、
自分の服をあれこれ考えるはずがないと思えるからだ。
ついでに、もっと考えて、自分が「神の化身」だったら、
人々を招き寄せて指輪や「名刺や切手」を
空中から取り出すだろうか。
もっと他にすることがありそうだなぁ。
さぁ、オレが神なら何をする?
これは、まったく困った問いかけになった。
10年ほど前、知り合いのパートタイムの香具師に、
大黒様の像をプレゼントされたことがある。この像は
「どんな願いごとでも、
ひとつだけ叶えてくれる」のだという。
ひとつだけ願いごとをして、それが叶ったら次の人に渡す。
そうやって、次々にさまざまな願いを成就させて、
私のところにめぐってきたというわけだ。
それはありがたいと、受け取ったものの、
何を願ったらよいのかわからない。
そのころは、親父がガンで入院していたので、
それを治してくれというのが、
いちばん当たり障りがないかとも思った。
しかし、ガンが実際に治ったとしても、
そこの奇蹟のすきまを埋めるように
母親が交通事故に遭うかもしれないではないか。
運命にひねりを加えたら、
きっとどこかに別のひずみがきたり、
ひびが入ったりする。大金が欲しいと願ったら、
家族に不幸があって保険金が入ったなんてことがあっても、
やっぱり願いは叶ったことになるのだ。
そんなふうに考えると、何ひとつ願えなくなる。
結局、私は、早く次の人にその大黒像を渡したくて
「今日一日、私の知ってる人たちが
無事で生きられますように」
という、願わなくても結果は同じというような
安全パイを切って、
そそくさと「奇蹟」を済ませてしまった。
神だって、ムリはできないはずだ。
特定の人間に「おお、よしよし」とばかりに
願いごとを叶えてやったりしたら、
別の人間にきっとしわよせがきて不幸になる。
誰も彼も、生きものみんなに都合のいいことなんて、
あるはずがない。極端なことを言えば、
地球上から結核がなくなったら、結核菌が死に絶える。
そりゃ結構なことではないかと、私も思うけれど、
結核菌だって神がつくったのなら、
殺してよろこぶのは人間の身勝手という理屈にもなる。
そんなふうに突き詰めていくと、
私は神になっても何もしないことになる。
何もしない。
ユダヤ人のためにも役に立たず、
イスラム教徒の力にもならず、
ロシアの政局にも介入せず、
どこかの民族が大虐殺されていても何もしない。
何かしても、別の何かが起こってしまうのだから、
何をしても迷惑だし、
何もしなくてもやっぱり頼りにならないと思われてしまう。
ほんとうに神が、まったく全能であるならば、
神は役立たずとののしられつつ、
何もせずに消滅させられてしまう他はないのだと思う。
これ、論理的に間違っているかなぁ。
だから、いま生きていない神は、
触れることも見ることもできない「昔いたらしい」神は、
みんな本物である。何もできないということで、
結果的に何もしないと同じ状態にあるのだから。
逆に言えば、「生きて動く神」は、
ただじっとして酸素を吸っているだけだとしても、
宇宙全体のなかで局地的に影響を与えてしまうから、
神の資格を持てない。
その意味で、サイババは、どんなに偉い人か、
どんなに優れた超能力者か、
どんなに周到なペテン師かは知らないが、
余計なことをしすぎているから、
神ではないということだけは言えそうだ。
特に、自ら「神の化身」と名乗ることで
人々に与える影響は大きすぎる。
これが、私のインドから帰ってから考えたことだ。
サイババのさまざまな「奇蹟」が、
トリックか否かなんてことは、どうでもいいことだ。
ひまな時に、全生物にとは言わないまでも、
せめて全人類に、自分の全能の証拠として、
同時に指輪をバラまいてみてはどうだろう。
そんなことをご提案して、サイババ様のことは、
もう忘れることにする。
私は、信仰を持つ人や、
信仰そのものへの尊敬は持っているつもりの人間だ。
人が何を信じて生きるかは、
誰にも邪魔されるものではないはずだ。
信仰を持っている人が、私にとってよい人であれば、
彼の信仰をますます大切なものだと思うし、
信じることの素晴らしさを、一緒になってよろこぶであろう。
それは、「あらゆる考えは、自由だ」という、
私自身の「信仰」に基づく考え方である。
挑発的な言い方になってしまうが
「姦淫の心を持って女を見ること」さえも、
自由であるはずだというのが、私の「信仰」ではある。
「姦淫すること」が自由なのではない。
「姦淫の心を持つこと」が自由なのだ。
「善でないとされる心を持つこと」で、
その人は何か目に見えない利益を得るかもしれないし、
不都合な目に遭うかもしれない。
しかし、それは、「心」がにじみ出てしまった時のことだ。
いやらしい笑い顔になってしまったら、
「姦淫の心」は、「物質化」(笑)しているということになる。
そこで平手打ちを受けても、
私の知ったことではない。
しかし、あくまでも「心」にとどまっているかぎり、
「想像力」の範囲にあるかぎり、
それをどう膨らませようが歪ませようが、
彼の自由であり、誰にもさまたげる権利はないはずだ。
そうでなければ、あらゆる作家は逮捕されてもいことになる。
ま、作家の場合は、表現として
「物質化」(笑)しているわけだから、
その時点で別の社会的な
制約を受ける可能性はあるんだけどね。
ともかく、信じることは
信じないことと同じように自由だという私の立場は、
この私の「信仰」の自由を守るために、
あらためて言うことにする。
人々に、たくさんの不自由をプレゼントしてくれる
「生き神様」、さようなら。
私は、何もしてくれない神様を、うらんだり、
馬鹿にしたりしながら、
その神様のおつくりになった世界で、
よろこんで生きて、死にます。
(おわり)
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