「吉本隆明まかないめし」の一気読み。





第1回は<目の手術のことなどなど>
4
吉本 白内障のほうは痛くないんですよ。
この間のときは、白内障じゃなくてね、何ていうんだろう、
浮腫っていうのかな。
あの、こう血管があれして、破れてっていう、浮腫。
糸井 フシュですね。
吉本 ええ、浮腫。それのときは何か、
ちょっと痛いですよとか言われてね、
一、二度やっぱり、アッていうくらいのね。
糸井 歯医者みたいな?
吉本 そのくらい。歯医者ほどじゃないですね。
まあまあ、ちょっとだけ痛いなっていうのがね。
糸井 目の手術って、あれでしょう。
目をつぶれないじゃないですか、目の手術そのものって。
吉本 ええ。
糸井 僕、一度だけ、バクリュウシュじゃなくて、
何だっけな。ホシ何とかっていうやつになって。
小さいニキビの膿んでないようなやつが
まぶたにできるのがあって、
コリコリするんで医者に行ったら、
「あっ、とっちゃえばいいんですよ」って、
簡単だったですけど、目を見開いたままでしょ。
血で真っ赤になるんですよ、視界が。
吉本 ああ、そうですか。なるほどね。
糸井 あれはやだった。
吉本 やっぱり大変だなあ。
糸井 ええ。そういうことないんですか。
吉本隆明(gif アニメ)
吉本 あのね、
要するに部分麻酔して、
そいで、ここんとこに
目だけあいた、 何か布みたいの
かぶせちゃうでしょ。
そうしといて目は、 こういう機械っていうか、
装置があって、 そいであけたまんまに
なっちゃってるんですね。
始まって、それで
痛いですよなんて、
一、二回確かに痛かったんですけど。
痛いっていうか、まあまあそうだな・・・。
そしたらすぐわかんなくなっちゃった。
暗くなっちゃったんだ、ですけどね。
糸井 全身麻酔?
吉本 えっ、部分麻酔ですね。
糸井 部分麻酔なんだけど、暗くなっちゃうんですか。
吉本 暗くなっちゃう。
それで何が何だかわかんないうちに終わって。
一時間何分とか言ってましたね。
糸井 あとは養生するために入院してるんですか。
吉本 うーん。そこはよくわかんないんだけどね。
決まりですとか言って、十日間で。
結局やっぱりせっかく入院したんだから、
多少もうかんないと困るんじゃないですか。
糸井 あー、そうかそうか。もうかるんならね。
吉本 その日だけ、手術したほうを、
こういうふうに隠しておけって言うんですね。
そいで、もう翌日はとっちゃって
糸井 じゃあ、もう、ほんとは生活できちゃう。
吉本 ええ。そいで若かったらきっとそいで、
目薬やなんか、みんなうちでやるからっつって、
三つぐらい目薬さすんですけどね。
それ持ってあれすれば、
もう帰ってこれるんじゃないですかね。
糸井 そんな感じなんですか。
吉本 ええ。まあ年くってるから多少、
二、三日は寝てるほうがいいのかもしれないですけど、
寝たようなほうがいいのかもしれないですけどね。
だから、翌日とっちゃって。
何ていうんだ、ただ、要するに、
ガンッと何かにぶつけたり、
転んでぶつけたりとかっていうことだけ
避ければいいんで。
それだけで、もう簡単って言えば簡単ですね。
糸井 もう、あした入院だっていう日に対談だとか、
インタビューだとかなんか、
やめになるかなとか思ったんだけど。
吉本 いやあ、そんな。まあ、あした入院するでしょ。
で、多分、どのくらいか、
手術は水曜日ぐらいにやるんじゃないですか。
糸井 あっ、まず入院しといて。
吉本 ええ、二、三日で。僕なんかはやかましいほうで。
つまり、まず、何ていうんだろう、
血糖値を正常にしろっていうのがあるんですよね。
ほんとはもっと今から正常なら文句ないんでしょうけど、
今は、うちでだから、随分インチキしてるでしょう。
インチキしてる、ですから。
糸井 インチキ闘病のうわさは聞いてます。(笑)
吉本 だから、入って二、三日かけて
大体正常なところにしちゃうんですね。
糸井 今、家族にバレてないですか、インチキ。
吉本 あのー、バレてない部分……、
サワちゃんにはバレてるんで(笑)、ですけどね。
糸井 僕は、イシモリさんから聞いた、
溺れたときに服のポケットから、
カツ丼の領収書が出てきたって話。(笑)
吉本 いやあ、あのー、(笑)そういうあれで、
少し病院に入って調節してっていう。
糸井 治る気はあるんだけども、まあ、
ちょろまかすぐらいはいいやって
自分で決めてるわけですかね。
その辺はどうなって?(笑)
吉本 そうですね。
わりにいいかげんっていやあいいかげんなんですけど、
結局食うことでしょ。だから、どう言うんだろうな。
究極的には我慢なんてできないでしょうね。
これはほかの何よりも辛いことだから、
食うのを制約されるっていうのは。
だから、いつでも多少づつインチキしてるわけですよね。
それから、ほんとうに時々は、どっか行って、
ばあっと好きなもん食っちゃってっていうね。
どうであろうと構わないっていう、
それを時々やるんですね。
糸井 (笑)
吉本 そうじゃないと、これだけはほんとにね、
絶えず……。医者の言うとおりしてたら、
もう絶えずあれですよ、ボクシングの、
試合前のボクシングの選手みたいな。
糸井 そうですね。
永遠に続く感じになっちゃいますよね。
吉本 そうなんです。
これがずーっと死ぬまで続くぞ
っていう感じになるんですね。
だから、そんなことはできやしないと思うから、
なれちゃえば、こう、インチキしますし、
ちゃんと専門でなれてるお医者さんは、
もうインチキっていうのは前提にしてる。
糸井 ファジーな。
吉本 だから、あんまりそのことで何か、
「ちょっと血糖値多いですね」ぐらい言ってとかね、
「あれっ、今月は多過ぎたから少しやっぱり
あれしたほうがいいですね」とかって、
そのくらいのこと言うだけ。
ところが、なれてない内科の先生っていうか、
内科の先生で若い先生だったらたまんないですからね。
糸井 厳しいこと言いますか。
吉本 厳しい。
それで、正常っていうのは
100ミリ以下とかってなってんですけどね。
100ミリ以下なんて、
要するに僕らみたいな者にそういうことを要求したって、
そんなことは無理であるっていうのが
ほんとうなんですけどね。
でも、そんなこと平気で言いますからね。
だから、はい、はいって聞いてる。
糸井 何か人間理解が違いますね。
吉本 人間理解が違うんですよ。
人間理解の問題で。
そいで、やかましいんですけどね。
そいで、専門じゃない人はまたやかましい。
眼科の先生はやっぱり正常値ってこと言って、
正常値ってなんですかとかって言うと、
100以下ですよとかなんとか言うんですよね。
糸井 つまり、悪い患者なんですね……。
吉本 そうなんですよね。
教科書にそう書いてあったんだと思いますけど、
ちゃんと専門の、糖尿の専門の医者は、
もう、僕が六十ぐらいになったときに、
140でいいですよとかって言ってますからね。
糸井 はあー、振り幅が大きいんですね、随分ね。
吉本 そうなんですね。そう言われましたね。
糸井 この間、僕、
医者の修業をしている学生さんのホームページ見てたら、
そいつなかなかおもしろいやつで、
修業中にいろんなおもしろい先生に会うんですよ。
で、その先生と実習のときの会話がありましてね。
こういう条件があると・・・
君たちね、四十歳がらみの、普段は非常に健康で、
酒も深酒はしない、たばこも吸わないある男性が、
急に心臓が苦しくなったと言って君のところに来たと、
君はどうするねっていう質問をするんですって。
そしたら、インターンたちは、
この検査をしてこの検査をして、
心臓だからどうだからこの検査をして、
もう四つも五つも並べるわけですね。
そしたら、全部不正解だと。
それは、ゆっくり寝なさいと言って、
急に何か深酒をしたような日があったかどうかを
聞いてみて、
あとはゆっくり休んで心配しないことですね
と言って帰すのが正解であると。

:これは、ぼくの記憶がかなり曖昧でした。
原文は、以下の通りです。

教授 :「なぁ、君らさぁ、
    もしも
    “年齢30歳の男性で、
    喫煙歴なし、普段は飲酒もほとんどなく、
    血圧も正常で、生来健康であったが、
    昨晩は少し飲み過ぎた”
    って人がさ、
    突然外来に来て胸痛を訴えたら
    何の検査をしてどんな処置をする?」

班員A:「心電図と胸部レントゲンを取って......」

私  :「どうせだから心エコーもやるとか」

班員B:「胃も見といた方が良いんじゃない?」

...........(以下、様々な検査方法が提案される)............

教授 :「はい、分かった、分かった。
     これがもしアメリカの臨床マニュアルだと、
     正解はまず第一に“お説教をする”」

一同 :「へ?」

教授 :「“あんた、何でそんなになるまで飲んだの?
     駄目じゃない”ってさ」

一同 :「はぁ.....」

教授 :「で、さらに何か治療するとしても、
     マーロックス(←ただの胃薬)しか出さない」

班員C:「それでいいんでしょうか。
     なんかすごく不思議なんですけど」

教授 :「でもな、30歳の喫煙歴のない健康な男性が
     胸痛を訴えた場合、狭心症なんかの心疾患である確率って
     どれくらいか計算した上で考えると、
     確かにこれが妥当なんだ。
     日本の臨床現場に足りないのは
     こういうEBM
     (“EvidenceBasedMedicine”:
     「証拠に基づいた医療」の意味)の概念なんだよね。
     だから、しなくてもいい無駄な検査をして、
     そのうえ診断を誤っちまう。
     診断が正確だったとしても、
     効かない薬を投与するなんてことになっちまって
     何にも不思議じゃないわけだ。
     そんなわけで、君らには今週、
     こういう英語の論文を読んでもらって、
     木曜日に発表してもらうということになっている。
     さ、しっかりEBMについて勉強して来るんだぞ」

私  :「は、はひぃ、がんばりますぅ.....」
(Medic須田氏提供)

 

吉本 正解なの。あー、それは。
糸井 アメリカの例なんですけど、その話は。
そこまでアメリカは来てる。
吉本 あー、なるほどね。
それのがいい、そこまではいいですね。
糸井 納得しますよね。
吉本 納得する。
糸井 だから、条件的にその患者が、
急に何か病変が起こる可能性っていうのはほとんどない、
とすれば、ゆっくり寝ることです。
吉本 あー、なるほどね。ふーん。
そうなんですね。そうでしょうね。
そいでね、あの、やっぱ一番やかましいのはだれか
っていうと、何かっていうと看護婦さんなんですよ。
その次が女医さんなんですよ。
そいで、ちゃんとやった権威ある先生はさ、
眼もね、そんなことは言わねえ。
言わないんですよ、やかましく言わない。
かえって急に血糖下げたら悪いことありますねとか、
眼に悪いですからねなんて言うんだけどさ。
で、女医さんはもうきちっとしてあれするね。
看護婦さんはもっとすごい。
ほんとに教科書どおりで要求しますね。
これにはもう参っちゃって。
だから、はい、わかりましたとか言いながらも
結構ルーズに、こっちで自分でルールにしてるっていう。
そうやらないとちょっとだめですね。
あの、どうしてっかわかんないけどそうですね、
看護婦さんが一番やかましい。
それから、その次が女医さんでね。
偉い先生はもうあんまり言わないっていう。
糸井 役割分担みたいになってんのかもしれないですね。
吉本 なってんのかもしれないですね。(笑)
糸井 よく漫画に出てくる
野球部のマネージャーの女の子が、
ユニホーム早く脱いで! とか、
洗濯してやるんだからって。ああいう役ですね。
吉本 そうなんでしょうね。
やっぱり140でいいって言った先生、
この人はがんで亡くなっちゃって、
今の先生になっちゃったんですけどね。
この先生は140ぐらいになればいいですよ
とかって言うのと、
それからやっぱり今の
糸井 さんの話じゃないけど、
そんなね、大体成人病っていうか老人病っていうか、
要するに、心臓や高血圧とかね、
そういうやつはね、血糖値が何とかとか、
心臓もそうなんだけど、そういうのは、
大体老人病、成人病とかって言われてるものはどれもね、
とにかく70%は食い物だけで治るんだってね。
食い物のうまいあれの仕方っていうのをね。
まあ、カロリーは若干抑え気味でっていうんで。
まあ、栄養はまんべんなくっていうようにやればね、
食事のあれだけで
大体70%はよくなっちゃうんですよって。
糸井 70%ってすごいですね。
吉本 高血圧やなんかもそうなんだって。
やっぱ食い物でそのくらいできるんですよって。
だから、あとの30%が薬とか、
そのあれに頼るってだけで、
結構そのくらいで済んじゃうんですよとかって、
その人はそういうふうに言ってましたね。
糸井 ご本人はもう亡くなっちゃってるんですか。
吉本 えっ?
糸井 その方は亡くなってるんですか。
吉本 うん、がんで。
えっとね、助教授だったんですけどもね。
で、ものすごい勉強家で、
それでぶっきらぼうな人なんだけどね。
やっぱいい。
ああ、この人はいいなあっていう先生だったんですけどね。
がんで亡くなっちゃったですね。
で、今かかってる先生もがんでね、
今入院してるんですよ。
糸井 何ですか、それは。
吉本 何か、おれのたたりじゃねえかと思って、
ほんとに。
糸井 (笑)そういうのがあって
人間理解が深まってるのかもしれない。
吉本 あと、何か、
今度はつい数日か一週間かそのくらい前に入院して。
前に一度初期に見つけてあれしたんですけどね。
とっちゃって。
それから随分一生懸命またやってましたけどね。
患者、僕らもそうだけど、患者相手に熱心な先生で
あれしてましたけど。再発ですね。だから自分でも……。
糸井 医者だからわかってますよね。
吉本 わかってる。自分でも。
今度はいろいろ、
吉本 さんはこうだとか、
吉本 は、要するにうるせえから
何とかっていう先生のところにかかるようにしろとかね。
もう一人お年寄りで、うるせえのがいたらしいけど、
それはだれにとかって、
そういうふうにちゃんと言ってったんだって。
糸井 申し渡しをして。
吉本 うん、申し渡しを奥さんにね。
それで、自分はもう、胃を全部ちょん切って、
腸もちょん切って、要するに腸と、
ここのあれと、
食道とを直接つなげるあれをするんだって。
まあ、一応帰ってくるでしょうけどね。
まあ、隠退してしまったらどうでしょうかね。
それで間に合うのか。
一時は間に合うでしょうけどね。
それで、あとはわからないですね、再発ですから。
自分が、その先生は
丸山ワクチンのところの責任者をやってて、
だから一度手術してからはきっと、
あと丸山ワクチンでやってたんじゃないですかね。
再発、隠退休養ということになったら、どうでしょうかね、
今度はきっと退院したらそうなのかもしれないですね。
糸井 やっぱりお年を召していらっしゃいますか。
吉本 ええ、もう定年退職はしたんですよ。
それで、客員教授ってことでやってて。
それで、丸山ワクチンっていうのは
日本医大でもやらない人がいますからね。
こんなのは効かねえとか言う人がいますから。
やっぱり効くっていうか、
有効だと思ってる人が責任者にならなきゃ
しようがないでしょうね。
(第2回につづく)

ところで、
吉本さんの健康状態について、
さまざまなウワサが飛び回っている。
再起不能の寝たきり説から、驚異的に元気説まで。
どっちも、そんなこたぁないってことは、
このページを読んだ方々がおわかりの通り。
実際は、短文や、語り中心の仕事を、コツコツとって感じ。
この対談のあとの手術で、
だいぶん明るく見えるようになったということで、
表情もさらに明るくなっています。
近著は、「父の像」、「宗教論争」、
「アフリカ的段階について=史観の拡張」などです。


第2回は<からだを治すということなど>です。
糸井 鶴見(俊輔)さんとの対談は、
もう終わってますよね。
吉本 終わって……。
糸井 やっぱり病気の話ししたんですか。
吉本 とからはそうですけどね。
初めっから、お正月に病気の話、
しけた話っていうのも嫌だなって思うっていうか、
何かそれを避けたい避けたいと思って。
お互いに?(笑)
吉本 お互いに避けようと思って。
ま、多少いいんじゃないでしょうかね。
まあまあ、六、七割方で、
まあ、これでいいじゃないのって。
お正月だって言ってることが初めにありまして、
それからあとはもう、病気と体の。
糸井さんからもらった、借りた あの話も出ましたよ。
糸井さんは映像でもって
えらく感心して見てましたよって言って。
僕は言葉であれで、
何か「学問は重労働だ」って言ってたのね。
僕は感心したって、それは感心してたんだって、ね。
普通学問は難しいこと、偉いっていうふうなこと
言うんだけど、重労働だって言ったのは
初めて聞いたって、だから感心しましたってこと。

それからあとは、鶴見俊輔は、
ちょうどおやじが病気んとき、
「おれはちょうどアメリカかどっかへ行ってて、
留守してあれして、できなかったんですよ」とか言って、
あはははって笑って。
僕はあの笑ったのが、
あはははってのが感心したって言って。

糸井 あれはちょっと、感心しますよね、うん。
吉本 その二つを僕は、言葉のあれで言うと、
その二つを感心したっていう話をしましたけどね。
糸井さんが映像のあれで映像を言ってました
っていう話が出てきて。
糸井 僕は、一つは女の人の強さにやぱり感心して。
吉本 すごいですね。
糸井 何ていうんだろう。
ボランティアで手伝ってくれる人に、
「あんた、それはだめ」みたいな。
あれができるようになんないと、男もだめだなって。
吉本 そうなんですね。そうだと思いますね。
それもつくづく感じますけど。
糸井 あっ、思いました?
吉本 感じますけど、しかし、
僕はちょっと逆になっちゃいますね。
できるだけ、もう。
糸井 さわらないですよね。
吉本 そそそ、そうなっちゃうの。
だから、僕は、すごくおもしろいなあと思いましたね。
たしかに、そこんとこは。
だけどね、そう言ったらあの人が言ってましたけどね、
ほんとは自分のほうからじゃないんだって。
その、あれを見た人……。
車いすの状態になったっていうのを
何かで聞いたお医者さん、帝京大のお医者さんで、
それが逆にっていうか、電話かかってきたんだって。
そして、あれを知ったわけで。
これはお医者としては逆なんだけど、
要する、自分にかかればリハビリが進んで
すぐ歩けるようになると思うからどうだろうかって
言ってきたんだって。
それでいよいよ最後にそこに行って少し、
何とか言ってましたよ。
今は300メートルぐらいは
杖なしで歩けるぐらいもいったんだって。
糸井 300メートルって結構な距離ですよね。
吉本 僕はそんなに行けないです。
今100メートル足らずですね。
杖なしにしてたらそれぐらいですけどね。
だから300メートルって相当いいですね。
だから、きっとうまいんでしょうね、
リハビリのやり方がうまいんでしょうね。
僕らは自己流だから、
なかなか勘どころをすばやくあれしてっていうわけに
いかないもんですから、そんなにまだなってないですね。
多少はよくなってます、我流でもよくなってますけど。
糸井 でも、よく持ってきましたね、
ここままで、吉本さんもねぇ。
吉本 そうですね。
まだ年相応にはならいから
もう少しやろうと思うことと、
それからまだ、ちょっとわかんないところ、
わけがわかんないっていうのはおかしいですけど、
自分でやりながら納得してないところがあるのでね。
きっとそれが納得するころには、
もう少しうまくいくだろうとは思ってるんですけどね。
今、まだちょっとわからないなあとか、
納得しないなあっていうところがありますね。
わかるっていうことと、
できるようになることのつながりって、
すっごく大きいですよね。
吉本 大きいんでしょうね。
それはあれのときも感じたんです。
要するに、僕が行ってた気効じゃないんですけど、
キリスト教のあれなんですけど、十字式。
糸井 十字式、はいはい。
吉本 十字式のときも感じて。
つまり、その(施療する)人が
これでいいっていうふうに思っていると、
もうそこに何回行ってもそこら辺で停滞して。
そのときはいいんだけど、
すぐまた二、三日たつとだめになっちゃう。
もとに近いところまで戻っちゃうみたいなね。
その人がいいと思ってるかどうかっていうことが、
非常に重要なんだなと思いましたね。
やっぱりうまい人っていうのは、
いいとも悪いとも言わないでやってるんですけど、
何も言わないで。
そうじゃない人は、もうこれでいいはずだっていうか。
糸井 暗示をかける。
吉本 「はずだ」っていう感じで、
感じを出すわけですよ。
何かそうなってくると止まりかなっていう。
もうそれ以上はよくなんないかなっていう感じに、
こっちがなりますね。それは不思議ですね。
向こうが底知れないっていうか、底知れないと、
まだこっちも何となくまだやれるぞみたいな・・・
なるんだけど。
何かあれ?っていうような、
これでいいはずですけどねみたいなことだと、
その場はいいんですけど、
また帰って二、三日たつと
戻っちゃうみたいになっちゃうんで。
糸井 相手の説明の範囲内では困るんですよね。
吉本 困るんですよ。
一般論ですからね、一般的にこうで、
このくらいで大丈夫でしょうとかっていう。
足腰痛い人はこのくらいこうやったら
大丈夫なはずだっていう、
一般論でいうとそうなんでしょうけど、何か、
僕らみたいな、えれぇいろんなのが
相乗作用であるようなのは、
なかなかそれじゃああれですよね。
それで少し休んで自分で始めようなんていって
自分で始めて。
これも初めは痛えところとかなんとか、そこだけ、
そこを揉んだり押さえたり、
こうして曲げたりとかってやってたけど、
だんだん要領がわかってきて。
足のここいら辺が痛えときには
ここいら辺を押すのかなとかね。
ここら辺とお尻のここいら辺の骨とは連動してるなとかね。
そういうのがだんだん自分でわかってきて。
糸井 それは、いわゆる理解とは違って、
「わかる」なんですね。
吉本 実感的にちゃんと、
ああ、なるほどとかって、わかってきて。
今、やっぱり懸命にやってますから、
朝起きたとき、起き抜けと、
それから、夜寝るときっていうのは
大体一時間ぐらいしてるんですよね。
糸井 そういうことについては、吉本さん、
全然ものぐさじゃないですね。
吉本 いや、初めはものぐさだったんだけどさ。
糸井 おもしろくなってきたの。
吉本 いやいや、おもしろいかなあ。
っていうよりもね、まじめになってきたっていうか
本気になってきたっていうか、
これはいかんという感じになってきたんですね。
これはこのままではちょっとたまらんぜ
っていう感じになってきて。
つまり、今の状態でいうと、眼があんまり、
活字を読むの不自由だっていうしさ、
足腰は痛えって。
これじゃ一番肝心の「どっか行って何か見て」とか、
「何か見るためにどっか行って」とかっていうのが
一番だめじゃないかっていうようになってますでしょう今。
だから、これ、どっちかは
もう少し何とかなんなきゃだめだっていうふうに思って、
少し本気になってやりだしたですね。
そしたら、徐々にですけどね、
徐々にわかってきたっていう感じですね。
それから、何ていったらいいんだ、
縦の筋がわかってきたっていうのはおかしいけど、
つまり、親指の先っていうのは、縦系で行くとどこと・・。
糸井 つながっているかですね。
吉本 そういうようなことは少し。
糸井 本に書いてないんですよね。
吉本 わかってきたかなっていう感じがするんですね。
でも、わかんないこともあるんです。
糸井 その日、そのタイミングで
つながり方って少しづつ違うんですよね。
吉本 違うんです。そうそう。
糸井 で、動いてくるんですよね。
吉本 そうそうそう、その通りですね。動いてきて。
だから、いつでも同じとこが痛いかっていうと
そんなことはないんでね。
腰が痛えっていうときも、やっぱり多少づつ
違うところが痛かったりっていう。
足が痛いっていうときもそうですけどね。
そうなんですけどね。
だから、その都度なんですけど、
根底的に言うとここだっていうのは
何となくわかった気はしてんですけどね。
糸井 意外におもしろい仕事でもあるんですね。
吉本 そうそうそう。
やっぱり何ていうんだろう、
日進月歩っていうのはおかしいですけど、毎日やっぱり。
糸井 成果があらわれる。
吉本 あらわれるしね、
毎日考えどころがちょっと違ってきてっていう、
そういうふうには来てますけど。
糸井 小さな挫折もあるし。
吉本 そうそうそう。
いくらやってもこれはだめだっていうあれに
なったかと思うと、急に、
あっ、わかったわかったいうふうになって。
ですから、今までやってなかったんだけど
ほんとはここをやればいいんだっていうので、
痛えもんだから無意識のうちに
よけてたとかいうところをやってみたら、
おやっていう感じになって、
これは有効だぜ、みたいのがわかったとか。
そんなことがあれで、
自分自身もやっぱり
止まったら終わりだろうなと思いますね。
止まったところできっと終わるだろうなと思うんだけど、
今のところわかんないなあっていうことが残ってて、
それから、また有効だなっていうのがあって。
それだから、まだちょっとだめだなっていうふうには
あるんですね。
 それだけどね、ちょっとそう言うと、
おもしろいことには、そうやって、
僕のは気功師が言う、
専門家が言うあれと違うんでしょうけれども、
両手で揉んだりさすったりとか、
こうやってかれこれ半年ぐらいになってるでしょう、
まともっていうか本気になってから。
そうすると、要するに例えば、
足の裏のところとか、
踝の下のほうが、
何ていうか冷たくなっちゃったっていうときに、
そこじゃなくて、例えば少し上のところで、
こういうところで両手でこういうふうにやってもちゃんと。
糸井 つながる。
吉本 熱がいくっていう、
そういうのはなれてきましたよ。
だから、十字式の人もきっと
この面でもっと訓練したんだろうなと思うんですね。
訓練して遂にできるようになった。
糸井 明らかに、でも、才能のある人とない人が。

 

吉本 あるんでしょうね。
糸井 センスがあるんでしょうね、きっと。
吉本 あるんでしょうね。
素質がある人とそうじゃない人と、きっといるんだろうな。
糸井 あと、やっぱりさっきも言ったように、
言葉でフィックスしようとした瞬間から
その腕は止まるんですよね。
吉本 止まる。そうでしょうね。
何となくそういう気がしますね。
糸井 気がしますね。




第3回。

1998年10月のある土曜日。吉本隆明さんの家。

場所は、吉本さんの家。
正面の路地の真ん前に吉祥寺というお寺があって、
塀ごしに「小さな大仏」が見える。
小さな、と、大仏は、矛盾しているようだが、
ほんとにそうなんだから、それでいいのだ。

目の手術で入院が決まった日の、前日だったので、
ちょっと遠慮がちにスタートしたはずだった。
当然、日常会話なんだから、その目の手術の話題から
はじまるに決まっているわけだ。

第2回は<からだを治すということなど>でした。
話はそのまま続いていって、
今回、第3回は<科学的っていうこと>と題しました。
糸井 あの、ちょうど小学校の運動会のときに、
組体操やるじゃないですか。
で、一人どっかの人が崩れるとタタタタと崩れますよね。
で、弱いやつ一人いるときには、周りがかばいますよね。
で、かばう力のほうが強ければ、
弱いやつがいても大丈夫なんですよ。
ああいうつながり方を人間の体がしてるっていうふうに、
僕はイメージしたことがあって。
だから、小指の先にけがしたとしても、
それが迷惑をかけてるというか、
影響を及ぼしてるどっかがあって、
で、どっかが踏ん張ることで体全体をキープするんだから、
踏ん張ってるやつのほうをなだめれば、
小指の先の問題はもう少しいいほうに
解決していくんだっていうような。
吉本 そうでしょうね、そうですよね、きっと。
糸井 今はやりの生態系じゃないですけれども、
つながりの中で強いところを、逆に、
「おまえのおかげだ、ご苦労さんだったね」みたいな、
指圧だとかマッサージだとかがあるんじゃないかな。
吉本さんの話を聞いてると、ほんとに、
前に僕が、そういうことにすごく凝ってた時期があって、
そん時と同じなんですよね。
吉本 そういうのに凝ってた……。
今凝ってんですね、僕は。(笑)
糸井 おもしろいですね。
吉本 いや、とにかく進歩する感じがしますからね。
何となくおもしろいですね、興味深いですね。
だから、やっぱりああいう気功師とか
ああいうのの専門家っていうのは、
きっとそれにずっとのめってって、
もっと習練を積んだんだろうなと思いますね。
何か、あっ、ここまで信じていいのかな
ということもありますけど、
たしか二、三日前、
きのうかおとといぐらい、
テレビ見てたらやってたんですよ。
それは、日本人の気功師の人がいて、
(気功の)大家がいて、そいでその人がやると、
そうすると何かオーストラリアの女の人とか男の人とか
三、四人、こういうふうに並んでて、
して、その人がやるんですよ。
そうするとこっちのほうが、こう体を動かしたり、
いや、ここのところはこっちのほうが
何となく重くなってきたとかね、そう言ってるんですよ。
そんなに遠隔操作っていうのが効くかどうかって、
何となくちょっとほんとかなって
疑問を生じるところがありますけどね。
そのスタジオのところでメンバーのあれを、
その気功師が何かしてくと、
そうするとその人たちが体を動かしたり、
手足をこう動かしだしてね。
そして、横になっちゃったりっていうのは・・・
その場のは何となく信じられる気がしましたけどね。
ああ、そうか、そのくらいのことは
気功やればできるんじゃないのかなって、訓練すればね。
そういう感じがしましたけど。
糸井 暗示っていうのと違うんですよね。
吉本 違いますよね。
糸井 暗示って、一回意識を経過しますよ。
吉本さん(お茶)
吉本 そうですね、暗示じゃないですね。
だから、治癒能力には違いないでしょうけど、
要するに普通の人の持ってるあれの、
非常に強大な形でそれを持つように
訓練してできるようになったみたいなことのように
思いますけどね。
それこそ電気大学の先生が出てきて、
結局こういうのをあれしてみると、
要するに熱電気っていいますか、
熱に近い電気的なあれだっていうふうに、
科学的にっていうか、電気的に計測したりすると
そういうふうに思えますねって言ってましたね。
ただの熱じゃなくて、ただの電気でもないんだけど、
とにかく熱か電気に変わったとか、
相互変換したとかいうような、
そういう感じの、要するにエネルギーだっていうふうに
なりますねとか、そういうことを言ってましたね、
解説してましたね。
だけど、それがオーストラリアまで届くかっていうと、
そこまでは、自分がそう実感しない限りは
どうも信じられないなってとこありますけどね。
糸井 吉本さん、もともと東工大の人だから、
そういうのって素直には入っていけないタイプ
だったはずですよね。
吉本 そうです、そうです。
糸井 僕は逆に、信じたいんだけども、
何度もだまされたんで、
(笑)違うなと思ったりしましたけど。
でも、どうしても謎になる
ある「島」が残っちゃうっていう。
これは、「まず、ある」っていうことから
見たほうがいい部分っていうのがどうしても残りますね。
さっきのつながりの中に、
じかには会ってないんだけどもつながってるもの、
というイメージが。
例えばレミングの集団自殺とかありますね。
吉本 あります、あります。
糸井 あれは個体としては全部別のレミングなんで、
まあ自我があるわけじゃないのはよくわかるけれども、
あるいは桜前線がずーっと北上していく、
これは日照時間によってホルモンが作用するとか、
いろんな説明できることもあるけれども。
そのつながっている感じっていうのが、
何か探りようがないんでそのまんまになっちゃったけど、
まだ残っておりましたみたいなことがね。
そこは知りたいですね。
吉本 知りたいですね。そこはほんとに。
つまり、普通いう意味の科学的っていうので、
いや、それ違うよって思えるんですけど。
アメリカの科学者の書いた啓蒙書を読んでたらね、
なぜか知らないけど日本のことが出てくるんですよ。
日本では気功師みたいのがいて、
さわらないで痛いとこが治っちゃう
というようなことがあったりね。
何かいわゆる神秘的なことで、
手足をひゅっとこういうふうにあれしてただけで
何か立ち上がっちゃったとかね。
そういうことっていうのはあるっていうけど、
そんなものは全然。
糸井 ないですよ、と。
吉本 ないって言ってんですよ。
そうすると、ないとまで言いきられると、
それちょっと科学的じゃないよという気がしますよね。
やっぱり、そう簡単に決めてもらっちゃ困る。
やっぱり科学的っていうなら、
ちゃんとあれして決めてもらわないと困ります
という感じになりますね。
だから、そういう意味で科学的って言ってるやつがさ、
十九世紀か二十世紀の初めでさ、
小学校の理科の実験みたいに、
こっちから酸素をあれして、
こっちから水素を吹き出したら水ができたっていう、
そういうのならそれはいいけどね。
だけど、今みたいにめんどくさいことが絡み合ってきたら、
その科学的じゃ、ちょっと説明つかない
ということがあるんじゃないのかと思うから。
あんまりそういうふうに言われると、
それ、科学的ってちょっと
違うんじゃねえかというふうになっちゃいますね。
思いますね。
怪しいなというふうに思いますね。
糸井 基本的に同一条件下で再現性があるというふうに
考えると、あったりするわけですよ、その神秘なものが。
吉本 しますからね、しますからね。
ほんとにそうですよね。
糸井 そうしたら、説明する理論が追いついてない
と思う考え方を、当然保留してもいいですもんね。
吉本 起こってくるわけですよね。
だから、あんまり、これで科学的っていうのは
ちょっとおかしいんじゃないのかねっていう、
それでまた少し、僕はそんなことを考え合わせて、
自分の今のあれも考え合わせて。
前、疑いをもってなかったことってあるんですよね。
それは、ロシア・マルクス主義の元祖だけど、
レーニンが『唯物論と経験批判論』の中で、
要するに唯物論とは何かっていったら、
あの人はいろんなことを言ってるんだけど、
結局何を言ってるかっていったら、
人間よりも、もっと細かく言えば、
人間の、判断する脳よりも、
先に宇宙はあったんだということを証認するのが
唯物論だって言ってるんですよ。
糸井 それ、かっこいいですね。
吉本 かっこいいです。
それで、そうするとね、
僕は前はそれでいいじゃねえかって、
ただ、要するにそれは唯物論っていうんじゃなくて、
みんなだれだってそう思っているんじゃないかって
思ったよね。(笑)



第3回は<科学的っていうこと>と題して掲載しました。
今回は、第4回ですが、あははは、
タイトルのつけようがなくなってきちゃった。
でも、あえて<気効治療のことなど>と、
させていただきました。どんなもんだろ?
吉本 人間がサルから分かれて
百万年とか二百万年とかいっている。
で、二百万年以上前から宇宙はあったというのは、
まあ、大体わかってるんだから、そうだろうと思うから、
それは唯物論じゃなくたって承認するんじゃないか
っていうふうに思ってましたけどね。

このごろはちょっと疑いをもって、
そういうふうにいう場合には自分も宇宙の中の一部分で、
つまり、人間も宇宙の中の一部分であるか、
そうじゃなければ、
それを言ってる、判断している自分は宇宙とか自然とか、
そういうのの外に立ってるのかという、
そういうことをちゃんと言えなきゃ
だめなんじゃねえかって思ってきた。

だから、レーニンの言い方も、雑すぎます。
宇宙のほうが先にあったと判断してる本人の脳は、
特別な存在なんですよね。

判断している限りは自分だけは、
あるいは自分の脳だけは、宇宙の歴史の外にいる
ということになるじゃないのって思えますね。
そういう判断している場所をはっきりしないと、
レーニンみたいな断定はできないと
考えるようになりましたよ。
彼の唯物論なるものは成り立たんのじゃないか
というふうに、このごろは疑問をもってますね。
それは疑問だぜっていう。

糸井 つまり、観察者っていう特権的な位置を、
一体いつ決めたんだっていう、そういうことですよね。
吉本 そうそう。そうなんですね。
糸井 最近はやりの自然と人間の対立なんかの話も、
人間を自然の外側にどうしておけるんだ?
という、同じパターンですよね。
吉本 そうなんですよね。
レーニンがやっつけてるやつは、
大体そういう考え方してるんですよね。
人間の感覚がない限り宇宙がどうだとか、
自然の歴史はあれだとか、
人間より先に宇宙があったとか、
その判断は人間の脳が判断してるんだから、
人間の脳が判断しない限り、
そんなこと言うこと自体がこっけいじゃないかと。
ただ、人間の脳のおおきな機能である、
その感覚的な作用ですね。
それのほうがほんとうであって、
宇宙があるかないかなんていうのは、
そんな客観的に言えないよって言うやつを、
レーニンが盛んにやっつけているわけですよね、
あれは観念論だって言ってやっつけてるんだけど。
でも、どうもレーニンの言う。
糸井 レーニンのほうも。
吉本 大ざっぱ過ぎるんですよね。
大ざっぱ過ぎるなあという感じでね、
このごろはそういう言い方は、
両方ちゃんと言えないとだめなんじゃないかなという。
両方のことが言えないとだめなんじゃないかなという判断、
そういうふうに思うようになりましたね。
そうしたら、どういうふうに言えば科学的なのか
ということは、もう少しちゃんと考えないと
だめなんじゃないかなという疑問を
このごろはもってますね。
糸井 とっても大きい問題だったわけですね。
 
吉本 そうなんですね。
(笑)だから、これは自分のリハビリとか十字式って、
効能があるっていうことはつぶさに実感したり、
見たりしたりしたから、
そういうことは随分影響してるのかもしれないですけどね。

さればといって、精神のというか、
察知する問題っていうこと、
鋭敏さとかの問題っていうのは入ってないかと考えると、
どうもそれもちょっとそうじゃないんじゃないかな。
つまり、さっきのあれでいうと、
判断力がとまった人にやってもらうと、
何となくとまりだなという感じになっちゃうのは、
どうしてなんだという感じはするんですよね。
すっとそういう精神作用みたいなものが入っている
みたいな気がするんですよね。
何か感覚作用か、超科学作用か知りませんが、
そういうのが入っているのかなあという気もしますけどね。

だけど、エネルギーももちろん、
科学的なエネルギーもちゃんと出たり
強力にあれしたりしてるに違いないと。
だから、そこは非常に科学的なもんだっていうふうに
そこは思いますね。だけど、それだけかっていうと、
何かそこもよくわかんないですけどね。

そういうふうにあれしてたらね、
僕の知ってる精神科のお医者さんで、
東京大学の医局にいるんですけど、
それで養知病院っていうところの医院長をしてるやつが
この間来ましてね、それで、
吉本さん、僕が教えて・・・って、
僕らは精神科の入院患者にやっぱりやっているんですよ、
とか言って、気功なんですよね。それで……。

糸井 精神科で気功なの。
吉本 そうなんですね。なぜかって、
どうしてかっていうと、精神科の、
どっかにおかしいとか異常があるとか、
それから、何ていうか、神経症だとか、
そういうやつっていうのはどっかが固いんだってね。
結滞っていうか、渋滞っていうのがあるんだって。
だから、それを気功で柔軟化するということは
非常に有効だっていうことが言えるし、わかったから、
だから、自分たちでやってるんだって。
まず自分たちが中国人の気功師の優秀だっていう人を呼んで
習ったんだって。それであれして……。
糸井 効果あり?
吉本 できるようになって患者さんにやってるんだって。
こういうんですよとか、
何段階かの幾つかあるんですよとか言って、
ここでやってましたけどね。僕はできないんです。
できないっていうのは、まだできないと言った。

要するにこういうふうに立っていて、
手足をやたら、どっか力を入れて手足を動かそうものなら、
僕はすぐ前後に倒れてしまいますからね。
ぐらぐらしちゃうから。僕は重症なんですけど。
その人のやり方っていうのは、
気功ってみんなそうなのか僕は知りませんけど、
要するに全然力なんか入れないで手を動かしたり、
ひざを屈伸したりね。
全然力を入れないでそうやるという訓練なんだ
っていうんですね。
どこにも力を入れないで体中動かしたりする。
どっかに力が入っちゃうとか、
そういうこと全然なしにそれをやる。
そういうあれなんですよって言ってましたけどね。
僕、自分が今やっていることは全然反対のことやっていて、
ぎゅうぎゅうな目に、
痛えとかったらもっと押してやれとか、
こうしたらいいとか、
強くやってやれっていうんだけど、
その人たちのあれは……。

糸井 剛と柔ですね。
吉本 そうですね、剛と柔。(笑)
全然力を入れないで腰をああしたりね、
手足をこうしたり、体を回したりとか、
そういうのをやるあれなんだって言うんですね。
糸井 吉本さん、これはね、僕は
どこを押すとどこにつながっているかに
興味をもった先輩として言いますと、剛はだめなんですよ。
どうだめかっていうと、結局そこ痛むんです。
大体、僕、結局、
どっかからわかんなくなっちゃったんだけど
飽きたんですけど。危機意識がなくてやっていたんで。

例えば体のどっかが痛いとき、
どこかとつながってる感じがわかったときには、
ただ手を置いてあっためるぐらいのほうが
押すより効果があるんですよ。

吉本 ああ、そうかそうか。
糸井 ぬるさでかばってあげるみたいな、
非常に母親的な接し方のほうが、
効果があるみたいなんですよ、どうも。
今の先生の話と吉本さんの話と比べると、
もちろん吉本さんも、後のちはそっちの(柔の)方向に
いくんじゃないかと、想像するんですけどね。
吉本 それは、そのときその先生に、
森山さんっていうんですけど、
その先生についてきた患者さんの母親なんだけど、
そういうのに多少心得があるっていう人が
一緒についてきたんだけど、その人もそう言ってたね。
吉本さん、ぎゅうきゅうの目に遭わせるっていううちは、
それはだめですよって。
比喩がいいんだけどさ、
初めて女の人の体にさわったときのように
あれしてやるのがいいんですよっていうね。
糸井 わかりやすい。
吉本 そういうふうに言ってましたよ。
糸井 同じだ。
吉本 そうそう同じ。(笑)
もし、そういうふうなことが
だんだん自分でわかってきてね、
そういうふうにやるようになったら、
吉本さん、治りますよって盛んに言ってましたね。
何かこういう足の指とか、指の間とか、
そういうのをその人がこういうふうにやっても、
普通痛がるんだけど、吉本さん痛がらないから
随分やっているだなあって。
わかるけど、ぎゅうぎゅうの目っていうのは、
確かに糸井さんが言ったように、
とにかく女の人と初めて接したときのような、
そういう柔らかさでやるのが
一番いいんですよなんて。(笑)
糸井 だから、さっきの組体操の話じゃないですけど、
だれかが、かばっているやつが
過剰に労働しているわけですよ、からだ全体でいうと。
そうすると、そいつのところの負担が、ツケがきて、
後でやっぱり弱くしちゃうんですね。
そうしたら、ほかのバッターが打てなくて
四番が一人で頑張るっていうときに、
その四番に、「毎日おまえ寝ないで素振りしろ」
というやり方が、そのぎゅうぎゅうなんですよ。
いっとう活躍してるやつにシゴキを加えるっていう。(笑)
四番のやつに優しくご苦労さんっていうのが
多分あっているんだと思うんだ。
それが実感としてわかんないと、
ぎゅうぎゅうのほうが気持ちいいんですよ。
そうなんですよね。
それでいかにも効果ありそうに見えるんですよね。
だから、見えるし、事実、ある程度は
そのぎゅうぎゅうの目っていうのはあるわけだから。
糸井 おそらく、それは吉本さんに教わった
三木成夫さんなんかにつながる部分ってあるんですけど。
内胚葉、外胚葉というような分け方、
胎児の前にまたできますよね。
で、皮膚っていうのが、
意味的には内蔵と同じような重さがあるわけですね、
外胚葉か? それを内臓のようには
皮膚ってみんな扱わないんですよね。
バランス的には同じ意味がある。
皮膚は外界と絶えず接しているんで、
ほったらかしなんですよ、人間は。
僕は優しく扱うということで思ってたのは、
お風呂に入って外の熱をもらって熱交換をすることと、
それから、強すぎないブラッシングを体中にすることで、
僕のイメージではほとんど健康になるんじゃないかな
と思った時期があったんですね。
何か、雲の上の話みたいなことを言ってますけど。

そのときに実感したのは、
普段触ってない部分をちゃんと撫でること。
これで、内蔵がグウッというんですよ。
お風呂でやわらかい豚の毛のブラシかなんかで、
うっすら石鹸つけて、
指のまただなんだの全部いとおしむんですよ。
かなり意識しないと、そんなことできやしないですね。
 ぎゅうぎゅうやるほうが効率がいいんだよね。
これは吉本さんに学んだんだけど、
暴力という手段が一番経済的に効率がいいんで、
つい、暴力を使うけれども、
それはものぐさなやり方で、一見効果出るんだけど、
また元に戻っちゃうって。
これは吉本さんが書いたのを僕は覚えているんですけど。
剛のやり方はおそらく戸塚ヨットスクール型ですね。(笑)

吉本 それのほうなんだろうね。
糸井 おそらく、全部を見るっていうような、
何ていうんだろう、いとおしむなのかな。
そのおばさんが言っている
女の人の体のように扱うというのが……。

でも、おれなんでそういうことをやめちゃったんだろうな。

吉本 やっぱりそれは治ったから。ある程度……。
糸井 ぜんそくがきっかけで
そういうこと考え始めたんですよね。
吉本 僕もやっぱりそうですね。
これはいかんっていう感じになってから、
少し大まじめにやるみたいになりましたけどね。
糸井 優しく、はね。何か宗教じゃないですけど、
愛ですね。(笑)
そうなんでしょうね。
それで僕はこんなことで、
いろんなことをあれ(研究)してる人で、
生きている人がいるのかな
みたいなことを言ったんですけど。
そのお医者さんが言ってましたけどね、
もう亡くなりましたけど、
九州大学のキリスト教の宗教哲学者で、
滝沢克巳という人がいるって。
その滝沢さんが、要するに晩年っていうか、
ちょっと足腰痛くなったときに気功師に来てもらって、
それでかなり治ってっていうことがあったらしいんですね。
哲学者なもんだから、やっぱり考えこんじゃって、
考えて、これは何なんだっていうんでね。
それで書いたりあれしたりしたのがあるんだそうですね。
あるんだって。
それで滝沢さんの息子さんはお医者さんなんだって。
それで僕の知ってるそのお医者さんが、
行って、会って話ししたときに、
うちのおやじはこういうのを書いたんだけど、
ちょっと正しいかどうか見てくれねえかとかって
言われて見たんだって。
そうしたら、具体的なことではなかなか正しいこと
っていうか、いいなあということを言ってるんだけど、
気功っていうのは、一種の神秘主義だみたいなことを、
そういうふうに言ってるところっていうのは、
やっぱり違うんじゃないかっていうふうに思ったと。
糸井 滝沢さんが言っている?
吉本 ええ、その人は言ってましたよ、
そのお医者さんは。
糸井 滝沢さんっていうのは、
マルクス主義系のキリスト教みたいな人ですよね。
吉本 そうそう。そうなんですよ。
糸井 おもしろい立場の人だったですよね。
吉本 その人です。そうだったんだって。
やっぱり気功をやってよかったらしいんですね。
それで気功がなんだっていうんでやっぱり……。
糸井 びっくりするんでしょうね、やっぱり。
吉本 するんですね。思いがけないことが……。
糸井 あっちゃいけない世界……。
吉本 あっちゃいけない世界みたいなあれなんですよね。
それでそういうのを探究してっていうか、
やっぱり哲学的に考えて。
糸井 読みたいですね、それは。
吉本 書いてあるんだって。
それを書いてあるのを見せてもらったんだって。
その人は気功もやっているし、精神科のあれだし
っていうあれだから、見てくれ見てくれ言われて
見たんだって言ってましたけどね。
糸井 それは吉本さんもごらんになってないわけですね。
吉本 僕は全然見てないですけどね。
糸井 本になってないんですね。
吉本 ないんですね。本になってないし、
書いただけなんでしょうね。


第4回は<気効治療のことなど>と題して掲載しました。
さて、第5回は、<1歳未満のときの苦労>という、
妙なタイトルにいたしました。
糸井 でも、吉本さんは聞いていたかどうかわからない
ですけど、失礼な話なんですけど、
吉本さん家のお母さんが、
「お父ちゃんのいい人ぶりは、
お父ちゃんのお父さんに比べると本物じゃない」という。
船大工のお父さんのことを
本当にこの人っていうのはいいなあと思ったけど、
お父ちゃんのはそのまねだからって。(笑)
吉本 いや、そうです。それは子供にも言われて。
だけど、下の子からあまり聞かないけど、
上の子からは聞いたことがあって、
要するに、まだ小さいときですよ。
小さいときっていうか、
中学生か高校に行き始めぐらいのときに、
要するに、
「お父ちゃんは人間を愛してるんであって、
私たち子供を愛しているっていうんじゃないんだよ」
って言って。
糸井 はーっ、すごい。
吉本 意識的なんでしょうね。
意識的で、つまりまねしてるっていうか、
本物じゃないというあれなんでしょうね。
これはちょっと、やられたなっていう感じで、
これは今でも僕は覚えてて。
糸井 もう自分のせいじゃないところですよね。
吉本 そうなんですね。
これはそうで、僕はそういうことは、
自分の考え方の中にも入ってます。
今でも大まじめな考え方にも入っていますけど、
要するに、泳ぐというのはかなり早いときから
できたんだけれども、潜るというのはできないんですよ。
潜るというか、水の中で少しあれしているとか。
うちの子供は得意でよく潜ったりなんかする。
底から何か拾ったとかなんかいってやっているけど、
あの潜るというのはできないんですよ。
できないのはなぜかと言ったら、怖いというのが。
恐怖なんですね。
それからもう一つは、やっぱり潜るために息をつめると、
普通だったら一分間ぐらいちゃんとしないでできるぜっと
思うんだけど、陸地ではできると思うんだけど、
あれを、意図的に、よしっていう、
息つめるぞとかいって潜ると、
たちまちのうちに苦しくなって上がっちゃうんですよね。
そうなんですよ。僕はものすごく潜るのが
今でも怖いというのがあるんですよね。

それはなぜかと考えると、僕は、
おふくろさんには悪いけどね、
おふくろさんの胎内にいたときに、多分、
おふくろはうんと苦労したり、
うんと不安とか心配とかがあったり、
そういう状態があったんだろうなと
いうふうに理解しているんですけどね。

だから、重要だぜっていう、
つまり胎内というのと、
生まれてから一歳未満といいますか、
それはものすごく重要だぜというのが
僕の考えにありますけど。
今でもありますけど、僕はやっぱりそういう、
どうもおれは潜るのが、
水の中へ潜るのが怖いっていうのは
やっぱりそれじゃないかなって思うんですね。
そういうあれがあるからじゃないかな
という解釈をとるんですよね。

それは、もう一つだけそういうのがあって、
証拠があってというか、証拠があってね、
僕、米沢の高工にいたときに、
夏の水泳大会だとか、ああいう、
クラス対抗水泳大会だとかいって、
寒いところですから、
本格的にあんまり泳げる人というのは少ないわけですけど、
それで、おまえ、息が続くだろうから
ちょっと何もしないで、泳がなくていいから
プールのあれにつかまって潜ってるっていう、
潜ってる長さをあれする、それに出ろなんて言われて。
よし、出ようかなんていって出たんだけど、
たちまちのうちに、
三十秒もたたねえうちにもう上がってきちゃって、
何だおまえはって、とんでもねえじゃねえかとかって、
言われたのを覚えているんですけどね。

糸井 水泳は上手だったのに……。
 
吉本 そうなんですよ。
だから、やれやれって言われて、よしっなんてやったら、
とにかく三十秒もたたねえうちに、
うんっていってもう出てきちゃったんです。
すごいやつはね、やっぱり4分ぐらいいましたよ。
糸井 おー、行者みたいな人ですね。
吉本 同級生でいましたよ、同じクラスのやつ。
こうやって4分ぐらい平気だっていうのが
ありましたからね、
やっぱりすげえやつもいるもんだなと思って。
僕はね、そんな一分ぐらいなら、
1分ちょっとならできるだろうなんて、
こういうふうにやってたらさ、冗談じゃねえよなんて、
とにかく、すぐ、ほとんど、
30秒ぐらいで顔上げて。
だから友達から何だよって怒られちゃってね、
とんでもねえなんて言われちゃったことが
ありましたけどね。
だから僕はだめなんです、水の中。
糸井 対立的に水といるんですね。
吉本

そうそう。水に潜るということが怖いんですね。

糸井 それとさっきの鶴見和子さんの話に関係して、
周りの人に迷惑をかけないとか、
甘えたくないということとのつながり方というのは
はっきりありますね。
吉本 ありますね。僕はあると思います。
それはそうだと思います。
だから、大抵、そういう人、過剰に気を使い過ぎだとか、
そういうのであんまり人のあれ、迷惑にならんように、
そういうふうに考えてあれする人っていうのは、
多分、胎内か一歳未満ぐらいの赤ん坊ぐらいのときの
あれがよくなかったんじゃないかなというふうに。
僕はそういう解釈をしちゃいますね。
自分がそうだから、そう解釈しちゃいますね。

それで、僕は、逆に、なぜそうなのか、
なぜそうなったかを考えたんですね。
そしたら、やっぱり僕の一歳未満とか胎内というのは、
要するに、おやじさんとかおふくろさんが
郷里から無断出奔、東京に出奔してきてね。

糸井

佃にいた。

吉本 そこら辺にあれして、さて、就職を、
どこで働こうかとか、就職をどうしようかとか、
そんなことをやっていた時期に該当するんですよ。
だから、おれはそれだというふうに
思っているわけですけどね。
思い決めているわけですけどね。
それで、かなりこれは確かな理論じゃないかと思って
今でもいるわけですけどね。
僕は何かそんな気がするんですね。

それで、本当ならば、
おふくろさんやおやじさんが生きているとき聞けば、
聞いてみたいわけですけど、それはきっと聞いても、
多分正直には言わんだろうなとは思いますね。
言わんだろうなと思いますけどね。
だけど、弟の嫁さんなんかには、おふくろは、
あの子は赤ん坊のときに苦労したからねーとかって
言ったことがありますよとかって言ってましたけどね。
赤ん坊で苦労っていったって、
何も、お乳飲んであれしてただけじゃないかということに
なるんだけれども、
多分そういうことを言ってるんじゃないかなという。
自分が大変だった時期に赤ん坊だったという、
そういうことじゃないかなと思いますけどね。
何か言ってるのね。

糸井

多分、僕は、吉本さんの書いたものとか
理解し切れていないんだけど、
感情的につながった感じがする.
特に詩のときとかそうなんですけれども、
なじまない世界と
どういうふうに自分が折り合っていくか
っていうことに触れる部分で、
いつでも、わかるんだよなという。(笑)
同じ、だから、きっと、
おなかの中をきっと経験したんでしょうね。
転んだときにでも、
助け起こされるよりは、
見てないでくれ、起きるからっていうようなところ。
つまり甘え下手(へた)な。
とにかく自分は迷惑かけないでいたいと。
それは発想としては相当貧乏くさいと思うんですよ。

吉本 それは貧乏くさいんだけどね。そうですよね。
糸井 やっぱり平気で甘えられる人っていうのは、
豊かに思えるんですね。
どっちが人間的かというと、
やっぱり平気で甘えられるところにいる人のほうが
かっこいいと思うんですよ。
できないから、無理やりに、
過剰にえばったふりをしてみたり、
えいやって言わないとできない。(笑)
吉本 そうですね。
だから、僕がよく知の三馬鹿だというふうにからかっている
蓮実重彦というのは、多分経済的とか社会的には大変いい、
あの人は昔のあれで言うと、爵位を持った家だから、
男爵家ですから、そういう意味合いでは、
銭とか生活とかっていう意味ではあれだったんでしょう
けど、僕はあいつに会ったとき、
いっぺんで何となくわかったと思ったってところは、
やっぱりこの人、育ちよくないよと。


ごぶさたしてましたが、第6回をお届けします。
この回は、<無意識の荒れ>について。
前回からの流れでお読みください。

吉本 あの人は、蓮実さんって人、
おふくろさんとの関係における、何ていいますかね、
生まれる前というか、胎児というか、わかりませんが、
胎児の後半期だと思いますけれども、
それがよくないよというのは何となく、すぐ……。
糸井 無意識が荒れてるっていうやつですか。
吉本 そうそう。すぐわかりましたね。わかって、
いや、「ちょっと、生まれる少し前が
よくないんじゃないですか」って、
すぐ言ったのを覚えていますけどね。
今でもきっと時々思い出すだろうと思いますよ。
かなり当たっていると僕は思っていますから。
それから、このあれは、柄谷行人というのは悪いですね。
荒れてますね。これは、これも、三人とも荒れてますね。
浅田彰も荒れてますね。
それは何となくわかる気がしますね。
糸井 荒れが。周囲の世界を理解したいという欲望が、
知を……。
吉本

知を形成させる。(笑)
そうなんです、それはタイプがそうですからね、似てます。

糸井 そんなに必要以上に知らなくても
生きていけると思うんだけど。(笑)
  吉本隆明氏
吉本 過剰なんですよ。過剰に知的なんですよ。
糸井 知的な過剰ですね。(笑)
吉本 そうそう、そうだと思いますね。
それはきっと、別な意味で言うと、
何かの原動力になっているんだろうね。
学問か研究か知りませんけど、
それを促進するあれにはなっているんでしょうけど、
だけど、過剰ですよ、もう。
過剰意識ですね。
だから、それはやっぱり、しかし、
僕はそう思いましたね。

それで、さて、文学関係では、あんまりいねえんだよな、
こういう人は。あれだなっていう、
「これは大変たっぷりした人だな」というのは
あんまりいないような。

糸井 たっぷりしていない?
吉本

ええ、たっぷりしていないですね、みんな。

糸井 貧乏くさいという。
吉本

貧乏くさいですね。
みんな貧乏くさいのを何かで後天的にカバーして、
何となく、まとまりつけていく
という感じは多いですね。

糸井

僕はよく友達に言うんだけども、
「何かを表現して生きよう」
なんていう道を歩んでいる人は、
全部貧乏くさい、ということ。

吉本

そうそう。

糸井

特に物事をしゃべらずに、
一生にこにこ笑ってる人のほうが、
おれは絶対に人生として芸術だと思う。
そっちのほうが、ほんとはいいんで。
人生嫌になった人があんまりエバるのは、
やはり世界を逆転させるようなことだから、
迷惑なことなんじゃないか。(笑)

吉本 そうでしょうね、多分そうですよね。
それは鮎川信夫が昔言ってたことがあって。
昔はあれだからなとか、
学問とか芸術なんていうのは、
あれは奴隷の仕事だからなとか、
ギリシア時代だったら奴隷の仕事だからなんて、盛んに。
我々やっていることはそうなんだみたいなことを、
盛んに言ってことがありましたね。
糸井 鮎川さんは、もうちょっと、こう、
豊かな感じの方ですね。
吉本 そうだと思いますね。あの人はそう思いますね。
ものすごく豊かですね。感じますね。
豊かで。
ほんのちょっとぴりだけ、
「あっ」と思うときは、ほんのちょっぴりぐらい
ありますけどね。
ありましたけど、豊かですね。
あの人、そうだな、僕らの詩の仲間だったから、
あの人くらいかな、あの人くらいでしょうね。
だけども、とても、あ、そうか、
これはちょっと公表しちゃいけないからあれですけども、
僕、わりあい親しくして、
しょっちゅうあれしてたりしてたけど、
会ったり、しょっちゅう来たりあれしてたんですけど、
あの人の、大体奥さんがいるのかどうかというのも、
奥さんはだれであるのかというのも全然わからなかった。
糸井 鮎川さんって、そんな謎の人だったんですか。
吉本 謎というか、僕がぼんやりして
聞かないから悪いんだっていうのか。
糸井 つき合い長いですよね。
吉本 長い。そんなはずはない、
ひとりでにわかるはずなんですよね。
つまり、何かの言葉の端々に奥さんのこととか
家族のことがふっと出てくるはずなんですよ。
それで、奥さんはこうだなとかって思うはずなのに、
あの人は、特に死んじゃってから、初めて、
あっ、ていう・・・(奥さんが)いたんだ、
いたんだというのと、
あっ、(奥さんは)この人だっ、この人っていうのはね、
死んでから知ったこの人っていうのはね、
名前ももちろんそのときから知っているほど著名な人。
ただ、それがその奥さんだったとは
全然死ぬまでわからない。それは一体、何が……。
謎、僕にはわからないですね。
どこがどうなっているのかという。

大抵は、何か全然奥さんのことを言わなくても、
何かしゃべっているうちに、
どっかにこういうふうに出てくるみたいのがあるでしょう。
それは全然なかったですね。
もちろん聞けば、きっと、こうこうだと
言ったかもしれないけど。
僕、聞くようなあれというのは格別なかったから、
それを聞いたことはないんですけど、
ひとりでに、話の中で。
随分長くつき合っているわけだから出てくるはずなんです。
それでだから、あ、こういう人なんだとか、
およそこうだとかわかるはずなんだけど、
それが全然わからなくて、あらーって思って。
死んでから初めて奥さんがいたっていうのがわかって、
それから、だれだっていうのも初めてわかった。
あらっ、この人ならちゃんと名前、私は知っているぞ
という、そういう人だったんですよ。
これにはびっくりした。
だから、それはやっぱり鮎川さんだって
何かがあるんですよ、何か。
何かがあるんですよ。
それだけ気配を見せないということは、
相当何かがあるんじゃないかなと思いますけどね。
何だかはわからないんですけどね、
会って、びっくり、それはほんとにびっくり仰天ですね。

糸井 ダンディズムみたいなものは感じますけど。
吉本 それはあるんだろうけどね、
多少あるんでしょうね。
糸井 ダンディズムというのは、
ある種の個人的な理想の形だと思うんで、
そういう意味ではわかりやすいかもしれない。
隠しやすい場所がはっきりしますよね。
吉本 そうですね。それはそうだったんですよ。
へーっ、何とも……。
だから、やっぱりどっかあるのかなと思いましたけどね。
そういうところはあるんですけど、
でも、概して言えば、たっぷりした人ですね。
それ以外ではたっぷりしたあれの人ですね。

そういうことと、この人、
なんか詩なんか書く人で、ゴルフやる人なんか
そんなにいないんだけど、
「荒地」(あれち=詩の同人誌)の人に
わりあいにそういうのがいて、ゴルフって行ってて。
聞いたことがあって。
あんなものはおもしろいですかって・・・だって、
こんなわざわざ引っぱたいても当たりにくいような
あれでもって当てて、それで穴ぼこの中に入れて、
幾つで入ったかとか、
あんなことはおもしろいんですかって。
そうしたら、いやっ、それは
君はやったことがねえからそうなんだけど、
あれはおもしれえんだって言うんですね。
おもしろいんだって。何がおもしろいかって言ったら、
大体、ひとつは、
回っていると、ひとりでに、
ある年齢以上だったら
ものすごい運動になっているんだというんですね。
何時間も回っていると運動になっているということが一つ。
それから、やっぱり一種の賭けの要素があるんですよね。
つまりいくつで、俺はいくつで入れたぞとか、
たくさん打ったけど入らなかったとか、
そういうあれで賭けの要素があるっていうんですね。
それから、もちろん技術の要素もあると。
とにかくこれだけの、
スポーツで、これだけのたくさんいろいろな要素を、
つまりそれこそ豊富な要素を
あれしているものなんていうのは、そんなにないぜとか、
彼の説明はそうでしたね。
だから、やっぱりブルジョアというのは
おもしれえことを発明するもんだなとかって、
彼はそういうふうに、そういう説明をしていましたけどね。
それでやっていましたけど、
「あれだけは、君、やらんとわからんよ」とか
盛んに言っていましてね。
わりと好きでよくやってたみたいですね。

糸井 遊び方の上手さみたいなこともやっぱり・・・。
僕らは根っこが乏しいから、
遊びがガツガツするんですよ、どうしても。
アメリカ人の遊び方って、
みんな基本的にガツガツしているんです。
アメリカの人たちって、
どうも全員荒れてるっていうか。(笑)
吉本 全員荒れてる。(笑)
もともとただせば責められて……。
糸井 映画観ても、何見ても、
豊かだなぁっていうのはほんとにないですね。
ヨーロッパの、例えば僕がこの間、
オペラというものを初めて見て、
しっかりと寝不足だったので寝ちゃったんですけど、
あのかったるい時間に浸っていられるような楽しみ方って、
アメリカものにはないんですねぇ。

例えば、豊満な肉体のグラマー女優が
人気があるっていっても、
その豊満の価値規準が、数字というか、
必ず言葉に直せるようなものですよね。
わかりやすい価値の言葉に、なおせる、なんでも。
あれは貧乏くさいなと。
やっぱりその歴史の後ろ側を持っていない人たちが
取り返そうとして、一気に暴力を使っちゃうような。(笑)

吉本 それは何となくわかるような気がします。
糸井 感じますよね。
吉本 我々にもかかわりますね。
糸井 イタリアだ、フランスだ、
イギリスなんかも、ほかに比べれば、ラテンに比べれば
貧乏くさいんだろうけども、
やっぱりヨーロッパのものって、
なるようになるというか、
さっきの、世界と自分を観察者に置かずに、
浸っている喜びをどっかに見せているんですね。



吉本さんのファンの方々には、
ほんとに申し訳ないのですが、掲載が滞っていましたのは、
ひとえに、イトイがさぼっていたせいであります。
材料がすでに存在しているということに甘えて、
掲載原稿にする仕事を後回しにしていたからです。
この回のあとは、またちょっと滞ります。
それは、後半テープ起こしの再校正からはじめるからです。
これを機会に、新しい読者の方々は、
はじめからお読みになってくださることを希望します。
で、この第7回は、
<アメリカのことを話している>です。

糸井 昔、ショックを受けたことがあって。
『グッド・モーニング・バビロン』という、
これは映画です。
アメリカのものなんですけど、
ハリウッドに、イタリア移民の貧しい兄弟が
就職してきたた話なんですよ。
就職したんですけど、
もともと左官屋さんかなんかだったんで、
映画の舞台美術みたいなものをつくる仕事で、
そのうちの兄弟のひとりが、女の子にほれるんですね。
大部屋女優みたい女の子に。
お兄さんのほうがほれたんだけど、うまくいかないで。
結局悲しくて、一人で森の中に入っていっちゃうんですね、
ふられて。行方不明になっちゃって。
みんなが、どうしたんだろうと思っていたら、
森の中からシンバルの音が聞こえるんですよ、ジャーンと。
ある規則でシンバルが鳴るんですよ。
何かというと、彼はイタリアにいたときに好きだった
オーケストラのシンバルの譜面のとおりに、
自分で頭の中でオーケストラを鳴らして、
シンバルのパートを演奏しているわけなんですよ、
悲しみから抜け出すために。

ぼく、それを見たときに、これにはアメリカ人、
コンプレックス感じるだろうなと。
つまり、職工さんの一人が、
長い組曲だかオペラだから知りませんけど、
自分の譜面でシンバルだけを鳴らしている姿というのは、
こいつら、すごいコンプレックスで
この場面を描いているんだろうと思って。
同時に、僕の貧乏くささがそこで洗い出されちゃって、
泣けましたね。
そんなのを覚えてて、こないだオペラに行ったんです。
日本人で見ている人はやっぱりガツガツと
全部吸収して栄養にしようと思って見ている人が多くて、
寝たり、起きたり、ワイン飲んだり、お見合いしたりという
オペラの観賞にはなれないんですよ、やっぱり。
最大漏らさず吸収しようと思っている人たちが
舞台を凝視してて、やっぱり貧乏くさいんですよ(笑)。
あれ、きっと、現地でずーっと習慣的に見ている人だとか、
江戸時代に弁当つかいながら歌舞伎見てた人だとかの、
舞台の世界との親和性みたいな、
とけ込みぐあいというのは、
僕らみたいな育ちの悪い人間には、
どうしたって追いつきやしない。
それをまねするとみっともないから、
おれはもう貧乏くさく。(笑)

吉本 それはそう思いますよ、僕もね。
糸井 瞬間的にガツガツ見て、
ああ、豊かってこういうものか、いいなって。
でも、そこから先はつき合えないので、
敬して、座布団の上に飾って見てますよと。
アメリカ人全体に僕らが妙に共感する部分って、
あの貧しさに、共感するんですよ、たぶん。
それは、きっと吉本さんの詩の中にある
世界が倒立した感じとか、
そういうものと近いんじゃないかと思うんですよね。
吉本 なるほどな。
そうか、アメリカはそうか。そうだな。
糸井 全員がそうなんですよ、きっと。
吉本 うん。ばかに大規模な装置とか、
お金かけて映画でもつくって。
それだけど、人を驚かすだけで、
劇場出たら、映画館出たら、ぺろっと忘れたっていう、
そういうのが多いですもんね。
糸井 時々移民の監督だとか、
ポランスキーだとかなんかが入ってくると、
その都度、新しい血が入ったり、
マイノリティー系の人たちがハリウッドの中に
入り込むことで、この豊かさって
再カタログ化できる可能性が出てるよっていうところを、
ちょこんちょこんと表現して、みんなが利用している。
それを循環させて、あの国って、
一番強いものを、
どう言ったらいいんでしょう、交配していくんですね。

ディズニーランドにこの間、四、五日間会議で
呼ばれて泊まってたんです。
これがね、大人になってからあそこにずっといると、
あの張りぼてというもののすごさを・・・
息がつまるほど「張りぼて!」なんですよね。
ほんとに息がつまるほどよくできているんですよ。
楽しむためのマニュアルをどうつくっていくかというのを、
ほんとにもう、意識できる部分は全部やる。
だけど、やっぱりそれを建てた場所って、
人工からいちばん遠いような場所、
土地の安い田舎に建てているおかげでできているんです。
もしディズニーランドにをニューヨークにつくったら、
とんでもないフェイクっぽさがばれちゃうんですよ。
だから、だれも開拓しやしないよというような、
空は青いに決まってるじゃんという場所に
あの人工の大国を建てることで、逆に、
あれがバランスをとっているんですよ。
何がすごいかといえば、
降ってくる現実の雨がすごかったり、
すぐそばを流れている川がすごかったりでして。
どれも、人工でないものでしょ。
実は、あそこに建てている張りぼてって、
みんなでウソをばれないように
約束し合いましょうねというしくみなんで、
そういう意味では、最高によくできているんですけどねぇ。

釣りしたんですよ、あそこで。
そしたらね、変な感じなんですけど、
釣れた魚まで張りぼてじゃないか
というような疑いを持っちゃうほど、
ガイドのおやじまで張りぼてなんですよ。
すっごい浅い知識で釣りのガイドしているんですよ。
情報が張りぼてっていうか、ね。
これは、アメリカに勝つチャンスはあると思った。
何だか知らないけど、
あいつらは、ここをつかれたら嫌だろうなという感じ。
それは、マイクロソフトの社長がおしのびで
日本に来てらんちき騒ぎしている
ってウワサを聞いたときもおなじだったんだけど。
このへんがアメリカ流の限界だなと思った。

クリントンがやっている不倫疑惑がどうのこうのって
話題になっていますけど、
ああやって人間のどうしようもない部分を、
やっぱりあいつらも解決できない。
ケネディとマリリン・モンローの話もそうだし。
でも、登場してくる女の子たちというのが、
どうしても人に自慢しやすい記号性を持っていますよね、
マリリン・モンローであるとか。
価値が量ではかれるような女の子がでてくる。
あそこでフルシチョフ夫人みたいなものが
混じり込むとアメリカは強いなって思うんですけど。
どうしても、ばれても「ナルホド」なところで、
情事までやりとりしている気がする。
エロチシズムの想像性も意外と単純ですね。
ですから、クリントンのやったことの、
おお恥ずかしいということも、
あ、やるだろうなということしか書いてないんですよ。
そこでもう一歩踏み込んだいやらしさとか、
これは変わったことやるなとか、
あるいはセリフがとんでもなくばかばかしかったりとか、
そういうものになれば、僕は、
逆にアメリカの強さを感じるんです。
スキャンダルを暴かれたときにも、
きれいにはまっちゃうんですね、ジグソーパズルみたいに。
これは、おれら、まだ日本人、
ひょっとしたら、もっとスケベだぜみたいな。
あのアメリカの「わかりやすさ」への徹底ぶりには、
ほんとにあきれるくらいびっくりしますけど。
  吉本隆明氏
吉本 そうですね。僕も感心しました。
感心したって、ああいう
ばかばかしいことが問題になるのは
不健康だというふうに思って、一応は思ったけどさ、
だけど、とうとう何というか、
ドレスに体液がくっついてたとか、
インターネットでみんな流してとか、
そこまでやるのは、
やっぱりアメリカというのは大したもんだよという
感じを持ちましたね。
糸井 人工的なことでできることは
全部まかせとけという。全部NASAスタイルですよね。
NASAであり、ペンタゴンであり。
吉本 今、糸井さんの言ったことっていうのはさ、
アメリカ論といいましょうか、
アメリカ論としては、もう大変優秀なあれに属しますよ。
つまり、僕はいつでも不思議でしようがないのは、
アメリカの学校に行って帰ってきたとか、
研究に行って帰ってきたというやつがさ、言うアメリカは、
南部行ったって向こうとは違うしさ、そういうのは別々で。
糸井 行った場所で違いますよね。
吉本 そういうのは書いてあることはあるんだけど、
アメリカというのはどうなんだということを、
ばっと人にわかるというふうに言えている人っていうのは
そんなにいないんですよ。
糸井 (笑)。
吉本 だから、今のはものすごくいいあれになって、
アメリカ論としては非常に上等なものじゃないでしょうか。
僕は、一つだけいろんな、
僕にはふさわしくないんですけど、学問的なというか、
研究的なことで一つだけあるのは、
とにかくアメリカというのは、
こうじゃないかというのは、
とにかく何かを研究してやっちゃうというときに、
もうヨーロッパとか、日本もそうですけれども、
どう言ったらいいんでしょうね、このことと、
やるべき対象と同じ次元と言ったらいいんでしょうか。
つまり同種類のというか、同じ次元の同じ質に入るような
文献とか調査した結果とかは、ちゃんとそれでないと、
要するにこれは参考資料にしないという、
しないというか、ならないというか、
そういう考え方ってあるんですよね。
日本もヨーロッパもね。
だから、非常にきれいで整って、
もうほんとに建築的に文献も整っていて、
こういうのを、系統をたどっていけば、
たどって少し研究するとこういうのができると、こうなる。
そういうふうにしか思えないんですね。
だから非常に整っていて。
そうすると、この対象自体までも
静止した対象というふうに見えちゃうんですね。

ところが、アメリカというのはそうじゃなくて、
これを、このことを学問的になし遂げたいといったら
何でもいいんですよ。
つまり、それこそ
ディズニーランドで発見したことっていうか、
気がついたことでも何でもとにかく、
もう文献としても参考資料としても全部援用してね、
とにかくやっちゃえばいいわけですから。
糸井 交配オーケーなんですね。
吉本 全部、何やってもオーケーです。
そういうふうに遊びの中で発見したことでも
何でもいいんですよ。
週刊誌に書いてあったというのでも、
ちゃんと文献になるし、参考資料になるしね。
それでやっちゃうという。
とにかく、しかし、やっちゃいますね。
これは、どんなあれでもやっちゃう。
それは、アメリカ側に感じたことがあって。
これがアメリカかっていうふうに
思ったことがありますけどね。
日本のとかヨーロッパのは、それに比べると
研究対象からしてもおとなしいんですよね。
とまっている的を、同じような手段を使って
ここへ到達するみたいな、
そういうやり方しかしないんです。
糸井 非常に律法的ですよね、アメリカ以外がね。
吉本 そうですね。アメリカというのは、
それはもう構わないんです。
何でも、遊びとか週刊誌とかテレビでも
何でもいいんですけど、
そこでこういうことが言われていた、
これはこうだというのがあった、
それは参考資料なんですね。
ちっともそれは学問としておかしくない
ということになるのね。
ヨーロッパとか、日本もそうですけれども、
そんなことしたら、こんなものは学問に入らないと。

これは言いかえれば、例えば例としては、
中沢さんがさ、中沢新一が東大の先生の候補になって、
なれなかった理由なんですよ。
あの人は、そんな、学問をめかしてないから。
めかしてないけど、中身で言えば、相当高度なことを
高度なあれをやっているんですよ。
それはだけど、要するにそういう学問の研究、形式の中に
ちっとも入ってないでしょう。
だから、あれを東京大学なんか毛嫌いするんですよ、
ああいうのはね。
だから、ちゃんと、つまんねえ研究でも、
この研究は何々の目的を持って、
何々の目的でもってこういうふうにやった
というふうにいって、さて具体的にはこうでこうであって、
それでやった、って。
それで結論はこうだった、と。
こういうのを、こういう形式が整っていないと
学問だと思わないんですね。
だから、そういうものになれているから、
中沢さんみたいな人はなれるわけないんだよ。
そうすると、上野千鶴子というのは
かたちになっているわけですよね、
中沢さんのかわりみたいになっている。
どうしてかといったら、もちろん、
これは言うべからずのことなんでしょうけれども、
それも言っちゃえば、要するに上野千鶴子は
共産党にはうけがいいんですよ。それが一つある。
それから、もちろんそういうことは抜きにして、
学問的なことだけで言うと、
上野千鶴子はちゃんとアメリカへ行って勉強しましたけど、
ちゃんとしたそういう形式の論文がちゃんとあるんですよ。
糸井 様式もオーケー。
吉本 様式がオーケーな論文があるんですよね。
学術論文めかしたという、そういうのがあるからね。
糸井 どこで発表するかはもう
決まっているわけですよね。
吉本 そうなんですよ。
だから、もうそれがあれば、
あって、それなりの力があれば、
それはもう通るわけです。
だけど、中沢さんがどういうふうにあれして、
僕らが見ても、別に学問だと思わなくても読めるわけだし、
そういうあれだからね。
それは彼のあれだから。
それだったら、ちょっとあんなのはだめだと、
学問じゃねえと、そう言われたんだそうですけどね。
学問じゃねえなんて言われたんだって。
だけど、あの人はレベルが高いですから
決してそうじゃないんだけど、
ともかく様式がやぶれかぶれというか、
どうしてもいいというか、
いわゆる評論でいいんだという感じですよね。
だけど、中身はそうでなくてというようなことで
あるわけなんだけど、それは通らないですね。
それは典型的にそうで、それはヨーロッパもそうですけど、
あれはアメリカでは通るんですね、それは通ります。
糸井 そこが僕らの
アメリカに感じる魅力のほうなんでしょうね。
吉本 そうでしょうね。そう思います。
今言われたことはものすごくいいアメリカ論というか、
ものすごくはっきりして上等なアメリカ論だと思いますね。
僕はそう思いましたね。
そんなことを言う人、めったにいない。
それだけつかんだという感じの人っていないんですよね。
僕は、あるとき、アメリカっていうのを、
日本の留学した人たちがどういうふうに
言っているかなと。そうしたら、
栗本(慎一郎)さんみたいに南部の大学に行った人と、
こっちの人とは違うのね、
こっちの西海岸のほうの大学行った人とは。
アメリカについてのあれが違うんですよね。
だから、ああ、おやおやと思ってね。
統一的なアメリカというのはだれがあれしているんだと。
それは僕はちょっと見たことがないですね。
だから、今の一番、糸井さんの今の一番まとまってます。
僕が聞いた限りでは、一番まとまったアメリカ論ですね。
そうだと思いますね。よくわかりますね。
そういうところはよくわかります、
僕はそうだと思いますね。
そういうことと、あとは僕は、
アメリカってあんまり行ったこともないからあれだけどさ、
戦争中、戦争相手のアメリカっていうのと、
それからこっちが占領されたときのアメリカ
っていうのがあるんですね。
僕のアメリカというのはそれでつくられているんだけど、
戦争中のアメリカっていうのは、
そこから何を学んだのかという、
学んだのかしゃくにさわったのかわかりませんけど、
それはとにかく、何ていうのかな、
こんな島・・・何でもいいんですよ、
硫黄島でもなんでもいいですけど、サイパンでもいいけど、
こんな島で、たかが一万人足らずの人が
無理してひしめいて暮らしている、
そんなところを上陸して占領するのに、
とにかくすごい砲弾とかさ、
艦砲射撃とか爆弾とかめちゃくちゃ落としてさ、
もう何も余地はどこにもねえ、
当たらない余地はないという。
そしてこうやって占領しちゃうんだから、
それで上陸するんですよ。
日本のほうはそれでもってほとんどつぶされて、
何百人しか残らない。
洞穴に残ってたぐらいしかなくなっちゃうわけですよ。
もうそのやり方を見ていると、
もういったんやる気になったらアメリカというのは、
人がどう言おうが、人道に反するとか言おうが言うまいが
やっちゃうぞという、そこがやっぱりアメリカですね。
今でもそういうところありますけどね。
今テロ集団に大使館にロケット……。
糸井 全部壊しましたね。
吉本 壊しちゃうんだからさ、
あれむちゃくちゃと言えばむちゃくちゃですよね。
でも、ああいうのを日本人というのは、
日本人の人は甘いから、
あんなことはよくないんじゃないかって、こう言うけど、
確かによくないんですけど、だけど、あれなんだから、
自分らのあれもテロのあれにやられた、
とにかく人が何と言おうとやっちゃえという、こういう、
それはちょっとアメリカですね。
糸井 どこまで戦闘員かという考え方がやたらに
広いんじゃないかということですね。
吉本 広いでしょうね。
糸井 例えばの話、武器、弾薬をつくる女工さんが
仮にいたとしたら、その人たちが
たくさんつくるということは直接じゃないけど、
戦闘員ですよね。
そういう村ぐるみというか、国ぐるみというか、
その発想を発明したのは、組織論という機械のかたちで。
例えばの話、小さい島があって、
日本が占領しようというのに戦略を立てたときには、
方法を考えるんじゃないかという気がするんですね。
将棋の駒で言えば、この数以上に駒はないんだから、
これをどう効率的に人死に少なくして、
あとの使い道を考えて占領しようと考える。
でも、それをやるのは、
駒の数が限られているときの発想で。
でも、後ろに幾らでも武器、弾薬があって、
それをつくる人が協力してくれるとしたら、
そこまで全部利用すると、
おっ、弾は余っているから幾らでも撃てばと。

今、僕らの、話は飛びますけど、
ビジネスの社会が全くアメリカになっていますよね。
つまり、どこまで戦闘員かということでいえば、
技術者が三人でできますよということがあったとしても、
いや、後ろに二百人いますから、
これを全部使えば、天才じゃなくても
三人も頭いなくていいですから。
大勢で攻めれば何とかなりますよというやり方をすると、
これ、勝つんですよね、やっぱり。
どっちが勝つかというのは、
やっぱり大きなシステムを全部動かすというほうが
勝ちやすいんですね。
これは「巨大なゲリラ部隊」ですよね。巨大な。
今、アメリカニズムみたいに言われているものって、
どんどんそっちに行っちゃうんだけど、
失われるものの分量というのもやっぱりすごく多くて、
その人でなければいけないということが、
ご褒美のあげ方もわからなければ、
彼がやっていく理由もわからない。
そうすると、やっぱり旗を一つ立てて
シンボルを強く持たせないと
集団を統合できないというところで、
おそらく今のアメリカが
グローバルだと言い張っている体制が、
次のステップでモチベーションがばらばらになって
壊れるんじゃないかなと。
そうすると、やっぱりシンボルをつくってまとめるような
戦争ももうつくれないし。
そうすると、冗談じゃないですけれども、
宇宙戦争のイメージだとか、巨大隕石だとか、
そういうバーチャルなものだとかになっちゃう。
多分、モチベーションの不在で破綻する時代が
またくるだろう。
今のまんまだと、ほとんどの人が
言うことを聞いてないんですよ。
一部分の人たちが幻想のアメリカで
大きなシステムを動かしているけど、
ディズニーランドでも、
それをつくってビジネスしてる側でなく、
風船を持って歩いているお客の側、
ダイエットなんて考えてもいない太った夫婦は、
何かよくわからないけど、
グローバルどころじゃないわけで。
今何ができるのというところで生きているわけですから、
ここに随分スキができているなというのが
ぶらぶら歩いて見てきた僕の印象です。
モチベーションをつくれないというのはね。
つまりじゅうたん爆撃するときに、
工場で弾薬つくっている人が、
ちょっと前だったら星条旗ふることでまとまれたんですね。
兵隊さんが帰ってきたときに、
お帰りなさーいって旗をふっていた。
それがつくれなくなったら、
やっぱりあの巨大な大国も限界あるだろうなと。
やっぱりじゅうたん爆撃的に
大きい富をねらうみたいな世界戦略って、
もう終わったなと、終わるしかないかなと。
まだそのプロセスにいますけどね。
ですから、マイクロソフトが大体どっかで行き詰まって、
あれはまるで政府みたいな組織ですから。
そのときに、次に何がくるかというのを、
みんなが小さい市場を分割し合って、
ぴーちくぱーちくやり合って、
一番楽しい人が一番勝ちだなって、
そういう時代だってきっと、
案外早くきちゃうんだろうなと。
吉本 なるほどね。
いや、それはとてもおもしろいですね。



ながらく掲載の間があいていましたが、再開です。
できるかぎりナマの状態で文字化した、
「しゃべったまま」の掲載ですので、
多少読みにくいかもしれませんが、
声を想像して読んでくださると、うれしいです。
意外と江戸下町の「べらんめぇ調」なんですね、などと、
驚かれたりもしています。
4月26日発売の「週刊プレイボーイ」でも、
『吉本隆明・悪人正気頁』という
変則的な人生相談の企画もスタートしました。
合わせてお読みください。
そっちの第1回は「仕事について」です。
かなりラジカルな語りになっていますよー。

これを機会に、新しい読者の方々は、
はじめからお読みになってくださることを希望します。
で、この第8回は、
<アメリカのことを話している・2>です。

吉本 僕のはろくなことない・・・よた話だけど、
糸井さんの言ってることは、
アメリカ論として、ちゃんと、
論議の対象になりますから、
そりゃあもう、いいと思いますけど。
糸井 ただの床屋談義なんですけども。
吉本 いや、ちょっとおもしろいですね。
僕らは、アメリカってどうなんだろうな、
これからアメリカ、どうなっちゃうのかな
というのがあるんですよね。

経済的にも、
それから軍事的にもそうだけど、
過剰な責任を自分が背負い込んじゃって、
世界中どこでも、警察じゃないけど、ちゃんと人を
配置して考えていこうとしている。
経済的にもそうですしね。

僕が思うには、日本の経済不況みたいのが、
なかなか直んなかったら、
その次は、もうアメリカが出張ってきて、
金融援助みたいなのを日本にして、
そのかわり、向こうの金融専門家みたいなのが来てね。

それで、日本の経済、
こうせい、あれせいって指図する。
次の段階は、そうだと思うんですね。

だから、日本が、独力で不況を離脱できなかったら、
そうなるだろうなと思うんですよ。

そうすると、余計なお節介してくれるなと思うけども、
きっと、それ以外に、
ちょっと方法がないんだろうなと思うんですね。
日本がつぶれると、
世界経済の三分の一はつぶれるということになりますか。
そうはさせないためには、やっぱり、
アメリカが出張ってくる以外にないと、こうなります。

そういうこととは、今、糸井さんの話と
関連するわけですけど。
そうすると、余計なことをするとか、
主権国家に対して、
勝手に端から侵すようなことを言ったり、
やったりするじゃないかということになりますけどね。

僕、思うには、しかし、それは、
日本の政府、政党に対しては、
政党にとってはそうだけどね。
日本の一般の、何といいますか、国民といいますか、
国民一般にとっては、悪いこと言っていないんですよ。
アメリカが要求していることでね。
一般にとっては、早くやれ、早く不況から脱しろとか、
金融機関は整理して、それで、
社員をリストラしろって言ってるんじゃなくて、
首脳部で無能なやつは
みんなすっ飛ばしてかえちゃえとか言っているわけですね。
糸井 平にしろっていう話ですね。
吉本 そう、そう。言ってるわけですよね。

だから、それ、いずれも国民一般にとっては、
悪いこっちゃねえ。これは昔からそうで。
何かカードは、二十四時間、
全部有効に使えるようにしろとかって、
前からそういうことを言って。
そのときから、とにかく、
一般の人にとっては悪くないんですよ。

だから、黙ってりゃあいいっていうふうなもん
だろうと思うんだけど、でも、何ていいますか、
政府筋とか、政党筋から見れば、余計なって、
ほんとは思いますし、感情的にも、まあ、やっぱり、
日本は日本なんだからと、こうなりますけど。
でも、アメリカは過剰に世界中を背負いこんで、
それで、何とか自分流でもって、
自分たち流のやり方と考え方と、
それから、これがいいと思うことを、
やりまくっているというね、今、感じ。

さて、それでどうなんだ。
これから、どうなんだっていうことは、
やっぱり、大きな問題になると思えるんですよね。

だから、それは、まあ、ちょっと
直接経済問題とか軍事問題とか、
そういうことで言わないと、
糸井さんみたいに、今のようなところからいけば、
かなりな程度、わかりいいというか、
見通しがつきやすいぞみたいな気がしますね。
真っ正面からいくと、ちょっと……。
糸井 個々の問題、難しいですもんね。
 
吉本 難しいですよ。難しいですよね。
それで、何と余計なことをするんだ
というようなのばっかり、アメリカはやっていますけど。

その違う面から見ると、いやぁ、やっぱり、これは、
言い出しっぺなんだから、
力持ちなんだから、注意しようがねえじゃねえか。
ほかがぽしゃったら、
自分らが自腹を切ってやるよりしようがないじゃないか
という面から言えば、まあ、
妥当なことをやってることになると思うんですけどね。

だから、しかし、そんなことして、
アメリカはどこまで、どう行くかというのは、
僕も、問題だよなというふうに思いますね。
糸井 そんなに長い寿命じゃないですよね。
吉本 ないと思うんですけどね。
そこはやっぱり、問題な気がしますね。

そうすると、ちょっと違う側面からすれば、
わかりがいいということはありますからね。
今、糸井さんの言ったようなところからいくと、
わかりが、まあ、どこで、破れ目が出るかなというのが、
とても、わかりがいいように思いますね。
糸井 当面の手当てとしては、
アメリカの言うとおりなんですよね。
吉本 そうなんですよね。
糸井 れは、もうしようがないんで。
吉本 そうですねぇ。



「週刊プレイボーイ」でも、
『吉本隆明・悪人正気頁』という
変則的な人生相談の企画もスタートしました。
合わせてお読みください。
できましたらなんですが、新しい読者の方々は、
はじめからお読みになってくださることを希望します。
で、この第9回は、
<アメリカのことを話している・3>です。
しかし!本当に申し訳ないことなのですが、
少しずつ頻繁に掲載していこうとしたら、
実はちょっと不都合が出てきてしまいました。
今回、せっかく吉本さんのページなのに、
イトイがしゃべっているばっかりなんです。
吉本ファンの方は、うなづきつつ聞いている吉本隆明を
想像することで、しょうがねぇか、とあきらめてください。

糸井 僕は、前に、モノポリーというゲームの
世界大会に出たんですけど、
笑っちゃうほど、国民性が出てたんですよ。
アメリカ代表の親父っていうのが、
明らかに強いんですよ、腕も。
恐らく水準が一番上なのは、絶対、日本人だったんですが。
さっきの硫黄島じゃないですけども。

で、アメリカ人の親父が、多分全メンバー中で、
一番年上だったんですけど、
前の日のパーティーからもう「試合」しているんですよ。
弱小国のやつを集めては演説してるんですよ、
パーティーのときに。
英語が通じる人たちを、自分の周囲に、
さんざんサービスして集めて、
アメリカ人の周りに人垣ができてる状態にして。
このゲームっていうのは、こうおもしろいだの、
ああおもしろいだの言うんだけど、
それはやつの思うままにゲームを運ぶための、
翌日の試合のためのまき餌なんですよ。
吉本 (笑)うーん。
 
糸井 で、翌日になって。
演説聞いた人々は、
なるほどな、あの人の言うとおりだな、と。
全米チャンピオンですからね。
理にかなったことを言うわけですよね。

例えばテーブルごとに分かれてゲームしているときも、
他の国同士の人が交渉してるときでも、
まるで国連のように出てきて、
「いや、君、それは、こうじゃないか」とか言うんですよ。
で、もう、全く国際政治と同じに、すごいんですよ。
彼が言ってることのとおりにやると、
少し延命するんです、各、各国が。

ところが、絶対に言うことを聞かない
という人もいるわけです。すっごく弱い人たちとか、
勝ちきる自信のない人たちは、
何にも交渉しなければ、当面、
そのときには死なないんですけど、すぐ死ぬんですよ。
国交断絶型ですかね(笑)。

で、アメリカの言い分を聞いていると、
ちょっと生き延びるんですよ。そっくり、現実の政治と。
最後に勝つのはアメリカっていうシステムで、
何となく進んでいっているんですね。

それ、ベルリン大会のときだったんですけど。
そいつ、アメリカ人、優勝しなかったんですけどね。
やっぱり全部を掌握したって思ってても、
わけのわからない動きをする国があるわけで。
文化摩擦がゲーム的にもあるんですよ。

早い話が、あのゲームって、
せき払い一つも、他のプレイヤーに聞かせるために、
戦略としてせき払いするようなところがあるんですね。
例えばほかの人が交渉しているときに、
「まずいなぁ、それは」っていうのを、
ひとり言のようにつぶやくでしょ、すると、
「おっ、こいつは、これをやるとまずいのか」というのを、
無意識に聞いてるわけですね、敵が。
そういうようなのを戦略として、
ゲームテクニックとしてやるんですよ。

で、そういうテクニックを前日にまで広げ、
深くしたのが、アメリカ人のやり方で。
僕らは、逆に、東京でやっているときの、
そういう高度なテクニックが、
英語ができないもんで使えないんですよ。

つまり、「あら、あら、あらっ」というような一言が
ゲームでは効くんですね、実は、戦略としては。
それができないもんだから、やっぱり、
その英語っていう国際語で、
下手な言葉を正確に最低限言うだけの交渉しか
できないんで、相当損なんですよ。
英語が独り言のレベルで使えないと損ですね。

ただ、ルールにのっとった形で、
一番、将棋さしぐらいの戦略を持って臨んでいるのは、
僕らだけだと思うんで、その意味では、強いんですよ。

だから、やっぱり、日本人の、
僕の友達のチャンピオンが出場していて、
その大会では、もうほんとうにツキがなかったんですけど、
二位で終わったんですけども。
やっぱり、実力があるんですね。
アメリカ人はもっと前に、転んでたんですから。

そう考えると、これはもう、
ゲームと全く同じじゃないんですけども、やっぱり、
通じない人たちが、何するかわからないというのがあって、
意外に、そいう勢力まとめると、数が多いんですね。

「なぜ、君は正しいこのことをしないんだ」というのを、
いくらロジックで責めたてられても、
嫌なものは嫌で、さっきの最初の
人間理解の話じゃないですけど、
人間って、やっぱり、しようがないもんなんでね。
プライドだとか、くせだとか、そのときのムードだとか、
コントロールできそうで、できないものが
山ほどあるんですね。

それは、エリートビジネスマン同士の国際会議で、
解決できないと思うんですね。

死んでも特攻するやつがいたりするなんてことを、
やっぱり、いくら映画では描いてても、
アメリカの方法ではできないんだと思うんですよね。
意外に、全部を足すと、
小さいブロックを全部集めたほうが、
一番大きいひとつのブロックよりも大きいんですよ。
そのことに、アメリカ人でも気づいてる人がいる
のはわかるんですけどね。

ですから、外資系企業の
日本のトップやっているような人が、
「僕だっていつ首になるかわかんないですよ」とか
言いながらも、新しい動きを、
アメリカ人の言うマニュアルどおりにやらなくて、
できるはずだという動きをやって、
うまくいっている人がいたりすると、
「それはあるな」というふうに、
ちゃんと泳がせるアメリカ人も、また、いるんですね。
そこでの国際交流というのは、これは、
一番高度だと思うんですね。

ただ、その、全世界をつかめるような戦略は、
そこでは、やっぱり生まれないんですよ。
やっぱり、マイクロソフトの戦略みたいなところで、
一番母数の多いところをねらうには、どうしたらいいか。

この間、ある国際的企業の人と話していてて、
三十過ぎくらいの人なんだけど、
母数という考え方、すごく重んじるんですね。

母数が多ければ、ビジネスチャンスは大きい。
そういうシンプルな考えがあるらしい。
とにかく、どんな国でも、人工の3〜5%は金持っている
っていうわけですよ。

例えば、中国の人口のうちの3%から5%は金持ちだ。
そうすると、日本の金持ちの数よりも、
中国の3%をねらったほうが、
商品はたくさんはけるんですって。
あたりまえの考え方らしいんですけど、
僕なんか、へーって感心しちゃった。
とてもアメリカ型の考えの企業なんで、
きっと本部の社員たちには常識なんでしょうけど。

この考え方は、やっぱり、
さっきのじゅうたん爆撃なんですよ。
これは、おれらには、どうしても、
戦略がどうだの、その作戦は格好いいなみたいなことを
言っている人たちには、その、
思ってもやりたくないんですよ。

母数掛ける3%というのは、
とにかくどの国でも金持ちなんですって。
何でも買える人たちがそのぐらいいるんだ
というふうな発想で、
あらゆる国の富裕層を攻めていくような戦略というのは、
確かにやる人たちは、金は入るんですね。
ビジネスの成功もあるんですよ。

でも、その男の子として、短い人生を、
人生わずか五十年を生きていくときに、
幸福感からいうと、おーっ儲かったなって
拍手をもらったところで、飯は三度しか食えないし、
着る物だって、何度も着替えるわけにはいかないんだし、
どんなにもてちゃったって、
人工的な美女のハーレムをつくるのが精いっぱいだし、
どんちゃん騒ぎしたって疲れるしって考えると、
果して、今一番次の時代に重要なのは、やっぱり、
短い人生をどういうふうに生きていくかという
「幸福観」なんじゃないだろうか。




「週刊プレイボーイ」でも、
『吉本隆明・悪人正気頁』という
変則的な人生相談の企画もスタートしました。
合わせてお読みください。
できましたらなんですが、新しい読者の方々は、
はじめからお読みになってくださることを希望します。
で、この第10回は、
<これからの経済的幸福像って?>です。

糸井 で、量で、つまり、富の分量で競い合うという、
ベストテン思想みたいなものは、
やっぱり、貧乏臭いなって。

それは、アメリカという国が、やっぱり、
ヨーロッパという母親に愛されないで、
あの、何ていうか、早産してしまった子供と
同じような生まれ方をしていて、
吉本理論を、僕は、
簡単にとらえちゃっているんですけど、
やっぱり、ほんとはまだ歩かなくていいときに、
はいはいをしなきゃならないときに、
歩かなければならなかった国の貧乏臭さというのは、
全部分量で、比べられるところで、
何でもありルールで育つしかなかったんで、
太閤記を読むようにおもしろい部分はあるし、
立身出世物語、いっくらでもできるし、
アメリカンヒーローという形で。

でも、やっぱり、それって、
ほんとに楽しかったのかということを、
棺桶のふたをしめるときに思うようなアメリカ人が、
僕、二代目、三代目は、もう生まれていると思うんですよ。

で、そっちの人たちのほうが格好いいなというふうには、
大勢の気持ちをつかめないのはわかりきっているけども、
もうすでにアメリカ人の中に、
『売家と唐様で書く三代目』みたいな、
そういう思想が芽生えてて、一回はヒッピーという形で。
ヒッピーからヤッピーになって、
やっぱり、じれったいんで、
また、ビジネスマンとして復帰しちゃっている
みたいなとこあるんですけど、
どっかで、そのむなしさを、取り返そうとしている部分、
ジャンルというのが、やっぱり、
芸術の中にも、小さく、こう、芽が吹いているし、
その、人同士のつながりでも、
例えば、そのネット社会みたいになると、
主にアメリカと日本のつながりだと思うんですけど、
そこでの友達同士集めたら、三万人いたぞというような、
その仮想の共同体みたいなところで、
ああ、楽しかったって人生送れる豊かさというのは、
もしかしたら、もう無数にできて、
その三万人同士が、お互いに、貿易をするように、
情報の物々交換するような、
今まで見たことなかったようなユートピアというのが、
ひょっとしたら、一時的にしろ、できるんじゃないかな。

こういうものは、逆の立場の人が
「やっつけてやれ」と思ったら、
すぐ、つぶされるんですよ。
金でつぶれますからね、やっぱり。
スパイを送り込んだり、たぶらかしたりすれば、
幾らでも、そんなきれい風な動機なんていうのは、
壊れちゃうわけですよ。幸福観もずれますから、
それは、壊れちゃうのかもしれないんですけど、
少なくとも今まで、その、どう言ったらいいんでしょう、
道徳で人間の幸せについて述べる人たちと違う意味で、
もっと、ある意味で、ほんとうに気持ちいいこととか、
快楽を追求していったら、
案外物は要らなくなったみたいな、そういう、
貧乏出身の豊かさみたいなものが、
自分の中には、今、新しく、こう、
芽生えつつあるんですね。

これは、アメリカ人にもいるんですよ、きっと。
こういうのは、見たことないんですね、今まではね。
吉本 そうですね。
 
糸井 だから、お互いに育ち悪いもの同士で、
ちょうどいい自分の幸せ感みたいな。
吉本 そうですね。いやぁ、
僕はそこまではっきり考えたことはなかったですけど、
ただ、昔流、昔っていうか、明治、大正流の、
何か末は博士か大臣かとかっていうのだけは、
もう、終わったろう。(笑)

終わったというのは、何なんだろうというのは、
一生懸命、いろいろ考えますけどね。
そこまで、はっきり考えたことはないんですけど、
それはやっぱり、ちょっと考えざるを得ないですね。
何だろうなあということですよね。

いや、もう日本もきっと、少し、
そういうところに行きつつあるって、
今の若い世代って、そういうふうになってんのかなあ
とも思いますしね。
糸井 ひょっとしたらね。
吉本 ひょっとしたら、
そうじゃないかなとも思いますね。
糸井 いったん、とにかく、
お金という形で物差し当ててというのは、
やっぱり、まあ、かなり不滅なところあるんですけど、
終わりつつあるかな。

高い給料で引っ張ってきた社員たちが、
さて、いい仕事をするかというと、
意外にだめなんですね。
僕ら、いろんな業界、自分の近い業界で見ていると、
お金でスカウトしたりなんかした会社が、
今、危ない目に遭っているんですよ。

バブル期って、ゲーム業界なんか、
一人動いたら一億とか、
そういう話があったりしたんです。
あるいは、ハワイでゲームをつくりましょうとかね。
楽園でクリエーターの思うままに、
毎日、自由に最高の環境でやりましょうとか、
必ず外車がもらえますとか、
やったって話があるんですけど。
これが、実際は、日々精進していかないと、
クリエイティブって、やっぱり、つぶれるんですよ。
ある日よかったという人でも、意外に、
もう一年後には、大してよくないんですよね。

それを、さあ、こんないい環境ですよ、
お金もこんなにあげますよと言ったら、
その人、実はもう死んでるんですよ。
そうすると、もう、ものを生み出す力も、
実はお金でコントロールできなかった
ということなんですね。

そうすると、あれっ、お金万能じゃなかった、
ビジネス的にも。
経営者がそれに気づいても、
お金以外に何がモチベーションなのか見えなくなってる。

次は、単純に言うと、宗教なんですね。
カリスマのもとに集まればいいから。
宗教のバリエーションで、今、いろんな形で、
きっと、ボランティアとかやるんでしょうけども、
これも基盤は危なっかしいものではあるんで、
これはもう、どれもほんとに危なっかしいんですけど、
イエスの方舟みたいにしかなんないかなって。
吉本 そうですね。
糸井 ええ。
吉本 うーん、いや、そうでしょう。
いや、僕はイエスの方舟が一番宗教的、
新興宗教で言えば、
一番いいやり方してんじゃないかと思うんですけど、
何かの、あれを、こう、あれして。
糸井 サイズを大きくしないっていうことですね。
吉本 しないんですよね。それで、今、
思い出したんだけど、結局、経済、
まあ、金銭ということになりますけど、
経済本位で、理想の社会とか、
理想の状態というのを考え、まあ、仮に考えるとしますね。

そうすると、どういうことになるかというと、
全部が、全員が金利生活者になったら、
もう一番経済的には理想なわけなんですね。

具体的に言えば、自分が、何ていうか、
あるレストランならレストランに
資本をちゃんと投資していると。
そうしておいて、休みになったら、
家族、友人一同と一緒に、
そこのレストランへ食事に行って、
外食で楽しむんだといって、食事に行く。
そうすると、そいつは、食事をして楽しんで、
同時に、自分の投資したレストランなんか
もうかっている、自分がもうかってるわけですね。

理想的に言うと、それが一番、
全部がそうなったら、一番いいっていう、
終わりだっていう、終わりというか、一番いい……。
糸井 退屈になるとこありますね。
吉本 そうなっちゃうわけですね。
そうなっていくから、これが、すごく考えると、
マルクスから始まって、
社会の中核は経済現象だみたいから始まって、
アメリカの金融資本、高度の金融資本みたいな、
そういう発達したところの考えまでさ、やっぱり、
その経済問題が、その中核だっていう考え方を通すならば、
やっぱり、それじゃ全部が
金利生活者になったらどうなんだと。
そしたら、もう終わりというか、そうなるわけですね。

日本人の平均の貯蓄量が一千何百万だと、
こう言うでしょう。
それをべらぼうに増やして、何といいますか、
将来、ちゃんと食えると、
余生は食えるというふうなところまで、
それは貯蓄が増えたというんでもいいわけだし、
自分の投資したところで食事したら、
食って、なおかつ、それは食ったことがもうけなんだ
というふうにしてもいいわけだし.
これで理想かとなると、
ちょっと頭ひねっちゃう。(笑)
糸井 おかしい。
吉本 ひねっちゃうわけですね。
そりゃあ、何か、ちょっと違うぜというふうに思ったりね。
思ったりしますし、
さればとて、もうちっと
金があったらいいのになあという、
個人的にはそう思ったりは、
もう少し金があったらと思うし。




こんなふうに言うと、まるでいままでがつまらなかった
みたいに聞こえるかもしれないけれど、
自分で掲載用にまとめていても、
このあたりの話はおもしろいわぁ!
若い読者から、「おもしろぞ」というメールを
もらうのも、けっこううれしいですね、この連載。

「週刊プレイボーイ」でも、
『吉本隆明・悪人正機頁』という
変則的な人生相談の企画やってます。
合わせてお読みください。
で、この第11回は、
<ぽっくりと逝っちゃう時って>です。

吉本 不況があったら出版不況だこれはきついなあなんて
いうふうに、このきつさというのは
少しずつわかるんですね。

例えば出版社は、本を出してから三カ月後に、
まあ、最初の金を払うとかっていう、
こういう建前になっているとすると、
何となくどうもその期日が来ているような気がするんだけど、
全然、あれは、来ないなみたいなことが、
すっーと、こういうふうに。
 
糸井 具体的ですね。
吉本 そうすっと、ああ、やっぱり、
これ、そのせいと考える以外にないな
みたいになっていくんです。

そうすると、それも、僕、やっぱり、
経済現象が主体であるとそうなんです。

ということは、つまり、
支払いを、無限に延ばせば、要するに、
支払わないと同じになるわけです。
支払わなくていいということになっちゃうから、
だから、どんどん延ばせば、もう、
支払わなくてもいいという理屈になっちゃうんですよ。

だから、その途中の三カ月後というのを、
五カ月後にしたら、そりゃあ、大変なあれなんですよね。
支払わない利益になるわけです。

それは、一般にどんな企業も、
出版業でもそうだし、それは考えてるわけですよ。
そういう考え方をして、ずるずる、ずるずる、
わからないように、おくらしていくっていう、
支出に関してはそうだっていうのは、
だれでも考えやすいやり方で、
そういうふうに一般的になっていて。
まあ、出版界というのは、のん気なところだけど、
まあ、大体、そういうふうにやってきたな
という感じはするわけですけどね。

これを考えても、何となく、
この経済問題みたいなことを主体にして
ユートピアを考えると、
何かもう無限に支払いを延ばせばいいとかね。
とにかく、みんな金利生活者になればいいと、
こういう、つまり、すこぶる、
芳しくないイメージしか出てこないということ、
ありますね。

だから、いやぁ、これは何か違うんだよって。
何かなんだよって思うんだけど、
その何かって一体、これなら、
こういうのが満たされるというのはあるかな
みたいなふうに、やっぱり考えこみますね。

ただ、だから、僕は、その旧来の考え方も、
旧来の道徳的かつ倫理的考え方の延長線で考えて、
そういうふうに考えていくと、
何がユートピアなのかなというふうに言うと、
だれでもいいんですけど、
まあ、糸井さんでもいいし、僕でもいいけども、
僕なら僕が、こう何だかんだ言いながら、
こうやってて、それで、ぽっかりと、ぽっくりと、
そういうふうに逝っちゃったというふうになったら、
まあ、周りの人が、
何となくちょっと何かが
物足りねえんじゃないかというふうに思えるように、
そういうことは考えるんです。

でも、この考え方は、
旧来の考え方の延長線で考えて、
つまり、ほかのことはみんなもう無効で、
無効だと考えてもしようがねえんだとなってきて、
経済的な苦労も、
そういうふうに、今までの経済観念で考えたら、
もう、これ、金利生活者かね、
じゃなきゃずるして、何か無限に支払うことだけ、
支出することは無限に延ばすという、
それで行きゃあいいんじゃねえかというしか、
イメージが出てこないんですよ。

そうすると、今度は、そういうのを抜きにして考えると、
やっぱり、いる間は、
どうってことねえじゃねえかというふうに……。
糸井 相手にされもせずに。
吉本 (笑)されもせずに、何にもせずにとか、
こういうふうになる。
それで、そんなことは問題にならんじゃないか、
になっててね。

それで、結構、まあ、
楽しんだり、悲しんだりしながらやってて、
それで、まあ、いなくなったら、こう、
ちょっと物足りねえなという、何かが物足りない。
何が物足りないかわかんねえや。
糸井 あいつ、いねえやって。
吉本 うん。わかんねえやって。
あの、何だかわかりもしねえや。
でも、何となくというふうなのがね、
従来的な考えからいうと、
今、考えられるユートピアじゃないかなって思うんですね。

だけど、こりゃあ、ほんとに従来の、
まあ、何というか、旧来の考え方っていうかね、
その考え方の延長線上で言えることでね。
糸井 それは、南無阿弥陀仏ってことですね。




こんなふうに言うと、まるでいままでがつまらなかった
みたいに聞こえるかもしれないけれど、
自分で掲載用にまとめていても、
このあたりの話はおもしろいわぁ!
若い読者から、「おもしろぞ」というメールを
もらうのも、けっこううれしいですね、この連載。

「週刊プレイボーイ」でも、
『吉本隆明・悪人正機頁』という
変則的な人生相談の企画やってます。
合わせてお読みください。
で、この第12回は、
<親鸞の影響と親の背中>です。

吉本 そう、そう。南無阿弥陀仏ってことです。
念仏ですよ。念仏。
念仏なんて、一回唱えればいいってことで、
それでいいんじゃないかって、
こういうふうになっちゃうんですね。

それで、経済的に、金利生活者に、
借金は延ばせっていうのが、もう、
あんまりいいイメージじゃないっていうんなら、
まあ、それもいいイメージじゃないってということなら、
何かもっと違う、愉快そうなイメージっていうのを
何かこう、持ちたいものだということを考えますね。

まあ、糸井さんが、今、言ったことも、
やっぱり、一つのユートピアのイメージなんですよね。
僕はそう思いますけど。

これは、ちょっと考えどころだぜって、
今、考えどころだよって。
 
糸井 今、ですよね。
吉本 今なんですよ。今の課題であって、
文字どおり今の課題でね。
これは考えどころだぜっていうふうになって、
どういうのが一体いいのかねえというふうになりますね。
糸井 吉本さんは、だから、マルクス主義もかじったし、
その、哲学者とも言われるし、詩人とか、
いろんな言われ方をするけど、
浄土真宗の一人の信者であったという。
吉本 そう、そう。
糸井 そういったところなんですね。
吉本 そうなんだよ。
おれ、やっぱり、親鸞という人は、
日本の歴史の中で、一番いいんじゃないかなと
思ってるとおりに、どうも、
この影響はなかなか脱したり、こう、別に、
独立したりって、できないほど、
相当大きなものだなあっていうふうに思いますね。
糸井 親鸞とは、親和感があるわけですね。
吉本 そう、そう。ありますね。
これは、例えば、マルクスというのは、
レーニンから言わせれば、
レーニンとかエンゲルスとかっていう仲間から言わせれば、
とにかく、「幾世紀にわたって、
世界最大の思想家が」、死んだとき、
そう言っているんですけどね、「死んだ」と。
こういう意味で言ってるんですよ、その弔辞の中で。

それは、そういう関係ない人から見たって、
確かに、そのくらいの力はあった人だよなと思うけれども、
遠いですからね、いかんせん。
ドイツと日本、ドイツ人と日本人でもいいですけど、
そういう意味合いでは、感覚的にも、
情緒的にも遠いから、そういう意味では、
かなりそう思うけれども、ああ、そうかというだけで。
糸井 つまり、外側からでは
内を見るように、レーニンを見られないと。
吉本 見られないんですね。
これ、親鸞だと、それがやっぱり内側からだから、
何となく実感こもってくるところがあって、
これの影響は、僕らはとても大きいですね、
多いですね。

だけど、ほんとは、どうしたらいいかっていうことは、
まあ、ちょっとそれ以上というか、
それ以外のところで、考えないと。
考えというか、編み出さないといけないなあなんて、
一たん思うと、何が一体いいんだろうなというのが、
非常に今の問題として、
緊急な課題の、緊急な問題のような気がするんですけどね。
糸井 緊急ねえ、そうですね。
吉本 なかなかに、それはわからないですね。
ほんとにわからないけども、
旧来のそういう考えは、もうちょっとこれ・・・。
いずれもユートピアと言ったら、
もう非常に惨めなユートピアにしか見えないわけで、
これじゃちょっとというか、
しようがねえじゃねえかっていうことですね。
糸井 南無阿弥陀仏じゃ、こどもに言えないですよね。
吉本 そう、そう。
糸井 十六歳のこれから生きていく子に、
「早い話が南無阿弥陀仏だから」と言っても、
まだ、いろんなおもしろいことあるじゃないのって
言われたときに、言い返せないんですね。
吉本 そう、そう。有効じゃないんですよね。
これはねえ、南無阿弥陀仏はもう有効じゃないしね。
これは、教育も有効じゃないし、
もう、演技も有効じゃないしって、もう、
そこら辺のところまで、大体、
来てるんじゃないかと思うんですね。
現に、もう、これが限度、これが奥だって、
大人が言ったって、もちろん若い人は聞きもしないし、
そんなのは、あんまり信用してないよ
という子になっちゃうし、
お説教したって、お説教して聞くような若い者
っていうのは、そんなにいないし。
僕らでも、お説教、親から説教されたことで、
言うこと聞いたことはねえっていう。

結局、従来の親で、
最良のユートピア的親っていうのは、何かって、
父親でもいいんですけど、
何かっていったら、僕は、やっぱり、
後ろで、背中だっていうか。
親っていうのは背中だって、背中見せて、
見せる気がなくて見せてて、子供がそれを見てて、
ほおっーという感じで、何か感ずるっていう。
それは、従来型で言えば、
最良の父親、母親だっていうふうに、僕は思ってたけどね。

親父から説教されて聞いたことはねえっていう、
自分でも思っているわけで。
糸井 思い起こせば、だれでも心あたる。
吉本 背中からだったら、
ちょっと勉強したなっていうことは、ありますからね。
学んだ。だから、それは最良だった。
じゃあ、これからはどうなんだって言ったら、
何が最良、最良の親とか先生とか教師とか、
そういうものね、宗教家とか何でもいいですけど、
それは何なんだっていうのは、
すこぶるわかりにくいようにも思うんです。
何やっても、もう今の若い人には、
ほんというと、通用しないよ、
通じてないよというふうに思えるんですね。

それからまた、背中見ているほど悠長な若者は
あんまりいないし、いないから。
それはちょっともう親は親、子供は子供ということで、
これはもうしようがないんだよなというふうに、
思えるようなね。
そこまでもう来ているんだから、
じゃあ、何がユートピアなんだっていう、
親とか子供とか限定しなくても、
何がユートピアなんだということは、やっぱり、
考えどころだと思いますね。
糸井 緊急な追求事項、もしかしたら。
吉本 緊急な考え方ですね。
糸井 ほんとにリアリティーあるんですよ、それ。
みんな、なかなか通じないですね。
吉本 通じないですね。
糸井 緊急だからと思うからこそね、
今、どたばたしてるんだけど。
あんまり、みんな緊急だと思ってない。
緊急だと思っているのは、どうも家計のこととか、
ビジネスは緊急だというんですけどね。
吉本 いやぁ、それはね。
でも、まあ、逆に言えば、もう若い人で、
年食ってるやつの言うことがわかるとか、
これは何かこう実行するに値するなんて、
若い人がそう思ったら、
気持ち悪くてしようがないですよ、逆にね。
逆に、気持ち悪くてしようがない
っていう気もしますけどね。
気はするんだけど、まあ、つまり、
ちょうど背中を見せると同じように、
あんまり何も言わねえけど、後ろ見せているという、
それと同じような意味合いで、
何かユートピアということが、
言えたらいいなあとも思いますけどねえ。
糸井 いいですよね。




こんなふうに言うと、まるでいままでがつまらなかった
みたいに聞こえるかもしれないけれど、
自分で掲載用にまとめていても、
このあたりの話はおもしろいわぁ!
若い読者から、「おもしろぞ」というメールを
もらうのも、けっこううれしいですね、この連載。

「週刊プレイボーイ」でも、
『吉本隆明・悪人正機頁』という
変則的な人生相談の企画やってます。
合わせてお読みください。
で、この第13回は、
<じぶんへの修正>です。

吉本 そこは、やっぱり、なかなかならないですよね、
社会全般、日本の社会見たって、
背中見たら、もうどうしようもないじゃないって
いうふうにしか見えないし、
お説教されても、何言ってやがんだと
いうふうになっちゃいますしね。

これは、ちょっとそういう、まあ、
社会全体でもいいし、何でもいいんですけども、
そういうのは、ちょっと黙って、
ともかく、これはユートピアだっていうのは、
こう目の前に出てくれたら、これはありがたいわけだし、
また、つくれたら、大したもんだなと思いますし、
それはほんとうに緊急な気がしますね。

今だったら、もう切れてるだけだっていう。
切れて、世代的にも切れるし、職業的にも切れるしって、
こういうことが、もうどんどん極まっていくみたいなね。
それしかないような気がしてしようがないですけどね、
ほんとに。
糸井 吉本さんが、緊急っていう言葉で、その感じを、
こう何ていうかな、心の底から、こう、
思えるようになったのは、
いつごろのタイミングだと思いますか、ご自分では。
 
吉本 自分じゃあ、自分で僕は、
あの『我が転向』じゃないけど、
70年のちょっと過ぎたころに、
全部、おれはこう思っていたという・・・
社会のイメージも、それから、まあ、
倫理的なイメージも、自分の、その、
自分は何を、何ていうんだろう、目的というか、
モチーフとして、生活して生きていくんだみたいな、
生きていくんだみたいなことも絡めてね。
こりゃあ、言葉のところからちょっと外れてるぞというか、
何かそういう感じがしたときがあるんですね。
そのときからですよ。それは70年ごろですよ。
70年前後ですよ。

おれの考え、今までいいと思って考えてきた、
きて、思ってたイメージとみんな違う、
ちょっと違うぞっていう感じになってきたんです。
こりゃあ、いけねえ
っていう感じになってきてからですよね。
糸井 出版物で言うと、やっぱり、『共同幻想論』の時期。
吉本 そうですね。
『共同幻想論』の延長線で、僕は、
『マス・イメージ論』というのと、
それから『ハイ・イメージ論』というのをやったときに、
このときに、そういうのをもう典型的に、
それを何とか自分で対応ができないのかなって
いうふうに思っても、できなかったんですけど。
でも、試みは試みとしてやったんですね。
だから、それは『共同幻想論』の延長で
やろうというふうに。
糸井 なんか鉄道から飛行機になったぐらい
違いましたね。
吉本 そうなんですね、そうなんです。
それはね、そう思ったんですよ。
だけど、ちっともうまくはいってないんだけど、
そのころから、そういうふうに、
そのころ、初めてね、おい、おれ、
おっかしいよなっていう感じになったんですね。

そのおかしいよっていうのは、
今だって続いてるって言やあ、続いているんだけど。
あの、これはしようがねえなあっていう、
こんなんで、こんなピンが狂った感じでは、
ちょっとどうしようもないじゃないのって
いうことになって、
ちょっと考えを修正しないといけないなあ
みたいなことを思い出してね。
それからが、ですね、あの……。
糸井 ずっーと緊急だと思いながら。
吉本 緊急だと思いながら。
だから、それはちょうど、何ていうか、
ピン、まあ、その、適切、不適切で言えば、
不適切であったから、
適切のほうに行こう行こうという感じに
なったっていうことなんですね。
そうなんです。実は今も続いてって、続いてて、
続いているうちに、あの、
体はやわになるしというのが今の現状でね。

で、ちょっとどういうことになるのかな、
どういうところに、
こう糸口があるのかなということにね。
僕は人のに聞き耳を立ててるっていうか、
本で言えば、
うまくすぱっとやってるやつはいねえかとか言ったりとか、
聞き耳を立てるとかっていうのは、
割合に熱心なんですけどね。
熱心なんですけど、なかなか、
それは適切なことは言ってくんないですよね。
適切の少し外側のところは、大体、
みんな同じようなことを考えるなあみたいに、
そういうところは、あるんですけどね。

だから、その適切のほうに、少し、
あるいは緊急なほうに少しでも、
こう出ていくっていうのは、
出ているっていうようなことがあるとね、
僕は物珍しくってていうか、だから、
糸井さんの今の話とか、さっきのアメリカの話とか、
アメリカ論みたいなのとは、それはちょっと、
ほう、初耳だぜとか、ああ、これはちょっと新しい、
こう、何か刺激を加えるぜという
感じがしているんですけどね。

それは、もっとほんとは全面的にあれしない、
してくれるね、あれがあったら、いいなあと。
糸井 やらなきゃだめですよね。
吉本 そうですね。まあ、少しずつ部分的に、
少しずつは集まっててもいいんだけど、
そういうのがないと、これはちょっと
緊急に間に合わんぜというか、
困るぜってなっちゃうような気がしますね。

もう、僕らのときは、
まだ、前の世代とちょっとつながっている
ようなところがあったけど、
今はもう、そういうのはないですからね。

つまり、僕なら、例えば中野重治っていうと、
これは昔プロレタリア文学で、
戦後も進歩的文学者でって、こういうふうで、
それで、こういう作品を書いて、こういうとこへ、
おもしろいとこでとか。
糸井 そういう記述は書けますよね。
吉本 記述が書けるわけで。
今の若い二十代でも、三十代でも
きっとそうと思いますけれども、
もう、中野重治って言ったって、
そんなに知らないと思いますね。
知ってたって、
名前は聞いたことがあるよっていうけども、
どういう人で、僕らの世代が若いころは、
どれだけ、この人の言うことが、影響を与えたかという、
その大きさはもう全然わかんない。
なに?、そういう人、確かにいたなあっていうか、
名前だけは知ってるけど、
うん、どんな人かわかんねえっていうふうに
なっていると思いますね。
文学でも、そうなってると思いますね。
糸井 文学全部そうですね。
吉本 なってますね。



第14回は、
<ロシア文学は退屈である>です。

糸井 太宰治の入り方が、
ブランドとして完全に残ったですね。
吉本 そうですね、そうなんですね。
糸井 太宰治を読む私っていう形での、
ライフスタイルブランドとして残ったけども、
文学としては、僕は完全に、やっぱり。
 
吉本 そうなんですね。
糸井 息絶えてる。
吉本 息絶えてんですよね。絶えちゃってる。
もう、これはちょっとどうすることもできない
気がしますね。
僕は、そういう気がしてならないんですよ。

それで、今、糸井さんが、
例えば、アメリカとか、
僕がイメージしているアメリカっていうイメージが
あるでしょう。
僕に一番、例えばロシアって、ソビエトですね、
ソビエトから今のロシアっていうのにかけて、
一番鮮やかなイメージを与えてくれたのは、
内村さんという人なんですよ。内村剛介って人なんです。

この人は、文学で言うと、
ロシア文学っていうのがあって、それはまあ、
ドストエフスキーとかトルストイとかって、
こう偉大なっていいますかね、
世界的な文学者という小説家がいて、
そうすると、この人たち、この小説というのは、
確かに、もう、すごいなっていうふうに思うけれどもね、
退屈だなって思うところもあるんですよね。
あの、こう、何ていったらいいんでしょう、
繰り返しでもないんですけどね、あの、
何かここまでこういうことを、
ごてごて言わんでもいいじゃないのっていう。
糸井 神様との関係とかですね。
吉本 そう、そう。
それで、小説だからね、
もうもっとすらすらと読みいいように、
流れがあったほうがいいじゃないかと思うでしょう。
それで、何でこんなに、
小説の中でお説教しちゃったり、
信仰問答しちゃったりね。、
何だあ、これはっていうふうに思いながら、まあ、
読んでくるわけですね。読んできたわけですよ。
そうすると、内村剛介は鮮やかに、
そのイメージを言ってくれたんですよ。

つまり、ロシア人っていうのは、
例えば地下鉄なら地下鉄に乗るとする。
そして、地下鉄に乗って、まあ、
日本で言うとさ、定期券でさ、
キセルやってやれと思ってさ、やってね、
それで見つかったときと、見つからないときがある。
僕は見つかったことありますけど。
見つかると、三カ月分金取られちゃうんですよ。
金取ってね。

それで、しかも、どういう金を取るかというと、
僕、学校行ってるとき、見つかったんですけど、
目蒲線というのがあってね、目蒲線の大岡山でしょう。
それで、それなのに、
何か田園調布のほう回って渋谷のほうに出た、
その料金で、三カ月分取るわけですよ。
それで、返してくれないのかって、
定期を見せたら、
いや、これは少し預かりますとか言われてね。
金は取られるしね、おれ、こっちから行ってんだから、
こっちの金じゃだめなのかって言ったら、
そうじゃないんだと。
規定だからね、遠回り、田園調布を回って、こう行くね、
中目黒も回って、渋谷へ行く、その料金だって。
こんなばかなのあるかと思って。
そういうことありましたけどね。

内村剛介が言うには、そういうキセルをやってね。
地下鉄でキセルをやってとか、
インチキして見つかっちゃった。
そういう場合に、日本と違うところは、
日本人と違うところは、
とにかく、へ理屈をこねるというんですよね。
へ理屈をこねて、そのへ理屈が通っちゃったら、
いいって、許してくれるんだっていうんですよ。
要するに、よろしいって言うんだって。
そのへ理屈が通っちゃうというところが、
ロシア人だっていうんですよね。

それで、おれは、トルストイの『戦争と平和』とかさ、
戦争論みたいな、こんなに長くやっているのに、
ばかじゃねえかと思うぐらい、
余計なことじゃねえかって思うんだけどさ、
やってるでしょう。

あれは、私は初めてわかりましたよね、そう言われて。
理屈が通っちゃったらね、理屈が通っちゃったら、全部、
もうインチキってわかってたっていいんだって。
わかってたって、理屈、へ理屈でね、とにかく、
あれしちゃってね、もう納得させちゃったら、
そしたら、いいです、いいんだって
いうふうに言ってくれるんだって。
それは、やっぱり、ロシア人だよって。
ロシア人っていうのは、そうなんだっていう。

それで、おれは初めてトルストイとか、
ドストエフスキーの、あのしち面倒なという、
言わんでもいいようなことをたくさん書いてあるんで、
それは初めて、ほおーっ、わかったなって思いましたね。
糸井 僕も今聞いて、さかのぼってわかりましたよ。
吉本 いや、そうなんですよ。
糸井 何でドストエフスキーが好きだったかも
わかりましたよ、実を言うと。
吉本 そうなんですよね。すごいそうなんだって。
ほんとにそうなんだって。
糸井 どう言ったらいいのかな、若いときに、
何でもわかる先輩がほしいわけですよね。
だから、ドストエフスキーは、僕にとって、
今、今の話聞いてわかったのは、百科事典だったんですよ。
吉本 そうなんだろうなあ。
糸井 全部入ってるから、
この人が一番だって思えるような。
吉本 そうなんでしょうね。とにかく、そうですよ。
宗教から。
糸井 全部入ってますよ。
吉本 全部入ってるんですよね。
いやあ、こりゃあね、いや、それはね。
糸井 栄養ありそうで。
吉本 (笑)栄養ありそうで。
そりゃあね、内村剛介が説明してくれたんですよ。
だから、彼は、ものすごくよく、それを心得てね。
あの、会社勤めのときは随分助かりましたよとか、
言ってましたけどね。
いやぁ、その心得てってすごいですね。
そうしたら、初めて僕はわかって、
ロシア人というのは、そうですよっていう。

それと、あの人から教わったのは、
ウオッカの飲み方というの。
これは、ロシア人って、酒みんな強くて、
ウオッカで一斉に乾杯してさ、
あんまり日本人がすぐつぶれちゃうのに
平気だというのがあるでしょう。
確かに、酒飲み、寒いから酒飲みだっていうのもね。
要するに、あれは、口を通さないんだって。
すぐに、いきなりのどに行く、
つまり、のど仏の下にいくような感じで飲むんだって。
そしたら大丈夫ですよって、これ、大丈夫なんだって。
ほんとのロシア人の飲み方は、そうなんだって。

もっとも、口の中に入れて、こう、
含んだみたいになったら、これは、
全部回っちゃうというくらい回っちゃうからね。
そんなことしないんだ。いきなり、もう口を、
ほんとなら、口をさわりもしないで、
いきなり食道行かせちゃうみたいな感じで飲むんだってね。
そりゃあもう、彼が教えてくれて、
それは一般的にいうと強い、強い酒っていうか
アルコールを飲むときは、そうする。
糸井 テキーラなんかも、そういう。
吉本 そう。それはいいんだっていうふうにね、
彼は盛んに言ってまして。
糸井 つまり、味覚と関係なく酒があるっていうような。
吉本 そう、そう。それも、おもしろかったですけどね。
糸井 なるほどなあ。
日本人は、もしかしたら、飲まなくっても、
口の中にあるだけでいいかもしんないですね。
吉本 そうなんですよね。
それで、もう酔っぱらっちゃうみたい。
それから、酒粕のこうにおいをかいただけで、
酔っぱらっちゃう人いるっていうものね、日本人で。
糸井 色気がある。(笑)
吉本 いますからね。それくらい、
そういう飲み方すれば、いいんですよって、
こういうふうに、もっと非合法なことも言ってましたけど、
それはそれとして。
糸井 どそれはどういう。
吉本 合法的なね、文学関係とかも、
そういうあれでいうと、そうなんだって。
それから、もう人間関係ってそうなんだって。
あのへ理屈の好きさっていうのは、ちょっとそれは、
また独特でね、あいつはちょっと心得ていると、
心得てないとでは、まるで違っちゃうんですよなんて。
糸井 今、二度、びっくりしたんですよ。
吉本さんが、
何でこんな回りくどい退屈なことを書くんだと思いながら、
トルストイを読んでいたってことを知って、
おれと同じじゃないかって。(笑)
吉本 そうなんですよ。そうなんです。
ほんとにそうだったんです。
糸井 まず、一度、それで浮かんだと思って。(笑)
吉本 そうなんですよね。
糸井 退屈ですよ。我慢ですよね。
吉本 ほんとに我慢しないと、読めない
読みおおせないというやつ。
それをさ、ロシア文学者っていうのは、
そういうことも一緒言ってくれればいいんですけど、
なかなか言ってくれなくて。
糸井 我慢だって、そう思って読んだけど。
吉本 名作だばっかりは言うんですけどね。
それは言わないんですね。それ、言ってくれりゃあ。
内村剛介が初めてですね。
糸井 助かりましたね。
吉本 言ってくれのたは初めてですね。
これは、日本の古典でもそうでね。
ほら、よく、国文学の古典のあれとかさ、
近ごろだと、瀬戸内寂聴がさ、
源氏物語の現代語訳したばっかりだから、
あの人は時々、テレビに出てきて、
源氏物語の話なんかするんですよね。
してさ、だけど、して、すばらしいことばっかり、
すばらしい点とすばらしいことばっかり言うんだけど、
ほんと言ったら、あんな退屈な。
糸井 ほとんど退屈ですよね。
吉本 退屈ですよ。
あれって、特にさ、たかが、
たかがって言ったら悪いけどさ、要するに、
男と女が、まあ、通って仲よくなってどうしたとか、
別れたとか、そういう話でしょう。
それを綿々とやるわけですからね。
それで、まあ、その時々、女の人が、
対象が変わるから、まあまあ、それは。
糸井 飽きないで。
吉本 飽きないでね。
バリエーションがあるけど、いずれにしても、しかし、
やることは同じだし、
描写も同じことを描写せなならんわけでさ、
退屈だっていうことを言わなければ、
あれは、だめだと思うんですね。
でも、言わないもんね、退屈だって。
糸井 気持ちいいな、そんな……。
吉本 (笑)退屈だ、退屈だって言わないですよ、
そういう人たちは。
名作の、すごい名作だ、名作だ、ばっかり。
糸井 でも、それって、
結局ブランドを守っているビジネスですよね。
吉本 そういうことですよね。それだけのことです。
糸井 エルメスだよって話ですよね。
吉本 そう、そう。それだけですよね。
糸井 それはねえ、ずるいなと思うんですよ。
吉本 そうですよね。
それはもう、いやぁ、僕はほんとにそう思いますね。
糸井さんの専門のほうのあれで言うとさ、僕、今、
目はあれだから、そんなに熱心じゃないけど、
まあ、今も見てるテレビの番組で、
おもしろいなっていうふうに、
まだ、依然としておもしろいなって
いうふうに言ったらいいのか、
あれは、一つは、さんまの何ていうんだろう。
糸井さんも、出たことあるよね。
糸井 「踊るさんま御殿」、おもしろいですよ。



第15回は、
<さんまと広告とインターネット>です。

糸井 「踊るさんま御殿」、おもしろいですよ。
(上の1行、前回と重複)
吉本 ああ、あれはものすごく、
まだ、おもしろいというか、番組ですね。

それから、もう一つは、あの関西のほうのさ、
えーと、あの人は何ていったっけな。
上岡龍太郎というのがやってる
上岡探偵局というのがあるでしょう。
それは日曜だと思いました。
糸井 テレビ何だっけな、
とにかく、何か依頼人がいて、テレビ探偵局とか何とか。
 
吉本 そう、そう。そういうあれですよね。
それで、そういって、あれって、
それは結構、今でもおもしろいと思って見てます。

それで、あとはもう、タモリもまだおもしろいですね。
おもしろいと思います。

ついでだけど、もうたけしはもう、
自分でそうしているんでしょうけども、もう、
おもしろいっていうのやめちゃったっていう。
糸井 そこは降りてますね。
吉本 おりちゃったという感じがしますね。
そうすると、おもしろいのはそれだけだって
いうようになると、そうすると、
今度は、ああいうものが、テレビとして、
テレビの番組要素として、
何がどこをどういうふうにして、
あれ、おもしろいと感じているのかということが、
問題になると思うんですね。

これは、ニュース番組でさ、
単にニュースだけじゃなくて、
ワイドにしてさ、ちょっと劇的な要素というのを
入れちゃって、ニュースの報道番組にしているというのと、
同じようないろんな意味合いが、
こう全部入れているのかなという気も。
だから、おもしろいというのかなという気も
するんですけど、よくわからないところですね。

それから、広告、CMのあれでもって言うと、
ほらっ、あの人何ていうんだっけな、
悪役の人が出てきてさ、青汁、青汁まずいって、
「もう一杯」とかいう、
あれは結構、印象深く残っているんですね。
ああ、これはうまく印象を作ってるなというふうに
思っているんですけどね。
あまり金もかけないで、
結構、やってるなという感じがするんですけどね。

あとは、ちょっと、今の糸井さんの専門のほうのさ、
このテレビのCMっていうの、
ちょっと、僕もつかめないし。
糸井 CMは、今、もうぼろぼろです。
吉本 つかめないなあっていうとこあるんですけどね。
糸井 何のために広告するかという意味が、さっきの、
その人間の幸福論に近いモチベーションが
わかんなくなっているんですよ。
で、商品名を覚えさせるためにっていうことだけで言うと、
コストが高過ぎるんですね。

つまり、一人頭三十円かけて、
名前を覚えてもらったところで、
好きになってくんないと意味ないわけですよ。

ところが、テレビ、
今までは、名前を覚えてるということで、
流通との関係なんですけど、
仕入れ先がみんなの知っている商品を仕入れたほうが
売りやすいわけですね。
問屋があって小売り業者だというふうには。

ですから、その仕組みの中では、名前を覚えてもらう。
それには、何がきくのというようなことが、
はっきり言えるということが非常に重要だった。
ほんとは、その時代が終わったんですよ。

つまり、その、先ほどのお話で言うと、
母数を獲得するための戦略しては、
非常に成り立つんですけども、
対そのコストパフォーマンスで考えると、
好きじゃないけど知ってるというものの数が、
多くなり過ぎたんですよ。

そうしたときに、今みたいな不景気になったら、
この流通の仕組みも、今、揺るいでいるところで、
果して、何をやると、広告は
マスメディアを使って意味があるだろうかって、
答え出せる人が、おそらく、いないんですよ。

例えば、宣伝は一つもしてないけれども、
全国で何万店あるコンビニエンスストアに
必ず置いてある商品のほうが、
置いてないけどもだれでも知ってる商品よりも、
売るチャンスはあるわけですね。

今、特に不況になると、経済原理がぐっと、
その貨幣信仰になりますからね。
そうなったときには、広告しなくても、
置いてもらえるということのほうが重要になるわけですよ。
たくさん置いたらそれだけ、ペイするということなんです。
そうすると、広告の意味っていうのが、
かつてと意味は変わるわけですね。

吉本さんが広告に興味を持ってた時代というのは、
この会社を好きになるっていう部分で、
好きな会社から供給を受けようというムードをつくる
という広告が、まあ、モチベーションとしては、
一番あり得た時代なんですね。

ところが、そうじゃなくって、
どういうふうに流通チャンネルを広げて母数を増やそうか
っていうときには、広告は、やっぱり、
意味がわからなくなるんです。

ですから、基本的には、マスメディアを使う広告は、
ゾンビになっちゃったというか、死体なんですよ。
そこでのやり方はもちろんあるんで、
全体にどういう仕組みをつくったら、
一番効率よく、しかも、好意を減らさずにできるか
というやり方はあるんですけど。
そこまでのことだと、今度は、
そのクリエーターのモチベーションにつながりにくく
なるんですね。自分がやってる意味みたいな。

いったん広告屋さんのブームも、
もう終わっちゃったですけども、まだ、
若い人は、名を上げたいだとか、
拍手されたいというのがありますから、
おれがやったというにおいをどれだけ出すかというところに
モチベーションがあるわけです。

でも、それはやっぱり、やせてるんですよ。
やせているんで、世の中とのかかわりじゃなく、
おれがやったでは、どんなに人の間に盛んに、こう、
受け入れられても、やっぱり次につながらないんですよ。

やっぱり、広告の今の位置というのは、
小さい会社が、中くらい以上になるために、
名前を覚えてもらうという手法が、
一番ピンとくるんですね。

吉本さんが今おっしゃった青汁なんかは、
典型的にそうで、メジャーなブランドになる寸前の
ところにあるものですから、
ああ、印象深く覚えたぞという、
昔の文脈、時代劇を楽しむように、
その広告の意味がはっきりするんですよ。

ですから、そういうものが、
今、印象深くとらえられるっていうのは、
おそらく、ほかの、
名前を覚えたからって好きにはならないぞというのと、
ちょうど対をなしているんだと思いますね。
吉本 なるほど。うーん。
糸井 多分、広告だけで言うと、
好きになってもらうかどうかという競争は、
これから、改めてもっと出てくるんだろうなって。

で、この間、お邪魔したときに、
ちょっと言ったかもしれないですけど、
コンピュータで使うソフトで、
シエアウエアという概念があって。
シエアウエアというのは、この道具、
まあ、プログラムの道具なんですけれども、
この道具は、あなたがここから吸い込む、
通信で吸い込んで、使えるようになりますよと。
ただで吸い込めますよと。
で、お金を払う気がある人は、後のフォローもしますから、
ここに幾ら振り込んでくださいというシステムで。
ただ配っているもので、
コンピュータが、どんどん、
道具を増やしているわけですね。
店で売っていないんだけど、インターネットで、
プログラムとれちゃうわけですよ。

そうすると、払うか払わないかというのは、
個人の裁量に任されているんですね。

昔の、その、ホモエコノミクスとしての人間は、
払うか払わないかという選択は、
一も二もなく、払わないって決めて
るんですね。キセルじゃなくて、罰則もないんですよ。
でも、これがね、払うんですよ。

で、払うのと払わないの区別があるんですよ。
僕自身も、払っているやつと
払っていないやつがあるんです。
これは、好意の多寡の問題なんですよ。
好きなら、好きな会社の好きなソフトに払うし、
例えば僕、友達にこれ使いなよって勧めたソフトを
代理に払ってあげたりまでもしていますよ。五人に配って。

で、特に名前を上げないけれども、
どうも好きじゃない会社のソフトは、CDで買っても、
おお、これ、おれ持ってるから、使いなよとかいって、
まあ、海賊版にしちゃうわけですね。
ただで使っちゃってて。
ほんとは、僕は、ソフトで商売している人間なんで、
全部に払うのが、道だとは思うんですけども、
あの会社に払う気にならないという気持ちで

(テープがえ)

……近いんですけど、ですから、
マスメディアを使って、
硫黄島を全部爆撃するような広告は、
これからも、ずっと続くとは思うんですね。

でも、それが、工場を建てて、生産拡大してって
考えると、当然、作るのは物ですから、
今はやりの収穫逓減していくわけですけど。
そうなったときのことまで考えると、
一番いいバランスのところで、
従業員の給料が少しずつ上がりながら
物をつくっていくような、
で、次の物をまたつくっていけるような
会社の仕組みみたいなものを考えて、
3万人おきゃくさんがいれば商売になるな
というような企業がたくさんできるという夢に、
やっぱりまた、僕の考えはなっていくと。

広告の意味も、今、僕はインターネットなんかを、
こんなに一生懸命やってるのも、その可能性があるから。
だから、吉本さんちのお母さんが「尋ね人」をやっても、
一人でも見つかったら、
これはこれでおもしろいわねって発想でおやりになったら、
一日で二人見つかっちゃう。
じゅうたん爆撃しても、こんな見つからないんですよ、
きっと。

そう考える、見ようと思ってる人に、
ある情報が届くっていう世界があるんだって。
二人見つかったということを、月曜日も書きますから、
呼び水になって、また、
ゲームとして好奇心を刺激するわけですよね。
すると、おれも墨田区にいるんだけどって
いうような人だとか、
この山本さんっていう人、おれは知ってるかも
しれないなって、電話してみるとか、そういう、その、
どう言ったらいいんでしょうね。遊びになるんですね。

これは、名前を覚えてもらって、
知ってるものだから買うというような、
人間の、その好奇心とか知性をばかにしたやり方
じゃなくって、広告は成り立つんじゃないかなあって。

もっと言うと、今、広告スポンサーにも、
僕は、ある商品の、ある部分の欠点について、
僕は述べますよって。
ここは欠点だけども、そんなものは、
どんな商品だってあるものだし、その欠点はありながらも、
そのいいところは、ちゃんと伝えられるぞと。
新聞広告を十五段買ったら、二千万とかになっちゃうけど
ここでは、そんなに部数はないけれども、
書きたいことはいっくら書いても、
インターネットってただなんですね。
この分量がなければ伝えられないことを、
たっぷりも言えるし、少なくも言える。

しかも、欠点も言って、
おれが思ってることを正直に語って、
広告屋をやれるとしたら、
おれはそんなにもうからなくても、
自分の幸せ感には、はっきりつながるから、
まあ、これからどう発展していくかということについても、
大体あきらめて、少なくとも、その、
ばかにされないくらいの数字にはなるでしょうと。

とやると、ここで、何人食わせられるかな
という規模もあるけども、
ここまでで打ちどめねっていうやり方もできるし、
そこから卒業していく人は、
また、違うことをやればいいし、
固定しないで、その都度、
リンクがつながっていくみたいにやっていくビジネス
というのを模索して、うまくいったら、ま、いいなあと。

あとは、組織論として、
さっきの米の飯をどういうふうに手に入れるかって
いう部分で、これは、やっぱり、お金なくって、
糸井さんがよそで稼いでいるから、そういうこと
できるんですよって言われるのも、しゃくなんで、
何とか、今はほんとにそうなんですけど、
たぶん、かつかつ食えるぐらいにはなるだろうし、
賃上げもできるんだよというシステムを考えるために
どうしたらいいかというと、
先ほどの吉本さんの金利じゃないですけど、
やっぱり、ストック・オプションの考え方とか、
従業員が経営者を少しずつ兼ねているというような形で 、
少し頑張ることが、少しお金が入ることになるような
つながり方が、組織論として多分必要だろうな。
今のまんまじゃ僕の宗教になってしまうので、
そのときにはやっぱり、
信者を離さないためにうそついたりすることに
なり得るわけですよ。

ですから、そこのところは、今から、
僕はあまり自分を信用していない人間なんで、
危なっかしいところは、
なるべく、今から手を打っといてと思っているんですけど、
まあ、お金が回らなくなったら、すぐつぶれるんですけど。
少なくとも、今、考えている限りでは、
小さい回転だったらできるんじゃないかなと。

これが、今の、その、まあ、
短い説明でしかないんですけど、
広告のある現状とコミュニケーションですね。

それから、さっき、テレビ番組の話で、
吉本さん、おっしゃったのは、
やっぱり、さんまって天才に、今のテレビって、
おんぶしてるんですよね。
あれは、病的に天才です、さんまさんって。
あの速度で、自分が楽しいっていうことを伝えながら、
おもしろいことを絶えず見つけていける人って、
ほかにはいないですね。
吉本 ああ、そうか。
糸井 金利の話でもそうですけれど、
ギャグを遅延させてしまったら、価値がなくなりますよ。
それを、例えばさんまさんって、あの、先に笑いますよね。
つまり、利息をお支払いしますよっていう話を、
三日間ぐらい大騒ぎで、鐘や太鼓でやっといて、
ほんとに、一カ月先じゃなくて、三日先に、
その金利三%かもしんない、五%より少ないけれども、
払ってくれる人なんですよ。
あんなに、絶えず、払ってくれるお笑いタレントって、
ほかにはいないんですよね。
吉本 ああ、なるほど、よくわかりますね。



第16回は、
<そして、タモリ>です。

糸井 ですから、「さんま御殿」は、
システムとしてだけ言えば、
僕は、そろそろ危ないなと思っているんですよ。

つまり、芸能人たちの、
この人たちも一般の人と同じじゃないかという話を
順番にさせているんですよ。
ですから、今、ここで、話をしているような、
まかない飯の番組なんですよ。
従業員が食堂で、料亭で、
ひじきの煮つけのうまいのを食ってると、
味つけの腕はあるから、材料費は安いけれども、
おいしいでしょうっていう番組なんで。
あそこで気を使っているのは、
おそらく方法論的には、
必ず各ジャンルの人を
バランスよく入れるってだけことなんですよ。

だから、一応、キャスティングするときに、
ギャランティーを考えずに、
お金のかかる人を混ぜ込んでいるんです。
そこで、母数は獲得しているんですよ。
そこで、粗末な食べ物ですけども、
主人がこんなに機嫌よく、
こんなに普通の人として楽しみながら、
高いものを次々に出しますよっていう仕組みなんで、
しばらく、まだ持つとは思うんですよ。
実際には、今、あの「人間ちょぼちょぼやんけ」
っていうテーマだけで、順番に回しているんで、
これは、出演者としても、
そろそろアンケートに答えるのに、
ちょっと飽きてるんですよ。

つまり、「私が一番恥をかいた瞬間」っていうテーマで
全部絞れちゃうんですよ。
それだと、ちょっと、持ちが悪いんですよ。
同じになってきているんですよ。

ですから、システムとしては、今、
もう危なっかしいとこにいるんですけど、
キャスティングだとか、さんまの天才性で持ってんですよ。

さんまさんの、やっぱ、天才性って、
あの、絶対に芸のない子供を相手にしての、
「あっぱれさんま大先生」っていう番組ありますよね。
吉本 うん、ありますね。
糸井 あれ、できる芸人さん、僕、
ほかに絶対いないと思う。
世界中にいないと思いますね。
 
吉本 ああ、そうか、そうか。
糸井 あの多分、あそこに、さんま先生っていう番組で
集まっている子供たちは、
ある種飛び抜けて悪い子を集めているんですよ。
つまり、扱いにくい子を、
面接でえりすぐっているんですよ、おそらく。
それを、さんまさんに渡したら、ああなるんですね。

これはねえ、あの人は、もう、運命として、
その、何ていうんだろう、自分が……、おそらく、
さんまさんという人も、これはまあ、
有名な話じゃないけれども、
たしかけっこう複雑な家族関係ですよね。

そこで、コミュニケーションサービスのあり方が
肉体にしみ込んじゃっている人なんで、
その場が持たないと生きていけないんですよ。
そういう、いわばフリークスに近いような精神性を
持っている芸人さんを、ぼくらはたのしんでる。
あの人は、たぶん「4期目」ですよ。
人気のピークが4回目になっている。
何回も流行って、何回もほかの人に抜かれながら、
また、今、第4期めのピークつくってますよね。
あれはね、やっぱり奇形児に近いような、
すごい人なんです。
吉本 ああ、なるほどね。うーん。
糸井 「探偵ナイトスクープ」については、
僕は、ちょっと、まあ、基本的には、終わったんだけども、
さっきの温ったかいおでんを、うん、
どこでも手に入るあったかいおでんが、
青い鳥なんですね、やっぱり。
お笑いの種は隣にある。
その知的好奇心も、たどっていくと、
こんなにおもしろくなるというところで、
あのコンセプトは、結構、長持ち、
おばあちゃんの知恵みたいなところがあって、
長持ちするんですけど。
まあ、そろそろ飽きられてきたなあって。
僕の考えは、まあ、そんなところです。
吉本 いや、いや、おもしろいよ。
糸井 吉本さんが、今、感じていらっしゃるのは、
おそらく、無意識で、
さんまさんの天才性だとかのところで、
感じてるんでしょうね。
吉本 いや、そうなんでしょうね、きっと。
今、言われてると、ものすごくよくわかりますね、
さんまっていうの。
糸井 そうですかあ。
吉本 ええ、ああ、そうだよなあ。
ほかのやつにできるかなんていったら、なかなか……。
糸井 絶対できないです。
吉本 そうですよね。うん。
糸井 大人を扱うのは、
一番うまいのはタモリさんなんです。
つまり、社会人として、タモリさんの前に
みんな立つんですね。
ですから、基本的には、丁寧語を使いますし。
タモリさんのおもしろさっていうのは、
丸の内で通じるんですよ。

ですから、やっぱり、大きな母数を抱えている人で、
「笑っていいとも」という番組は基本ですけれども、
あれは実はサラリーマンの見る男の番組なんですよね。
男の息抜きなんですよ。

一方で、タモリさんは、さっきの最初にお話しした、
「十字式」の先生が説明する話じゃないですけど、
なぞのわけのわかんないおじさんとしての役割を、
「タモリ倶楽部」でやるんですよね。

要するに、熱いもの
ふうふう言って食ってるようなタモリを、
夜中にずっーとやめないでやって持っているわけですから。
たけしさんもそういうことはやってますけど。
あのバランスで、そのモチベーションを捨ててないという、
いつでも維持しているというのが、
あの人たちの、やっぱり、すごさですよね。
吉本 ああ、なるほどね。
糸井 どの人も全部、天才だと思いますけどね。
あと、吉本さんが松本人志をどう思うかというのは、
逆に聞いてみたかったんですけどね。





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