なんてったって、いまいちばん流行っているのは
「働くこと」なんだと思う。
去年のいまごろ、
ぼくは何をしていたんだろうと考えてみたら、
やっぱり釣りをしていたということがわかった。
いやぁ、ちっとも上手じゃないけれど、
釣りはよくやったなぁと、
じぶんでもあきれているであります。
釣りって遊びは、かなり、相当におもしろい。
いまでも、休みができたら
絶対に釣りに行きたいと思っている。
いまは、梅雨の季節で、
春の産卵(スポーニングと言います)を終えたバスが、
産休の有給休暇をつかいはたした時期だ。
「体調はもどってるんだけど、
もうすこし休んでいようかしらね」っていう、
ダルなバスと、「ハラ減ったぞっぉお」とばかりに
産後の肥立ちもよく活発に餌をとろうとするバスがいる。
梅雨時というのは、雨もあんまり冷たくないし、
元気なバスをがんがん釣るには最高のチャンスなのだ。
でも、ぼくは釣りに行ってない。
働いている、というか、
いつも引っ越したばかりの「鼠穴」の事務所にいて、
若い連中とミーティングをしたり、
こうやってキーボードを叩いていたりする、
去年、ぼくのなかで釣りが流行っていたように、
今年のぼくのなかでは「働くこと」が
流行っているのである。
これはいったい、どうしたわけか?
釣りなみか、釣り以上に、
毎日いそがしくものを考えたり創ったりしていることが
面白くてしかたないのだ。
そんな自分じゃなかったはずなのであります。
しかも、やってることが、
デジタル系みたいじゃあーりませんか。
なんだなんだ、どうしたどうした?
この、自分自身もあきれるほどの
「あたしの転向ったら」を、
しばらく続けて書いてみようと思います。
第2回
どうしてこんなことになったのか?
第一回目と、話が前後するようだが、
ぼくがここで[web革命]などという
おおげさなタイトルをつけて書こうとしていることは、
早い話が、あるひとつの質問に対する答えにしかすぎない。
なにかものごとを新しくはじめたときには、
必ずひとはたずねるものだ。
「どうして、こんなことをはじめたのですか?」と。
一見、なんでもない質問のようにも思えるのだが、
これが、そうでもないのである。
答えようがないというわけでもない。
たとえば、あなたが学生だとして、
「どうして、この学校に入ろうと思ったのですか?」
と質問されたら、
「自由な校風が自分に合っていると考えたからです」
なんて、
いかにもとおりいっぺんな、
しかもそれ以上の質問を拒否するような
答え方をすることはできるだろう。
既婚者に「なぜ結婚をしたのですか?」
という質問をしても、
なんとか当たり障りのない答え方をしてくれるだろう。
しかし、ほんとうに
その答え方でよかったのだろうかということを、
まじめに考えたのかを、さらに問われたら、
困ってしまうにちがいない。
数学の試験問題じゃないのだから、
そう簡単に正解を答えられるもんじゃないわけだ。
理由がまったくないわけではないけれど、
それは、新聞の見出しになるようなかたちで、
言い切れるものではない。
となると、答えらしきものを無責任に投げ出してみて、
質問者が納得してくれさえすればいいや、
ということになる。
だから、「自由で進取の気概に富んだ校風が」だとか、
「人生の基盤を築くための伴侶として
相応しいひとを見つけ」だとかいう、
わかったんだかわからないんだかさっぱりわからんような、
答えのカタログのなかから適当に選んで、
儀礼としての答えを贈与するわけだ。
このところ、ぼくがいちばん困っていた質問が
この、ホームページ「ほぼ日刊イトイ新聞」を
どうしてはじめたのか、であった。
質問者のほうは、
「メディアの新しい可能性に賭けてみたいと、
思ったんですよ」くらいの
歯切れのいい答えがあれば満足してくれそうだったし、
仮に満足してくれないとしても、せいぜい、
「その、そう思ったキッカケについて、
もう少し聞かせてください」
という次の質問に展開できれば、
それ以上つっこむつもりはなかったのだと思う。
次の質問に対する答えも、ないわけではない。
まず、日本の経済状況が
行き詰まっていることを確認して、
広告産業とメディアの閉塞感を
「バブル崩壊をキッカケに!」
痛切に感じたんですよ、と、
まとめれば、悩まないですむのだ。
でも、そうじゃないんだ。
なにかがガラッと変わるときというのは、
いろんな関係なさそうな要素が、
複雑にからみあって、
ちょっぴりずつ流れをつくっていくものなんだと、
ぼくは思っている。
山奥の小さな湧き水が、
いろんな場所からちょろちょろちょろちょろ
流れ出して、小川になり、
曲がりくねったり止まったりしながら、
それは集まっていって大きな川になっていくように。
ひとつひとつの、湧き水や、小川を無視すると、
大河がある場所に急に出現したことになってしまうような
話になってしまう。
それが、なんだか気持ち悪かったので、
ぼくは困っていたのだ。
たとえ質問者が、
それ以上の答えを聞きたくないと思っていたとしても、
ぼくは、自分のためにも、
「このホームページを、どうしてはじめたのか?」
ということについて、
ていねいに考えなくてはいけないと思った。
ま、ていねいに、とは言っても、ぼくのやることだから、
論理的に説明しきれるとは思えない。
ただ、「こんなことや、あんなこと」がなかったら、
きっとこんなことにはなってなかったろうなという、
さまざまな事柄や考えを、
ひとつずつ思い出していくことならできそうだ。
前回は、用意もなく書きはじめてしまったので、
「働くこと」が流行しているという、
いまの話だけして、おしまいにしてしまった。
さて、あらためて、
「いまの自分」の考えを説明するためには、
時間をどこまで戻さなければならないのだろうか?
そうだな、まずは、香港製の「ウォークマンの偽物」を、
パチンコの景品でとったことから、
次回の原稿を書きはじめよう。
(つづく)
第3回
こどもの偽ウォークマン。(その1)
ぼくは、パチンコが好きだ。
賭博的なマニアでなく、
あの単純な「乱数的なゲーム」が
好きなのだと思っている。
ものごとを、「ストック」と
「フロー」に分けて考えるのは、
ぼくのこの頃の癖で、これは、釣りをやっている間に
なんとなく身につけてしまったものらしい。
経済学の世界ではどういう使い方をしているのか、
よく知らないが、
ぼくは、ストックを「わかっているもの」、
フローを「わからないもの」というふうに
雑に考えている。
仮に、試験があるとして、出題された問題の解答は、
わかっている人にはわかる。
いわゆる、これが実力といわれるものだ。
これが、ぼくの考える「ストック」だ。
しかし、なにもかも知っていて、
なんでも答えられる受験者はいないわけで、
どういう範囲からどういう問題が出るかの、ヤマを張る。
この、ヤマを張る対象の部分がフローなのである。
イトイ式ではね。
しかし、フローは、
解析されてストックになったりもしていく。
大学別の出題傾向なんてものが本になるのも、
フローのストック化だ。
釣りは、素人にとっては、フローのかたまりである。
ラッキーとか運とかで、
釣果は左右されると思いこみやすい。
しかし、素人にとってフローに見えていることは、
玄人にはストックである場合が多い。
沈むタイプのルアーを投げて、竿を小脇に抱えたまま
一服しようとタバコを探しているときに、
放って置いたルアーで魚が釣れたとする。
初心者は、これをフローだと思うから、
「ラッキーッ!」とよろこぶ。
それを横で見ていたプロがいたら、
1、魚は、ボトム(底)にいる。
2、速い動きのルアーには反応しきれない。
3、どのかたちの、どんな色のルアーだったのだろう?
4、そのルアーの沈んでいたはずの場所には、
なにかストラクチャー
(水中の障害物)はなかったろうか?
などということを、一気に推理しはじめて、
その推理にあった方法を実行にうつす。
つまり、素人のフローの結果を、
自分のストックのファイルのなかにドラッグしてみて、
次の戦略をたてるわけだ。
そうやっても、おなじ結果が得られるとは限らない。
なんでもすぐにストック化
できるというものではないからだ。
「モノポリー」というボードゲームは、
ストックとフローのバランスが絶妙だ。
戦略もある。戦術も大事である。
しかし、ひとりひとりのプレーヤーの動きを決めるのは、
サイコロなのである。
だから、「モノポリー」にはんぱにつきあった人は、
「あれは、サイコロのゲームでしょう」などと、
すこし嘲笑気味に言ったりする。
でも、そのサイコロの遊びで、世界大会2回連続で
優勝と準優勝を獲得した人がいるのである
(ぼくの友人なので、実はここで、
ともだち自慢をしてるんだ)。
強い人たちが、モノポリーの技と運の比率について、
だいたい一致して言うのは、
「技7/運3」というバランスだ。
ただし、各プレーヤーの実力(ストック)が
全体に大きくなって、
その差がなくなってくると、
サイコロ(フロー)の比重がぐんと高くなる。
ぼくは、この場合のストック比率は、
5割5分くらいだと考えている。
ただし、実力者同士の対戦では、体調や意欲、
人徳などというわけのわからん要素の微妙な差が、
勝敗に結びつくことも多くなる。運というものだけで、
残りの4割5分をしめるというわけではないのだ。
フローのストック化が、
「統計」というものを鍵にして行われているのは、
みなさんご承知のとおりだが、
統計だけで勝率をあげていこうとすると、
どうしてもディフェンス重視の考え方になってしまう。
これは、つまらない。
だれでも熱心にやればできることと、
その時のそいつにしかできないことの区別は、
はっきりつけてもらわないと、
せっかく生きてる張り合いがなくなる。
その考え方を大事にしたいから、ぼくは、
「負けることも楽しみ」だったりすることが
多いのだと思う。
すっかり脱線してしまったよ。
パチンコの話をしていたんだった。
しかも、テーマは、
パチンコの「景品」のことだったんだよ。
これ以上、長くすると、読んでもらえなくなりそうなので、
この続きは、次回にまわします。
次回こそ、ほんとに、
「こどもの偽ウォークマン」のことを、書きます。
第4回
こどもの偽ウォークマン。(その2)
寄り道、迷い道は、おいらの持ち味さ。
前回は、悪かったね。
こんどこそ、パチンコの景品の話からはじめよう。
もう、5〜6年も前のことだ。
ぼくはいつものようにパチンコをした。
このころのぼくのパチンコというのは、
絶対に換金しない遊びだった。
いくら玉が出てもお金には換えない。
いまのように、何連チャンとかしなかったから、
よっぽど出たときでも
せいぜい5000発くらいだった。
1個4円の玉を5000発だと、
約2万円くらいの景品と交換できる。
ぬいぐるみももらった。傘も獲った。
スナック菓子も電池もいっぱい獲った。
ライターも、電気カミソリも、
CDもビデオテープも、タバコも、
イヤってくらいもらったら、
だんだん欲しい景品がなくなってくる。
だから、みんな、
なんにでも換えられる貨幣にして
ストックするわけだよね、
獲得した「ごほうび」を。
パンツも、お茶漬け海苔も、
天体望遠鏡ももらってあって、
もうほんとに景品交換所に
ほしいものがなくなったときに、
ぼくは、S社製でない
(といって、N社でもA社でもない)
たぶん香港メイドの
「ウォークマン
(と呼んではいけないんだ、ほんとは)」を、
2500発程度の数のパチンコ玉と交換した。
ぼくは、ほんもののウォークマンを
既にいくつも買っていたし、
使ってはいないけれど、
どこかにしまってあるはずだったから、
そんな偽物は要らないわけだ。
小学生の娘におもちゃがわりにやればいいかと、
雑に考えていたのだと思う。
娘にそれを渡したことさえ忘れて、
半年か1年くらい経った。
ぼくは、娘がちいさいころから、
よく親子で旅行に出ていた。
男の子のようにあつかって、
プロ野球のキャンプ見学やら、
水泳練習の旅やら、
長めの休みがとれると出かけていた。
どこに行ってたときだか、寝る前に彼女が言った。
「こんど、パパ、
イヤホンのあたらしいの買ってくれる?」
イヤホンぐらい、いくつでも買ってやらぁな。
そうか、壊れたのかい。
見れば、当時でも珍しいくらいの
不細工なイヤホンだった。
自分のちいさな頃の
理科実験セットなんかにあったものと、 変わらない。
さらに気がついたのは、そのイヤホンが付いている
「ウォークマン(偽)」の、
とんでもないほどのデカさと武骨さだった。
「いいよ、イヤホンな。
明日、どっかの電器屋で買おう」
「ありがと。おやすみなさい」彼女は、偽ウォークマンに、
だめになりかかっているイヤホンの
コードをぐるぐると巻き付けて、
そいつを大事そうにベッドサイドに置いて、
かけぶとんを頭からかぶった。
自分が、ゴミのようにあつかっていたパチンコの景品が、
家族とはいえ別の人間の手に渡って、
こんなに大切にされている。
これは、ちょっとショックだった。
なんでも買えばある。なくしても、買えばいい。
古くなったら新しいのを買う。
高いものは簡単には買えないけれど、
値段の安いものなら、いくつでも買える。
知らず知らずのうちに、自分に、
そう考えるくせがついていたらしい。
「大衆消費社会」の構造がそうなっているからだとか、
ものを大切にするべきだとか、
理論や倫理で考えたわけではない。
「偽ものの不細工なウォークマン」で、
好きなテープを聴き、
寝る前にいかにも古くさいイヤホンを
ぐるぐる巻きつけてそいつをしまう、
その姿のほうが、かっこよく思えたのだった。
うらやましい気持ちになったのだ。
その、うらやましがられた本人さえも忘れているだろう
「小さすぎる事件」が、
どの土地で起こったのかすら憶えていないが、
「こいつのほうが、かっこいい」と思ったことは、
いつまでも忘れないようにしようと、
その時のぼくは決めていた。
だから、ずっと憶えているのだ。
人が、他の人やものを大事にしているのを見るのは、
気持ちがいい。
人やものを、粗末にあつかうのをみるのは、見苦しい。
年寄りの説教のようだが、それは、倫理というよりも、
精神的な快感と不快感に置き換えられるもののようだ。
「一般に、貧しいと考えられていることのほうが、
実は豊かなのだ」
という逆説的な通念を、ぼくはあんまり認めたくない。
単なる負け惜しみ、酸っぱいブドウの寓話のような、
こころの狭さから出た
言い訳みたいに思えることが多いからだ。
しかし、「豊かであると信じていたことが、実は貧しい」
と気づかせられることは、けっこうあるものだ。
まだまだ続きそうなので、
このあとの話は、次回にさせてもらいます。
第5回
ADのジーンズがまぶしかった。
「豊かであると信じていたことが、実は貧しい」
ということについて、
書きはじめたところで、前回が終わった。
さて、続きを書こうと思ったら、
別のことが気になりはじめた。
ま、いつものことだ。
「○○だと信じていたことが、
実は××である」という
一行のフレーズはおそろしい
魔法の数式みたいなものである。
「菩薩だと思っていたら、実は夜叉であった」
「好かれてると思っていたら、実は嫌われていた」
「尊敬されてると思っていたら、軽蔑されていた」
「かりんとうが落ちてると思ったら、犬の糞だった」
ま、早い話が、
そんなはずじゃなかったということだ。
「実は」、
という部分以下で表現されていることが事実なら、
その前の「信じていたこと」というのは、
誤りであったというわけだ。
「思いちがい」「誤解」「誤認識」
「判断ミス」「見えてなかった」
いろんな言い方があるけれど、
こういうものは、あって当たり前だ。
ま、かりんとうと犬の糞なら、
間違っていることに気づくのは簡単だが、
尊敬と軽蔑なんてものは、
表と裏がくるっとひっくり返ったりするものだから、
気づくこと自体がむつかしい。
よくニュースのなかに、
経済犯罪者という人たちが出てくる。
とんでもない脱税をした人とか、
すっげぇ金額を横領した人とか、
賄賂をいっぱいもらった人とか、
いろいろ登場してくる。
ぼくは、ああいう人たちが、
たっぷり尊敬を受けていた広大な世界を想像する。
きっと権力というものを持っていた人だから、
そのパワーのお裾分けくらいは、
あちこちでしていたにちがいない。
パワーのお裾分けをもらい続けていた人たちは、
彼のことを悪く思いにくい。彼を好きなのか、
彼のパワーが好きなのかはわからないけれど、
「すばらしい人」だと感じていたんだろうなぁと思う。
でも、そのすばらしい彼が、
犯罪者であるということになってしまうと、
彼のパワーの世界にいた住人たちは、
急に少なくなってしまうだろう。
そして、その世界から離れていった人たちは、
「すばらしい人だと信じていたが、
ただの小悪党だった」と言うだろう。
しかし、彼のパワーが
なくなったわけではないと判断する人は、
それまでの世界に居残るだろう。
犯罪者であるかどうかなどという
法的な問題なんかどうでもいい。
牢屋から出てきてもまだパワーが残っていると思えば、
その世界に残る理由がある。
「小悪党」ではダメだけれど、
大悪党ならいいんだというわけだ。
どっちも、パワーに価値があるという考え方である。
しかし、きっと、パワーのあるなしにかかわらず、
その経済犯罪者を尊敬したり愛したりしている人間も、
いるのだろうなぁと、ぼくはよく考えるのだ。
娘とか、妻とか、母親とかね。
ひとりもいないとしたら、
その人は超人的なさみしんぼさんです。
ときどき散歩に連れていってもらっていた
土佐犬くらいは、いるだろう。
今回もすっげぇ脱線してるなぁ。ま、いいや。
こういう極端な例だと、
みんな笑いながら読んでるかもしれないけれど、
名刺の肩書きでえばってる人も、
なんかの能力を自慢して生きてる人も、
みんな同じことなわけで・・・。
話をもどそう。
「○○と信じていたら、実は××だった」ということを、
なんで言いだしたのかというと、
「豊かだと思いこんできたことが、
実は貧しいのだ」ということを書いて
いて横道に入り込んでしまったのだった。
「こどもの偽ウオークマン」の話の次に、
テレビ局のアシスタントディレクターのジーンズについて
書こうと思っていたのになぁ。
また、それも、次回にまわそう。
第6回
ADのまっとうなジーンズ。
広告の世界でADというと「アートディレクター」である。
このADは、けっこうエライのである。
ビジュアル表現の責任者なのだ。
アートディレクターの指示にしたがって
「デザイナー」が作業する。
しかし、テレビの世界でADといえば
「アシスタントディレクター」だ。
「アシスタント」と「ディレクター」という
ふたつの単語で構成されているコトバだが、
「ディレクター成分」はトッピング程度でしかない。
テレビ界のADとは要するに
アシスタントのことなのである。
ぼくは、本職ではないが時々テレビに出たりする。
だから、ADのひとたちが
懸命に働いている姿を見ることもおおい。
テレビの業界というところは、
おそらく映画界のスタイルの影響なのだろうが、
徒弟制度のなごりが妙に残っている。
ADは、そのなかでも
最下層の役割をになっているようだ。
彼らの仕事は、肉体労働が中心になる。
むろん、気が利いていること、
アイディアに満ちていることは
絶対に必要なのだが、
いくらスマートな人物であっても、
職名がADであるかぎりは、
肉体を惜しみなく使うことは
「前提」なのである。
彼らはけっしてスーツ姿で走り回ったりはしていない。
それは、芸能マネージャーのスタイルだ。
ADの仕事着は、基本的にジーンズとTシャツである。
床にじかに座ったり、ひざで歩いたり、
泥だらけになったりするから、
丈夫で汚れのめだたない服装であるジーンズは、
なによりだ。
ぼくも、ジーンズが好きなので、
他人の履いているジーンズがよく目に入る。
道ですれ違う若いやつやら、
タレントやらのジーンズに
感心したりすることもある。
だが、ADの連中のジーンズが、
いちばん「まっとう」なものに見えるのだ。
毎日毎日、働くことでできた「摩擦」の総量が、
彼らADのジーンズにはそのまま
年表のように刻まれている。
あらかじめ、適度に色落ちさせたジーンズを買い求めたり、
買ったばかりのジーンズを
ひっちゃきになってたわしでこすったり、
ぼくもいろいろやった覚えはあるけれど、
「まっとう」な色落ちのジーンズを履いていたことは
一度もなかったように思う。
だから、いつも、テレビの仕事でスタジオに行ったとき、
いいジーンズを履いたADをつかまえては
「そのジーパン、どれくらい履いてるの?」などと
質問したりしていたものだ。
無理やりに色を落として「味」を出したジーンズが、
どうもまっとうではないよなぁ、という気持ちは、
ジーンズ好きがみんな持っていたものなのだろう。
そのうち、「古着」のジーンズが流行り始めた。
ほんとうにジーンズを労働着として
履いていた誰かさんがいて、
それを、もう着られなくなったからと手離した。
きっと、ただ同然で。
そいつを買って、「いい味」のジーンズとして、
都会のジーンズ好きが履き始めたわけだ。
そうなると、「いい味」にも等級が付いてくる。
年代の古いモノがよい。
洗った回数の少ない、
色落ちのめりはりの効いたモノがよい、
というようなことになってくる。
いい味のジーンズが、
高値で取引されるようになったわけだ。
もともとのジーンズ好きには、
やっぱり「いい味」のジーンズは輝いて見える。
その輝きが、カネを出せば買えるということになると、
つい買いたくなってしまうことになる。
ぼくも、そういう人間のひとりだった。
おとなは笑うだろうけれど、
ぼくがもっとも高い服を着ている時というのは、
あちこちほつれのあるジーンズの
上下をひっかけているときだった。
アルマーニの2〜3着くらいは
買えるような値段の「中古の労働着」だ。
ばかばかしいと、思うのは、
いまになったから言えることだ。
そのばかばかしさを、逆説的なおしゃれだと、
買ったときには考えていたのかもしれない。
<「労働着」として生まれたジーンズが、
まっとうに使用され、
まっとうに天寿をまっとうしたときに、
小銭をじゃらじゃらさせながら
日本人がやって来たんじゃ・・・。>
そんなふうに、アメリカの田舎町のじいさんが
インタビューに答えているかもしれないぞ、今頃。
やっぱり、ぼくはバカだったけれど、
こんな現象がヘンだということぐらいはわかっていた。
1万円札をつなげて作ったようなジーンズを履いて、
テレビのスタジオに行くと、
「まっとうなジーンズ」を履いたADたちがいる。
おいおい、あっちのほうが、カッコイイよ。
ってゆーかー、俺って、ものすごくカッコワリーよ。
なんでも、結局カネで買える時代に、
カネで「かっこよさ」を買う人々というのは、
なんかをすでに失っているんじゃないだろうか。
(ま、援助交際を申し出るおやじも、
あきらかに何かを失っているいるということで、
同じですわね)
かっこいいものを身につけていれば、カッコイイと、
みんなが思いこんでいた時代は、確かにあった。
でも、そのカッコよさというものが、
ただの買い物の結果だったとしたら、
「すべての価値は、カネが決める」
ということになっちゃうじゃないか。
おいおい、ちょっと待てよ、と、ぼくだって思ったわけだ。
前にした「子どもの偽ウオークマン」の話と、
ほとんど同じパターンだ。
カッコイイと思いこんでいたことが、
カッコ悪くなっていたというテーマが、まだ続いている。
次回は、せっかくジーンズの話題が出たので、
ぼくの事務所を引っ越しさせた
「ジーンズ・ショップ」のことを書こうと思う。
第7回
ドゥニーム探して90分。(その1)
引っ越しの話になる。
流れとしてはジーンズの話題が続いているのだが、
じつはこれが引っ越しの話につながるのである。
そういうものなのだ。
これは、かなり重要なことだった。
筋道を追ってみることにする。
まず、は、ジーンズのことだ。
前回の「ADのジーンズ」についての文章を
みんなが憶えているという前提で進めて行こう。
ぼくは、どこかの他人のつけた「あじ」を買うのではなく、
自分で徹底的にジーンズを履き続けて、
自分の「あじ」のついたジーンズを履いてみようと思った。
LEVI’Sが復刻版の501と呼ばれるジーンズを
発売していることは知っていたけれど、
ジーンズの知識が深まっていくと、
この「本家の復刻」が、本家であるにもかかわらず
というか本家であるがゆえにというかの理由で、
「昔の色落ち」を
期待できないらしいということがわかってくる。
そんなことは、現代(いま)のジーンズファンなら
誰でも知っていることで、ブランド・ネームよりも、
「リアルなジーンズ感」のほうを優先させる消費者が
けっこう多いという商品は、そんなにはない。
モーターサイクルや、
ロックンロール・ミュージックの
ファンと重なった部分があるようだ。
ぼくは、やっぱり昔のタイプのジーンズファンで、
ブランド信仰があいまいなかたちで残っている。
本家の復刻版なら、まちがいないはずだと、
それ以上考えずに買ったりするお客さんだ。
いまのジーンズファンというものがいることを知ったのは、
木村拓哉くんにであってからのことだ。
木村くんを知ったことは、
かなりぼくの人生の後半戦に影響を与えていると思う。
ぼくは、そのへんのことを、
「イージーライダーという映画で、
ピーター・フォンダの運転するハーレー・ダビッドソンの
バックシートにまたがって
すっかりハイになってるジャック・ニコルソン」
に喩えていたけれど、
その感じは当たってたなぁと、いまも思っている。
ま、新しいジーンズ・ファンとしての木村くんは、
「本家の復刻版」よりも、
もっと「草創期の本家製品」に
近いものをつよくすすめてくれた。
これが、「日本製のレプリカジーンズ」というものだった。
木村くんというのはマメな人で、
いつも誰かにガンをつけてるような目をしながら、
ちいさな親切みたいなことをやってくれる。
ぼくが、最初に「まじめ」に履いたのは
彼が横浜だったかで買ってきてくれたレプリカだった。
ただ、その頃は、ぼくのほうが、
ジーンズの選び方については入門したけれど、
ジーンズの育て方を理解してない時期だった。
こまめに何度も洗濯すれば、早く色が落ちて
「いいジーンズ」になると誤解していた。
それじゃダメなんだということは、
木村先輩は口を酸っぱくして教えてくれていたのだが、
ぼくはちゃんと聞いてなかった。
ぼくは、スーツにネクタイの日もある社会人なので
「なるべく洗濯の回数を減らして」なんて
不潔なジーンズを履くつもりはなかったのだ。
おかげで、せっかく
「まじめに、自分のあじをつける」はずだった
ジーンズは、めりはりのない色落ちの
「とおりいっぺんな作品」になってしまった。
これは失敗だったと気づくくらいには、
ぼくのジーンズ知識も深くなってきた。
レプリカジーンズのことを書いた雑誌や単行本も、
簡単に手にはいるようになっていたし、
街を歩いていると「レプリカジーンズ育て中」の男の子や
女の子にすれちがうことも多くなった。
早く言えば(笑)流行っていたってことだ。
ほんとうに納得できる新品の
ごわごわしたジーンズを手に入れて、
そいつをまじめに育てて自分のあじをだした
「作品」をつくってみよう。 ぼくは、決意していた。
そういうとおおげさに聞こえるかもしれないけれど、
中年のおっさんがジーンズを育てようなんてことを
思いついたらかなりの決意がいることになるのだ。
肉体労働をしていないのだから、
日常生活のなかにジーンズの
色落ちの原因になる「摩擦」が少ない。
毎日ジーンズを履いていていい職場なんて、
そうあるもんじゃない。
それに、ジーンズばっかり履いていると、
他のおしゃれができなくなる。
とにもかくにも、毎日毎日履き続けて半年以上経って、
やっと「あじ」は出てくるのだ。
まともなホワイトカラーには、
なかなかできることじゃありませんよ。
やっぱり、服っていうものは、
その人のライフスタイルに密着しているものなのだ。
つまり、古い「いいあじのジーンズ」を
買ってきて履いている
ということは、別の人生を送っている
「演技」をしているというわけだ。
ロールプレイング・ゲームを、
ファッションでやってるということだ。
これはこれで楽しいし 、
否定するようなことじゃないけれど、
ぼくは、なんだかとにかく「ジーンズ」を育てる
「ライフ」を味わってみたくなっていた。
まぁ、バブルの時期のカネでなんでも
買えるような時代の雰囲気が
気持ち悪かったということも言えるし、
老人になっていくことが確実にわかりはじめてきて、
もういちど最後の
「若作り」をしたかったのかもしれませんがね。
ぜんぜん引っ越しの話にならないでしょ。
そういうものなんだ。いろんな要素が複雑にからみあって、
いろんなことになっていくのが世の中ってやつさ、
なんて説教じみたことを言いつつ、
いくらなんでもそろそろ本題にいかなきゃなどと、
自分でも思いはじめたぞ。
買い物に出かけたわけよ。「育て用」の、ジーンズを。
ずうーーっと、履き続けるつもりの一本なんだから、
途中で飽きたりしたくない。
そういうつもりで、じつはもう、
数本ストックしてあるのだけれど、
もっと「運命」を感じるようなジーンズと
半年なり1年を過ごしたかったのだ。
ずいぶん考えたけれど、
「ドゥニーム」というブランドに決めた。
いろんな理由も言えば言えるけれど、
要するに、決めたんだ。
雑誌に記されてある住所は「千駄ヶ谷」だ。
ぼくの家と事務所が南青山だから、
いつでも時間のある時に歩いていける。
クルマで行くより、ぜひ歩いていきたかったのだ。
電話番号もメモはしたけれど、
連絡するのもちょっと気恥ずかしいので散歩をかねて
探せばいいと思っていた。
1997年の10月だったっけ。
このあとも、原稿としては書いてあるのだけれど、
このへんでいったん切ろう。
読むほうが集中力をなくすからね。
インターネットは長い文章と
相性がよくないような気がする。
あんまり間を置かずに、次を掲載するので、
いったんここで「つづく」にさせてください。
次回は、ほんとに「引っ越し」
ムードいっぱいの題名に
偽りなしって感じの回になるはずでんがなまんがな。
第8回
ぼくが引っ越しをした理由。
ドゥニーム探して90分。(その2)
「ドゥニーム」まで歩いていくのを決めたのはいいけれど、
ある程度は地図で場所の見当をつけておいたほうがいい。
クルマについているカーナビで場所を調べて、
それから歩けばいいと思った。
歩くと決めているのにクルマのキーを探すというのも、
ちょっとヘンだけど、いい感じだ。
クルマのキーをオンにして、
カーナビのスイッチをいれて、
「ドゥニーム」のあたりを検索した。
雑誌から書き写してきたメモによれば、
渋谷区千駄ヶ谷2−7−9。
カーナビが古いタイプだったせいか、
どのあたりなのかよくわからなかった。
ぼくの、ちょっといい考えというものは、
このようにつまらない結果になることが多い。
千駄ヶ谷にはちがいないのだから、
だいたいの見当をつけていけば、
近くに行ったらわかるだろうくらいの軽い感じで、
とにかく千駄ヶ谷駅のほうに向かって歩きはじめた。
もともと土地勘には自信がないので、
どうせ間違ってるだろうと思いながらも、
昔、村上春樹さんが
店をやっていたあたりだろうと
勝手に決めて、そっちへ進んだ。
店がある場所なんてものは、
だいたい決まっているものだ。
人にわかりにくいところにわざわざ
店舗をつくる経営者はいない。
だから、駅からそう離れていない場所に
ショップはあるはずだ。
たしか、あのへんにハンバーガー屋があったし、
あの近くだろう・・・あ、ちがったのね?
やっぱり。うっすら想像していた場所に、
運命のジーンズショップは存在してなかった。
だから、自分をあてにしちゃいけないんだ。
な、やっぱりはずれてたろう?
でも、大丈夫。ちゃんと住所は控えてきたんだから、
まず2丁目を探せばいいわけで・・・。
もう、家を出てから30分は経っていたろう。
近いぞと思うと、遠ざかり、
遠いと思ったとたんに近そうな数字が記された
看板が現れてくる。
そのうちだんだん暗くなってきた。
ぼくは、千駄ヶ谷という場所を
くまなく歩き回ってしまった。
歩いても歩いても、目的地は見つからない。
カミさんがいっしょにいたら、
もうとっくに電話をかけて
道順をたずねていたのだろうが、なにせ、ぼくは、
そういうことが気恥ずかしいというか、
面倒くさがりだし、
それにもうこれだけ歩いてしまったのだから
「当たり」をひくまで
がんばってやろうという、はまり道にはいりこんでいた。
計っていたわけでもないが、90分後、
とうとう「ドゥニーム」が発見できた。
歩くのをやめたとたんに、
どっと汗が吹きだした。
このショップを知っている人にとっては、
もう見なれた
景色なのだろうが、
黄色をベースにした店内に、まず目立つのは
いかにも輸入製品というデザインの電気洗濯機と乾燥機。
これは、なによりのメッセージだ。
買い物したばかりのジーンズは、
防縮加工をほどこしてないので
確実に驚くほど縮む。
だから、ふつうジーンズを買うときには
持ち帰って何度か洗濯した状態でショップに持っていって、
(もう縮まなくなった状態のものを)
裾上げしてもらうものなのだが、
この「ドゥニーム」では、たぶんアメリカ製の洗濯機で
暴力的なまでに洗って、
いかにも工業製品という外見の乾燥機で
過酷なまでの熱風をくぐらせることで、
「売場」で縮ませる過程を済ませてしまうのだ。
しかも、店の人は自分のところのブランドの布地が、
どれくらいの収縮率であるかを熟知しているので、
客は買いたての「ごわごわの更のジーンズ」を試着し、
そのままの状態で裾上げの長さを決定し、
料金を支払ってその日は帰ることになる。
残されたお買いあげジーンズは、
店員の手でまず裾上げのミシンをかけられ
(ユニオン社製の古いミシンによる
チェーンステッチでないと
いけないんだな、これが。
ああ、おれもうるさいなぁ)、
洗濯され乾燥機にかけられ、
ごわごわでくしゃくしゃになった状態で、
持ち主が取りに来るのを待つ。
洗濯の解説している場合じゃないのに、
つい指が動いてしまった。
ま、そういうふうな店に、
やっとたどりついたということだ。
店をきりもりしているのは若い店長で、
どんなに忙しい日でも、2人か3人でやってるらしい。
店員の商品知識は、
絶対的に必要なのだが、商品の種類が
たくさんあるわけではないので、
個別の商品についての知識よりも
「ジーンズ全体」についての
教養みたいなものが大事になる。
しかし、これについては、
もともとジーンズ好きな人を
雇っているのだろうから、
そう難しい問題でもなさそうだ。
ぼくは、じぶんのジーンズを買いに
来たつもりだったのだが、
店の人との会話のなかで、
「じぶんが求めている種類のものは、
いま品切れであるので、
入荷したら連絡をもらう」ということになった。
店員も、なければ他の似たようなものを売ればいい、
とは考えていないらしい。
便利で買いやすいということを、
商店の繁盛の条件であると
考えるならば、「ドゥニーム」は、
決定的に失格である。
店の所在地はわかりにくい。
買い物した商品は、その時に持って帰れない。
さらに、言わなかったけれど
値段だって安いわけではない。
店頭に商品の在庫が少なく、品切れも多い。
しかし、ぼくは、
このショップすっかり好意を持ってしまったのだ。
商店として、商品として、
いままでの「よい」の基準を
満たしていなくても、
この店には「なにがしたいか」
という動機がある。誰にでもたくさん売って、
いっぱい儲けるのが、
いわゆるビジネスの目的であるとすれば、
この店はビジネス的には
失格なのだということになるのだろう。
しかし、いままでの「よい」とちがうタイプの「よい」が
あってもいいじゃないかというメッセージが、
迷い道の先に見つけた
ジーンズショップにはあったのだ。
ぼくは、よろこんだ。ジーンズは買えなかったけれど、
ここにたどりついてよかったという気持ちを
大切にしたくて、
子どもの誕生日にプレゼントする
デニムのシャツを買った。
帰り道は、いいコンサートから帰るときのように、
いまあったことを思い出しながら歩いた。
特別に強烈な印象が残ったのが、
「ドゥニーム・千駄ヶ谷店」
というショップの、地理的な不利さだった。
ぼくのような方向オンチが
1時間以上も探したことについてはともかく、
あの場所では、
「どうしてもドゥニームで買い物したい」という
はっきりした動機のない人は来てくれないだろう。
いや、しかし、ぼく自身は、
そのことを少しもいやがっていない。
あんな場所じゃ商売にならないよ、と思うのは、
「客以外の人たち」だけなのではないだろうか。
このことに気づいたとき、
「すっごくまずい俺」が発見された。
時代が変化していることを、
ちゃんと感じとれていなかったのだ。
「丸井はみんな駅のそば」は、
ある時代の新鮮なキーワードではあったけれど、
土地代の高い駅のそばに出店して、
高い家賃を回収しようと思えば、
なんらかのコストを下げなければならない。
不特定の多数が群がる駅の近くに
店を出して成功するタイプの
そのころ買った ドゥニームのジーンズ。 毎日はきつづけて今にいたる。 |
ビジネスと、
そうでないビジネスがあるはずなのに、
いまだに駅前に代表される繁華街に拠点を置きたがる
考え方が、 吟味されないまま古い人間のアタマのなかに
残っているとしたら、これはかなりヤバイ。
地下鉄「表参道」の駅から、
歩いて5秒みたいなところに、
ぼくの事務所はあったのだ。
世間話のときに、「ここは便利ですよねぇ」
なんて言ったり言われたりするのは、
悪い気はしなかったが、
そのために広告制作会社が駅のそばにあるってのは、
ちょっと馬鹿馬鹿しいんでないかい?
いや、バカなことをするのは
好きなのだが、「駅のそばで便利」という
古くさい考え方をそのまま放置して
長いこと生きてきたというダサさが、いやだった。
「ドゥニーム」に、負けた。
ぼくは、ドゥニームというジーンズショップの
たぶん若い経営者に、戦わずして負けていたのだ。
時代の変化にマッチした
新しい方法を考えようともしないで
「駅のそば」に事務所を持っていたような広告屋が、
ドゥニームの宣伝戦略なんて提案できるはずがない。
ま、そんな仕事があるわけではないんだけれど、
時代はそっちの方向に向いているのだから、
そのくらいに思っていた方がいい。
ぼくが、
変化しつつある時代と、
進化している「野球というゲーム」について
考えようともしないで、
パワーや才能を金で買ってきては
「泥縄野球」を毎年くりかえしているように見える
「長嶋監督の巨人というチーム」に
いらだちを感じているのは、
「自分の近過去のダサさ」への
怒りが原因になっているのだ。
一挙にまとめにはいるけれど、
そんなわけで、ぼくは引っ越しを心に決めた。
駅のそばを捨てることで、
なにが失われてなにが得られるか、
バランスシートがあるわけではなかった。
でも、次の試合は、草むしりや石拾いからはじめるような、
広くてワイルドなグラウンドからだ!と想像すると
なんだか胸がわくわくした。
っと。なんだか矢沢永吉「成りあがり」
みたいな文体になってしまいましたが、
これでやっと引っ越しの説明が完了いたしました。
この話が1997年の10月のことでしたから、
まだ1年も経ってないわけだーね。
次回は、なにを書くかまだ決めてない。
このページは、読者がひとりもいなくても、
いろんなことを忘れないようにするために
書き続けます。
第9回
大後監督にショック。
掲載される話題がかならずしも
時系列になっていないので、
そのへんのこと、あらかじめお断りしておきます。
長野の冬季オリンピックが終わったころだった。
神奈川大学の駅伝の監督・大後栄治さんに会った。
「ほぼ日」でも、コンテンツになっている雑誌
「婦人公論」での座談会のゲストだった。
ぼくは、「婦人公論」の
座談会企画をとても大事にしている。
ながいこと、ぼくは雑誌の仕事をやってなかった。
簡単にいえば縁がなかったのかもしれないが、
10年以上もの間、
継続的につきあっていた雑誌がなかった。
理由は、ぼくなりわかっていたつもりだった。
まずは、「イトイが流行ってない」ということである。
規模は別にして、
「イトイが流行ってる」時期というものも、
あるにはあった。そういうときは、
マスコミは洪水のようにやってくる。
企画は、極端に言えばなんでもいいという感じ。
「流行ってるイトイ」が
顔をだしていればいいというくらいの
「企画」がほとんどだった。
いや、そうでないものもたくさんあったんですけどね、
なにせ「洪水」というくらいですから。
その渦のなかにいるときには、
なかなか「流行っているイトイ」を
発見するのは難しい。
自分では、流行っているのではなく
受け入れられているのだと
思っていたのだろう、きっと。
世の中はオレを必要としていることが多い。
だってさ。
笑っちゃいけないけど、若き日のイトイよ、
それは思い違いだ。うぬぼれというものだよ、と、
目の前に正座させて説教してやりたいくらいのものだ。
自虐的に言っているのではアリマセン。
ただのホントのこと。
そんなに意見を求められるほど重要な人物なんて、
そう沢山はおりませんです。
自分がその重要な一員であったはずが
あるわけないではありませんか。
なんか、いま、こいつを登場させていると
「いま」っぽく見えるな、
という人ならいっぱいいるわけで。
ある時期のその役割を、ぼくもやっていたわけだ。
で、当然、洪水はおさまる。
そうすると、なんでもかんでもではなく、
2種類の要請パターンだけが残る。
ひとつは、
「元流行っていたので名前が知られている人」
として。
これは、そんなに減るものではない。
引き受けることは9割9分ないのだけれど、
講演依頼の類はほとんどそうだ。
「元」の肩書きは死んでも消えない
入れ墨みたいのものなのである。
テレビ出演も、この要素は多いと思う。
自分がテレビ的なキャラクターとして
おもしろいものじゃないことは、
知っている。だから、
なんでも出るわけではないのだが、
自分が「視聴者として興味のあるもの」には、
都合をつけていくようにしている。
でも、これは仕事ではなく、
やっぱり自分のための遊びなので、
お客さんにとっての「おたのしみ」は少ないはずだ。
だから、ナンシー関に叱られたりしてしまう。
彼女の言うことは、もっともだ。
たしかにぼくは「視聴者のちょっと知ってる人」
という役割でしかテレビに貢献してない。
こういうことを目ざとく発見するのが、
ナンシー関という人の恐ろしいところである。
自分で、「オレ、面白くなかったんだ!」と
かなり痛いところに気づいてしまったのも、
彼女のせいというかお陰なのである。
さて、もうひとつ残るのが、
「大企画」ではないけれど
「イトイがやったほうが
他の誰かがやるよりもいいかもしれない
中小企画」である。
この典型が、
「ヘンタイよいこ新聞(ビックリハウス)」や、
「萬流コピー塾」などの
雑誌連載だったのかもしれない。
どちらも、イトイが流行っていた状態の時に
連載がはじまったのだけれど、
ぼくがやっているべきだと思えるプランだった。
しかし、「イトイの流行」が終わった後では、
あのくらいのサイズの連載も
難しくなってくるものだ。
いくつか、依頼はあったけれど、
どれも、なんだか2匹目の
どじょう狙いのようにしか見えなかった。
ぼくなりに、持ち込まれたプランをもっと
面白い企画にするためには
何をすればいいのか考えかけたこともあったが、
相手がそこまで乗り気でない感じだった。
こうして、ぼくは、いろんなメディアとの
関係を徐々に薄くしていった。
この段階で、「自分にしかできない芸」を
しっかり磨くのがメディアで生きていこうとするものの
姿勢なのだろうが、ぼくは、
その本気さは持っていなかった。
それと、もうひとつ。
洪水の後くらいの年齢から、
ぼくは「家庭」を含む生活からなかば
逃亡していたので、
へんにメディアで目立ってしまうと、
また面倒な騒ぎのきっかけになってしまうと
考えてもいた。
お気に触らぬ程度にしておけば、
いろんなプライバシーを探られないですむのだから、
少し控えめにしているくらいが都合がよかった。
ま、そんなこんなで、「イトイの流行」は終わったわけだ。
一見、告白調の文章に見えるかもしれないが、
本人には、まったくそういうつもりはありません。
ただ単に、自分にあったこと、
自分が思ったことを、書いてるだけです。
こういうことは、「ものの道理」みたいなもので、
ぼくが若いやつだったころの、
メディア的アイドルと言えば「野坂昭如」「横尾忠則」
というふたりだったけれど、
このお二方の才能や技能の深みや経験や
アイディアが昔より大きく育っていたとしても、
「流行っていない」と言い切っていいだろう。
そういうものだ。
だから、ぼくが、流行ってない人間として、
なにか表現の場を持つことはとても
困難なことになっていると思う。
しつこいようだが、謙遜でも自虐でもない。
メディアに署名で表現することが本職でなかったので、
けっこう冷静に自分に起こった
「事実」の流れを伝えられるのかもしれない。
誤解を怖れずにいえば、本職でないから、
ぼくは仕事を選んでこられたのである。
むろん、そんなに山ほどの
依頼がきているわけではないけれど、
自分が面白いと興味をもった企画にだけ、
参加すればよいということになると、
ますます仕事の量が減ってくる。
なんでも断りたくなってしまうのだ。
やりたいことなら、売り込んででもやりたい。
しかし、企画をきいて
一瞬のうちにやりたいと思ったものでなければ、
ほとんどの仕事はやる気になれない。
そういう、
昔の、自分を錯覚していた時期とはちがう意味で、
ぼくはメディアから、
すこしずつ遠ざかっていったのだ。
さて、今回はこのくらいにしておくけれど、
お気づきの通り、いつものように
書き出しの部分についてまだ展開されてない。
「大後監督」はもとより「婦人公論」も出てきてない。
ま、あわてなさるな。
ちゃーんとすぐに続きを書きますから。
誰も読んでなくてもな
(と、前回書いたら、「読んでるぞ」と
一通だけメールをもらった)。
ああ、また朝刊が届いた。
もう、寝ましゅ〜・・・。
第10回
大後監督にショック。(その2)
メディアから遠ざかっていた状態の自分について、
前回は書いていた。
文中でけっこうしつこく言っていたはずなのだが、
ぼくが、なにかさみしそうに
告白しているものと錯覚したひとがいて、
急に励まされてしまって苦笑した。
この連載は、私小説でもなんでもなくて、
自分をも含めた状況の変化を、
なるべく飾らずに書こうということなので、
時には「そこまで言わなくても」と
思われやすいようなことを
書くこともある。
ぼくは、別にマゾヒスティックに
裸になっているわけでもないし、
ちゃんとちんちんは隠しているので、ご心配なくね。
読む人がひとりもいなくなっても書く、
とか言ってるのも、
いま書いておかないと忘れちゃうからって、
さぼりがちな自分にチェックを入れてるだけだから、
気にしなくていいのよ。
ま、そういう誤解も、
少しずつ読み進めてもらえばとけるでありましょう。
さて、とにかく話をもどさなくちゃ。
そうそう、「婦人公論」だ。この婦人用の雑誌から、
座談会連載の企画が持ち込まれたとき、
ぼくは、ひょっとするとおもしろいかもしれないぞ、
と思った。
ひとつは、連載であるということだ。
連載で、(少なくとも何回かは)イトイで、持つ。
と考えられているのだとしたら、
いわゆる「誌面のバランス」をとるための
顔見せではない。
ということは、内容についても、
ぼくに相談していっしょに
考えていこうということもあり得るぞ、
と思ったわけだ。
基本的に女性向けの雑誌の
「セクシーな女性とは?」とか、
「いま輝いて見える女」とか、
「映画のなかの私のマドンナ」とかいう企画は、
引き受けようがない。
そんなこと、ぼくには興味もないし
おもしろいサービスができる自信もない。
だいたい、そんなタイトルの記事を
本気で読んでいる女がいたら
バカだと思うし、そういう企画を
会議している編集部があったら
近づかないようにするだろう。
要するに、こういう企画は、
「だれか」知られた名前の人が
「何か」言っていればいいのだろう。
誌面がかたちになっていれば、それでいいのだ。
しかし連載となると、そうはいかない。
「流行ってる人」なら、それだけでいいのだが、
そうでない人に連載をさせるということになると、
「内容」をしっかりさせなくてはいけない。
そのために、ぼくと「相談」をしながら
企画を詰めていくことがあるとしたら、
ぼくにはやりたいことがあった。
もうひとつが、「婦人」雑誌というものが、
直接ぼくに関係がないということが興味深かった。
これは、「ほぼ日」でも
気をつけなければいけないことなのだが、
自分のいつも読んでる雑誌だとか、
いまその時点で勢いのある雑誌だとかには、
そのメディアなりの「売れている理由」が
発見しやすいものなのだ。
そうなると、その売れている理由は
「よい」わけなのだから、
そこに登場する筆者もそのムードを無意識
に守ろうとしてしまう。
むろん、編集者だって同じだ。
その反対に、そのムードの逆をねらおうとする場合も
、同じことだ。
どこかで、媒体特性に影響されてしまうのである。
ところが、「婦人公論」なんて、
ぼくは読んでないのだから、
なんにも意識する必要がないわけだ。
おもしろいと、ぼくが思った企画ならやればいいし、
つまらなかったら縁がなかったと断ればいい。
読者のことなんか考えないのが、
いちばんおもしろいことをできるコツなのだと、
ぼくは信じている。
自分がおもしろがれないのに
読者がおもしろがっていたとしたら、
その企画はやっぱり失敗だと思う。
短期的にうまくいっているように思えたとしても、
かならず、読者にも飽きられてしまうだろう。
マジシャンが、
「さぁ、この帽子から何を出しましょうか?」と
客席に聞いたら、ばかにされるでしょう?
そんなもんだと思う。
ぼくは、前に、「釣り」についての
文章が書きたくなったことがあって、
s どこかに連載を考えた。
そのうわさで、いくつかの雑誌が、
やりませんかと言ってくれたが、
どれも本気でやろうというようには見えなかった。
その、キミたちが望んでいるようなタイプの
釣りの原稿は、
ぼくには書けないし書く気もないんだよ。
という感じだった。
結局、ぼくは、まったく頼まれてもいない
「紙のプロレス」という雑誌にお願いして
連載をさせてもらった。
「紙のプロレス」と釣りはなーんにも
関係なかったけれど、
離れに住んでいる居候のような立場で、
ぼくはほんとに自由に釣りのことを書いた。
のちにこの連載は書き下ろしをくわえて
一冊の単行本になったけれど、
いちばん楽しかったのは、
無理やりのように持ち込みで
連載をしているときだった。
原稿料もないし、締め切りの催促さえ
(してもらえ)なかったけれど、
書くことがうれしかった。
この時の気持ちも、「ほぼ日」の
基礎になっているのかもしれない。
ああ、また、寄り道してるよ、オレ。
「婦人公論」は、編集長と担当者(打田さんです)が、
打ち合わせにきてくれて、
ぼくはその場で次のようなことを言った。
うろおぼえで、正確さには欠けるけれど。
「わしは、いま、自分の興味にあわせて
いままで会ったことのない人たちに会いたいと思っておる。
自分の興味とは、
御婦人というものとの接点のないものである
可能性が高いものである。
しかし、わしが、
<なぜ、こんなことに興味を持っているのか>を
伝えることならばできるにちがいない。
それが、たとえ、
サンショウウオの金玉についてであっても、な。
とりあえず、
第一回はインターネットと複雑系なのじゃ!
その次は、スポーツ科学じゃ〜っ!!」
これで、OKだったら、
もう引き受けない理由なんかうぶ毛ほどもない。
そしたら、いいですねそれで行きましょう、
だっちゅうのではないか?!
うろおぼえで、不正確な気もするけれど。
「世の中の、おおきな転換期がいま来ている。
ともすれば従来の女性誌というものは、
その流れと無関係に存在していたようである。
しかーし、いまリニューアルする我が雑誌のあり方は、
まさしくいま貴君(イトイ)が
つばを飛ばして語ったような企画をあえて
読者に問うようなものでありたい」
というような返事がきたのである。
御婦人の雑誌で、
こんなイトイでインターネットで
複雑系でスポーツ科学で連載だって。
ひょっとしたらサンショウウオの金玉だって?!
他のメディアからこんな企画が持ち込まれる可能性は、
金輪際ありえないだろうと、ぼくは思った。
あまりに不人気だった場合は、
おわりにしてもらえばいいや、
とすぐに考えた。
しかし、それと同時に、
「これはうける」と、
大人気ということにはならないだろうが、
たのしみに読む人がかならず
出てくるだろうという自信があった。
なぜなら、ぼくが、おもしろいと
本気で思ったことしかやらないのだから。
ぼくは、芸人としてはおもしろくない人間だけれど、
ぼくが本気でおもしろがったことは、絶対におもしろい。
10割とまで大風呂敷は広げないけれど、
7割5分から8割9分くらいは
おもしろいはずだと断言する。
(「イトイが流行ってない」とぼくが平気で言えるのは、
こういうことを平気で言えるやつでもあるからなのです。
わかりましたか?)
やっと、ここまでたどりつきました。
この、こういう「婦人公論」の連載座談会の第2回目に、
スポーツ科学というテーマを選んで、
そこにゲストとしてお呼びしたのが、
神奈川大学の駅伝の監督・
大後栄治さんだったわけなんです。
はい、それでは、みなさまの予想通り、
この先は次回に続く、
と・・・。
第11回
大後監督にショック。(その3)
前回を読んでいる人にとってはそんなわけで、
「婦人公論」の連載座談会はスタートした。
第1回は、まだインターネットをはじめたばかりのぼくの、
その時の興味にあわせて、インターネットというテーマ。
「複雑系」関係の著書も多い埼玉大学の西山賢一さんと、
「サッカー日本代表を応援するホームページ」の
ウェブマスターである koichi さんに来ていただいた。
このときの記事は、
近々「ほぼ日」に転載できると思うので、
たのしみにしていてください。
ま、婦人雑誌で、男3人で、
インターネットをテーマにして座談会というのは、
やっぱりめずらしいことだったのだろうが、
特に「考えなおしましょう」の提案もなかったので、
これでもいいのだなと、ぼくは安心した。
次の回だ。
テーマを考えてるときが、
冬季五輪の真っ最中だったので、
「スポーツ」でいこう!というぼくの提案は
自然に通った。
ぼくのキャスティングについての注文は、
「スポーツを、ちゃんと戦略的に考えられる人」を
呼んでほしいということだった。
スポーツは「努力と根性と浪花節の世界」から
抜け出さなきゃいけない。これは、
けっこう多くの人が言う。
でも、どうやって?
ということについて
キチンと語ってくれる人に会いたかった。
ぼくは、幸いなことに、
自分「単なるスポーツ好き」にしか
すぎないのだけれど、
いろんなジャンルの一流の選手や
コーチを知っていたりする。
彼らは、あきらかに、
「スポーツ好き」の野次馬なんか
問題にならないくらいの、
科学的な知識やゲーム戦略を持っている。
それがなかなか一般のスポーツファンに
伝わらないのは、
スポーツがいまだに「剣豪小説的な文脈」で
物語られているからであると、ぼくは思っている。
個人の精神的な強さが、
スポーツにおける勝敗を決定する、
と、観客たちは信じている。
だから、とにかく「がんばれ」と叫ぶ。
うまくいかなかったら、
「がんばりが足りなかった」
ということにする。だから、
(うまくいかなかったという意味で)
がんばらなかった選手の「人格や根性」を
問題にしてしまう。
こういうふうに書くと、誰でもが、
「そういうファンっているんだよなぁ」とか
他人事のように読むんだろうが、
たいていのスポーツファンてのは
こんなもんですよ。
ぼくも含めてですがね。
こういう見方をしていると、
スポーツにおける指導者とか
コーチとか、トレーニングとか、
戦略とかルールとか・・・
いろんなものの存在がわからなくなってしまう。
肉体的にめぐまれた選手が、
過酷な練習に耐え、
精神力をきたえ、
試合でがんばれば勝つ!
ということなら、監督やコーチは何をするのか?
暗くなるまでの千本ノックをするのか。
カネのないチームは、
いい選手がとれないから勝てないのか?
急に言いだして悪いんだけどさ、
今年の巨人は、
怪我人が多くて選手ががんばらなかったから負けたのか?
怪我をしないようにするトレーニング
というものがあるとしたら、
怪我をさせたことはコーチングのミスだ。
選手ががんばる理由をつくれなかったのは、
リーダーの力不足ではないのか。
スポーツだから、わかりにくいのかもしれないが、
これが会社だったら、軍隊だったら、一目瞭然だろう。
能力のある社員をスカウトしてきて、がんばってもらう。
しかし、業績がのびない。戦争に勝てない。
としたら、システムそのものの欠陥を疑うのが
生き延びる道の第一歩だろう。
やる気のない社員ばかりがいたとしても、
それぞれの社員の働くモチベーションに関与できない
上司の責任になるのが、いまの社会のしくみだ。
いまどき、いい仕事をして成功したときの
「社長さんの笑顔が見たい」なんて
子どもみたいな理由で半年間も戦い抜ける社員が、
どこの世界にいるというのだ?
しかし、スポーツの世界を、
ぼくらはある種の偏見で見ているので、
こんなあたりまえのことさえわからなくなっている。
競技スポーツというものは、
「心・技・体・知・略・信」少なくともこれくらいの
たくさんの要素の総合力で勝利をつかみとるものだ。
運動神経にすぐれた肉体だけを
武器にしているような選手には、
勝利の女神は微笑んでくれない。
なのに、スポーツを講談のようにしかたのしめない
多くのホワイトカラーの人々が、
「体育会系」だの「運動部」だのと、
スポーツ選手たちのことを、見下したような言い方をする。
嫉妬もあるのだろうし、
畏れのようなものもあるのだろうが、
実際の一流のスポーツ選手たちと接してみると、
本当にこの人たちは誤解されているのだなぁと、
つくづく思ってしまうのだ。
長くなったけれど、そんな思いがあって、
座談会のテーマを「スポーツ」にしたわけだ。
その会話のなかで、
スポーツ関係者のおそるべき知恵と知識に、
読者のご婦人方が感心してくれたらいいな
という野心があったのだ。
ゲストの一人、増島みどりさんは、スポーツライターで、
いまぼくがくどくど言ってきたような視点を、
いろんなメディアで展開している。
◆ホームページ
(http://www.asahi-net.or.jp/~mu2m-msjm/stadium/)
もあるので、よかったらそっちへも
行ってみてください。
この増島さんが、
もうひとりのゲストを紹介してくれたわけだが、
それが、「大ちゃん」と呼ばれる大後栄治さん。
神奈川大学駅伝チームの監督であった。
と、いいところで、またつづく。
別に、ひっぱってるわけじゃないのですが、
どうしても話が横道に入ったりして、
進みが悪いんです。
まぁ、実際にぼくと対面してしゃべっていたとしても、
こんな感じだろうから、ライブ感覚ってことで、
許しておくんなはい。
さぁ、次回こそ、大後さんにびっくりの巻だ!
第12回
大後監督に会って、感心してしまった。
やっと本題にはいれる。
とにかく毎回書きはじめると
どこへ行くのかわからないので、
今回のように、本題にはいることを約束して
書き出せば、
きっと大丈夫だろうと、期待している。
ぼくは自分のことを、ここまで信用していないのだ。
信用していないということは、
嫌いだというこではない。
大後栄治・神奈川大学駅伝監督とは、
むろん初対面だった。
だいたい、失礼ながら、
大学駅伝チームの監督の名前を知っているほど、
ぼくはスポーツマニアではなかったのだ。
しかし、同席していた座談会のもうひとりのメンバー、
増島みどりさんが、
大後さんの簡単な紹介をしてくれたので、
ああ、そういう人なのかと、
スタート直後からうっすらといい印象をもった。
「大ちゃんは、箱根で、足を痛めていて、
これ以上走ると選手生命に関わるっていう選手を
飛び出してって止めた監督なんです。
クルマから飛び出してったところ、憶えてませんか?」
いや、憶えてないです。すいません。
いつも箱根駅伝のときは海外で正月を過ごすっていう
パターンなので、
日本でなにが起こってたか知らないんです。
でも、大会の優勝候補であるチームの監督が、
ひとりの選手の「選手としての人生」を大事にして、
レースを棄権したなんて話は、
知らなきゃいけなかったなぁ、と早速ぼくは反省した。
スポーツを科学的にとらえている人としてお招きした
ふたりの話は、始まる前からぼくを満足させてしまった。
ぼくとしては、この座談会で、
読者の誰よりも「理知的なスポーツマン」が、
「ほらここにもいるでしょう!」と見せたかったのだ。
スポーツマンは「スポーツばか=脳まで筋肉」
という迷信をぶっ飛ばすための証拠物件として、
「体育会系」を下に見ようとする世間の人たちに
突きつけたかったのだ。
座談会がスタートしたら、
ただもうぼくは感心するばかりだった。
特に、幕を閉じたばかりの長野オリンピックにまつわる
選手たちの戦略や、技術の磨き方の話は、
ホットで興味深かった。
詳しくは(すぐに読みたくなった人は、
増島みどりさんのホームページ
http://www.asahi-net.or.jp/~mu2m-msjm/stadium/
に再録されていますから、そちらへ)、
いずれ「ほぼ日」に再録するが、
ほんの少しここにも引用します。
>増島 ラップタイムってありますね。
>スピードスケートの選手は
>0.何秒でラップをいじるんです。
>400メートルを37.2秒で回ってこいと言うと、
>ちゃんと37.2秒で回ってくる。すごいことですよね。
>これができるのは一握りの選手だけで、
>さっきの白幡選手などがそうです。
>そういう感覚をいかにして体内時計に取り込むのか、
>大後さんに聞いてみたかったんです。
と、増島さんが
「そこの現場で、自分の目で見ていた記者」として、
質問するわけだ。
その時、同席していたぼくは、素人考えだが、
「体内時計という、時間の感覚ではその正確さは
計れないのではないか」と思いながら、
大後さんの答えを待った。
>大後 どういうピッチとストライドで、
>どのリズムでいったら1周を何秒でいけるか、
>そういう感覚が育ってるんです。
>それを、その場その場で把握してレースを組み立てる。
>だから「オーバーペースですね」と
>言う解説者がいますが、
>何をもってオーバーペースと言うのか。
>オーバーペースかいちばんいいペースか、
>選手は自分の体で覚えているんですから。
つまり、時間の感覚をつかんでいるのではなくて、
選手はピッチ(足を運ぶ速度)と、
ストライド(歩幅)を、
修練によって把握しているという説明なのだ。
さらにこの直後に、補足するように、
「それに乳酸値が、
(疲労度によるピッチとストライドの
減衰を計算にいれるために)からんできますけどね」
と付け加えることを忘れていなかった。
こういう人こそが、コーチというものだろう。
科学的であったり、理知的であることは、
冷たいということではない。
「選手には、納得できない練
習はしなくていいと言ってます」
目的と方法に納得がいったときにこそ、
人間は全力を尽くせるものなのだということを、
大後さんは本当によくわかっている。
「天分のある、最高に素質のある人は、
オリンピックでいえば
金メダルをとってない場合が多いです」
金メダルをとるような選手というのは、
やや素質に劣る者が、目的をもって
修練をつんだというケースが
ほとんどでしょうと言う。
ぼくは、いわゆる根性主義は嫌いだけれど、
メダリストたちの努力は、それとはちがう。
夢を「自分の手につかむ」そのリアリティを、
本気に信じているという姿そのものなのだ。
きりがない。
大後さんの話はいちいちぼくの
錆びかけの琴線をかき鳴らした。
そして、座談会の終わりかけのころに、
こんなことを言ってくれたのだった。
「秘密、というわけでもないんですけど、
いままで人に言わなかったことがあるんですよ。
もう、言ってもいいかなと思って・・・」
なな、なんですか?!
ぼくには、いままで聞いたどの話も、
秘密以上の「奥義」のように思えていたのに。
少なくとも、神奈川大学の駅伝の選手たちは、
いままでぼくの知らなかったあんな話こんな話を、
ほとんど知っていたというわけだ。すごいなぁ。
なのに、まだ、
秘密というやつがあるんですかぁああああ??
「はい。たいしたことじゃないんですけど。
つまり、それは、最適な環境のなかに
選手を置かないってことなんですよ」
そ、それが、秘密?
「あえて便利な環境を
追い求めないようにしてましてね。
大学から練習場まで10キロ離れてるし、寮は自炊。
夏合宿は、公民館の畳の部屋に貸布団です。
駅伝の優勝校でそういう
環境でやってるところってないです。
でも常に練習環境にコンプレックスも与えておきたい。
競技に対する考えが甘くなるからです」
なぜ、こんなに苦しい練習をして、
若い日の眩しい時間を駅伝にささげられるのか。
それについては、選手自身が迷うだろうし、
逃げたくもなるだろう。
至れり尽くせりの立派な施設や環境のなかにいたら、
この「なぜ、こんなに?」の答えを、
施設や環境を作った側の
人間に求めてしまうことになりやすい。
それが甘えというやつだろう。
やらされている、という感覚になる。
自分がやる理由を、
自分に納得させるように説明するためには、
「やれることのよろこび」を感じさせるような
場を用意する必要がある。
価値の体系の頂点が、
一般社会のコピーにしかすぎないようでは、
厳しい練習や、倦まずに考え続けることに
耐えきれないのだろう。
よくプロボクシングなどの解説で耳にする
「ハングリー精神」というものを、
現代の日本に、
こういう方法でとりこんでいるというわけだ。
昔のプロ野球選手は、
「グラウンドにはカネが埋まってる」と
いう言い方でモチベーションを
あたえられることがあったらしい。
あくまでも、この場合は、
カネが(世間と同じように)一番の価値なのだ。
それでは、そのスポーツをやり続ける
意味が見えてこない。
宝くじで当てても、レストランを経営していても、
カネなら入ってくる可能性がある。
「なぜ、野球をやり続けるのか?」は、
やっぱりグラウンドに埋まってるカネを
掘り出したいから、
ではない!
そうか、世間の価値体系が金銭万能主義に一元化されて
しまったように思いこんでいたけれど、
実は、そうでない生き方は、
真剣なアマチュアスポーツになかには、
ちゃんと残っていたんだなぁ。
いい施設、いい給料だけで強くなるなら、
やる気になるなら、
バブル期の日本人はみんな金メダルだったよな。
この、大後さんに会った日に、ぼくは20歳くらい
若くなったような気がした。
第13回
釣りをすることと、コンピュータ。
どれくらいの人が知っているのかわからないが、
ぼくは、2年間ほど、釣りに夢中になっていた。
詳しいことは、その間に少しずつ書いていったものを、
単行本にまとめてあるので、そっちを読んでくれればいい。
「誤釣生活」というタイトルで、
ネスコ・文藝春秋から出ている。
ちなみに、「誤釣」は、ゴチョウと読む。
ゴキンとか、ゴツリと発音すると、
ひらがな検索ででてこない。
釣りをはじめた理由については、
ここでは軽くふれるにとどめる。
小さい時分から、
年をとったら釣りを趣味にしようと思っていた。
ぼくは、釣りが好きなのだと、
しないときからわかっていたのだ。
やっぱり、案の定だった。
というくらいでいいだろう。
釣りに縁のない人は、
この遊びをずいぶん簡単に考えている。
竿を持って、水をながめてじいいっと待っているだけの、
静かな老人趣味だと思っている人が多いようだ。
「いいですねぇ、釣りかぁ。
たまには、じっと静かに釣り糸を見つめながら、
哲学的なことを考えるような時間も、
現代人には必要ですよねぇ」
こう言って、ほめてくれたつもりなのだ。
世間のガツガツした動きと、適度な距離をとって、
人間にとってほんとうに大切なことを、
忘れないようにする。
そういう、深みのある時間を味わっているイトイさんを、
認めてくれているという発言なのだ。
しかし、それは、もう、ぜーんぜん見当違いなのだ。
ぼく自身も、
そんなふうに考えていたような気もするのだが、
180度、ちがう。
逆なのだ、釣りってものは。
たしかに、世間のガツガツした動きとは無縁である。
なぜならば、釣りをしている人間は、
釣りをしている間、
世間にいるとき以上にガツガツしているので、
世間のガツガツなんか、すっかり忘れているのです。
その意味では、釣りは「超俗的」な趣味である。
頭をかなづちでなぐられた人が、
どこかを蚊に刺されたからといって、
かゆいかゆいと騒がないでしょう?
だからといって、
その人は「かゆみ」を超越しているわけじゃない。
釣りというものは、忙しいし、ガツガツしているし、
体力はつかうし、戦略策略はめぐらせるし、
社会の「モーレツ」な
ビジネスマンがおとなしく思えるほどの、
「ワーカホリック(働き中毒)」的な
遊びだったのである。
ピンとこないだろうから、かつてのぼくの
ある典型的な「釣りの1日」を、なぞってみようか。
日常の本職の仕事は、さぼらないということにしないと、
釣りじゃ稼げないのだから、前日も夜まで働く、と。
仕事の時間のすきまを見つけて、
釣り雑誌や、地図を調べて、
その日の釣り方、道具だてなどを考えておく。
クルマのガソリンも、前日に満タンにしておきたい。
足りない道具や、必要だと思われる道具があれば、
釣り具屋に行って買っておく。
ここまでが、夕方までにすること。
家に帰ったら、ラインの巻き換えをする。
ロッド(竿)は、
目的にあわせて2〜6本ほど持って行くから、
それに合わせたリール(糸巻き器とでもいうか)を選び、
その糸を全部チェックして巻き変えておくのだ。
せっかく魚を釣っても切れてしまったら、なにもならない。
釣り道具を持っていない素人のともだちを誘った場合や、
ムスメを連れていく場合は、そのぶんもセットする。
ロッドや、リールの選択は、実は
どんなルアーを使うかというところから
逆算して考えられている。
ルアーのセットを、組み合わせ、
つかいやすいようにパックする。
釣り方は、その日その場所で決めるのだが、
いろんな可能性があるので、どういう状況になっても
対応できるように、いろんなセットを詰め合わせておく。
比較的透明度の高い山上湖の、
春の、産卵前の、ボート釣りには、
こういうことが考えられるから、
こういうルアーを、こう使う・・・しかし、
もしかすると気候がこうだから、
こうなっているかもしれないので、
こういう準備をしておいて・・・。
なんて考えていくと、ルアーをセットアップする作業は、
3時間も4時間もかかってしまう。
夏以外だと、雨具や防寒の準備もしておかないといけない。
寝られるようになるのが、だいたい夜中の2時くらいだ。
朝方の釣りにいい時間を逃すわけにはいかないから、
「現地に5時ね」なんて集合時刻を決めてある。
深夜や早朝は道路が空いているとはいえ、
東京から行く釣り場は、近くでも1時間半はかかる。
つまり、3時半に家を出発するから、
起床は3時だ。
クルマの運転は中年のおじさんだからといって、
だれかが代わりにやってくれるわけではない。
コンビニでいなり寿司か、おかずパン、
おにぎりなんかを買って、
飲み物も用意して、ひたすら湖に向かって走る。
(もう、疲れた? 読んでるだけで?)
さぁ、これに、自分のボートを持っている人だと、
そいつの運搬と、水上への上げ下ろしが加わる。
これは、とんでもなくめんどうなものであるが、
この手間は、ま、省略しておこう。
これで、やっと釣りがはじまる。
日没まで、魚を探してボートを走らせ、
エレクトリックモーターを足でコントロールしながら、
立ちっぱなしで、ずうっと釣りをする。
釣りが終わったら、道具やボートを片付けて、
またクルマを運転して、渋滞の道を帰ってくる。
どうだろう?
どこが超俗で、どこが哲学で、どこが静けさだったろう。
ぼくは、もし、これが仕事で、
労働として賃金を受け取るものならば、
絶対にやりたくない。
「働き中毒の日本のビジネスマン」なんて、
甘いものだとさえ言えるだろう。
ぼくは、こんなに自分が働き者だとは思わなかった。
しかも、ぼくよりもずっと一所懸命に
この過酷な遊びを、
やっている先達たちが無数にいるのだ。
驚いた。
目的のあることなら、人間は、苦労を苦労と感じない。
早起きが苦手な怠け者だと思っていたぼくでさえ、
日が昇る前に集合しているではないか。
断っておくが、こうでない釣りもある。
こんなにがんばらなくても、釣りはたのしめる。
だが、一度は、このくらいのことを経験しないと、
遊びが遊びとしておもしろいと感じられる前に、
飽きてしまうのだと思う。
お気づきかもしれないが、いままで述べてきた釣りは、
ブラックバス・フィッシングというジャンルのものだ。
これは、アメリカの遊びだ。
アメリカの場合は、フィールドが広いので、
全速でボートを走らせている時間が、
ひどいときには往復で8時間とかになったりする。
アメリカ人ってやつは、
そのくらい「濃い遊び方」をしているのか、と、
バス釣りをはじめてすぐに、ぼくは思った。
日本人が働き者だなんて、
単なるイメージにすぎないのではないか?
こういう、釣りだけでもこれだけ
タフな遊び方をするやつらが、
「ほっんとに奴ら練習しないからね」なんて日本人に
言われているのは、ヘンだぞ。
ぼくは、自分のいままでの人生を、
意外とラクをしていたのではないかと疑いだした。
むろん、周囲の誰それよりも、
よく働いていたつもりだったんだけどね。
また、この項も、一度じゃ終われなかった。
続きは、また次回ということで。
じつは、もう、成田に行かなきゃならない時間が来たんだ。
じゃっ!
第14回
釣りをすることと、コンピュータ。(その2)
前回は、釣りというものが、
想像していたよりもずっとハードでタフな遊びであった
ということについて書いた。
今回は、釣りをして変化した生活スタイルについてだ。
まず、驚いたのが、
早起きが苦手だったのに早起きをしている自分にだった。
誰でもたいていの人は、
朝の5時だの4時だのに集合しようなんて言われたら、
いい顔はしないだろう。
早起きが得意と自称している人だって、
せいぜい6時起きくらいのことを自慢しているものだ。
一時のぼくは、
「午前中の会議は自信がないから入れないでね」
なんて、マネージャーに釘をさしたりしていたくらいだ。
しょうがねぇやつだった。
それが、現地に5時ね、なんて平気で約束している。
ゴルフの好きな人たちも、
同じような経験をしているらしいが、
まさか、自分自身にこんな大変化が起こるとは、
ほんとうに我が身が信じられなかった。
やればできるんじゃないか?!
早起きだけは苦手、と思いこんでいた自分に、
「いままでは、さぼってただけなんじゃないの?」と、
少しきついツッコミを入れざるを得なかった。
できるとかできないとか、
自分の可能性を狭い範囲のなかに閉じこめることを、
自分がやってきたんだなぁ、
ということがバレてしまって、
困ったけれど、ちょっとうれしかった。
同様に、クルマの運転についても、
こころの変化を発見してしまった。
ぼくはドライブの好きな人間ではない。
大嫌いというわけではないけれど、
他の人が運転してくれるなら、ぜひそうしてほしいと
考えてるようなドライバーである。
こんなぼくの連続走行距離の目安は、100キロだった。
「うれしくはないけれど、100キロの距離なら、
我慢して運転してもいいかな」くらいの感じ。
しかも、その100キロを運転するためには、
その前に十分な休養をとって体調万全でないとだめなんだ、
と、これも決めていたわけだった。
それが、早起きと同じように、
「そんなこと言ってられない」となったら、
当たり前のようにどこまででも、
いつでも走るようになった。
早起きと同じように、
「たいしてイヤでもない」と
思うようになってしまったのだ。
これも、決してうれしいとは思わなかったけれど、
「いやだ、だめだ」と決めつけていた自分に、
ちょっと生意気なんじゃなかった?
とツッコミを入れた。
男が年をとると、
自分でするべきことと、
自分でしなくてもいいことを、分けるようになってくる。
本人がそうしようと思わなくても、
周囲がそういうシステムを自然に押しつけてくる。
ハイヤーは、
運転手さんが運転席からとぶように走ってきて、
後部座席のドアを開けに来る。
自分より年下の人と歩いているときには、
その人が荷物を持ってくれようとする。
旅行の切符やホテルの手配などは、
会社の誰かがやってくれる。
掃除や洗濯は、まったくしなくても暮らせてしまう。
ま、タバコいっぽんに火をつけられない人はいないのに、
火をつけてくれようとする人がいる、ということだ。
そうやって、自分でもできるようなことを手伝って、
そのことで仕事をしている人がいるわけだから、
拒否したら営業妨害になってしまうかもしれない。
だから、たいていのサービスされる側の人たちは、
「どうぞ、わたしにサービスをしてください」
という態度で、
システムの循環をこわさないようにしている。
ぼくだって、そうしてきた。
だが、「ま、いいか」でサービスを受けているうちに、
錯覚しはじめるものなのだ。
マンガに描かれる「あー、きみきみ」とでかい態度で、
人を呼びつけるシャチョーさんやら、議員さんやらは、
現実の世界にはマンガ以上にいっぱいいる。
過剰にサービスされることは、ある意味で快適だし、
自分のパワーを表現するのにとても都合がいいから、
「チカラを見せつける稼業」の人なら、
それをやめるわけにはいかないだろうと思う。
正義派で権力に異議を
となえているようなジャーナリストや、
庶民的を看板にしているような人たちが、
案外「いばりんぼサン」だったりするのは、
見ていていやな気持ちになるが、
長いことサービスされることになれてくると、
自分だってこの快適さから
逃れられなくなってしまうものだ。
しかも、そのサービスを受けるにふさわしい自分を、
正当化するための理屈もある。
「自分の得意なことだけを集中的にやったほうが、
経済効率がいいし、みんなのトクになる」
と言えばよいわけだ。
そりゃね、大事な仕事の山場を迎えているときに、
大掃除の予定がかさなっていたら、
後者のほうはご遠慮しておいたほうが
一族郎党のためですよ。
だけど、なんでもかんでも、
「もっと得意で大事なことがあるから」という理由で、
やらないでいたら、
普通の生活をしている人の
普通の気持ちが理解できなくなる。
「お殿様」ってあだ名の人がいるけれど、
そういうタイプの人というのは、
やっぱり、コミュニケーションを
生業にするのは難しいだろう。
そんなふうな考えを持ってはいたけれど、
男で、中高年という年齢になっているぼくの生活は、
かなりサービスをされることが自然になっていて、
それで固定しつつあったような気もする。
家族旅行の時に、冗談めかして「リーダー」と呼ばれ、
切符の手配やら、
出来もしない英会話での交渉などをさせられるのは、
苦労ではあるけれどとても健康なことだと言える。
しかし、そういう機会は、そうあるもんじゃない。
「いばりや」ではないけれど、
ちょいと偉い人っぽい生活を、
ほんの少しの居心地の悪さだけを感じながら、
かなり長いことやり続けていたのだった。
ま、どっかの親父と同じってなわけですよ。
ところが、釣りをはじめたら、
いっさいのサービスがなくなった。
釣りの支度も、クルマの運転も、
目覚まし時計かけての早起きも、
なにもかもが、自分でやるのが当たり前なのだ。
(そんなこと決まってるジャン、
なんて笑ってるお若い方よ、
君がぼくの年齢になったときに、
もういちど今回の文を読んでみてくれ)
自分のことを自分でやるからこそ、
釣りはおもしろいし、あきずにたのしめる。
思えば、このことを身をもって教えてくれたのは、
あの、今よりもっと小生意気そうな
面構えをしていた木村拓也くん
だったと思う。
何時間か前に、
おおきなコンサートホールで公演をやっていて、
そのままほとんど眠らずに
クルマをころがして釣りにでて、
コンビニに走ってお使いをしてくれるような
不良っぽい若者は、
とてもカッコイイと思った。
年長のマネージャーをあごで使うようなガキの多い
(と思われてる)アイドルの世界にいても、
彼は普通の同い年の若いやつが
どうやって暮らしているかを、
よくわかっていた。
また、釣りという遊びは、そうやってたのしまないと、
たいしておもしろくないものなのだ。
どんな人でも、同じようにつらい目にあって、
どんな人でも、同じようによろこべる。
釣りをはじめたことで、
ぼくは、こんな当たり前のおもしろさを再発見した。
そして、食い物である。
釣りをすると、ぜいたくが言えなくなる。
早朝から、人のすくないほうに向かって出かけるのだ。
コンビニとか、深夜や早朝もやってる
ファミリーレストランが、
唯一の食料仕入先になる。
のんきな親父どもは、
「じゃ、奥様が前の晩かなんかに
お弁当つくってくれて・・・
うらやましいですな」などと、
とんちんかんなことを言うが、
自分は遊びで、自分の好きで苦労をしているのだから、
「奥様」に余計な負担をかけるなんて
出来やしないでしょ。
出来の悪い時代劇の登場人物じゃないんだから、
「あなた、これ」
「おお、弁当か。早起きをさせてしまったな」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ああ、釣果はあてにするなよ、わっはっは」
なんて、あるわけないでしょう。
コンビニがありがたいのである。
ファミリーレストランや牛丼やが、助かるのである。
このへんから、次の回にまわしましょう。
では、また、たぶん来週ね。
第15回
釣りをすることと、コンピュータ。(その3)
前回、たぶん来週ね、と書いたのに
1週間ふっとばしてしまいました。
釣りから、予想通りのノーフィッシュで戻ってきて、
眠い目こすりながらこの原稿にとりかかるのはツライ。
「へたなんだから、しょうがねぇだろ」と言われそうだが、
その、言われるほど下手なわけじゃないんだ、という、
見栄もあってさ、気持ちが浮かないのね〜。
でも、やる。サブリシンはめげちゃいけない。
釣りをはじめたら「食」に
対する気持ちが変化しましたという話。
そうだったそうだった。
それまでのぼくは、食い物については、
うるさいというわけではないけれど、
なんでもいいよという人間ではなかった。
いわゆるジャンクフードとか、
ファーストフードというものは、
「非常用の食料」だから、
それを食べるのは他に方策が尽きたときだと考えていた。
いわば、緊急避難というやつだ。
どこか、「本来のめし」とはちがうものだ、
という気持ちがあった。
それは、食は文化であるという考えが底にあったからだ。
その考えはいまでも変わっていないのだが、
この考えをいつも一貫して押し通せるほど、
ぼくらは豊かな時間と金銭とを
持ちあわせてはいないと思うようになったのだ。
「そんなインチキくさいものを食うくらいなら、
食わない方がましだ」なんてことを言う人もいるが、
現役でいま働いているおじさんなら、
そうも言ってられないこともわかっているはずだろう。
ひとつの食材の良し悪しを吟味する
「食の専門家」たちの仕事を、
ぼくは尊敬している。
だし昆布の一片でも、しじみの一粒でも、
ある水準を保つための苦労や努力を買って出ている
生産者がいるし、
それを理解してセレクトする料理人がいる。
そのことを、いちばんわかってないのは
「金だけ持ってる客」なのだろうと思う。
どんなに高度な芸術でも、文化財でも、
ほとんどは金で買える。
理解も尊敬もなしに、
投機の対象として絵画を買いあさることと、
有名ブランド化したレストランや料亭で
「ぼかぁ、くいものにだけはうるさいんですよ、
わっはっは」
と高級食材を食い散らかすこととは、
同じだと言えないだろうか。
ぼく自身も、「わっはっは」とは言ってないけれど、
できるだけいつでもうまいものを
食いたいと考えていたし、
いまでもかなり本気でそう思っている。
しかし、そういうものを追い求めて行くには、
ヒマとカネがいる。
さらに、ヒマとカネが潤沢にあると、
食べ物のひとつひとつを味わったり、
おいしさに感動したりすることも
少なくなってくるものだ。
自分がそういう立場に立ったことがないから
想像でしか言えないけれど、
そういうものなんだろうと思う。
だから、「ごちそう」は「たまに」とか
「ときどき」にして、
おいしい「ジミごはん」を日々いただける
というのが理想だと思う。
しかし、それにしたって実現するのはたいへんなことだ。
いい材料と、時間に余裕のある料理人がいなければ
(その料理人が自分であっても)
満足のいく「ジミごはん」などはできやしない。
食い物をまじめにあつかおうとすると、
かなりたいへんなのである。
料理の腕は超一流のプロに負けない専業主婦、
なんて人が必要になる。
よく、なにやら評論家みたいな人が
「おかぁさまのこころのこもった家庭料理を」
なんて平気で言ってるけれど、
おまえはどうしてるんだよう!
とツッコミを入れたくなる。
自分が「食は文化だ」と考えていて、
しかもその文化を尊重して現実の暮らし方を
組み立てていこう
などと思っていたら、働き盛りのおとうさんは
パニックに陥ってしまわざるを得ない。
ま、理想と現実の乖離ってやつでしょうかね。
で、結局どうなるかというと、
食い物を前にして「うんちくをたれ流すおやじ」やら、
「グルメ気取りのヤンエグ」やらが、
大量に生まれてしまうわけです。
口だけで講釈をたれていれば、
文化を大切にしている自分という存在を証明できるし、
「こんなものは食事じゃなくてエサだよ」とかいいながら
ハンバーガーを囓っていればいちおう腹はふくれる。
いっぱいいるでしょ、こういう人が。
ぼくも境界線をうろうろしてる人間でしょうがね。
この袋小路な「食意識」が、
釣りをはじめるとぶっとぶわけだ。
いつだって、緊急避難的な食事なんだもん。
ゆっくりおいしいものを食べようなんて時間があったら、
一回でも余計にルアーをキャストしたいんだもの。
そりゃ、高級料亭の弁当を誂えることだって、
料理の上手な人(たぶん妻とか愛人とかでしょう)に
こころをこめた弁当をつくってもらうことも、
絶対にできないとは言いませんよ。
自分で一所懸命につくったっていいや。
でも、しょっちゅうは、無理! でしょう。
年に一度の運動会や遠足じゃないんだから。
週に一度とか、急に思い立ってとか、
チャンスがあればいつでも釣りに出かけたいんだから。
だから、コンビニのおにぎりとか、
朝も開いてる牛丼屋とかファミリーレストランとかに、
ごく自然にお世話になるわけですよ。
こうなると、もう、文化もハチの頭もなくて、
「ある」「食える」「開いてる」というだけでありがたい。
めしがあるってうれしいねぇ、になってくるわけだ。
こんな状況でグルメめいたことを
ブツブツ言ってるやつがいたら、
「ぜいたくいうんじゃないっ!」と、一喝ですね。
釣りの帰りにうまいものを食うのはOKよ。
でもね、現場でこうるさいことを
言うんじゃないって雰囲気です。
このことが、もう、爽快だったわけ。新鮮。
やっぱり、
いつでもどこでもうまいものを食おうなんて、
貴族じゃないんだからね。
元来、無理だったわけですよ。
それに気づくわけです。
しかも、うまいだのまずいだの
言ってられない状況を経験すると、
たまにいただく「ごちそう」が実に
「ごちそうっ!」って思えてくるんです。
こんなことがわかりかけてきた頃に、
おもしろい話を聞いた。
文字どおりいまをときめくTK氏が、
スタジオにこもりっきりで
レコーディングをしていたりしますよね。
もういやっつーくらい働いて、
「さぁ、食事にいこう」と、
ほっとする時間ができる。
「ぼくがおごるから」・・・やったーっ、
大金持ちが食事をおごるわけですから、
まわりのビンボー人はなんだなんだの
わいわいわいです。
どんなすっごいごちそうなのかと思いきや、
「マクドナルド」に食事ツアーの終点はあった。
「みんな、好きなものを食べて」。
しかも、当のTK氏が率先して、
「おいしいねぇ」と感動しているのだそうだ。
この話が、どこまでツクリなのかは知りませんよ。
でも、かなり本当らしい。
なんか、現代芸術家のアンディワーホールが、
「僕は、リーバイスのジーンズが作りたかった」
と発言したという伝説と、
近いものさえ感じるんでした、ぼくは。
昔の「サクセス・ストーリー」と
セットになっていた「食の貴族化」は、
もう古いんだろうなぁと、
こんなところでも思ったのでした。
食ばっかりじゃない、
貴族のまねをするのは、
カッコわるいしいまの時代状況に合わない。
合わなくてもいいけれど、
それをやり通すだけの「貧乏貴族」の決意も
美意識もないのなら、
自分の生まれ育ちにフィットした
「安楽」「快楽」「幸福」を
自前の基準で見つけなおすのが
スジってもんじゃねぇだべかと、
しみじみ思ったわけさ。
東北への旅の寸前にあわてて書いたので、
それこそ読み返しもしないで掲載です。あははは。
ま、ウソ言ってるわけじゃないから、
不完全なのはお許しを。
次回は、タイトルの通りならば
釣りに関係した出だしでコンピュータのことを書く予定。
できるだけ、1週間以内にやるますです。
第16回
釣りをすることと、コンピュータ。(その4)
釣りが、ぼくに「なんでもひとりですること」を
教えてくれた。
なんでもひとりですることが、
どんな場面でも<いいこと>だとは思わないが、
ひとりでできるのにしない、ということが
年を取るごとに増えていくのは、
決していいことでないのはよくわかった。
まぁ、こどもの頃に「布団の上げ下ろし」とか、
食事のあとの食器を
台所に持っていくこととかを躾けられて、
そういうことの大事さは知っていたつもりだったが、
オトナになると、だんだん何もしなくなる。
自分のいちばん得意なことを、
たくさんするほうが効率がいい。
そのほうが、経済的にもみんなのためになる。
誰もがそういう考え方を認めているから、
自分のできることがどんどん狭く限られてきて、
(よく言えば〕深度ばかりがおおきくなってくるわけだ。
このことについての疑いは、かなり昔からあって、
自分の身の周りのことを何もできない大先生方を、
「女王アリみたいだなぁ」と、
なかば憐れむように見ていた。
女王アリは、名前こそ「女王」だが、
それは人間のつけた名前で、
一生を「アリ一族」の繁栄のために捧げた
生殖だけの人生を送る役割のアリである。
働きアリや兵隊アリとは、
姿カタチもまったく異なっていて、
白く大きく、一カ所から動かずに
「産む」だけを続けている。
いわば、「生命のある卵タンク」のような存在らしい。
たしかに他のアリたちが、
彼女にかしづいているのはわかるが、
それは女王アリ様のためにやっていることではない。
さーみしーだろーぉ?
でも、それが運命なんだと、
一度思ってしまえば、それはそれで
ある種のあきらめの境地にいたってしまうのだろう。
王様とか女王様とか、そういう役割の方々は、
現実にこれをやっていくのだからツライやねぇ。
いやだとは思っても、
そのイヤだという考えを実践するには、
やっぱりきっかけなり、そのための生活の場が必要になる。
それが、「釣り」だったわけだ。
「ためになるのに、おもしろい」
釣りって最高っ(笑)。
で、似たようなことかもしれないぞ、
と思わせてくれたのが、
コンピュータというものだったわけだ。
1997年の11月10日。誕生日の午後だった。
つまり、いまから1年前というわけだ。
元旦に日記を書きはじめる三日坊主たちのように、
ぼくは何かをしてみたかった。
それが、秋葉原にコンピュータを買いに行こう
となったのも、たいした理由あってのことではなかった。
漠然と、いずれいつかはやるものなんだろうから、
今日でもいいかな、と。
考えに考えていたら、一生コンピュータをさわらないで
終わっちゃうかもしれないし。
ま、それならそれでいいけどさ、と。
この程度の加減で、
あくびしながら神田・秋葉原方面に向かったのだった。
幸い、ぼくの周りはコンピュータだらけだ。
ゲームソフトをつくる会社の「いんちきな社長さん」を、
だてに何年もやっていたわけじゃない。
社長は、やめさせていただいたけれど、
付き合いは続いている。
「誰か、いっしょに買い物、手伝ってくれる?」
「いいですよ」ってなもんだ。
セットアップとか、インターネット接続とかは、
マックおたくなお兄さんに、全部まかせた。
「メールとインターネットだけ使えればいいんだよ」と、
ぼくは遠慮がちに言ったと思う。
急に使うことになったとはいえ、
そういえば何ヶ月か前から、インターネットの本とかは、
けっこう読んでいたのだった。
ま、釣りを始める20年も前から
「鮎釣りのビデオ」を持っていて、他人に平気で
「釣りはおもしろいぞー」とか
説いていた人間ですからね。
いろいろ端折って、1日か2日後。
ビデオゲームに夢中になっていたときのように、
ぼくは、眠る時間も惜しんで
パソコンの前にいることになる。
その時、マックおたくのお兄さんから、
ぼくに与えられていた「遊び道具」は、
コンピュータと、何人かの知り合いのメールアドレス、
そして接続してあるインターネットのブラウザ。
ブックマークはgooとYahoo! だけだった。
とにかく、すぐに興味をもったのは
「リンク」という思想だった。
何かはナニカにつながっていて、
そのまたナニカが別のなにやらに、つながっている。
「情報のダンジョン」だ、
あらゆる迷路は別の迷路の一要素だ。
この感じは、すっごく当たってる!
なにが当たってるのか知らないけれど、アタリッ! と、
まず感じてしまったのであった。
というあたりで、書くのも読むのも疲れたころだ。
この続きは、次回にまわさせていただきます。
第17回
釣りをすることと、コンピュータ。(その5)
釣りが「なんでもひとりでやること」の
おもしろさを教えてくれたように、
コンピュータは、「なんでもひとりでやれること」の
おもしろさを教えてくれた。
一見、おなじことのように読めるかもしれないけれど、
すこしというか、だいぶんちがうような気がする。
釣りはひとりでやれることを「しなさい」、
そうするとおもしろさが増すから。
コンピュータは、まだまだひとりでできるけど
「どうする?」やめてもいいけどさ。
このちがいは大きいだろうよ。
本屋と酒場と公園とを一緒くたにしたような場所があって、
そこには、本と人とがいくらでもあったりいたりしている。
入室時間も門限もなにもないが、
止める気になったら出ればいい。
これが、ぼくのはじめて知った
インターネットの実感だった。
ぼくのいま書いているこの文章を読んでいる人は、
当然インターネットの網の目をつなげて
ここに来ているわけだから、
こんなぼくの書いていることなんか、
当たり前すぎて読む気にもなれないのかもしれない。
しかし、はじめてインターネットに触れたときの驚きは、
いくらベテランでも、くっきり憶えていることだろう。
「知る」ということは、
迷路をすすんで宝物を探すゲームのようなものだ。
宝箱をひとつ開けて帰ってくることもできるが、
次の宝箱のものらしいカギが落ちていれば、
さらに進んでみたくなるものだと思う。
インターネットをつかって、
なにかひとつのコトバを最初のカギにして、
宝箱を開いたら、それだけで戻るかどうかの判断は、
いつも、ぼくにゆだねられる。
「そのことの答えはこれだけど、
それは、こういう人がもっと詳しく知っているんだよ」
なんて、道案内の少年が話しかけてきたら、
ゲームだったらその「こういう人」ってやつの
顔が見たくなるはずだ。
で、そいつに会いに行こうとすると、
そいつには、おとうさんやおかぁさんや、
たくさんのともだちがいることがわかる。
そっちにも行かなきゃと思いながら、とうとう
そいつに会うと、たいしたことを言ってくれない。
しかし、そいつのかぶっている帽子が、妙に不思議な
「いわくありげなもの」だったりする。
その帽子、ドイツんだ?
オラんだ。
いやいや、そういうことじゃなく、
「実はこの帽子には、これこれの因縁があるんだ」
「えっ! じゃ、そこに行けば、あの伝説の・・・」
みたいなことになると、
もう、はじめに何を探していたのかも忘れて、
さらに奥深いダンジョンに潜り込むことになってしまう。
すっかり、ゲームの話みたいになっちゃったけれど、
インターネットで「ネットサーフィン」とやらを
やっているときの気持ちは、ほんとにこんな感じだった。
実際にコンピュータゲームでの冒険には、
謎をたのしみに感じさせるための
「作者によるコントロール」があるから、
次のフィールドに行こうと思ったからといって、
すぐに行けるようにはなっていない。
現実の世界では、さらにタイヘンで、
山奥に住んでいるおかしな帽子をかぶった「そいつ」に
出会うまでには、ひと月やふた月かかってもおかしくない。
それが、インターネットだと、
「知りたかったら行きなよ」とばかりに、
アドレスが記してあったり、クリックするだけで
そこに飛べるようになっている。
行こうと思えばすぐに行ける。
距離も時間も、すぐ近くに、次の宝箱があるとしたら、
いつやめるかは、ぼくの決意しだいということになる。
しかも、自分の存在は「匿名」のままでいいので、
相手に嫌われるかどうかなんてことを悩む必要もない。
いつも、ひそかに、熱心に、自由に、
どこまでも行ってもいいのである。
古雑誌や古新聞を捨てるときに、
思わず読みふけってしまった経験は、
誰にでもあるだろう。
あの状態が、いつまでもいつまでも続くのが、
ぼくにとってのインターネットだった。
こんなにもたくさんの人たちが、
こんなにも山盛りの情報をかかえて、ぼくを待っている。
読まないわけにはいかないでしょう・・・とばかりに、
コンピュータがネットにつながったその夜から、
ぼくはさらに眠らない人になっていった。
考えたいこと、考えるべきこと、
ひとが先に考えはじめていること、
他のひとが考えているけれど何かが足りないこと、
ひとつの考えと別の考えとを組み合わせること、
いろんな無関係に思えるような別々の考えが、
ひとつの考えをプラスすると共通にみえてくること、
コンピュータの外側に、本や場所や人間の「現実」が
つらなっていて、呼べば応えてくれる可能性があること、
おそらくぼくのネットサーフィンしたコースや
立ち寄ったページ(考え)のすべては、
他の誰ともちがっているであろうこと、
「考え」についてのさまざまな考えが、
湖底のわき水のように湧いてきて、
ぼくは急に忙しい人のようになってしまった。
ビジネスとして、めしの種にはできていないけれど、
いまやっていることはあきらかに「仕事」の一部だと、
ぼくは確信した。
いままでどおりに依頼された広告の仕事を考えるときにも、
オリエンテーションの資料に出てくるさまざまなコトバを、
なにげなく検索しているうちに、
新しい考えが生まれてくることもあった。
知的でちょっと馬鹿で、ぼくのペースに合わせてくれる
最高の会話の相手が見つかったようなものだった。
おかげで、まず、何が変わったかといえば、
頼まれたひとつの仕事にかかる時間と労力が
何倍かになった。
インターネットそのもののなかにある情報を
とるからだけではない。
それにリンクしている本や人を、
さらに資料として(おもしろがりながら)
読むようになってしまったからである。
釣りで「ひとりでなんでもやる」ことの
おもしろさを知ったぼくは、
このコンピュータってやつのおかげで、
「ひとりでなんでもやれる」時間ができてしまって、
すっかり「働き者」になってしまったのだった。
じゃ、またこのあとは、この次ね。
ほら、今日は、ひーひー言ってる日だからね。
第18回
コンピュータってものとの交際歴。
ずっとぼくは、この連載ページで、
コンピュータ初心者として発言してきたわけだが、
それは必ずしも正確ではなかったと思う。
自分がコンピュータを所有したということからすれば、
ぼくのコンピュータ歴は、お若い皆さまに負けない。
はじめて「買った」のは、
PC88とかいうシリーズのヤツだったから、
まぁ、けっこう昔のことって気がするでしょ。
「ゲーム機」として買ったのだが、
『信長の野望』というゲームをやりかけて、
めんどくさくなってやめてしまった。
その後あのハチハチがどうなったのかについては、
まったく知らない。
なーんだ、それはコンピュータ歴のなかから
抹殺するべきつまらない事実だね。
そうそう。そのとおり。
経験としては、まったく意味がないのだから、
これはただ言ってみただけという事実だ。
しかし、ぼくとコンピュータの関わりは、
ぼく自身がコンピュータに触れていない時間
のほうにこそあったと思う。
まず、仕事場の周辺にコンピュータがゴロゴロあった。
その理由のほとんどは、
ぼくがゲーム制作の仕事をしていたということによる。
テレビゲームの制作には、
コンピュータは欠かせないもので、
ぼく以外の人たちはみんなコンピュータを使っていた。
ただ、その使い方というか、
コンピュータとの付き合い方に、
「好き者」ならではのマンガチックなものがあった。
パワーブックが登場したばかりの時などは、
会議室のテーブル上に、数台のマシンが並んだりしていた。
いま考えても笑っちゃうが、
それぞれのパワーブックの持ち主たちが、
自分のマシンの電源を求めて
コンセントの奪い合いをしていた。
みんなが会議をしている間、人の顔を見ないで
キーボードやディスプレイを見つめているという姿は、
かなり馬鹿馬鹿しいものだ。
これからの時代に、
コンピュータがおおきな役割を果たすとしても、
なんかさー、こういうことじゃねぇだろ?と思った。
ぼくが思っただけでなく、コンセントの奪い合いをしていた
本人たちも、そのことにはすぐに気づいたようだった。
こんなことをいくら数えあげていてもきりがない。
ま、なんだかコンピュータってものは、
便利なものだとしても「まだまだなんだろうな」、と。
こんな感想を持ち続けていたわけだ。
過渡期にある「可能性のかたまり」というようなものが、
コンピュータなんだろうけれど、
つらいのは、その「過渡期なやつ」に、
ぼくらの仕事の
かなりの部分をまかせなければならないことだった。
横浜高校の松坂投手に30勝を期待するようなことか?
ちがうかな、ちょっと。
その頃ぼくの作っていたゲームは、
「MOTHER 2」というロールプレイングゲームだった。
過渡期なコンピュータと、それをあやつる過渡期な人々は、
懸命に完成をめざして努力をするのだが、
横浜高校の松坂投手がコンピュータを使って、
日本の総理大臣をやるようなものだろうか・・・
ぜんぜんちがうな。ちがってもいいや。
ぼくらの作っているゲームは、
何度も暗礁やら岩礁やらに乗り上げて、
しょっちゅう難破していた。
松坂総理大臣も、「マザー2丸」も、
へとへとのぼろぼろの状態で、
望遠鏡も壊れていて陸地も見えないようなありさまだった。
「陸地って、あったっけ?」
「あったんじゃなかったかなぁ、ウワサは聞いたもん」
「そうかぁ、じゃ、がんばって帆をあげよう」
「帆ってなんだっけ?」
「わかった!努力をすればいいんだ」
「そうだそうだ。努力ってなんだ」
「徹夜のことじゃなかったっけ?」
「そうだそうだ。徹夜をしたりカップ麺を食うことだ」
「よし!徹夜とカップ麺を買ってこい」
というような状態になるのです。
(当然、脚色はしてますからね!)
「樹の上の秘密基地」を読んでいる人は、
「ゼルダの伝説 時のオカリナ」も、
こういう地獄のような馬鹿らしさと紙一重のところで、
作られていたのだということを意識するといいと思います。
ま、とにかく「このままじゃ永遠に陸地は見えない」
というところに、船が突っ込んじゃった時に、
あるスーパー・スケットがやって来たわけだ。
彼こそが、過渡期の海の測量士?!
コンピュータという不完全な宇宙船の操縦士?!
どういう比喩で語ればいいのか、
いまでもよくわからないままなんだけれど、
「岩田さん」が紹介されてきたのである。
岩田さんとは、現在の「ほぼ日」の電脳部長でもあり、
HAL研究所の社長であるところの岩田聡さんだ。
いつになるか完成のめどの立たなくなった
ぼくらの「マザー2」のプログラムを調べて、
彼は言った。
「いまから、いままでのプログラムをいかして、
ワタシができるだけのお手伝いをしたとして、
6ヶ月あればできるとは思います」
ワーーーッジャンジャンジャンジャン!!!
陸地って、やっぱりあったんだ。
よろこびを隠して難破船の乗組員たちが聞く。
「あ、そうですか!
発売予定は、のばしにのばしてきて3ヶ月後なんですが」
「はい。存じあげています。
その体制を6ヶ月後に組み替えないと、
つぎはぎになって、また先が見えにくくなりますから、
そうしましょう」
岩田さんは、平気で続ける。
「ここまで来たら、よけいに何ヶ月かのびることなんか、
大した問題じゃないと思います。
それよりも、これまでやってきたことが、
まったく無駄になることのほうを回避したいですよね」
その通りです。難破船乗組員たちは、うつむいた。
「もうひとつ。これは、ワタシのほうのスケジュールの
調整をしてみなくては何とも言えないんですが、
プログラムをゼロから組みあげるという方法ですね。
これも、制作期間はおなじくらいだと思いますが。
せっかくの前からあったプログラムを
いかしたいという意志が強いとすれば、
そうでないほうがいいんで・・・」
ははぁ・・・?
「期間はおなじ?!
岩田さんは、どっちを勧めるんでしょうか?」
「あくまでも、ワタシのスケジュールがある
という前提ですが、
前のプログラムに接ぎ木をして作っていった時には、
不具合が出たときのチェックが複雑になるので、
それが怖いということだけですね、ワタシとしては」
なんと無駄のない、なんと的確な発言。
「こ、この人についていこう」
ぼくら難破船の乗組員たちは、即答こそしなかったが、
こころは決めていた。
ここでこの回を終わりにすると、
岩田さんが「謎のクールガイ」みたいに見えちゃうけど、
もうくたびれたので、
続きを次回に必ずネってことで、ここまでにしときます。
おやすみなさい・・・。
第19回
<ここでも臨時>
3年ぶりの矢沢永吉のステージを観て、
急に書きたくなったので。
矢沢永吉の信者という人たちは、
もう「草の根・永吉運動」というくらいの深さで
日本中に隠れていて、若い新しくファンになりそうな人に
「エーちゃんのすばらしさ」を語り続けているようだ。
息の長い活躍を続けているスーパースターたちは、
よくよく数えてみれば何人もいなくて、
おそらく誰もが思いつく人といったらやっぱり
この「E.YAZAWA」ということになってしまうだろう。
思えば、ぼくももう4半世紀、エーちゃんを見てきている。
25年もやってきていると、
何度も、後から出てくる人たちに追い抜かれたり、
寿命が尽きたとウワサされたりするものだ。
ぼくは、「あいつも、もうだめだね」と言われた回数が、
その人間の価値になるのではないかという気がしている。
ここ2年ばかり、エーちゃんのコンサートを
観ていなかったぼくは、
つい先日、彼自身の口から聞いた
「そうねぇ、ファンの年齢で、
いちばん多いのは20代だね。なんか、そのへんのとこよ」
という情報が、なんとなく信じにくかった。
どんなものでも、どんなことでも、そうなんだけど、
ある世代にとっての価値、というものはある。
あらゆる芸能のスターたちは、
ファンクラブの老いと共に、自身の老いを知り、
親睦団体か宗教団体のように、活動の輪を閉じていく。
25年も活動しているスターの観客は、
一緒に25歳年齢を重ねている「親戚」のような存在だ。
それが常識的な見方である。
矢沢永吉コンサートの観客が20代であるということは、
「生まれたときには、もう矢沢がいた」という人々が、
会場の中心にいるということである。
そんなことがあり得るのだとしたら、
それは奇跡に近いことなのだ。
だが、武道館に行って、ぼくは事実の前にひれ伏した。
「エーちゃーん!エーちゃーん!」
と叫んで音頭をとっているファンが、まず20代だ。
客席も、あきらかに20代が多い。
アリーナ席だから、おそらく優先的にチケットを入手できる
ファンクラブの人たちがおおいにちがいない。
よくよく見ると、40代、50代のお客さんもいる。
こんな観客席は、見たことがない。
ファンが、新陳代謝しているのか。
いくら「矢沢命」の会社の先輩が、
エーちゃんのよさを飲み屋の説教のように語ったとしても、
いまどきの若いヤツが素直にファンになるとは思えない。
「歴史と伝統の矢沢永吉」と思って、
はじめてエーちゃんに接した新しいファンの人々を、
その時その時の、「時代の矢沢」が
がっちりと捕まえているということなのだろう。
今年のコンサートは、「矢沢の古典」とも言える曲の、
新しいアレンジヴァージョンを多く盛り込んで、
イギリスのミュージシャンによるサウンドで構成している。
きっと、歌う曲は、少しずつしか変化してないけれど、
サウンドのプロデュースを、毎年毎年、
がらっがらっと変えてきたのだろう。
ひとりで観客していたぼくは、
同じくらいの年のエーちゃんの、
ずっと続けてきた冒険の年月に、あらためて気づいて
彼に会ってから帰ろうと決めた。
矢沢永吉のステージは、
楽屋に大勢の仲間がたむろしているようなものではない。
舞台から降りると、彼はひとりでシャワーを浴びて、
ひとりで自分の日常のテンションに戻って、
会場を後にする。
大勢の知り合いが、花束やら手みやげを持って、
「いやー、よかったねー」などと集まるものではないのを、
ぼくもわかっていたので、
楽屋を訪ねるのは、20年ぶりだった。
加湿器を強くかけた部屋に、
バスローブ姿のエーちゃんがいた。
パターンのように握手して、笑いながら、
「なんで来てくれたのよ」と言った。
なんとなく会って帰ろうと思ったから、ぼくは言った。
「なんか、2年ぶりできたらうれしかったんでさ」
「へーえ。そう。うれしかったってのはいいねぇ」
漠然とした無駄話のなかに、
ぼくは、質問を混ぜ込んでいた。
「ステージの上で、
ほんとに酔っているようにみえるじゃない。
自分の作っているステージや音に酔っているように。
だけど、ほんとに酔っていたら、
人に見せるエンターテインメントなんてできないわけで。
自分の酔っているところを観察して、
次や次の次の時間を管理してる自分が必要だろ?
なんで、そんなことができるんだろうな」
「ああ、なんで?なんでだろ。
それはねぇ、バンドだってことがあると思う。
バンドのメンバーの出す音を、
完璧に信頼していられるのよ、いまは。
おれがいちいち契約書からなにからバッグに入れて、
お前の音が欲しいって口説いた連中だからね。
もう、力はわかってるし、彼らも、
ヤザワへの信頼を持ってる状態で練習とかして
集まってるからね、手を抜いてない。真剣なのよ。
だって、あいつら、俺のことをボスって呼んでないもん。
マジェスティーって(笑)。
そうだなぁ。完璧にバンドを信頼できる。酔える。
だから、すぱっと醒めていられるってことなんじゃないの」
この話だけは、どうしてもここに書きたかった。
音をだすバンドに信頼を置けると、酔える。
こんなことを、経験のなかで発見できている人間が、
どんなふうにサウンドをつくってきたかは、
容易に想像できる。
いま出すべき音は、矢沢永吉が観客に聴かせるべき音は、
どんなクオリティーであるべきかについて、
くそ真面目に追いかけてきたのだろう。
そして、その都度のヤザワのサウンドに、
その時代のファンが付いてきていた。
そう考えられるのではないか。
「マンネリのすごさって、わかるよね。
マンネリって、すごいのよ」
とエーちゃんが言ったとき、ぼくは、言葉尻を取った。
「でも、マンネリのふりをしながら、
別のものを出し続けてきたから、
おなじお客さんが『年をとってもエーちゃんが好き!』って
義理人情で通ってくるようなことにならなかった」
「実は、そうなのよ。
いつもおなじに見えてていいのよ、ヤザワのステージは。
でも、ほんとは違うんだ。それがわかるやつは、
来年もくるし、トモダチにヤザワに行こうって、
堂々と言えるわけ」
「おなじエーちゃんの姿はしているけど、
血の入れ替えを続けてきたんだって、おれ、書いたよ」
「そうかもしんないね」
「おんなじヤザワが、ほんとに昔のままでやっていたら、
お客さんは、いないと思うな。もう、とっくに。
小さいライブハウスみたいなところで今年やったのも、
なんだか、
『いつでも、もう一度ゼロからスタートしても、大丈夫』
ってことを、自分に知らせているように見えたね」
「小さいところで、やってみたいって、
ずっと何年も思っていたのに、それを実際にやると、
武道館がいいなぁって、思っちゃうもんなんだよ。
それがわかっただけでも、やってよかったわ。
楽屋なんてないところ、やったもの。
キャクの通路と、俺の出てくところが同じでさ。
少し待ってから、開演して・・・
もう、前のほうのコなんて、酸欠でふうふういってる。
本気で大丈夫かよ、だったもん。
でも、よかったよ、やって。
抽選抽選で客入れたりして、だいぶ迷惑だったろうけど(笑)」
いつまでも変わらないスーパースターなんて、いない。
変わりたいように変わっていく人と、
変わりたくないのに変わってしまうことを嘆く人と、
きっと2種類がいるんだろう。
矢沢永吉がデビューして、四半世紀。
その間に、何人もの「飛ぶ鳥を落とす勢い」の
スターたちが登場して、変われなくて消えていった。
つまらない変わり方をして消えた星も数おおい。
「いまも、竹田さん(スタッフ)に言ってたんだけど。
くそ真面目は、強いね!」
「そうかもしれないね。くそ真面目は強いよ(笑)」
長くなりましたが、臨時の「脱線web革命」終わります。
第20回
<バリで、新年を考えたりしてます。>
新しい年の最初の日に、
ぼくの原稿を掲載する番が来た、
というより、「頼めば書く」人間が、
このへんの日程を埋めるというのが、
うちのやり方なので、ぼくが書きます。
野球で言えば、ローテーションの谷間を、
監督が先発するようなものですね。
こういう特殊な事情もあって、
連載のつづきの内容は、また次回にまわして
正月らしい何かでも書きはじめようと思う。
ぼくがこれからもっとしつこく考えていきたいこと。
それは、完全なシステムとか、機能中心の計画が、
ほんとは単なる、「ある時代の流行なんじゃないだろうか」
ということについてである。
いま、正月休みのバリ島でこれを書いているんだけど、
なんとなく来る途中で、ミッキーマウス・マーチを、
口笛で吹いていたんです。
まぁ、ゴキゲンだったということなんだけれど。
そこで、この曲の歌詞を急に思い出して、
あれれっと気がついた。
「はずかしがりやで おひとよし」って歌詞があったんだ。
それは「ぼくらのクラブのリーダーは」と歌われる
ミッキーマウスさんは、
「はずかしがりやで おひとよし」なんだ!というわけだ。
いまのアメリカのリーダー像は、
まったくこの逆である。
こどもたち向けのファンタジーの世界だから、
現実とはちがうはずだという言い方もできるが、
ここで歌われているミッキーは、
「人柄」というものでリーダーに選ばれているようだ。
「できるやつ」だからとか「勝つために」ということで、
いまのリーダーは選ばれている。
そのリーダー像は、いわば戦争をするときの
マシーン・システムである軍隊にひな型をもっている。
的確な現状の分析と、強い意思と、
ある種の戦略にともなう非情さとずるさ・・・
こういった要素が、
いまの時代にふさわしいリーダー像であるかのように、
ぼくらは思いこまされていた。
誰かが思いこませてきたということではないのだろうが、
風潮みたいなものがある。
強い国、強い企業、強い集団をつくるためには、
「必要悪」としてでも、
「強さ」で象徴されるようなリーダーが必要であるし、
その構成員も、それに習った強さが要求される。
そんな考え方が、「新しい未来」を語る人々の間では、
常識のように語られている。
(確かに、その考えの裏側には、
「既得権益」であるとか「位置」を利用するだけで、
強くもない脂肪太りのリーダー像があったのだろうが)
市場の独占をするために、自社の線路を敷きまくって、
そこを走る電車だけがいきられるようにしていくという、
いわゆる勝ちの「プラットフォーム」の奪い合いは、
銃後まで含めての総力戦争のようになっている。
「負けたらおしまい」という戦争なのだから、
勝つことこそが善であるという考え方は、
人々のこころをとらえやすい。
しかし、ずっと前から、こうだったのかといえば、
決してそんなことはないわけで、
アメリカ・ソフトビジネスの典型的な巨大企業である
ディズニーのシンボルであるミッキーだって、
「ほずかしがりやで おひとよし」を、
ずうううううっとながいことやってきているわけなのだ。
そんな甘っちょろい考えで生きていけるか?!と、
怒鳴りあってるようなイメージの巨大な企業が、
「はずかしがりやでおひとよし」のネズミ
がつくった資本で、大きくなってきたとも言えるのだ。
なんだかこれは、
「図体ばかりでかくて、けっきょく滅んだ
(知恵のたりない)恐竜ども」の歴史が、
人間の歴史よりもずっと長かったという事実に
似通っているとも思えてならないのだ。
せっかく南の島でゴキゲンでいるのに、
なんだか硬めの話が止まらなくなってしまった。
もうやめてひと泳ぎしに行きたいね。
つまり(・・・急いでやめようとしている)、
勝つための戦略だとか、現状分析だとか、
完全に近づこうとするシステムだとか、
おもしろければやればいいんだけれど、
それが、「ひょっとしたら無駄になるかも」とか、
「たいしたことじゃねぇような気がするなぁ」とか、
思っていたほうがいいんじゃないか?
ということなんですよ、言いたかったのは。
歴史はいつも勝者の側から記録されるから、
いまは、「あのひとたち」が大正解だったように見える。
でも、映画観てたって本読んでたって、
「あのひとたち」が素敵な主人公になっていたためしは、
ぜんぜんないだろう?
「経営学者で投資家で大金持ちでスポーツマン」という、
絵に描いたような現代的なエリートが、
あんまり魅力的に見えない理由は、
なんなんざましょ?ということが、
「明日にとっての未来」を考えたときには
すっごく重要な問題になってくると思うんですよねー。
今年は、ぼくは、去年並みかそれ以上の
「おまぬけ」なことをやって、いろいろ試してみますわ。
さぼっていく、ってことじゃないですよ。
日本人、働かなすぎだよ!という考えは、
あいかわらず、本気で思っていますからね。
第21回
<またまたまた臨時です>
他に間借りできるページがないので、
自分で連載している「脱線web革命」に、またまた居候。
◆思いの氾濫。横尾忠則の快美王国。
ラフォーレ原宿で横尾忠則さんの展覧会があった。
そのことを知ってはいたが、
行くか行かないかはっきり決めもせずに
ぐずぐずしていたのだが、
バリで受け取った読者からのメールに、
「すごいですよ」みたいなことが書いてあって、
そうかそれは見逃してはいけなそうな気がするぞと、
家も近いしちょうど時間もできたので
お昼過ぎに一人で出かけていった。
なんか、まだ少し文章書いていても落ち着きがないや。
ぼくは、横尾忠則という人には特別の思いを持っている。
それは、尊敬というのともちがうんだろうし、
憧れという感じでもないんだけれど、
とにかくこの人がいなかったら、
絶対にいまの自分はいなかったと思える人なのである。
たぶん、ビートルズとかジョン・レノンの次くらいに、
そういう存在なのだ。
いや、おなじ日本人であることを考え合わせると、
横尾さんのほうが濃いかもしれない。
横尾さんにはもう5年以上もお会いしていないが、
知らない人というわけではない。
しかし、しばらくぶりにお会いするのに、
「やぁ、どーもーっ」とか言いにくい距離がある。
顔を合わせていない時間が長くなると、
なんだか知ってる度が薄くなってるような気がしてしまう。
これも、一種のファン心理みたいなものかもしれない。
たぶん、少し、あがっているのだと思う。
横尾忠則という人の作品にはじめて触れたのは、
忘れもしないお茶の水にあった中央大学の学生会館だった。
大学1年生の18歳のぼくは、
翌朝からのデモに参加する学生たちといっしょに、
この、よその学校の建物で宿泊をしていた。
真夜中によその学校にいるという経験ははじめてだったし、
貸し布団ならべて講堂みたいな場所で
雑魚寝するということもはじめてで、
なかなか眠りにつけなかった。
ポケットの小銭をたしかめて、
学生会館の入り口付近にある自動販売機で、
なにか飲み物を買おうと、
ぼくは、眠っている先輩たちのカラダを踏まないように、
気を付けながら大きな寝室をぬけだした。
キリンレモンを買ったんだったかなぁ。
それはよく憶えていないんだけれど、
その自販機のあるあたりの壁面に、
いろんなポスターが貼ってあったのだ。
そのうちの1枚に、ぼくは捕まってしまった。
唐十郎さんの主宰する状況劇場のポスターだった。
『腰巻きお仙』だった。
あざやかで、いやらしく、あやしく、
見るものの気持ちを、反則技でわしづかみにするような、
とんでもないデザインだと思った。
いや、18歳のぼくが、そんなにいろんなことを
考えたはずもない。
「いやーな感じがするんだけれど、
いつまでも見ていたいような、
はやくその場から立ち去りたいような」
そのくらいの気持ちでいたのだと思うが、
とにかくそのポスターをじいっと見つめて、
しばらく動けなくなっていた。
こんな経験も、もちろん生まれてはじめてだった。
「このポスターを、どんな人がつくったのかは知らないが、
こんなふうに自分が金縛りにあったことは、
きっと忘れないだろうな」と、それははっきり思った。
無論、この作者が、横尾忠則だったわけだ。
その後やがて、あの時のあのポスターの作者が
横尾忠則であることを知り、
中央大学ではじめて感じた、あのいやーな感じこそが、
ぼくの求めていたものかもしれないと思えてきて、
ぼくは、イラストレーターになろうかとさえ考えた。
もちろん、そのあたりの時代から、
横尾忠則という人は、文系芸系の若い人たちの
スーパースターになっていった。
それから、7〜8年経った頃だったか、
知り合いの年上の人が、
ぼくが横尾さんのことを特別に思っているのを知って、
横尾さんに会うチャンスを
つくってあげようかとか言ってくれた。
その頃、ぼくは横尾さんの本は全部読んでいたし、
シルク版画のポスターも無理して買ったり、
講演会などに出かけたりしていたのだ。
ぼくは、素直にうれしいとも思ったのだが、
「いま会えたとしても、ファンとして、
サインしてもらうことくらいしかできないし、
遠慮しておきます」と、生意気にもお断りした。
なんだか、奈良の大仏の前で記念写真を撮るような、
そういう出会いじゃ、
相手の横尾忠則という人にもわるいし、
ぼくが、ぼくであることを
横尾さんのほうも知っている状態で会えなければ、
なんにもならないと思っていたのだ。
もちろん、そんな機会は一生訪れないかもしれないが、
それはそれでいいや、と考えていた。
ぼくだって、ミーハー気分はあるのだけれど、
近くのジャンルの職業についてしまった以上は、
仕事で会えなければだめなんじゃないかと、
若僧なりにマナーのようなものを意識していた。
だから、横尾さんに会ったのは、
30歳を過ぎてからだった。
何度かご自宅に呼んでいただいたり、
食事に誘っていただいたりして、
特別な人である横尾忠則という人と、
目の前にいるヨコオさんとが、うまい具合に分離して、
ふつうに冗談を言ったりもできるようになっていたが、
しばらくヨコオさんに会わないでいると、
またぼくのなかで「横尾忠則」に戻ってしまうようだ。
そんなふうに特別な人物であっても、
男ってヤツは、自分なりの生き方のカタチができてくると、
いつまでも「追っかけ」ではいられなくなる。
特に、ビートルズのように、
短い期間だけ華やかに活動した人たちなら、
全部のレコードを持ってるよ、なんてことも言いやすいが、
活躍期間の長い横尾さんのようなスターについては、
だんだんと著作の買いもらしや、
展覧会の行きそびれがでてくる。
ま、そうでなきゃ気持ち悪いと、ぼくは思うんですがね。
そこで、今回のラフォーレ原宿の展覧会ですよ!
ちょっと緊張気味に、
「なんだか行く必要があるんだ」という不思議な気分で、
出かけていったわけです。
そして、圧倒されたわけです。
「なんだこれは?!」
岡本太郎さんが、芸術とは「なんだこれは?!」なりと、
教えてくれたことがありましたが、そのっ通りっ!
ぼくの知っているヨコオさんは、
いつでもめんどくさそうにしていたり、
つまんないツッコミを入れていたり、
「すなおにねじれた天才肌」の人という印象だったのだが、
その普段着のほうのヨコオさんの気配が、
まったくないのだ。
誤解をおそれずに言えば、
ここの会場にいる横尾忠則は、
「愚直なまでに熱心に、表現を呼吸している」のだ。
呼気が、吸気が、嵐のようである。
ちょっと白髪三千丈入っちゃいましたけどね。
表現のエナジーが、瀑布のように轟々と、
音をたてて会場を洪水にしているんですよ。
ホントだってば。
量というものを、強く意識しないと、
この圧倒的な力感は表現できなかったはずだ。
だからなのだろう、
新しい著作を、8冊同時に刊行するとか、
展覧会の会期中に、本人が、かなりの枚数の新作を、
その場で仕上げていくというような、
ケレンともとられそうな「異常な熱意」を、
斜に構えるわけでもなく演出している。
おいおい、横尾忠則は本気だぜ。
若い観覧者たちに、そのメッセージは確実に伝わった。
ぼくは、若い人ではないけれど、
オールドファンとしてではなく、新しい客として、
この展覧会に度肝を抜かれた。
ひとことで言おう。
「思いの質量が、けた外れなのだ」
横尾忠則にしか考えつかないこと、
横尾忠則にしか描けないこと、
横尾忠則にしかやれないことが、
この会場のなかだけで、億千万も溢れている。
いくつかの作品で、
昔の名もない人たちの顔写真を切り抜いて、
キャンバスにコラージュしているが、
そのひとりびとりの「思い」の数まで、吸い込んで、
横尾忠則のコトバとして、
あらためてこの会場に吹き付けているように思えるのだ。
おじいちゃんにも、こどもにもわかるように言えば、
「にんげん、<こんなにいっぱい思えない>でしょ。
でも、このヨコオさんって人は、
まだ、このまた何百倍も思えるんだよ」
こんなにいっぱい思いを生み出せるということが、
人間の持っている力なのかもしれない。
似たような考えを持ち寄っては、
「誰もがそう思うであろう」ひな形探しのための会議を、
毎日繰り返している「ビジネスマン」には、
こんなふうに「思う力」は、もう残されていないだろう。
ふたつとないものを探すのではなく、
全員が欲しがるなにかを探そうとする時代は、
人間の「思う力」を奪い取り、
役に立ちそうもない無数の「思い」を
絶滅に追い込んでいるのではないだろうか。
横尾忠則が、なりふり構わずのていで、
真正面から存在証明の叫びをあげているようだった。
数々の絶滅種的な「思い」をすべて集合させて、
ほんとうはこっちのほうが強いんだと、
見せつけようとした騒乱の宴を、
司祭としての横尾忠則がとりしきっている風景。
(しかも、会場では、ライブで、司祭は次々に
不可思議で奇妙な思いを召還し続けているのだ)
この場に立ち会わない手はない。
ぼくは、はじめて横尾作品に触れたときの、
自分が脅かされそうないやな感じを、
30年以上たったいま、再び味わうことになった。
そんな気持ちになったら、若い頃にもどったように、
出口近くのショップでいろんなものを買いたくなって、
こんなものを買い込んでしまいました。
ファンじゃないとか言いながら、
やっぱし、いわゆる単純なファンだったのかもしれません。
1月17日までだから、ぜひ、行ってみてください。
ぼくは横尾さんのいない時に行ってしまったけれど、
かなりの確率でご本人がいて、
作品をつくっているらしいです。
帰りのアンケート用紙に、
「ほぼ日」で、イトイが強くすすめていたので来た。
と記入すると、ぼくがよろこびます。
あらためて会いに行くのは恥ずかしいんで、
これから行く読者にお使いを頼むってかんじです。
第22回
コンピュータは怖くなかった。
二度ほど臨時の原稿を書いてしまったので、
第18回の続きが唐突に出てくることになってしまった。
前回は、コンピュータのことを、
やや斜めに見ていたぼくの前に、
「HAL研究所」の岩田さんが登場した
というところまでだった。
「MOTHER2」というゲームづくりが
行き詰まっている所に、岩田さんの登場は、
まるでスーパーヒーローのようだった。
いまではしょっちゅう会っている人なので、
いまさら彼をほめたりするのは難しいのだが、
ぼくの「脱線web革命」を語るためにはしかたがないのだ。
「MOTHER2」は、岩田さんの「見積もりどおり」に、
ドタバタしながらも完成した。
期待や不安を、おろおろしながら語り合うよりも、
「いまある現実」を、正確に把握して、
次にやるべきことを、ひとつづつ積み上げていく。
この当たり前のシステムを、
実際に組み上げて確実に実行していくのは、
口で言うほど簡単なことではない。
途中で起こりうる問題を予測し、
その対処法をあらかじめ考えて準備しておくことも必要だ。
いつでも、問題はあるし、いくらでも問題はある。
それを「ありうること」として、
冷静に解決の道を探すことこそが、
リーダーの役割なわけだ。
岩田さんと会ったり、仕事をしていると、
そういうことができる人が、実際にいるんだなぁと、
あらためて思うのだ。
ぼくより、岩田さんは一回り以上も若い。
しかし、ほんとうにぼくはたくさんのことを、
岩田さんから学んできたと思う。
そして、ぼくは、この岩田さんの思考の回路というのが、
彼の「プログラミング」という専門領域に
関係しているように思いはじめた。
そういう部分が、
かなり直感にたよって生きてきたぼくには新鮮だったし、
これからの自分には、岩田さんのように考えることが
とても大切なプラクティスだと思った。
岩田さんは、絶対にぼくらが忘れないような、
すっごいことを言うことがある。
◆「プログラマーは、ノーと言ってはいけないんです」
そのコトバは、こう続く。
「プログラマーができませんと言ったら、
せっかくのアイディアが出しにくくなりますからね。
プログラムしやすいことばっかり考えていたら、
枠を超えたすばらしいアイディアなんて出ませんからね」
このセリフを、よそのゲームデザイナーに話すと、
「なんですか?!それ」と必ず驚く。
そういうプログラマーと仕事をやったら、
どれだけ自分のクリエイティブが発揮できるだろうと、
夢見心地になってしまうらしい。
プログラマーはノーと言えない分だけ、
自分を苦しめることになる。
しかし、そこには「自分がなんとかしたら、うれしい」
というご褒美があるらしい。
そのほうがいいゲームができるし。ということらしい。
◆「コンピュータにできることは、
コンピュータにやってもらえばいいんですよ」
使い慣れている人には当たり前のように
聞こえるかもしれないが、ぼくには新鮮だった。
「人間は、人間にしかできないことをやりたいんですから」
そうだ。その通りだと思った。
コンピュータをあつかえることがエライんじゃなくて、
人間にしかできないことをするのがエライんだ。
だから、岩田さんとの仕事では、
めんどくさい作業をコンピュータにやらせるための
「ツール(道具)ソフト」が、どんどん登場する。
ごく普通の文化系のスタッフが、
ポリゴンで地形のでこぼこを自由に作っているのを見て、
びっくりしたゲームデザイナーがいたが、
それも、それ用のツールを使って、
誰でもできることをしていただけなのだ。
プログラマーとしてとても優秀であるとか、
システム的な考え方をできるとかいうことが、
岩田さんという人の基盤になっているのはわかる。
しかし、この人には、
基盤をさらに支える「土台」が、あるような気がするのだ。
プログラマー的な思考法を持っている人が、
人格的に尊敬できるとはかぎらない。
岩田さんは、いまはHAL研究所の社長だが、
もともとは、ひとりのバイトの学生だったらしい。
どうして社長になったのかといえば、
倒産寸前でニュースにまでとりあげられたこの会社に、
「岩田が社長をやるなら助ける」という、
援助者が現れたからだ。
だから、岩田さんは、10億以上の借金を抱えた会社の、
若すぎる社長になった。
そして、もうじき、その借金も返済し終わるらしい。
とにかく、岩田さんは、一所懸命に考えることはするが、
ずるいことを考えない。
いっしょに仕事をしたことのある人で、
岩田さんのことを悪くいう人に、ぼくは会ったことがない。
外面ばかりいいのかといえば、そんなこともなく、
いまでも80人の社員全員と、年に2度、
何日もかけて個人面接をしている。
マイナス札からスタートした会社だから
当然だろうという人もいるだろうが、
出張のときはビジネスホテルに泊まって、
移動は電車を乗り継ぐことが多い。
毎日徹夜同然だったり、出張が多かったりするけれど、
深夜にはいつでも家族のところに電話を入れている。
こんなふうに言っていると、
いわゆる優等生ね、と
ひねくれた見方をする人もいるだろうが、
ちがうんだよ。ほんとに。
別に不良っぽいところがあるわけでもないし、
おもしろいギャグを飛ばすわけでもないけれど、
「いわゆる優等生」なんかではないのだ。
ま、あえて言えば、落ち着きがない、とか、
目の前にある食い物は、口に入れないと気がすまないとか、
ツッコミを入れられるところもあるんだけどね。
この岩田さんが、ぼくにコンピュータの使い方を
教えてくれるというのなら、
ぼくは、ぜひそのコンピュータってものを
習ってみようと思ったわけだ。
今回は、ここまで。
どうも、よく会う人のことは書きづらいや。
でも、ほんとにこういう人っているんですよ。
お世辞を言ってるわけでもないし、
おおげさに言ってるわけでもありません。
あと、なにかなぁ、欠点は?
思いつかないんだよ、やっぱり。
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