「これまでの『恋はハートで』(熱き血潮篇)」


第1回
目的が違う人間が集まるのが会社。
でも、それでいいのか……究極の会社とは?

「High performance organization」という考え方がある。
これはMという外資系のマーケティング会社の
数あるコンセプトのひとつで、
「組織のあるべき方向性」を示したものである。
これによると、
「目的を共有し、集中してそれに向かうことが必要」
とされている。

組織とはそういうものに違いない。
しかし、実際はどうか。1000人を越える大きな組織で、
果たして全員が同じ目的 をもてるか? まず無理だ。
これほどの大人数で同じ目的をもって行動する組織なんて、
サッカーのサポータ ーかRolling Stonesの
ライブの観客くらいなものだろう。
いや、彼らだってお目当ての選手、artistが違うのなら、
目的が同じとは必ずしも言えない。

では究極の会社とはどんなものか?
本当の意味では「究極」ではないかもしれないが、
一般的な会社とは「対極」にある会社を紹介したい。
私の知り合いで、シリコンバレーのある著名なソフト会社の
directorに就いた人間の話である。
彼の会社では日常業務のすべてが「プロジェクト」であり、
そのアウトプットが会社の目的のすべて。
そのプロジェクトは、ほとんどが「夢物語」に近い代物 で、
現時点では完成しそうもないコンセプトの
ゲームソフトの開発だったりするわけである。
こういった組織を維持していこうと思うと、
全員の目的意識が同じ方向を向いていて、
しかもそれが達成できる、とポジティブに
思いこんでいることが必要。

ある日彼は、自分の部下であり
旧い友人でもある人間
(彼をその会社に誘ってくれた張本人でもあった)が、
当該プロジェクトの先行きに
一抹の不安を抱いていることに気づく。

金魚鉢のなかで1匹の金魚が死ぬと、
死んだ金魚の汚液で水が腐り、周りの魚が
すべて死んでしまうことがあるが、
この組織でも常に同様の危惧が抱かれていた……。
「死んだ金魚は排除するしかない」。
彼は数日悩んだ挙げ句、この部下を解雇した。
人生のなかでもっともツライ決断だったと彼は回顧する。

しかし、解雇された部下は
「これで楽になった。
自分の方向性と合わなくなったときから
自分でも辞めることを考えていたが、
なかなか動き出せなかった」と、
ポジティブだったそうだ。

この話はあまりに「極」すぎる例だが、
「究極の会社」を考えるうえで
参考にできるポイントを見いだせる……。

(1)
会社のパフォーマンスを最大化するためには、
社員の目的意識をできるだけ同質化すべき。

(2)
そもそも会社は、個人の満足・幸福を
満たすためのところではないが、
それを満たせる会社を選べば、それは可能。
といったところか。

会社にはさまざまなstake holderがいて、
おのおのが違う思惑で動いている……。
株主、 社長、取締役、課長、平社員、女子社員……。
これらすべての目的を統一することは確かに不可能。
しかし、完璧というものがあり得ないのを承知のうえで、
「あるべき姿」を追求していくことは可能。

次回以降、私が担当するこのページでは、
ビジネスマンにとっての「あるべき会社像」を
新しい切り口で追求していくとともに、あわせて
「悔いのない人生とは?」
「格好のいい生き方とは?」
といった課題にもチャレンジしていく予定。
乞うご期待 。
------------------------------------

>死んだ金魚がいても、
水槽の水がよごれにくいような「水循環システム」が、
熱帯魚屋さんにはあるんですけど、
ああいう発明ってのが、会社のなかにも
できてこないものでしょうかねぇ。
開かれたシステムという考え方とかが、
ぼくには興味あってね。
いちどに全部の金魚が死ぬより、
へんな金魚だけが生き残れる可能性が
あったほうがいいんじゃないかとか、
いろんなこと考えました。
( darling )


第2回
会社は20%の人によって支えられ、
残り80%の人は、この人たちに食わせてもらっている。

「会社は20%の人によって支えられ、
残り80%の人は、この人たちに食わせてもらっている。」
ということがよく言われる。
これは組織であるいじょう仕方がない。
SWATとかNAVY sealとか、何かしら特殊で、
極めて明確なobjectiveをもった集団ならいざしらず、
通常の会社組織ではあたりまえのこと。

ならばどうだろう。
「20%の頑張る人用コース」
「80%のフォロアー用コース」を初めから設けてはどうか。
入社時に自分の好きなコースを選択するのである。

自分の人生設計をするうえでは、このほうがより効率的。
しかも、会社としても「頑張るコース」の人には、
思う存分やってもらうかわりに、
かなりのプレッシャーをかけられるわけで、
全体としてはプラスのほうが多いのではないか。

私が勤務している某コンサルティング会社では、
入社時にある種の「禊ぎ(ミソギ)」を行なわされる。
これは会社として正式に行なわれるわけではないが、
私自身は「そのように」理解した。
その「禊ぎ」がどんなものかというと、これがごく単純。
社訓を言いわたされるのである……。

まず、第一に「Client interest first」 、
第二に「Building the firm」。
この2つを遵守することが
できるかどうかの判断を迫られる。
たった2つではあるが、
その意味を深く知るにつれ、笑顔は消えていく……。

特にひとつ目の「Client interest first」。
日本語にすると“顧客第一主義”。
簡潔ではあるが、それゆえに意味深いものだ。
要は「今後コンサルタントとして人生を送るうえでの
すべての判断は“クライアントの利益”を
第一criteriaとすべし」ということである。

「提言内容をクライアントのためになるものにする」
という当然のことに加え、
例えば、「今週末の過ごし方をどうするか」
を判断する場合にも及ぶ。
クライアントのことを思えば
週末もぶっとおしで仕事すべき、
かと思うと必ずしもそうではなく、来週の月曜日に
「よりクリエイティブなことを思考しなくてはならない」
という状況だとしたら、
週末は精神に負担をかけないようにゆっくり過ごす、
という判断を下すといった具合だ。

また、我々はかなり高額のフィーを頂いているのだが、
この費用対効果をどのように最大化していくべきか、
という課題も、瞬間瞬間で判断しなくてはならない。

例えば、移動。
都内だと地下鉄が最速だと考えがちだが、
「本当の都心」(日比谷から霞ヶ関までとか、
西麻布から四谷までとか)での移動は、
駅のホームからビルまで歩く時間を含めて比較すると、
圧倒的にタクシーのほうが早い。

だとすると、
我々に費やされているフィーを考慮した場合、
少々のコストをかけても、タクシーに乗って移動した方が、
クライアントに対してはプラスになる。
要は少しでも早く目的地に到着できれば、
それだけ物を考える時間を増やせるということ。
それに、タクシーの中なら熟睡できるので、
そのぶんの睡眠時間を削って、夜に仕事ができる。

これだけの判断を瞬間瞬間にしていかなくては、
本当に「Client interest first」は実現できないのだ。

私の場合、
「ここまでのことを全人生におよんで実行しないと、
この仕事はできないが、それでもやるか?」
と入社時に問われた、という意味で「禊ぎ」だった。
これは「頑張る人用のコース」を提示された例であるが、
ここまで明確にされれば、
自分の人生をはっきりと定義できる。

入社したはいいが、何をやらされるのかわからない。
もしくは、やりたいことがあってもやらせてもらえない、
というのは、あまりにも悲しい。
せめて、「頑張る」のか「楽にいく」のかを
客観的に明確化できなければ、
不遇の人生を歩むしかないと断言できる。

そんな会社はすぐにでもやめるべき、あるいは、
今回のようなことを明確にさせるよう努力すべきと考える。
------------------------------------

>「ホワイトカラーのリストラが、
激しく実行されるようになる」と、
よく語られているのだけれど、
それを本気で自分のこととして考えているのは、
菅原さんの言う、いわゆる「20%」の側の
人たちばっかりだという気がするんだよねぇ。

あと、いったん戦略的に
「頑張らないコース」を選択して、頑張った方が
効果的に頑張れるんじゃないかなんて、
「モノポリー・ゲーム」好きの人なら考えそう。

もういっこだけ、
すっごいちっちゃなツッコミ入れていい?
少しでも時間のコストを小さくしようとするために
都心ではタクシーがいい、と。これは、わかるけど。
そこで熟睡できるから、
夜の睡眠時間が削れるってのは、
ちょっと、説得力ないよなぁ(笑)。
( darling )



第3回
日本企業の社内慣習には、必ず意味がある。
それを強制することがダメなだけ。

  • 制服

    なぜ女性社員にのみ制服があるのか?
    それはおそらく、女性の仕事のほうが
    よりオペレーショナルであるという思い込みと、
    なおかつ会社に都合よくコントロールできるように
    しておこうという意志からで あろう。

    これは明らかに男尊女卑の考え方の現れであり、
    雇用機会均等の考え方にも反した
    旧態依然とした仕組みである。

    あるクライアント先でのできごと。
    ある日をもって女性社員の制服が廃止された。
    正確にいうと「制服でなくてもよく」なった。
    で、どうなったかというと、
    初めはみんな競って「これみよがし」に着飾ったが、
    1〜2カ月たつと、制服に戻す社員も出はじめたのだ。

    彼女達にしてみれば、
    「やっぱり制服のほうが仕事しやすい」
    「よく考えたら、社内で誰に見せるわけでもないし、
    通勤途中さえ私服だったらそれでいい」という意見。
    しかし、その一方で「仕事中も着飾りたい」
    「服が好きだから」という私服賛成派もいた。

    「仕事の効率を上げる」ことを目的として定義した場合、
    その答えは「一律対応」ではなく、
    「個人ごとの最適化」なのだろう。
    制服はよくない、という一律の反応もまた問題なのである 。

  • ラジオ体操

    いまだに午後3時のラジオ体操を
    強要している会社が存在している。
    こう書くと「うちの会社はまだそうなんだけど……」と
    心配になる読者の方も多いかと思う。
    しかし、ご心配なく。あなたの会社だけではない。
    正確に調査をしたわけではないが、
    私の印象では、日本企業の3社に1社は
    やっているという感じだろうか。

    一見ムダそうに見えるラジオ体操。
    起源は定かではないが、まったく立派なアイデアだと思う。
    デスクワークで固まりきった身体をほぐし、
    仕事の効率を上げ、残業をなくす。
    アフター5の自分の時間を確実に射止めるためには、
    ラジオ体操しかない、と言っても過言ではないのである。

    はたしてなぜにラジオ体操は評判がわるいのか。
    それは「格好悪さ」と「強要への嫌悪感」ではないか。
    3時になると同時に、刑務所のようにみんな一斉にやる。
    しかも、嫌いなオヤジと一緒にやるという
    格好悪さは何とかしたい。
    また、体調や気分で「やりたくない」日もあるわけで、
    そのflexibilityのなさが、嫌悪感になるのだ。

    こうしたボトルネックさえ除去できれば、
    ラジオ体操、これほどよい仕組みはないのでは、と思う。
    (次回につづく)
    ------------------------------------

    >にゃーるほどねぇ。
    ぼくは会社に入れてもらえなかった人間なので
    知らなかった世界なのですが、
    そういう立場の人からみると、
    「制服」とか「ラジオ体操」とかが、
    なんつーかエキゾチック?に見えて、
    すこし憧れちゃうんです。
    「茶道部例会」の貼り紙とか、「なし狩り旅行会」とか、
    会社が大きいってことのひとつの表れですよね。
    ぼくの知り合いが、某家電メーカーにいたときの話。
    「マドンナのCMが当たっちゃってね。
    『ライカヴァージン』にあわせて、
    庭で踊るんですよ、みんなで。
    部長とかも、“処女みたいに”って
    歌にあわせてヒューですよ」
    ( darling )


    第4回
    間違えては困る……、
    会社は社員のためにあるのではなく、
    株主のためにあるもの。


    「会社は自分たちのことを考えてくれない」。
    なんてことをよく耳にするが、それはあたりまえ。
    株式会社が何のための存在しているかを
    考えてみたことがあるだろうか。

    株価の上昇を含め、出資している株主に対して
    いくら還元できるかが、株式会社の第一目的である。
    「社員の厚生・幸せのために」と
    銘打っている会社もあるが、それは正確にいうと、
    「株主の利益を増やすために、社員のモチベーションを
    あげる目的で、社員の厚生・幸せを強調している」
    ということに他ならない。

    そう、あなたは間接的に株主に雇われているのであり、
    それを理解したうえで“権利と義務”を明確にすべきだ。
    自分のためにならないと思ったら、
    その会社は即刻やめるべき。

    その際、「辞めても行くところがない」
    というのであれば、それはあなたの責任。
    残念ながら、あなたの負けである 。

    高度成長期いらい、日本経済はイケイケドンドンで成長。
    それに呼応して雇用が創造され、
    我々は失業などとは無縁の世の中を過ごしてきた。

    しかしだ……。
    コンサルタントとしてトップマネジメントと接触する機会が
    何度もあるが、彼らの頭の中はどうなっているのかというと
    実は極めて単純!
    「必要性の少ない人材は、少しでも減らしたい」。
    バブルが崩壊するまで「言い出せなかった」本音である。
    しかし、バブルが崩壊して「首切りの理由ができた」と、
    彼らは口をそろえて言う。

    「パイオニアなんかが管理職を切ったときは
    新聞で話題になったが、それも初めだけ。
    今やリストラは常識。いい世の中になったものだ」
    という具合だ。
    要はいつ「切られて」も不思議なし、ということ。

    さて、どうするか。
    どこへ行っても通用する能力を養う必要がある。
    しかし、ここで強調すべきは
    「手に職をつける」的な、うわべだけのことではない。
    要はskillの話ではない。
    「人間としての能力をつけろ」ということ。
    つまりは Capabilityの問題なのだ。

    ------------------------------------

    >非常におおきな問題だと思いますね。
    会社が株主のものであるという考え方を、
    マネジメントの責任者がしっかり持っていたら、
    「可もなし不可もなし」ということは
    業績にならないわけだよね。

    攻撃して獲得する、という目的のためには
    「何をなすべきか?」
    これが問われるわけでしょう。
    現状維持ってのは、利益なしってことだしね。
    こうなると、ぼくの本職の「広告」の仕事も
    おおきく様変わりするはずなんだよ。
    つらいに決まってるけど、ぼくは歓迎したいです、
    この考え方。

    もうひとつ、
    skillじゃなくて、capabilityということも、
    よくわかるなぁ。
    ほんとに、口ではいくらでも言えるんですけどね。
    たいへんな、しかも、ほんとにたのしい時代ですわねぇ。
    ( darling )


    第5回・番外編
    「新橋駅前で夜もはやいうちから酒のんでない
     おとうさんからの投稿」

    若いやる気のあるひとの連載に、
    若くないやる気のあるおとうさんから反応があった。
    年齢は53歳。会社では管理職側に立っている人だ。
    「リ、リ、リストラしてぇえええっ!」という
    自分の寝言で目が覚めたという経験をもつ、
    なかなか我慢のいい人からの、これは投稿である。

    ◆最近、やたら腹立たしいというか、
     気になることがあるのです。


    『わたしの部下で使えるヤツは全体の20%です。
     使えない80%は即刻整理して、20%でこなしきれない業務は
     アウトソーシングしたほうがよっぽど効率的だ!!』

    わたしがこんなふうに強く感じる背景を
    まずお話ししなくてはいけない。
    わたしは現在、企画セクションの管理職で、部下は25人程いる。
    部下の平均年齢は35歳くらいだと思う。

    会社では4年前に人事制度を改正して、成績考課制度を導入した。
    能力給の色合いのかなり強い会社になった。
    残業という概念をなくし、フレックスを導入。
    この段階で年功序列という考え方は実質なくなった。


    ◆そもそも、わたしはこの制度の導入には反対だった。

    わたし自身、長い間、年功序列と終身雇用を楯に
    「そのうち、きっといいことがあるから、がんばれ」と、
    会社から言われつづけ、それなりには頑張ってきた。
    それが、この歳になって突然
    「働いたら働いただけ処遇するよ」
    そのかわり
    「成果をあげられなかったら知らないよ。
    もちろん年齢や経験は関係ないからね」と言われ、
    簡単に「はい、わかりました」なんて言えるはずがない。
    冗談じゃない。これじゃ、若い間は、
    歳をとれば良いことがあると言われて働きに働かされて、
    年齢をかさねたら、年寄りは成果を上げられないならいらないよ、
    って言われたようなものだ。

    それを、会社の若い連中は
    「給料は成果に応じてもらうのは常識でしょう。
    ろくに 仕事もできない年寄りが、自分の2倍も
    給料をもらっているのはバカげてますよ」。
    「年功序列なんて時代おくれですよ」なんて大騒ぎする。
    確かに、この景況下で会社が生き残るためには、
    この制度の導入も、やむをえないと長いものに巻かれてきたんです。


    ◆わたしのセクションは平均年齢が35歳ですから、
     比較的若い連中の集まりです。


    能力給を主張した若い連中の20%しか使えないとしたら
    この会社はどうなっちゃうんだろう。
    ひとむかし前、2:6:2の論理というのがあった。
    「会社というところは、20%の優秀な連中が
     60%の連中を手足のごとく使いながら、
     20%のまったく使えないヤツを食わせていくところだ」
    という話です。会社が右上がりに成長していた時代は、
    なんとかそれでもよかった。しかし、今はちがう。
    さらに、まずいことに、
    会社はバブル期に人を増やしつづけてきてしまった。


    ◆それが突然こんな時代ですからたまりません。

    単純な右上がり成長を前提に計画を立てられる会社があるとしたら、
    よっぽど恵まれた業界か、飛びぬけた競争力をもった
    トップ企業くらいのものでしょう。
    世間の企業はいかに出銭を押さえるかに汲々としているはずです。
    残念ながらわたくしの会社も例外ではありません。
    神風でも吹かなければ大幅の成長が期待できないなら、
    人間の問題に手をつけることも、視野にいれざるをえません。


    ◆わたしのセクションは企画セクションですから、
     業務にオリジナリティとか提案性がなければ
     受注に結びつかないんです。


    これを、わたしは【企画業務】と呼んでいるのですが、
    これを日々やってくれているのは20%しかいない、ということす。
    あとの80%がなにをやっているかといえば、
    マニュアルどおりにデータを切り貼りしたり
    整理したりしているだけです。
    このレベルの仕事は少し気が利いていれば
    バイトの学生でもできるわけです。
    これを【作業】と呼びます。

    【企画業務】はうちの会社だけのオリジナルですから、
    自社内でこなすしかありません。
    他方【作業】はだれにでもできる仕事ですから、
    なくすわけにはいかないにしても、
    給料の高い社内のスタッフがこなさなくても、
    安い社外とかに発注すれば効率はよくなるわけです。

    このように考えるので、冒頭の乱暴な意見になるのです。
    これからの会社には【企画業務】のできる20%だけいればよい。
    【作業】しかできない(しない)80%はいらない、と言いたい。
    このように思っても、会社という組織のことなので、
    実際は簡単には実行できないですけれど。


    ◆蛇足になりますけれど、この80%のヤツほど
     自分はすごく仕事をしていると勘違いしていたりする。
     自分の評価は不当に低いなどと勘違いしているのです。


    先日も会社に戻ると、新入社員を真ん中に、30歳と35歳の
    “80%クン”たちがPCの画面をのぞきこんでいる。
    なにをやっているかと思えば、
    ふたりして新人クンにコンピュータの講習をしている。
    こんなことで忙しかったり、仕事をしていると思っているから、
    なにをかいわんやである。

    わたしは今、80%に手をつけたくてうずうずしている。



    第6回
    課長は苦しんでいる……どうぞお手やわらかに



    「うちの上司は馬鹿で使いものにならない」、
    「こんな上司のもとでは働く気がしない」、
    などという話をよく耳にする。
    確かに馬鹿な上司はいるものである。何を考えているのか
    わからない部長・課長というのは珍しくない。
    しかし、はたしてすべての部下の能力を上回る上司が
    どれだけいるだろうか。
    そんなに簡単に批判してよいものだろうか。

    私は仕事柄、企業の課長研修のようなものの講師を
    何度かやったことがある。
    「ビジネスにおける論理的な思考方法」、
    「製品戦略の立案方法」などを
    40〜50人の課長に対して講義するのであるが、
    課長さんの能力は本当に千差万別である。

    「なんでこんなことも理解できないの」という人もいる、
    「俺ホントはこんなことしたくないんだよなあ」
    というのが、ありありとわかる人もいる。

    さてここで一つの疑問。
    彼らは本当に望んで課長業をやっているのであろうか。
    本当はもっとひっそりと片隅で
    もくもくと仕事をしたい人もいるのではなかろうか。

    ここで、この連載の第2回目で述べた
    「20%の頑張る人用コース」と
    「80%フォロアー用コース」の考え方が再浮上する。

    「80%のフォロアー用コース」に入っている課長が
    いくらでもいて、たまたまその人たちが「馬鹿」だの
    「能なし」だの言われてしまっているだけということである。
    要は課長のほうからすれば
    「何でそこまで言われなくてはいけないんだ」
    という感じなのである。

    もし、このような課長に出くわした場合は、
    誰が悪いというわけではなく、あえて言ってしまうと
    「運が悪かった」ということ。
    打つ手としては、
    (1)課長を飛び越して、
       部長や本部長に何度も何度も直訴し続ける。
    もしくは、
    (2)会社を辞める。 ということしかない。

    (1)はかなりの勇気と労力が要るが、
    本部長→部長→課長と三タテで馬鹿な組織は
    そうはないので、必ず理解を示してくれる人がいるはず。
    彼らもすぐには手を打てないが、
    しつこくコミュニケートし続ければ
    次の人事異動のときには何とかしてくれる可能性は高い。

    ただし、ここでもそれなりの前提条件が要る。
    まず、これくらいのことをあえて言うのだから、
    少なくともあなた自身は「優秀」な人材であることが必要。
    それに加え、平穏を保つ組織の中で「言いにくいこと」を
    「言い続け」なくてはならず、かなりの精神的苦痛を伴う。

    (2)についてはこの場合、最終手段かなとも思う。
    そもそも会社の業務内容そのものが自分に合っていない、
    望んでいるものではないのなら、辞めることは必要だが、
    人間関係だけを理由に自分から出ていくことはないだろう。
    いずれにしても、自ら自律的に行動することが求められる。

    ポイントは、粗く言ってしまうと、
    「課長が悪い」わけではなく、
    そんな人を課長にした「会社が悪い」ということ。
    できない人、もしくはやりたくない人を
    課長にしたことが罪なのだ。

    そう、課長は苦しんでいる……どうぞお手やわらかに。

    ------------------------------------

    >いやぁ、そうだよね。8対2の理論の応用編ですよね。
    ただ、(笑っちゃいけないんだけど)、20パーセントの
    「やる気のある」グループだけを集めてチームをつくると、
    そこでもまた、8対2の法則がうまれるんだって、
    聞いたことがある(笑)。
    アリさんの場合らしいけどね。

    いちばん力強いお言葉は、
    「本部長→部長→課長と三タテで馬鹿な組織はそうはない」
    でした。なるほどなぁ、と思いました!
    ( darling )



    第7回
    『空中ジーンズ工場』を読んでのスガハラさんの感想。



    まず、この本のコンセプトですが、これは大変面白い。
    インターネットを利用してビジネスをやろうと考えている
    企業、個人は数限りなく存在するのですが、
    未だ「これっ」といったものは
    出てきていないのが実状です。
    「何かの糸口が欲しい」
    これが皆の正直な気持ちではないでしょうか。

    そこにきて、
    この本では「本当の商売」にまでつなげた事例を
    事細かに紹介されている。
    第一印象では
    「うまくニーズにはまった本」という感想です。

    空中ジーンズ工場

    多分この内容だと、
    「製品開発にインターネットを何とか使えないか」と
    考えているメーカーのプロダクトマネージャーなんかに
    「はまる」のではないでしょうか。
    プロダクトマネージャー(あるいは製品開発担当者)は、
    「誰に」「何を」「いくらで」「どうやって」売ろうかと
    日夜頭を捻らせています。

    だいたいの場合は、製品を開発する前段階(企画段階)で
    「ターゲット消費者」は決定されているものです。
    しかし、ここで問題になるのが 「本当にそのターゲットでいいの?」
    「もっと他にいないの?」ということ。
    つまり、製品のスペックを決定するために
    かなりターゲット消費者を絞り込むのですが、
    そうすることによって見逃されるターゲットも必ずあって、
    通常の開発過程ではこれを拾うことが
    できないというわけです。

    また、ターゲットが決まっていても「何を売るか」を
    判断するために消費者調査をするのですが、
    これにはかなりの時間とコストがかかる。
    なんとか手軽に安くできないか、というのが
    興味の的となるのです。
    例えばこうした開発担当者の悩みにネットの活用が
    意味を持つとなれば、すぐにでも飛びつくのでは?

    ただし、今のままではこうしたターゲット消費者に
    訴求できないように思います。 まず、本の表紙、帯からは
    上記のようなビジネスマン受けする内容が見てとれません。
    また、パラパラッとページを繰ってみると、
    ジーンズの絵だとかジーンズについてのうんちくが
    ぎっしり詰まっていることがまず目に入り、
    まさかビジネスの種が隠されていようとは
    夢にも思わないでしょう。

    具体的に本のプロモーション方法に何があるのか
    わかりませんが、いずれにしてもビジネス書として
    売るのであれば、極めてクリアに「内容のポイント」を
    訴求する必要があるでしょう。


    第8回
    外資系企業に憧れるなかれ、日系企業はきわめて優秀。



    金融機関の不透明な取引が米国のマーケットで
    批判の的になったり、年功序列、終身雇用がもたらす
    非効率なオペレーションが問題視されたりと、
    昨今、日本企業は何かとネガティブなイメージを
    もたれることが多い。

    これに対して外資系企業はどうかというと、
    オープン、フェア、セクハラなし、格好いい、高給などと
    圧倒的にポジティブである。
    しかし、果たして本当にそうなのだろうか。

    私は大学院を卒業してこのかた、
    7年あまり社会人をやっている。
    「7年社会人をやったくらいで何がわかるんだ」
    と言われそうだが、
    コンサルタントとしてはベテランである。
    実際、弊社の100人のコンサルタントの中では
    古いほうから10〜20番目。

    要は、社会人生活のすべてを
    外資系の会社で過ごしたことになる。
    よって、日本の会社には勤めたことがないわけであるが、
    クライアントの社内をよく観察していると大方察しがつく。
    また、クライアントの中にはけっこう外資系もあるので、
    他の外資系の内情もよくわかる。

    こうして両者を比較してみると、
    決して外資系が優れているとはとても思えない、
    というのが私の見解である。
    しかしこれはよく考えると当たり前のこと。
    日本に居を構える外国の会社というのは、
    要は出張所、もしくは支店。
    組織として立派なものは作れない。
    これは、逆に日本の会社の海外現地法人なんかを
    想像してもらえればわかる。

    まず、まずいのがバックオフィスの人材の質。
    株のディーラーにしろコンサルタントにしろ研究者にしろ、
    その会社のバリュープロポジションを担うポストには、
    ヘッドハンティングによりかなり優秀な人材を揃えている。
    しかしながら一方、そういった人材に費やしたコストは
    バックオフィスの人間でカバーすることになる。
    当然のことながら質は落ちる。

    例えば、○○物産なんかでは、
    商社マンのアシスタントが
    早稲田出のかなり優秀な女性だったりする。
    そんな人がアシスタントの仕事をやるのは
    適材適所ではないのではないか、
    とかいう人がいるかもしれないが、
    これは言いかえると層が厚いということでもある。

    一方、外資系ではどうか。
    セクレタリーなどは、高卒で海外の秘書養成専門学校などを
    卒業した人間がやっている。高卒が悪いとは思わないが、
    やはり一般的な教養という面で劣るのは否めない。
    言い過ぎを覚悟で思い切って言ってしまうと、
    「単に英語がしゃべれるから」という理由で
    採用される人もいるのだ。
    外資系の会社に仕事で電話すると、
    応対する女性の態度が横柄、
    言葉遣いがなってないなんていうのはよくあること。

    また、こんなこともあったと聞く。
    経理部の人材の質が劣悪なため、
    給料が多めに支給されてしまっていた人がいて、
    本人もそれに気づかず
    (これも問題だが)2年が過ぎた。
    で、2年後、経理部がこれに気づき、
    2年間払いすぎていた給料を
    一括で返済しろと言ってきたという始末。
    こんなことは普通の会社では考えられないことだ。

    次の問題は、社内の基本的な仕組みが脆弱だということ。
    前述のとおり、外資系は組織がなっていない。
    例えば、人によって評価の基準が
    違ったりすることがあったりする。
    また、人によって昇給の回数が違ったりもする。
    これは、評価体系の正常な運用をチェックする機構が
    存在しないことに起因するが、
    全くもって信じられないことである。

    まるで、ママゴト、あるいは学園祭の様相を呈している。
    こんなもの、明らかに「会社」ではない。
    こうして外資系会社の実態をつまびらかにしてくると、
    いかに日系会社が優れているかがおわかりになったと思う。
    まさに、外資系企業に憧れるなかれ、である。

    ------------------------------------

    >「敵を知り、味方を知る」ということは、原則ですよね。
    そういう意味じゃ、
    外資系(敵だってことではないんでしょうが)のことを、
    妙に「すごいもんではないか」と思ってる学生たちとか、
    ビジネスマンのみなさま方に、
    今回の原稿はぜひとも読んでいただきたい。
    「買いかぶるな。なめるな」と、言いかえてもいいですな。

    あの甲子園準決勝のあとの松坂投手の言葉、
    『ここで負けたらPLに申し訳ないと思った』には、
    うらやましさを感じました。
    ライバルって概念が、
    すっごくセクシーなものに思えました。
    ( darling )



    第9回
    学歴社会はどこへ。実力がすべて。



    「現在は学歴社会なのか?」という問いに答えられる人は
    何人いるだろうか。未曾有宇のrecessionに見舞われ、
    戦後築かれてきた数々の価値観が音を立てて崩れ去る中、
    学歴社会は確かに崩壊しつつある。

    かつては、確かに「学歴社会」であった。
    東大を出れば一生安泰だと言われた時代があった。
    企業は高度成長期を通じて、
    成長のために大量に人材を雇用してきた。
    その際、competitionに勝つために
    より質の良い人材を選別することが、
    勝敗・明暗を分けてきたのは確かなことである。

    より良い人材を獲得するためにはどうすればよいか。
    この答えが「学歴」重視の雇用だったわけである。
    大量に雇用するすべての人材の本質的な能力を、
    短期間のうちに見極めることは至難の技、
    いや不可能といってよい。
    そこで企業はどうしたか。
    より「確率の高い」
    セグメントの抽出に勤しんだわけである。
    その答えが「高学歴」セグメントだったということ。

    みなさんは、「高学歴」の人間というのを
    どうとらえてられるだろうか。
    アメリカを例にとってみよう。
    アメリカは、明らかに日本以上の学歴社会である。
    いや、区別社会といってもよい
    (決して差別ではない。区別と差別は違う)。

    ハーバード大出身というだけで箔が付く。
    東大出なんかよりずっと上だ。
    ではそれは何故か。
    それは、本当に「優秀」な人材がいるからである
    (ただし最近はそうとも言えなくなってきているようだが)。
    もっと言うと、「優秀」でないと
    卒業できないからと言ってもよい。
    「日本の大学は入りにくくて出やすく、
     アメリカの大学は入りやすくて出にくい」
    ということがよく言われるが、これは嘘で、
    アメリカの高学歴大学は、
    「入りにくく、出にくい」である。

    翻って、日本の高学歴者はどうか。
    汚職をくり返す官僚たち、
    背任罪に問われる一流企業幹部。
    皆、基本的に高学歴だ。
    イメージはどうか……最悪である。
    「頭はいいかもしれないが、人間としてなっていない」、
    「受験勉強が彼らをスポイルした」、
    などという声が聞こえてくる。
    確かにそうかもしれない。

    しかし、これにはちょっとしたカラクリがある。
    日本の受験勉強は劣悪なものなのか。
    これはそうとも限らない。
    人間同士が競争することは良いことか悪いことか、
    という根元的な問題になるのでは、と思う。
    夏の駿台模試でトップ100に入ろうと、夏休み早朝から
    勉強している受験生と、夏の甲子園に出ようとして
    早朝からランニングしている
    高校球児がそんなに違うものか。
    これが違うのだ、というのならそれこそ「差別」である。

    なぜ、東大出身者が大企業の人材ターゲットになるのかを
    冷静に考えてみると見えてくるものがある。
    彼らは熾烈な受験戦争を耐え抜いてきたのだ。
    皆が遊んでいるときに我慢に我慢を重ね、
    一つの目標に向けて頑張ってきたのである。
    はっきり言って「タフ」ガイだ。
    並の苦境なら何ごともなく耐えることができ、
    物事を達成できる
    (ここで再び断っておくが、全員がそうであると
    言っている訳ではない。
    確率が高いということだけである)。

    こんな人材なら企業にとっては
    喉から手が出るほど欲しいに違いない。
    一般に、学歴が高い人は「頭がいい」から優秀だ、
    と思われているフシがあるが、
    企業が高学歴人材を欲しいという
    本質は少し違うということだ。

    ただし、ここで注意しなくてならないが、
    上記のような「価値」がある人材は、本当の戦争に
    勝ち抜いた……要は油断する奴は簡単には入れない、
    東大、京大、早稲田、慶応の一部の学部に限られる。
    もともと頭が良い奴なら努力しなくても入れる範囲の大学は
    この限りではないということだ。
    つまりどんなに頭が良い奴でも、血のにじむような努力を
    要するところでないと駄目だということ。

    では、なぜ日本の学歴社会が批判され、
    高学歴者は人間としてはダメだと思われるのか。
    これにははたまた訳がある。
    高学歴者が大企業に求められる理由は
    既に述べてきたとおり。
    高学歴者が大企業に入社するまでは「問題ない」のである。
    ところがこの後問題が生じる。
    世の中の人が「高学歴者」を認知するのは、
    その人が大企業や官庁で
    それなりの地位になってからのことである。

    この人たちが良くない。
    「高学歴」でかつ大企業で「偉く」なったのだから、
    これは「超高学歴」に違いないと、みなは思う。
    しかし、だ。企業組織に入ったときから、
    それまで培ってきた「学歴」が、
    不連続なものとなってしまう。

    ここで再び欧米と比べてみたい。
    欧米、特にアメリカがそうであるが、
    組織の上に立つ人のクライテリアが明らかに日本と異なる。
    これは色々な組織にあてはまる。企業でも学校でもそう。
    例えば、大学組織で考えてみると、
    アメリカの大学では一般に、
    助教授までは学問的なパフォーマンス
    (論文の数など)次第ではすんなりとなれる。
    しかし、教授(プロフェッサー)には
    そう簡単にはなれない。
    生徒からの評判、生徒が書いた論文の数、質などが
    重要な選考ポイントになるのである。
    「アップワードフィードバック」と呼ばれるものである。
    要は、「人間性」がクライテリアの大きなポーションを
    しめるようになるのだ。

    かたや日本はどうか。
    「そんなものあったら今ごろ苦労してないよ」
    とこぼす人の姿が目に浮かぶ。
    まったくと言ってよいほどこういった仕組みが 整備されていない。これこそが、
    「高学歴者」=「人間性に問題がある人」の構図を
    作り出しているといえる。

    本当は、「高学歴者」=「一流企業社員」と
    「一流企業要人」=「人間性に問題がある人」が
    別々に存在しているのにも関わらず、
    これが外目にはわからないため、
    短絡して理解されているのである。

    こうして日本における「学歴社会」の本質を
    つまびらかにすることにより、
    いくつかのことがわかってきた。
    まとめると、
    (1)学歴社会は効率の重視から生まれた合理的なもの
    (2)高学歴者は実は「タフ」ガイ
      (ただし全員というわけではなく確率が高いということ)
    (3)ここ10年来世間で言われる高学歴者像は、企業内の
       人材評価クライテリアのまずさのため、学歴の本質
       (根性で勝ち抜いてきたということ)とは
       かけ離れたものとなっている、ということだろうか。

    ------------------------------------

    >ちゃらちゃらしているようでまとも、
    というスガハラさんの考え方が
    あらためてよくわかりましたねぇ。
    このあたりの発想は、
    西洋の騎士道(ナイト精神)とか、
    日本の武士道なんかにも通底するように思うんですよ。
    リーダーシップをとる人たちの、
    「独自のモラル」とかについては、
    ぼくは、呉智英先生の「人間は学歴だ」
    という非常に誤解を招きやすい
    (「封建主義者」としての)
    逆説的なものいいが思い出されます。
    単なる無条件平等思想から、
    新しい騎士道精神ともいうべき
    「リーダーシップのルール」なんてものが、
    いま、もとめられているのですね。
    ぼくは、幸い、高卒なのですが、
    「美しいリーダー」には憧れてしまいますねぇ。
    横浜ベイスターズの「権藤さん」は、
    はやく「ごんどうかんとく」と呼ばれても失われない
    「新リーダー論」を持ってくれたらいいと思うんですが。
    「さん」で呼ばせるのは、
    過渡期のリーダーだと思うんですがね。
    ま、これは余談でした。
    (darling)



    第10回
    マーケティングに想うこと。


    これまで、このページでは
    「間違いだらけの会社選び」的に、
    すべてのビジネスマンの方々に向けたメッセージを
    送ってきた。これは、このページが開始された時以来の
    コンセプトであり、今後もその方向性は
    変わらないのであるが、
    今回以降しばらくは、少し目先の違う話題を
    オムニバス的に取り上げていこうと思う。

    まずはその第一弾として、私の本業である
    マーケティング領域の話題を取り上げることとする。
    生業としてマーケティングに関わりを
    持っていらっしゃらない方々には
    多少退屈かもしれないが、できればおつきあい願いたい。

    一般にマーケティングとは
    「提供物の価値をいかにうまく享受者に伝えて
    買わせるかを考え、計画、実施すること」
    と定義づけられている、と私は理解している。
    この定義だと、
    実は、提供物を開発・製造することとマーケティングが
    完全に分断されている考え方になる。
    特に、消費財(耐久消費財を含む)メーカーでは、生来、
    この「開発とマーケティングの社内分断」が
    問題となっていて、これを何とか解消しようと
    組織改革を行なったり、開発とマーケの風通しを
    よくしようと会議体を工夫したりしてきているが、
    なかなかうまくいかない。
    言うなれば「永遠のテーマ」というところか。

    しかし、昨今の成熟しきった市場では、
    この課題を解決しなくては、いやむしろ更に
    それを越えたところに解を見いださなくては
    勝者足り得なくなってきている。
    要は、「作った人と売る人が同一人物である」ことが
    今まで以上に重要となってきているということである。

    私は最近、コンサルタントとして
    屋根瓦のマーケティングに携わった。
    普通に暮らしていらっしゃる皆さんは、
    「家でも建てようと思っている」もしくは
    「最近建てた」という人でない限り、
    屋根瓦と聞いてもピンとこないだろう。
    そう、私も全くピンと来なかった。
    我々のコンサルティングファームでも、
    この手の産業に
    携わったことのあるコンサルタントは
    世界中に片手に足るほどしかいない。

    しかし、この産業が、
    現在の混沌としたあらゆる成熟市場における
    「進むべき方向」を教えてくれた。
    「ニーズを満足させる製品が売れる」。
    この当たり前とも思えるが
    実現が困難な課題を、
    痛いほど認識させられたのだ。

    そもそも屋根材などというものは
    「どうでもよい」と思われている。
    ハウスメーカーは家を売る際に屋根材のことには
    まったくと言ってよいほど言及しない。
    試しに住宅展示場に行ってみるとよい。
    担当の営業マンは、
    家の内装のこと、キッチンのこと、
    耐熱性の壁のことなんかについては
    熱心に語ってくれる。
    いかに自社の家は素晴らしいかを
    蕩々と話すのである。

    しかしながら、
    屋根のことについてはまったくふれない。
    消費者に関心がないと思いこんでいるからだ。
    消費者の関心が低い部材については
    できるだけ安いものを使って、消費者には伝えず、
    家トータルのコストをできるだけ抑えて、
    少しでも買いやすいようにしようと思っている。
    すこぶる合理的な考えに思える。

    しかし、だ。
    本当に消費者は関心がないのであろうか。
    これは当初から私にとって大きな疑問であったが、
    住宅業界人の誰に聞いても
    これは大方の意見であった。

    そこで、小規模ではあるが
    フォーカスグループインタビュー
    なる消費者調査を行なったのであるが、これが凄かった。
    彼ら・彼女らは、業界人がいうように、
    一見、屋根などには無関心な人たちであった。
    しかしそれが「一見」だけであることを理解するには
    時間を要さなかった。

    家を購入する際にハウスメーカーが
    あまりにも屋根材の話をしなかったがために、
    「知らない」だけだったのだ。
    屋根材にはどんな種類があって、どんな特徴があり、
    価格がいくらくらいするのか、などなど、
    家を最近建てたばかりだというのに、
    彼らにとってはまったく新しい情報だった。

    偶然だったが(というよりそれだけ浸透している
    ということだが)、
    グループインタビューに参加した全員が
    市場の中でもっとも価格が低く「ちゃちな」
    ある屋根材を使用していたのだが、
    すべての情報を伝えきると、
    皆一様に「騙された」の一言だった。
    こうしたことを予め知っていたら、
    その「ちゃっちい」屋根材なんか使わなかった
    というのである。
    これぞ正に「アンメットニーズ」だ。

    こうしたインデプスな消費者インタビューを通じて、
    我々は屋根材のデザインに関して、
    ある「決定的な」嗜好を見いだした。
    ただし、これは、単に「ニーズは何ですか」
    と聞いてわかった結果ではなく、
    クライアント(屋根材メーカー)が開発していた
    ある特殊技術に基づく製品を実際に提示して
    初めて把握できたことである。

    要は「シーズ」と「ニーズ」がまさに合致したのである。
    その詳細はとてもここで口外するわけにはいかないが、
    「確実に売れる」製品である。
    私の今までのコンサルタント人生の中で、
    もっとも確実性の高いリコメンデーションの一つに なりそうである。

    で、その製品サンプルを
    今度はハウスメーカーに持っていった。
    それまで口を揃えて「消費者は関心ない」
    と断言してきた彼らであったが、
    「こうこうこういう理由で消費者はこれを好む」
    という事実に基づいた話をしたらどうだろう、
    「そう思ってました。う〜ん、これは欲していたものだ」
    という反応。

    要は、メーカーはこれまで
    小売りチャネルによって作られた虚像を信じ込んで
    商売をやってきたということ。
    「消費者は関心ない」という虚構の世界で、
    チャネルのいいなりの製品開発をしてきたことになる。
    ここに大きな意味合いが隠されている。

    これはどの産業でも同じかもしれないが、
    メーカーというのは直接的な顧客、つまりチャネル
    (例えば、お菓子メーカーだったらセブンイレブン)
    を見て商売をしているということ。
    直接お金を貰うのはチャネルからなので
    至極当然なのであるが、
    チャネルが消費者のことをわかっていない場合、
    若しくはチャネルの都合で
    故意に情報操作されるような場合は、
    まったく目隠しをして製品開発をしているようなものだ。
    消費者へのダイレクトな働きかけが必要となる。

    では、誰が働きかけるべきか。
    通常ならマーケティング部の担当者ということになろう。
    しかし、彼らは開発途上の技術を
    すべて把握できているわけではない。
    こういうことを言うと
    「いや、うちの会社のマーケティング担当者は
    開発の状況をよく知っているよ」
    という方もおられるかと思う。ところが
    「状況を知っている、どんな技術があるかを知っている」
    ではダメなのである。

    例えばグループインタビューの際に、
    消費者が言う無理難題を
    その場で解決できるレベルでないといけない。
    消費者のいう無理難題をそのまま実現しようとすると、
    ほとんどのものが不可能ということになる。
    ここに落とし穴があるのである。
    消費者が求める無理難題のどこまでを解決すれば
    納得してくれるかを、
    技術面から見た実行可能性と照らし合わせながら、
    見極めることができなければならない。

    例えば、「空を飛ぶ車が欲しい」と言われたとき、すかさず
    「空までは飛べないが、我々の技術を応用すれば
    ジャンプはできる。それではダメか」
    とその場でつっこめないといけない。
    自分が作るのだったらここまではできる、
    というぎりぎりの線を、
    消費者ニーズにリアルタイムでぶつけて、
    その折衷点を見いだすということである。

    こういうことは並のマーケターではできないだろう。
    文頭で「作った人と売る人が同一人物である」ことが必要、
    と述べたが、まさにこれである。
    物にこだわる人が、製造元へ行って
    「こういうものが欲しいんだけど作れるかなあ」
    と相談するという状況に似ている。

    例えば鞄好きの人が
    鞄職人のところへ行ったりするようなこと。
    しかし、これを今度は、鞄職人の方から鞄好きの人を探して
    相談するようにしなくてはならない、といいたいのである。
    技術の応用範囲も製造の実行可能性も要する開発期間も、
    すべてを知っている人間が、
    消費者にダイレクトにマーケティングしていかないと
    ダメな時代だ、ということ。

    こうなると、チャネルを見ながらのマーケティングなどは
    まったく無力なものとなる。
    それこそ「マーケティング」という言葉の定義を
    見直さなくてはならない時期なのだ。

    今回のメッセージをまとめると、以下のようになる。

    (1)成熟市場では、これまでの川下中心のマーケティングは
    通用しない。モノ作りのベリーベーシックから
    消費者の手に届くまでを総括的に包含した新たな
    「バリューデリバリーマーケティング
    (value delivery marketing)」が必要 。

    (2)新マーケティングは、シーズとニーズを
    リアルタイムで有機的に結びつけることができる
    「スーパーマン」的な人材でないと実践できない。
    「マーケター(marketer)」ではなく、
    「バリューデリバラー(value deliverer)」たることが必要 。


    第11回
    結婚とはこれいかに
    このあまりにも人工的・非自然科学的ルールに物申す



    本ページ、企画物シリーズ第2弾。
    いよいよ佳境に入ってきたようだ。
    テーマは「結婚のあり方」。
    果たして結婚は必要か?
    今回はこのタブーとも言えるべき課題に挑みたい。

    筆者は最近離婚した(法的にはまだ成立していないが、
    本質的には相手と永訣している)。
    自分の事例は今回の内容にあまり関係ないのだが、
    この節目を期に、ある考えが溢れてきたので、
    皆さんと共有しておきたい。

    結婚とは何か。
    こんな高遠な疑問に対して
    想いを巡らされた方はいらっしゃるだろうか。
    結論から申し上げよう。
    結婚とは、自動車運転免許のようなものである、と想う。
    誰もが「しなくてはならない」と考えている。
    ここに間違いがある。

    私は、その昔、社会人にならんとする折、
    給料の高さに目がくらんで、
    航空会社の自社養成パイロット職にapplyしたことがある。
    その結果は、日本航空には最終選考の身体検査で
    落とされたものの全日空には合格したというもの。
    (何故、同じ職業、かつ検査当日の条件の差が
    殆どない状況なのに、このような差ができたかは
    未だに不明)
    要は、航空機のパイロットになるための最低条件は
    知っているということ。この経験から言うと、
    ある一定の肉体上、精神上、頭脳上の条件が整わないと、
    パイロットとしての資格は与えらない。

    これを自動車免許と比べてみよう。
    国民皆免許時代、とよくいわれるが、普通自動車免許は
    誰もが取れることになっている。
    自動車運転免許の教習場で一時を過ごした経験がある人は
    わかるだろうが、実際、運転免許は誰にでも取れる。
    どんなに「どんくさい」オバハンであっても、
    30時間の補習を受ければ取れることになっている。
    でも本当にそれでいいのか。

    私は無類の自動車好きであり、これまで驚くほどの
    走行距離を経験している。この経験から判断すると、
    自動車の運転に不向きなドライバーは
    山ほどいると言って過言ではない。
    ずっとサイドミラーを倒したままのベンツに乗っている
    成金ババアに始まって、リアのトランクを
    開けっ放しにしていても気づかないオヤジまでが
    大手を振って道路を運転している。
    また、細い路地で向かい合わせになったとき、
    絶対に通れないのにどんどん前進してくる
    判断能力の低いオネーチャンもいれば、
    Uターン・バックが苦手なため
    進行方向と反対の行き先を指示すると
    劇的に不機嫌になるタクシーの運ちゃんまでいる。

    航空機は向いていない人には絶対に免許を出さないのに、
    自動車は誰にでも免許を出す。この矛盾をどう理解するか。
    航空機事故よりも自動車事故の方が
    発生率・死亡率が圧倒的に高いということの原因が
    ここにある、と筆者は信じる。

    翻って、結婚、である。
    誰もが「するべき」「しないと変」
    「結婚してこそ人間として一人前」
    とふざけたことを言う輩で充満している世の中だが、
    果たしてそうか。
    生き物としての人間を考えるとき、
    結婚して子供を産むというのは、一見正しそうである。
    ここで再び、しかし、だ。
    東南アジアのある国では一夫多妻制であるし、
    アメリカなどでは結婚・離婚に関する法律は
    州により微妙に異なる。
    要は、結婚とは、
    自然科学的に見て正しい・必要なことではなく、
    各国・各状況に応じて、ある決まりによって定義される、
    極めて人工的なものなのである。

    はっきり言っておこう。
    結婚に向いていない人、または、結婚してはいけない人は
    絶対にいるはずである。
    結婚=幸福、なんて短絡的な思考をされている方。
    冷静になって欲しい。
    幸福とは、結婚などという人工的・記号的なものによって
    もたらされるものではない。
    各自のアイデンティティを増幅できる相手とともに暮らし、
    一人でいるより二人でいる方が「各自」にとって
    利益になる、いわばwin-winの状況になって初めて
    もたらされるものである。

    結婚さえすれば幸せになれるなんて、甘ったれたことを
    考えている人は今すぐ考えを改めた方が賢明である。
    そんな「駆け込み寺」的な結婚をするくらいなら、
    一生一人でいた方が余程人間的である。
    単に「結婚が夢です」という人がいるが、
    そんな人は、それが「何故」かを、今ここで教えてほしい。
    運転免許を取るように
    「当然」のように結婚されることのないよう、
    今一度、ご自分の胸に手を当ててもらいたい。

    但し、ここでrecommendしたことの全ては、
    以下の方々にのみ向けていると理解していただきたい。
    ・「人間として最高の人生を過ごしたい」と思っている方。
    ・結婚したら互いに我慢しなくてはいけないことがある
    (=一人でいるより二人でいる方が
    一人あたりの生み出す価値が減る)と思っている方。

    逆に以下のような方は、
    今回のrecommendationの対象外である。
    ・相手と居ると、信じられないくらい
    「自分らしい」自分を発見できる方。
    ・1日以上相手の顔を見ないと死んでしまいそうな方。

    以上


    第12回
    自動車というもの
    この希有な工業製品を売る資格を有するのは誰か



    本ページ、企画もの第3弾として、
    自動車に対する我が想いを綴らせてもらう。
    自動車に関する他ページが立ち上がったようなので、
    そちらとの重複を気にしながらの寄稿となるが、
    こちらは幾分色合いの違うものになりそうなので、
    楽しんでもらいたい。

    私は、無類の自動車狂である。
    現在進行形のモータースポーツは勿論、
    プロダクションカーの範疇。
    更には旧車趣味を含む自動車そのものの歴史。
    自動車と人間の関わり方のあり方にまで想いは及ぶ。
    今回はその中でも、
    「自動車会社にもの申す」といったコンテクストで、
    話を進めたい。

    <自動車とは何か?:日本と欧州の違い>

    ここでは「自動車」とは呼ばず、敢えて「車」と呼びたい。
    「自動車」というと、「電子レンジ」「掃除機」と
    同じカテゴリーに入りそうなので、
    これは避けることとしたい。

    車とは我々人間にとって一体何者だろうか。
    あまりにも抽象的かもしれないが、
    まずはこの疑問から解き明かしたい。
    車は元来、欧州が発祥だ。
    ダイムラーベンツが19世紀の末期に開発したのが、
    始めとされる。この黎明期の「車」の位置づけを
    理解することが、人間と車の関係を解く鍵になる。
    この時代この地域において、車は「馬の代替」とし、
    受け入れられていた。もともと、彼らにとって
    「馬」は足代わりであるとともに家族の一員だった。
    とうことは、「車」は黎明期において、
    「機械ではなく、より身近な生き物」であったということ。

    この感覚は、今もなお、
    特に欧州の人達には強く残っている。
    イタリアで行われるミッレミリアという、
    著名なヒストリックカーレースをご存じだろうか。
    このレースは公道をそのまま利用して行われるのであるが、
    それを自宅前のテラスで老夫婦が観戦する、
    などという風景が今でも見られる。
    爆音をとどろかせ(昔のフェラーリなど、
    日本のちんけな暴走族のマフラー音の数倍うるさい)
    ケツを振りながらコーナー(といっても単なる交差点)を、
    駆け抜けるスポーツカーを老夫婦が笑みを浮かべながら、
    見ているのである。信じられるだろうか。
    よほど車が身近な物として根付いていなければ、
    こんなことはあり得ない。

    もしこれが日本だったらどうか。
    日本では車の登場の背景がかなり違う。
    戦前から自動車は存在したものの、本格的に日本の
    自動車産業が産声を上げたのは戦後である。
    そして、「家つきカーつきテレビつき」
    というフレーズに代表されるように、
    車は高度成長期と共に豊かになってきた日本人を代表する、
    耐久消費財の一つとなった。
    こうした環境で車と接してきた日本人には、
    前述のような欧州人並の感覚は微塵もない。
    もし、ミッレミリアのようなことを日本でやれば、
    (今年日本版ミッレミリアが
    ようやく行われたようであるが)どうだろう。
    単なる一部のマニアのものと受け取られ、
    公共性のないイベントとして避難囂々だろう。

    こうした「車への認識が成熟している」市場に対し、
    車を供給している欧州の自動車メーカーが作る車は、
    やはり何かが違う。日本の車と比較した場合、
    ハードとしては見劣りする側面は否めない。
    車を工業立国日本の作った産業財として見れば、
    これは当然だ。
    例えば、エンジンの馬力、燃費では、同じ車格同志なら
    日本車の方が一枚上手だ。
    オーバーオールの信頼性なんかも、欧州車の敵ではない。

    しかし、だ。絶対的に違うものがある。
    人間という生き物として車と対峙したとき、
    インターフェイスが全く違うのだ。
    例えば、エンジンのフィール、
    闇雲に絶対的な馬力のみを追求している訳ではなく、
    レスポンスを重視しているため、アクセルを踏んでから、
    吹け上がりが根本的に異なる。
    更に「匂い」が違う。
    車に乗ったときに最初に感じる違いだ。
    何故違うのかはよくわからないが、日本の車は、
    いわゆる「新車の匂い」がするのに対し、
    欧州のそれは「体臭の臭さ」を感じる。
    どの部分の匂いなのかわからないが、
    とにかく魅力的である。
    これはイタリア車、フランス車に顕著である。

    <日本の自動車業界への意味合い>

    問題なのは、こうした違いを、
    日本の消費者が認識し始めているということだ。

    私が製品のマーケティングを行う上で、
    重視するコンセプトの一つに、
    「第一印象マネジメント」というのがある。
    新製品を出したとき、
    消費者は最初に見た・使ったときの「第一印象」で、
    その製品の「定義」を構築してしまうことが多い。
    要は第一印象がその消費者の一生の購買履歴を
    決定してしまうということ。よって、その「第一印象」を
    うまくマネジすることが重要であるというコンセプトだ。
    「第一印象マネジメント」である。

    大概の製品は、人間が生まれて物心つくころに
    無意識にすでに接している。要はその製品に対する
    第一印象は頭の中に残っていないということだ。
    例えば、
    皆さんは「ご飯」を生まれて初めて見たときのことを
    覚えているだろうか。そんな人はまずいないだろう。
    無意識のうちに潜在意識に入り込んでいるだけである。

    しかし、そうではない製品もある。
    たばこ、酒、缶コーヒーなどその最たるものである。
    たばこ、酒は20才にならないと口にできないし、
    缶コーヒーは大学生になるころから飲み始める人が多い。
    実は車もそうである。
    18才で免許を取るまでは運転できない。
    こういう製品の場合、
    「第一印象」が極めて重要になってくるのである。

    例えば、缶コーヒーというものは一年を通じてみると
    その6〜7割はホットで飲まれている。にも関わらず、
    消費者の中には「冬でもコールドでしか飲まない」
    という人がいる。この原因を追求すると、
    なんと初めて缶コーヒーを飲んだのが夏の暑い日で、
    その時のうまさが忘れられないとのことだった。
    要は、自分で物事を判断できるようになってから
    初めて接した製品に関しては、その時の印象が
    その後の消費行動を大きく左右するということである。
    初めて製品を認識したときの状況が、
    その製品を定義してしまうのだ。

    これを車に当てはめて考えてみるとどうなるか。
    18才で免許を取ったあと初めて車を運転する訳であるが、
    その時の経験がその人の自動車観を
    形作るということになる。
    要は、最初に運転する車が何であるかによって、
    その人の一生の車歴が決定されるのだ。

    一方、最近、外車の中でも特に小型欧州車は、
    基本的なクオリティが上がってきたため
    中古車市場でのプレゼンスが大きくなってきている。
    昔は、欧州車なんかは新車で買っても、
    2日目にはウインカーが落ちたとか
    窓が開かなくなったという話をよく聞いた。
    最近ではこんなことは殆どない。
    中古車でも十分に価値を維持できるようになってきたのだ。
    価格も小型欧州車は100万円以下で買えるものも
    多くなってきている。「激安外車中古車」系の雑誌も
    最低でも3誌は発売されているくらいだ。

    これが意味するところは何か。

    「最初に運転する車が小型欧州車である」消費者が、
    これまでになく激増するということだ。
    更にこれは何を意味するか、というと・・
    「車とは、エンジンのレスポンスがよい、
    匂いのある、生き物のようなもの、
    と定義する人が増えるということである。
    で、こうした若者が、実は将来、
    自動車購買ボリュームゾーンを形作ることとなる。

    もはや「いつかはクラウン」
    というフレーズは成り立たない。
    カローラを入門車として売ることができた時代で、
    このフレーズ通りであったが、
    これからはもうそれはあり得ない。
    彼らが結婚し子供を産み家庭をもつようになったとき、
    乗る車は、これまでの常識では想像がつかないことになる。

    自動車の製品開発には多大なコストと時間を要す。
    こうした、静かに、しかし確実に起きている
    消費者の選好の変化を迅速に理解し、
    いますぐ製品開発に活かしていかないと、
    気づいたときには手遅れだ。
    日本の自動車メーカーのうち、こうしたことを
    理解できている会社はどれほどあるだろうか。
    10年後、日本は既に
    自動車生産大国ではなくなっているのかもしれない。


    第13回
    By definition,「楽しい仕事」などない!
    その1


    久しぶりにウェブに戻ってきた。
    この2ヶ月というもの、このイトイ新聞の関係者であるにも
    かかわらず、殆どこのサイトにアクセスすることもなく
    (というよりも仕事以外でウェブを使うことが
    一切なかった)、まるで仙人のような生活をしてきた。
    アンナが別れたことも知っているし、だんご三兄弟が
    熱いということだって知っているのだが、
    これは単に「目覚ましテレビ」を6時から6時半の間だけ
    時計代わりに使っているから、ということに過ぎない。
    全く仕事以外のことには時間が「割り当てられない」
    2ヶ月だった。

    「今仕事が楽しいんだ」とか言うヒトがいるが、
    私に言わせれば、そういう輩は「遊んでいる」
    若しくは「本当の『仕事』をしているとは言えない」、
    あるいは「本当に『楽しい』ことを知らない」、
    のだと思う。
    「仕事が楽しい」と言うと、格好よく聞こえる。
    何かしら「仕事ができるヒトかなあ」とも思う。
    しかし、だ。
    仕事という限りは、それに対する対価をもらっている
    ということであり、「楽しい」などというものではない筈。

    正確に言うと、恐らく多くの場合、
    「仕事が楽しい」=「それ以前には大した仕事を
    していなかった or それ以前には上司が馬鹿で
    理不尽な仕事をやらされていた」という、
    単なる比較論にしか過ぎないのではないか。
    仕事が楽しい・充実している、と思っている方、
    胸に手をあてて考えてみてほしい。

    私は、経営コンサルタントという仕事をしているが、
    これまで一瞬たりとも、仕事をしている時に
    「楽しい」などということは思ったことがない。
    常に「辛い」「どこかに消えてなくなりたい」
    「もっとうまくやれた筈だ」としか思って来なかった。

    勿論「うまくいって良かった」と思う瞬間が
    ないではないが、それは飽くまで「瞬間」である。
    次の瞬間には、また越えるべき壁がやってくる。
    はっきり言って、「楽しい」と思った瞬間、
    それであなたの成長が終わると考えて良い。
    「次」がない人生だ。
    ごしゅうしょうさま、という感じだろうか。
    常に自分が出来ることより少し難しいことをやって、
    常に「しんどい」と思っていないと、
    出来ることしかやらない「くず人間」になってしまう。

    私は、以前告白した通りごく最近離婚したのだが、
    相手の女性(元妻)は以下のような過ちを重ね続けていた。
    土曜の明け方3時ころに帰ってきて、
    土曜の朝8時ころに再度オフィスにトンボ返りする、
    ということがよくあるのだが、そういう時にはいつも
    「そんなに仕事をして馬鹿じゃない。
    あなたは鬼よ。私はどうなるの」
    と罵声を浴びせかけられ
    たものだ。
    ここで、再び「しかし、だ」。
    私のこれまでの人生においては、
    皆がやりたくないことを頑張ってやった場合、
    ほめられこそすれ、非難されたことなど一度もない。
    子供のころには、大好きな少年野球の時間を削って、
    皆が嫌がる「勉強」に注力した。
    親、友人、兄弟は、それを見て、誉めることはあっても
    決して批判はしなかった。
    ましてやそれを阻止するなど、あるわけがない。

    なのに「仕事」を一生懸命やるとどうだろう。
    家族には非難されるのだ。
    しかも、唯一心身ともに休めたい自分の家でだ。
    何故そうなるのか。答えは明白だ。
    彼女は、「旦那は仕事をして『楽しい』のだ」と
    勘違いしていたのだ。
    自分は土曜の朝8時から家に置いてきぼりをくって、
    孤独な週末を過ごさなくてはならない。
    一方、旦那は「楽しい」仕事に吸い寄せられるようにして
    オフィスへ行ってしまう。
    だから週末の早朝から罵声を浴びせる
    という愚行に出たのである。

    (つづく)


    第14回
    By definition,「楽しい仕事」などない!
    その2


    前回からの続きです。これをお読みになる前に
    その1、をお読みください


    『今回のトピックは反響が大きく、
     読者の方から何通もの「批判メール」が届いている。
     これらの方々には、ディスカッションパートナーとして
     貢献してくださったことに対し、真摯に感謝したい。

     反響のうち大半は、
     「自分は楽しく仕事をしているけど、
     だからといって仕事を甘くみている訳ではないし、
     仕事のアウトプットが悪いわけではない」とか、
     「仕事がきつい、しんどい、といっている友人がいたら、
     すぐにその仕事をやめろとアドバイスする」
     といった趣旨のものである。
     予想していた通りの反応である。
     恐らく文字情報でのやりとりの限界であろうが、
     ここには大きな誤解があるように思う。
     要は言葉の定義の問題。

     まず「楽しい」は「好き」とは違うし、
     「辛い」「どこかに消えてなくなりたい」
     「もっとうまくやれた筈だ」は
     「嫌い」「やりがいがない」とは違う、ということ。
     「仕事が楽しい」というのはどうみても
     「お気楽すぎる」、ということである。

     そういうことを言っている人を客観的に見ると、
     まだまだ「伸びしろ」があって、ポテンシャルからみると
     甘えているとしか思えないことが多い。
     「好き」で「やりがい」のある仕事なら、
     限界までやって自分にドライブをかけて
     成長したほうがいい、と思うのである。
     「しんどい」と思えないような仕事こそ、
     早くやめてしまうべきである。

     ただし、
     これはあくまで人生のひとつのオプションにすぎず、
     生き物としての生き方は他に山ほどあるので、
     自分で選べばよいということ。
     ちなみに、そういう方はもうこれ以上私の文章は
     読まないことをお勧めする。
     気分を害さなくて済むからだ』

    ------------------------------------
    (以下、前回からの続きです。)

    これにはこっちもかなり参った。
    自分のことを全く理解されていないことに傷ついたのだ。
    と、同時に、こいつも
    「充実している仕事は楽しいものだ」
    という甘えた考えを持っている人間なのだ、と思うと、
    急に冷めてきたものだ。

    では、なぜ人間はそこまで「仕事」をするのであろうか。
    これは、うまく言えないが、
    「動物が生殖活動を行なうことと同じだから」、と考える。
    要は、「人間として生まれてきた証」としての
    「自己確認」のために、
    自らが設定した目標の達成に勤しむというわけだ。
    もしかしたら、
    性行為を「快感」「愛情確認」のためではなく、
    純粋に「生殖行動」として
    本能的に行なっている人間がいるとしたら、
    その人は、仕事が「楽しい」と思うのかもしれない。

    時節柄、就職活動を始めている学生の方々も
    読者の中にはいらっしゃるのではないかと思う。
    皆さんはどうやって仕事を決められるのであろうか。
    最近は「買い手」市場だろうから、
    「選んでなどいられない」のかもしれないが、
    ここで今一度考えていただきたい。

    「将来を見通して自分のやりたいことを見極めて選べ」
    などという、意味のないありきたりのことを
    言うつもりはない。
    なぜなら「本当に自分のやりたいこと」など、
    学生あがりで就職する時にわかっているわけはないからだ。
    「いや、そんなことない」という人がいたら、
    今すぐここで再度問いただしたい……、
    「本気で言っているのか」と。

    あえて言うとしたら
    「人間としての『自分』のためになり『そうな』
     仕事を選べ」ということだろうか。
    そして、「自分のためになる」仕事というのは、
    自分の成長のドライバーとなるものであり、
    「しんどい」「辛い」仕事であるはずだ。
    逃げてはいけない。
    多少の無理はすべきだ。

    常に「少しできない=しんどい、
    と思う程度やらなければ実現できないこと」
    を目標において生きていくのだ。
    これはどんな分野・レベルの仕事にだって
    当てはまると考える。
    そしてその目標は10年先のものであってはならない。

    よく、入社試験の面接で
    「10年先の自分はどうあっていたいですか」という、
    人事部のただのオヤジが内心
    「ちょっと気の利いた質問だろう」と
    ほくそ笑むような類の質問をよく耳にするが、
    私に言わせれば、まったくもって意味のない質問である。
    (人事をする人間というのは、生来、能力的にも
    人格的にも尊敬される人間であるべきだが、
    このようなスペックの人に会ったことは
    数えるほどしかない)

    そもそもどういう答えを期待しているのかがわからない。
    10年先のことを考えて今を生きているようでは鈍すぎる。
    これだけ急速にすべての外部環境が変化している今日では
    まったく意味がない。お遊びだ。
    「10年先のことまで考えているから
     自分はしっかりしているのだ」
    と自己満足するには足るが、
    本当の目標を設定したことにはならない。
    そんな意味のない目標では、
    かえって demotivate されるのではないか。
    3年先が限度だ。

    (つづく)


    第15回
    By definition,「楽しい仕事」などない!
    その3


    (前回からの続きです。これをお読みになる前に
    その1その2、をお読みください)


    そう、3年先の目標に向かってひた走るのである。
    で、3年後にこの3年間の自分を振り返って、
    正すところは正す、更に強めるところは強める、
    という「反省と次の目標設定」を行なうのだ。

    こう言うと、
    「それではがんじがらめの苦しい人生ではないか」
    と思われるかもしれないが、決してそうではない。
    もちろん人生は(一面では)「苦しい」ものだが、
    これは程度の問題である。
    「なんとなく」でも良いから
    「必ず」目標を「持つ」ことが必要だ。
    なんでもよい。
    これが「ある」「ない」では生き方がガラッと変わる。

    それと、最後にもうひとつ、人生を素晴らしく
    生き抜くために重要な考え方をシェアしたい。
    「人生はバランスが大切だ」ということである。
    このバランスをいかに調節するかが
    人生の醍醐味だと言ってもよい。
    「よく働きよく遊ぶ」という言葉があるが、
    簡単に言えばそういうことだ。

    ただし、「バランス」という言葉には、
    by nature、「甘え」を含んでいることが多い。
    これはどんな世界においても言えることだが、
    「最高」を目指して頑張っても、それを実現できない場合に
    「でも人間はバランスが大事だから、
    そこまでできなくてもいいよ」という文脈で
    「バランス」が語られることがよくあるのだ。

    そう「逃げ」に使われてしまう。
    すべてのプロスポーツ選手、ミュージシャン、
    その他偉業を為しえた人々は、
    おそらくは「高次元のバランス」は保っているだろうが、
    見た目には恐ろしく人間としてバランスを崩したことを
    しているものだ。
    少なくとも、目標達成のためにひとつのことに
    恐ろしく時間を使い、努力し、苦痛に耐えているはずである。

    要は、あるべき「人生のバランス」とは、
    恐ろしくバランスを逸した複数のベクトル
    (向きと大きさをもったものという意味)を
    2次元の平面に落としたとき、その大きさが
    差し引きゼロ(程度)になっていることなのだと思う。

    また、別の言い方をすると、人間の一面を見たとき
    「あるひとつのことに注力して成功している」場合、
    必ずその裏にその方向とは思いっきり逆の活動が
    あるはずなのだ。
    ただし、差し引きが+1だったとしても、
    その要素が、2―1=+1
    (2のプラス方向の事象と1の
    マイナス方向の事象を差し引いて結局1になるということ)
    だとするとかなり寂しい。
    プラスの方向にもマイナスの方向にも、
    何もしていない、ということになる。
    これではまるで「ぼ〜っとしている人生」だ。

    10000のプラス方向の事象と、
    9999のマイナス方向の事象で、
    結局10000−9999=+1が成り立つという
    バランスが望ましいと思う。

    プラスもマイナスも、あるいは右も左も、上も下も、
    あらゆる「方向と大きさ」を持っている事象は、
    「違う方向にできるだけ大きい」ほうがいい。
    それぞれ精一杯にやってのけることが必要なのだ。
    一見非常に不安定なバランスであるが、この緊張感が
    人間を常に「生き甲斐」へ導いてくれるのだと考える。

    もっと具体的にわかりやすくいうと、
    日本古来からある「文武両道に長ける」という概念は
    正にこれであろう。
    また、レオナルド・ダビンチが「万能人」を目指した
    と言われるが、これもまた当てはまる概念である
    (彼は芸術家であったと同時に自然科学にも通じており
    数々の発明を成し遂げている)。

    私の場合、「仕事」を一方のベクトルだとすると、
    もう一方は「音楽活動」「自動車趣味+外車中古車鑑定」
    および「魚釣り」(これは完全な趣味であるが)
    ということになろう。
    「仕事」でつき合っている人は、
    「もう一方」のことには微塵も気づかないだろうし、
    「もう一方」のことでつき合っている人は
    「仕事」で何をどれだけしているかなんて、
    知りもしない、知りたくもないだろう。
    (例えば、「いつも」はハードロックと酒に
    身を投じている奴が、実は銀行でカネを勘定しているなんて
    思いたくはないものだ……、こういう場合、どっちが
    「いつも」なのかが問題になるが)

    しかし、この2つが
    高次元で不安定にバランスしていることで、
    両方の中身がより濃くなるのは間違いない。
    ありきたりの言い方をすると確実に「幅が広くなる」。

    次回以降は、こうした「人生の幅」が、なぜ必要なのか、
    および「人生におけるひずみ(歪み)」が
    どれほど大切か、についての考察を深めたい。


    第16回
    「幅と歪みのある人生」


    人生には「幅」と「歪み」が大切である。
    まだ30年しか齢を重ねていないが、
    これだけは確実に言えることだと思う。

    人生の「幅」は、前回お話ししたように、
    全く方向の違うベクトルをいくつ持っているかで決まる。
    しかも、その大きさが1や2ではなく、
    10000や9999であることが重要である
    ということも申し上げた。

    人生の「深み」は、現時点(30年如きの経験)では
    何とも言い難い部分がある。
    きっと「深み」というものは、
    「深めよう」と思ってできるものではなく、
    「結果」としてそうなっただけ、
    ということではないだろうか。
    ロジックでは計り知れない。

    これに引き替え、「幅」は、
    自らの能動的な努力によって獲得できるものだ。
    これを説明する別の言い方として
    「何にでもチャレンジしろ」という人がいるが、
    これは少し違う。
    コンサルタント的に言うと、
    チャレンジする対象を「戦略的に」選ぶことが
    非常に重要となるのだ。

    そもそも皆さんは「自分」という「コンセプト」を
    持っていらっしゃるだろうか。
    人生を有意義に過ごすためには
    「コンセプト」は必要だと考える。
    別の平易な言い方をすると「その人らしさ」、である。
    何をするにしても、何を買うにしても、
    何を言うにしても、その「コンセプト」に従うのである
    (ただし、これは飽くまで自然にそうならなければ
     ならないもので、無理にやるべきものではない)。

    おそらくは、この「コンセプト」を
    いかに魅力的なものにするか、という視点で
    「戦略的に」チャレンジする対象を選ぶことが、
    その人の人生を決めてしまうと言っても過言ではない。

    これはそんなに難しい話ではなく、
    単に「どうありたいか」ということである。
    自分の胸に手を当てて考えて欲しい。
    実は、どんな人でも真剣に考えれば
    「見つかる」ことだと思う。
    真剣に考えることが面倒なだけだ。
    決してさぼってはいけない。

    「歪み」ということについて。
    なぜ地震がおきるかというと、
    プレートテクトニクスにより長い間かかって歪んだ地殻が、
    その歪みに耐えきれなくなり元に戻ることにより生じる。
    いかに「歪み」がパワーを生み出すかが
    おわかりになるだろう。

    人間もそう。
    必ずしも好ましいことではないが、
    「歪み」があることによってのみ、
    outstandingなことができるのだと信じる。
    要は「逆境」を乗り越えてのみ、
    本当のPowerが発揮できるものだ、ということ。

    時に、完全無欠のエリートで、何の苦労もなく
    成功しているように見える人がいる。
    しかし、こういう場合、この人が
    「本当に凄い」とするならば、
    (そうでない場合、この人はゴミである)
    その人は誰にも分からないように、
    自分で「プレッシャー」や「逆境」を
    人工的に作りだしているのだと思う。

    例えばアイルトンセナという、
    もう伝説となったレーシングドライバーがいる。
    彼は恵まれた裕福な家庭に育ち、
    幼いころからレーシングカートを与えられ、
    エリートとしてレーシングシーンに現われた。

    その結果、Formula 1の世界では、
    最も偉大なドライバーの一人となり、
    結局故人とはなってしまったが、生前は驚くべき記録と
    人々の胸にかけがえのない感動を残していった。
    はっきり言って日本人にはたまらない。

    一見、彼は単なるエリートとして捉えられるが、
    ここまで彼を英雄たらしめた事実の裏には、
    恐ろしいほど自分を追いつめ、崇高な目標を掲げて
    自分の限界に挑んでいく、人工的な「歪み」と
    「逆境」の環境があった。
    その姿に全てのレース関係者、ファンは
    心動かされたのである。

    これは「好き嫌い」の問題ではない。
    どんな人でも、人工的に「歪み」は作り出せる。
    ちょっとしたことでいい。
    「なにくそ」と思う、その心が大切なのだ。
    全てのものに、簡単に「賛成」してはならない。
    全員が賛成できるようなものは
    「人を殺してはいけない」という命題くらいなものだろう。

    絶対に「賛同」してはいけない。
    まず「反対」すべきた。
    「歪め」。
    必ず、あなたのニーズに反する点があるばずだ。

    また、自分のやっていることが
    許せないようになった方がいい。
    満足したら終わりだ。
    その人はこの世に生きている理由がない。

    常に問題意識を持て。
    ただし、「自己嫌悪」はいけない。
    自分を愛したほうがいい。
    その上で、足りない部分を「許さない」ことが大事だ。
    忌み嫌え。
    そして改善しよう。

    成熟した人間として「歪む」ことが大切である。
    ガキが「歪」んでいたら、単なるパンクだ。
    (パンクは駄目。ヘビメタが最高。
     彼らは若くして「歪み」ながら「成熟」している)

    つづく 


    第17回
    「正しい休日の過ごし方」(1)


    みなさん、こんにちは。
    これを読まれている方、どんなシチュエーションで
    過ごされているのでしょうか。
    仕事中に上司の目を盗んで「ハラハラしながら」ですか?
    家に帰ってきて、ちょっとテレビみてから
    「ほっこり」しているときですか?

    これまでのこのページのコンテンツを
    さっきじっくり読み返してみました。
    我ながら「う〜ん、意味深いな」と思うところがある反面、
    「ちょっと偏っとるな、これは」と
    自戒の念も抱いています。
    え〜、なんでそんなこと言ってるかって?
    へへっ、今、『休憩』しているんですよ。
    すべての「苦しみ」「義務感」「感動」から解き放たれて、
    「平常心」の自分に戻っております、ハイ。

    私の傍らには、Maker's Markが置かれていて、
    さっきから後ろでは
    「なんであのサビが作れるンかい」と毎回思わせ、
    また「Highway ster」を初めて聴いたときと同じくらい
    心震わされた、ウタダさんの「First love」の2曲目
    (すみません、曲名知らないんです。。。
    「ふ〜ざけたアリバイ」ってやつです)
    が何回もリピートを続けています。

    いつか、「人間はバランスが肝心」ということを、
    言い放ったことがあったと思いますが、正にこれです。
    実は、多くの批判と励ましを受けながら
    ここに連載してきたコラムの内容がしめるのは、
    私の人生の、う〜ん、そうですね、
    6割くらいというところでしょうか。
    8割以上ああだったら、死んでますよ、今ごろ。
    もちろん、6割が「あっち」なので、
    4割の「こっち」よりは「自分」を代表している筈ですが、
    でも「より」あっちの方が強いだけで、
    「自分」は両方とも、です。

    お〜っと、何が言いたいのか
    はっきりさせないといけませんね。
    ここまで読んでもらった読者の方に申し訳ありません。

    本日のメッセージは明解そのもの。
    この「こっち」があるから「あっち」が活きてくるし、
    「あっち」のおかげで「こっち」がより楽しくなる、
    ということです。
    う〜ん、全然明解じゃないなあ、こりゃ。

    要するに、いかに「こっち」、
    つまり「休憩」の部分を充実させるかが
    すべてを決するということです。

    私の知り合いに、某「飛ぶ鳥を落とす勢い」の
    米国資本のインベストメントバンクで
    トップクラスの業績を残し、20代にして、
    ちょっとここでは“言うのもはばかる”ような、
    お給料をもらっている奴がいます。
    別に彼を批判するつもりはないのですが、
    「あ〜、うまく休んでないなあ、あいつ」
    っていう思いを抱かせます。

    株の売り買いですから、
    マーケットが閉まれば基本的には、
    休める(まあそう簡単にはいかないみたいですが)ので、
    年柄年中、水子の霊みたいに
    仕事がついて回る私なんかよりは
    時間的に余裕があるはずなのですが、
    暇があったら、訳わからん大量の女友達を
    都心の自分の広大なマンションに召集して、
    カネに物言わせて騒ぎまくっとるらしい。

    え? 別に嫉妬しているわけじゃないですよ。
    なんとなれば、、、
    「休憩」するときに人間は「成長」するものなんです。
    自分のやってきたこと、いや、昨日やったことでもいい、
    自分の過去の行動を回顧し「反省」と
    「改善の方向性を模索」できるのは、
    「休憩」のときしかないのです。

    自分のコラムの内容とこれまでの読者の方々からの
    大量のフィードバックを、「素」になって読み返せるのも、
    仕事上の失敗を後悔しまくるのも、
    仕事の上とはいえ厳しく罵倒してしまった
    自分のチームのコンサルタントに
    「心の中」で謝るのも、
    この「時間帯」でしかありえません。

    Overdriveがかかっている仕事中に
    「後悔」「回顧」「謝罪」はありえませんから、
    自分の「負」の部分を残らず「正」にconvertするには、
    「休憩」中、すなわち、
    安息日たる「休日」しかないのであります。
    この「休日」の価値は「時間の長さ」ではなく
    「質の高さ・濃度の濃さ」で決まります。

    (つづく)

    注:前回のコラムからの(つづく)は、
      また今度ということにします


    第18回
    地域性について(1)


    日本には大きくわけて2つの文化圏がある。
    こういうと、
    「いやそんなことはない、もっとある」と言われそうだし、
    実際その通りである。
    しかしながら、ここでは簡単のため、
    「2つ」とさせていただきたい。
    そう、関東と関西である。
    これは「宿命の対決」であり、
    「判官びいき」という言葉で表現されるように、
    関東が1番で関西が2番手である。
    巨人と阪神の争いで代表されることかもしれない。

    私は、はっきり言って「思いっきり関西人」である。
    京都生まれ、京都育ち、
    子供のころ3、4年エジプトにいたことと、
    1年くらい東京にいたことがあること以外、
    社会人になるまで京都で過ごした。
    大の阪神ファンだし
    (前監督の吉田監督の実家は私の実家の町内)、
    そばよりうどんの方が好きだし、
    うどんも「薄い」狐色のつゆが好きである
    (ただし更科そばにはいつも脱帽させられる)。

    しかし、東京で本格的に暮らして7年が経ち、
    父親が東京の人間であることもあり、
    いまや「東京フリーク」。
    もはや、六本木、西麻布、それと青山1丁目
    (私の心のふるさと、Hondaの本社があるところ)
    なしには、生きてはいけない。
    仕事仲間のアメリカ人、ヨーロッパ人に言わせても、
    「単体でこれほど大きく、エキサイティングな街はない」
    とのこと。

    しかし、だ。
    これほどのattachmentがある「東京」でさえ、
    極めて疑問に映ることがある。
    これは、関西人の目から見た「疑問」であるため、
    少々のバイアスがあるのはお許し頂きたい。
    「関西」にも『かなり』おかしいところがあるので、
    そちらの方はまた今度、
    ということにさせていただきたい。

    食い物屋

    まずは、食い物屋、特に「安物」
    (悪い意味ではなく親しみのある、という意味)の
    中華料理屋に問題がある。
    東京はさすがにinternational cityである故、
    いかに安物であっても、
    本場の中国人の方が調理されていることがあり、
    味ははっきり言って大阪なんかよりも上。
    これには大満足なのだが……
    オペレーションに問題がある。

    例えば餃子とラーメンをオーダーしたとしよう。
    そうするとどうなるか。
    結果から言うと、まずラーメンが出てきて、
    ラーメンを食べ終わったころに餃子が来る。
    これは、明らかにconsumer-orientedではなく
    product-outなために起こること。
    調理に要する時間は圧倒的に餃子の方が長い。
    客がやってきて、オーダーをしてから「用意ドン」で
    調理し始めると、ラーメンの方が先に出来てしまう、
    という構図なのだ。

    モスバーガーばりに、
    「オーダーがあってから調理いたします」的な
    「目的」があってのことなら文句は言わない。
    しかしながら、彼らの多くは、
    「能動的にそうやっている」ことは少なく、
    単に「成り行き」だから「そう」であることが多い
    (これは想像ではなく、こういうことがあるといつも
    調理長とおぼしき方に真意を聞いているのだが、
    その結果である)。

    もし、これと同じことが大阪で起きたらどうなるか。
    試してみたわけではないが、私の経験からいうと、こうだ。
    まず、オーダーしてから餃子が出てこないことに苛つく。
    次に餃子を期待しているところに
    ラーメンが出てきたことに対して、憤りを感じる。
    この時点で客は
    「きっと餃子はオーダー漏れだなあ」と感じ、半ば諦める。
    そこに、満を持して餃子が登場してしまったなら、
    星一徹よろしく机をひっくり返すことこそないにせよ、
    まず、キャンセルするだろう。
    曰く「ラーメン食った後に餃子食えるか」、である。

    では、なぜこういうことが起きるのか。
    消費者がそれで満足であるからである。
    これは、東京の人が上品であるから、とか
    そういう「情緒的」な問題ではなく、
    需要が供給を上回っているため、という
    極めて「論理的」な事象に起因すると思う。

    要は、圧倒的に供給側、すなわち店側が
    優位であるということ。客は、自然と店に対して
    「諦め」を抱いているのではなかろうか。
    これは「ここで店に文句いうと恥ずかしい」という、
    比較的「弱い」理由からではなく、
    「ここで文句言ったら、飯なんか食う店はなくなる」
    という、差し迫った「強い」理由からであろう。
    (つづく)


    第19回
    「幅と歪みのある人生」(2) 異端者のすすめ


    「個性の時代」とか、「横並び体質からの脱却」だとか
    いう話を耳にするようになってから久しい。
    日本がようやく成熟し始めてきた証拠のようにも思えるが、
    実際のところどうなのであろうか。
    単なるかけ声に過ぎないのであろうか。
    最近、カリスマ美容師だとか、カリスマ店員、
    あるいはスーパー読者(某女性向けファッション雑誌の
    超リッチな読者を祭り上げたもの)など、
    世の中「ヒーロー・ヒロイン」欲に溢れかえっているが、
    この現象は、皆が完全に「自分」を見失い、
    自分の「ロールモデル」を模索し始めたことを
    示唆しているように思える。
    嘘でもいいから「身近な」ところで偶像を作り上げないと
    生きていけなくなった、といったところだろうか。

    では、何故このような現象に陥ったのか。
    「近年日本にはヒーローに値するような大物が
     いなくなった」
    とか
    「不況の中で一筋でも明るい光がほしくなった」
    などと、いかにも上滑りな分析を加えている
    マスコミ批評を目にするが、これでは
    あまりにも本質を衝いていない。

    問題の本質はこうだ。
    「異端」を許さない社会風土、が全ての元凶である。
    社会があまりにも「異端者」を拒否し続けてきたため、
    「異端」がイケナイことになってしまった。
    その結果、それがいかに「小さな異端」であっても
    隠さなくてはならないというマインドセットを作り上げた。
    人間は生殖のためだけに生きている訳ではなく、
    理性に従い「自分が生まれてきた意味」を探す
    生き物である。他人と全て同じ、となれば、
    たとえそれが短期的にはプラス(「異端者」と
    言われなくて済む、という意味で)になったとしても、
    「理性を持った生き物としての『本能』」で、
    多大なストレスを産むに違いない。
    私は、「切れる」「逆切れ」という概念
    (本来人間社会ではあってはならない最悪のタブー)が
    横行している理由も、ここにあると思っている。
    このストレスが、カリスマ何某を乱発させている
    一因に与すると信じる。

    ガングロ、茶髪で、鼻にラパラのミノーを
    2つもぶらさげながら渋谷を歩いていても、
    驚くことにこれは「異端」ではなく「同質」化なのである。
    大手町で金融ビジネスマンとして働いている人が
    「そう」なら、明かに異端であるが、
    渋谷では同質化ということになる。
    何をするにしても「変なところ」まで皆と
    同じでなくてはならないのだ。
    その結果、彼らは必然的に自分の外に「異端」、
    「憧れ」を見いだすようになる。
    それが、カリスマ何某、という訳である。

    私の学生時代の恩師が教授を退官されるときに
    「どんなときもマイノリティであれ。
     マイノリティは絶対に得をする」
    という言葉を贈ってくださったのだが、
    私は今でもそれが忘れられない。
    一見逆説的なこの言葉に、全ての本質があるように思う。
    異端で少数派であることの方が、本当は強いのだ。
    いや、もしかしたら、異端でも生きていけるようになれば、
    自然と強くなるということなのかもしれない。
    「歪み」は「異端」の第一歩である。
    「素晴らしい『異端』(=認められる異端)」になるには、
    まず「健全に『歪む』」ことが大切である。
    とにかく他人と少しでも違うところを見い出して、
    それを思いっきり大切に育てる。
    次に、それがマジョリティと違うことによって
    生じる軋轢(他人からの誹謗中傷でもいいし、
    自分の思いこみでもよい)を抽出し、
    それがネガティブだと考えられる理由を分析してみる。
    この段階で本質的に「ネガティブ」だと
    自分でも思うのならストップ。
    これでは単なる「変わり者」である。

    一方、「本質的には全くネガティブではなく、
    単に他と『違う』だけ、若しくは本当はこっちの方が
    『優れている』」というのなら、しめたもの。
    この場合、他人には真似のできないことを
    やっていることになる。
    これを足掛かりに「異端」への道を邁進するのである。


    第20回
    「就職」ということ
    果たして人生の節目か……迷える学生諸兄に贈る


    もう師走である。
    私が大学3年のころには、この季節、
    まだアルバイトに精を出し、学生気分を満喫していた。
    近頃はどうか。
    未曾有の不況という背景のもと、
    もうこのタイミングで就職先の見当がついていないと
    就職浪人となりフリーターと化す、という状況らしい。

    学生諸兄は、再び
    「受験戦争」に臨まなくてはならない、ということか。
    全く馬鹿げた話である。
    苦労してようやく良い大学に入って一息ついたら、
    今度は「持ち上がり」だと思っていた一流企業への就職も、
    狭き門と化している訳だ。

    更に目も当てられないのは、「入社後」である。
    常々、コンサルティングという仕事を通して
    ひしひしと感じているのは、もはや「一流企業」ほど
    入社後の生活は不安定だということ。
    ご理解いただけるだろうか、この事実。

    昨今の成長企業とはどんなものかをよく考えてほしい。
    圧倒的なメリトクラシーを備え、十分アトラクトして
    新入社員をむかえるにも関わらず、
    「できない」人はどんどん会社を去ってもらう、
    という仕組みになっているのだ。

    常識で考えてもらいたい。
    会社を成長させる原動力とならない人材を、
    一流の組織が欲すると思うか。
    ボランティアで会社が成り立っているなんて
    誰も信じないいだろう。

    実は、大方の企業のCEOは、
    高度成長期が終わった直後から無駄な人材を
    排除したくてしたくてたまらない時代を送ってきている。
    バブル期に入り、幾分こうした意識が
    薄れた時期はあったが、
    本質的には不必要なコストは無くしたがっている。
    当たり前だ。

    そしてバブルの終焉とともに、
    「不況」という大義名分を良いことに
    堰を切ったようにリストラを始めた。
    はじめのうちは、マスコミもこれを大きく取りあげ、
    まるで「悪いこと」のように書き立てたが、
    近頃は数千人をリストラしたくらいでは
    新聞にも載らない勢いだ。もはや安住の地はない。

    しかし、だからといって悲観的になる必要はない。
    誰にでもチャンスが回ってきたのだということに
    お気づきだろうか。
    これは大げさに言っているのではない。

    東大出身者で上層部が固められてきた末にボロボロになり、
    最近になってようやくカルロスに目を覚まされかけている
    某大手自動車会社が良い例だ。

    経営陣に外国人が入ってくる……これは今後
    どの会社にでも「バンバン」起こることである。
    海外転勤するエリートだけがグローバルビジネスの場に
    身をおいている訳ではなくなる。
    すぐ隣のシマに「青目」が座るのも時間の問題だ。
    私自身、実際に、現在進行形で
    いくつもその「お手伝い」させてもらっているから、
    これは信じてほしい。

    もしそうなったらどうなるか。
    東大を出ていようが京大を出ていようが
    「全く」関係なくなる。
    東大の文一の入試がいかに大変か、京大を出ていれば
    婚約相手の親の顔がいかにほころぶか、など、
    カルロスは知らない。

    本質的な議論ができず、リスクを取ったことがなく、
    行動に移すことを嫌い、高い目標を掲げることを恐れ
    勇気がなく、その上、英語が話せないとなると、
    次の日から給料をもらうことができなくなるのだ。
    こういう方、結構いますが、
    とにかく「カッコウワルイ」です。
    とどのつまり……、
    新卒時の就職など、人生の節目でも何でもなく
    単なる通過点にしかすぎなくなってしまった、
    ということである。

    生活さえできるのなら、無理に就職する必要はない。
    未だ未熟な人間(物事の本質がわからず、「勇気」がない
    ……私は特に後者を重んじるが)であったなら、
    無理に就職などせず、フリーターでも何でもいいから、
    人生のスタートラインに立てるような準備に
    時間を費やした方がよいのだ。

    今のご時世、未熟なままスタートしてしまうと、
    ファーストラップで致命的なトラブルにより
    リタイヤしてしまうだろう。
    ピットにも戻れず、無惨な人生を送ることになる。
    絶対やめた方がいい。

    但し、「未熟」であることを完全に理解しつつ、
    タイヤを暖めながらフォーメーションラップを刻むのは
    悪くはない。
    その間にコースの特性も理解できれば、
    敵の出方をみることもでき、
    闘いのその時まで準備ができるからだ。

    焦ることはない。
    十分鍛えてから勝負すべき。
    但しさぼることは許されない。

    学生諸兄。
    今一度、「就職」なるものを考え直してみてはいかがか。
    Good luck.


    第21回 日本の将来

    近頃ひどく日本の将来を憂いている。
    原因は、本質をはずし続けている、
    わが「国」そのものにある。
    国力を向上していかなければならないという
    このタイミングで、「ゆとり教育」を敢行。
    小学校では「台形の面積」の計算式を
    教えないようになるという。
    はっきり言って唖然とした。

    なるほど、記憶力と、保身・安定のための
    クリエイティブネスしか持ち合わせていない
    文部省の官僚や、何故これほどまでに
    unsophisticatedなのだと思わせる
    代議士の目からみると、
    台形の面積は「不必要」としか思えないのだろう。

    (女性差別発言、帝国主義崇拝発言を、
     『いつもは気をつけていてもつい油断した瞬間に
     「自然」な感じで思わず』発してしまい、
     後で不本意ながらの「謝罪」を繰り返す、
     とても下品で下等な頭の悪いオヤジが、
     一体何故政治家なのか、この国では?
     と感じていらっしゃる諸兄も多いことだと思う)。

    それは、台形の面積を学ぶことが
    「何故今まで必要とされてきたか」を理解できないからだ。
    彼らには全く知性というものを感じない。
    そもそも、何であんな輩が我々の血税を自由に操って
    好き勝手にしているのかは全く不明。
    中にはきちんとした人たちもいるのだろうが、
    そうした人がリーダーシップを取れない状況にあるのは
    火を見るより明らかだ。

    小学生にとっては、将来の人生において「台形の面積」を
    実生活の中で計算する機会があるとはとても思えないが、
    「何故、上底と下底を足して2で割ると
    面積を求めることができるのか」を
    「考える」過程を知ることは極めて大切である。

    「図形の面積の概念を学ぶ」ということは、
    実は「暗記する」だけである。
    直角の4辺で囲まれた図形(長方形や正方形)の
    タテとヨコを×(かける)という記号でつないで
    得られた数値を「面積」とする、
    という定義を覚えるだけなのである。

    一方、「台形の面積の算定方法を学ぶ」ということは、
    実はこれも「暗記」だけで乗り切れるのだが、
    しかし、公式の暗記よりももっと大事な
    「思考」を促すきっかけになる(但し、教え方によるが)。
    これは、「何事に対しても思考停止を起こさない人格」を
    形成する上で、非常に重要な要素の一つであろう。
    決して、公式そのもの、あるいは計算結果が
    重要な訳ではない。

    「極論を言うのはやめろ」とのご批判を覚悟で
    言い放ってしまうと、台形の面積の求め方の
    本質的な意味合いを理解していない人間と一緒に
    社会生活をしていくことなどご免被りたい
    という気持ちで一杯だ。

    翻って、
    「日本国における意志決定の馬鹿さ加減問題」に
    目を移すと、この「台形の面積」の話は、
    およそ問題のほんの一角に過ぎないであろう。

    問題解決のプロセスそのものに問題があるのか
    (これは官僚の責任)、それを意志決定するプロセス、
    もしくは意志決定する人の判断力を含めた
    スキルに問題があるのか(これは代議士の責任)、
    もしくはその両方なのかは不明である。

    「こんなことはビジネスの世界だったら
     あり得ないことですよ」とか、
    「官僚や政治家はだめだ」などと
    マスコミを通じて知識人、一般人を問わず
    曰っているのをよく目にするが、
    これは「そういう意見もある」という
    レベルの問題ではなく、「絶対にそう」である。
    もう少し真剣に考えた方がよい。
    とにかく、我々は「格好が悪い」。


    第22回
    日本のredesignを始めよう
    (1)警察の再構築


    昨今の希に見る凶悪で奇怪な犯罪は、
    「日本」の崩壊を予見させるものである。
    と同時に、それに対する公の民の対応の
    愚かさには見るべきものがあった。

    詳しくはわからないが、
    警察の捜査というものは、
    エリアを越えて行えないものなのか。

    ちょっと想像してもらいたい。
    誰の家にも近所に警察署があるだろうが、
    どんなに凶悪で狡猾な犯罪が起きても、
    そこがいきなり捜査本部になるのである。
    「何か違うのでは?」と思わざるを得ない。

    捜査の難しさは、事件により大きく異なる。
    これは当然。
    しかしながら一方、エリア内で捜査担当が
    「閉じている」とすると、
    捜査陣のスキル如何に関わらず、
    エリア内の全ての捜査が行なわれる。
    これはどう見てもおかしい。

    いつも感じるのだが、刑事事件の捜査というものは、
    数少ない「ファクト」をもとに「初期仮説」をたて、
    それを証明するために「インタビュー」し
    「証拠」を収集し、更に仮説を修正していく、
    というもので、私が行なっている
    経営コンサルタントの仕事と酷似している。
    要は、捜査を実施する者は、
    究極のプロブレムソルバーでなくては
    ならないということである。

    もしそうだとすると、個人のスキルによって
    結果が極めて大きく変わる、という類の仕事であろうと
    容易に推察される。

    ケースによって頭の使い方も変わってくるし、
    何通りもの可能なシナリオを設定して、
    「ファクト」が1つ明確になるごとに
    そのオプションを絞っていく、という
    プロセスを取らなくてはならず、
    これを確実に実行するには、
    論理的で明晰な頭脳が必要となろう。

    こうしたことを踏まえると、
    高いスキルを要する難解なケースについては、
    エリアを越えて活動できる、
    高い知能と豊富な経験を有した
    特殊チームにより解決を図る、
    という仕組みの導入が必須なのではないか。

    エリアを超え、全国ベースで
    上位100人程度の優秀な人材を
    国家機関としてプールしておき、
    事件の難解さに応じて各エリアに派遣する、
    という仕組みでもよい。
    アメリカにおけるFBIはこれに近いのかもしれない。
    日本のredesignは、こういうところでも必要となるのだ。


    第23回
    日本のredesignを始めよう
    (2)「日本ブランド」の確立


    私は、「日本を変えることができる」、と信じる。

    皆さんもご承知のとおり、
    対外規制の緩和、インターネットの普及、
    そもそもの国民の価値観の変化などにより、
    想像を絶するスピードで
    グローバライゼーションが進んでいる。

    もはや人種の違いも、単に地球という国の中での
    出身地が異なるというだけの話である。
    私が勤めるコンサルティング会社の
    国際会議などへ行くと、この念はより一層強まる。

    基本的にみんな同じ土俵で話し、
    英語がフランス訛だったり、
    日本語英語が乱発されたりするだけで、
    ニューヨークオフィスから来た奴なんかには
    「こいつえらい田舎から来たんだなあ」
    という目で見られたりする程度である。

    こういう場でつくづく思うのであるが、
    やはり日本には「ブランド」がない。
    フランスにもイギリスにも、
    ラ・マルセイエーズとトリコロール、
    ユニオンジャック、といった、
    国をイメージさせるポジティブな「ブランド」がある。

    我々にあるのは、
    文化面では「Kabuki」であったり「Fujiyama」程度で、
    どれも現状の国の実態を表現できている訳ではない。
    また、産業面では「Kanban」方式、
    「Made in Japan」といった高品質イメージはあるが、
    これらは必ずしもポジティブなものとは限らず、
    むしろ日本を批判する際に
    引用されることが多いくらいだ。

    どの国であっても
    自らを明確に定義づけるブランドが必要である。
    「潔さ・真面目さ」でも「奥ゆかしさ」でもいい。
    我々日本人のコンセプトを司るブランドが欲しい。

    私は、世界に通用する日本ブランドを構築することで、
    「日本を変えることができる」と信じる。

    このブランドコンセプトに基づき、
    国としてのあらゆる意志決定を行なっていくのだ。

    今の「汚職列島」ぶりを鑑みると、
    決して「潔さ・真面目さ」はブランドコンセプトとは
    なり得ないだろうが、
    逆に「潔さ・真面目さ」というコンセプトを
    徹底させることにより「汚職」を根絶していく、
    という考え方である。

    また、ブランドを持てたということだけで、
    世界の一員としての自覚も高まるし、
    自信もつくだろう。

    国民投票でも、国会審議を通じてでも何でもよい。
    とにかく、明快な
    「日本ブランド」を立てることが必要だ。

    ゼロベースで日本を改革するために、
    今、日本の全てを定義づける「日本ブランド」の
    構築を開始すべきときに来ているのは明らかである。


    第24回
    「e」branding


    いまどき、どの業界、どの世界をみても、
    「e-XXX」もしくは「.com」である。
    しかしながら、ビジネスモデルの模倣のしやすさ、
    早さ、顧客から見たときの比較情報の多さ、
    スイッチングコストの低さ、などから判断して、
    近々のe-事業単体での大成功は
    そう簡単ではなさそうである。
    むしろ、既存old economyの大事業者が、
    その本業のサポートとして
    「e」を本格的に使い始めると、
    産業革命になるのであろう。

    ただし、こうした本格的な産業革命に至る前でも、
    少数の成功者は輩出されるはずである。
    それは誰か。
    ブランディングに成功した者である。

    より成熟した社会になればなるほど、また、
    提供物の本質的な価値に差がなくなればなるほど、
    「ブランド」が大切になってくる。

    「e」の世界もまたしかりである。
    決して成熟した業界ではないが、
    ビジネスモデルの特性のみでは
    継続的な競合優位の持続が困難なe-事業においては、
    ブランドはかなり重要な位置を占めるようになる。
    いきおい売上の何倍もの広告宣伝費を投入する
    e-事業主も現れるわけである。

    翻って、我が「ほぼ日」であるが、
    事業主(イトイさん)の知名度に加え、
    コンテンツそのもの、あるいは運営方法の妙により、
    ブランド力を着実に蓄積してきていると思う。
    T-シャツといい、永久紙ぶくろといい、
    「ほぼ日」は、ついに「モノにつく」
    本物ブランドとなったと言ってよいのではないだろうか。

    このように「e」事業が生き残るには
    ブランディングが重要であるのだが、
    また「e」の世界で培われたブランドは、
    実は他のブランドとは異なる
    限りない可能性を秘めている。

    普通、ブランドというものは
    まず「モノ」に付いてくることが多い。
    例えば「ルイビトン」と言えば、
    「革製品」というモノのブランドである。

    事業主は、このブランド力を生かして、
    他の製品・サービスのイメージをも
    向上させようと企てる訳である。
    しかしながら、モノに付いてしまっているブランドは
    強ければ強いほど
    brand image conflictを起こしてしまい、
    別のモノのブランドにはなりにくい。

    例えば前述の「ルイビトン」は
    食べ物や飲み物のブランドにはなり得ない。
    革臭いイメージがしてとても食べられないだろう。

    要は、ブランドというものは、
    抽象化されていればいるほど、
    他のアンブレラブランドとしての活用の幅が
    増えてくるという訳だ。

    トヨタが来年からF1に参戦を表明しているが、
    これもその例である。トヨタはこれまで
    WRC(ワールドラリーチャンピオンシップ)に参戦し
    チャンピオンにもなっている。
    WRCでは市販車を改造したラリーカーが活躍するため、
    実績の善し悪しがダイレクトに市販車のイメージに
    影響を及ぼし、一見マーケティング上
    効率が良いように見える。
    しかし、これでは高影響が出るのは、
    ラリーに出場している当該車種
    (セリカ、カローラ)のみになってしまい、
    実はそれほど効率は高くないのである。

    そこで、「トヨタ」という抽象概念に
    ブランド力を持たせるべく、
    F1への参戦となった次第だ。
    F1の場合、走っている車は市販車とはかけ離れており、
    消費者には「技術力のある」とか
    「格好良い」などといった抽象イメージのみが残る。
    これだと、基本的にはどの車種にも
    適応できるブランドとなるわけだ。

    Web上のブランドにも同じことがいえる。
    Realの世界では、
    ブランドは特定のモノに付いて成長するが、
    web上では、サイトのもつイメージ・特性といった
    抽象的な概念に付いて育つ。
    即ちwebを通じて育てるブランドは、
    育て方によっては、非常に強力で
    広範な影響力をもつブランドとなる可能性が
    あるということだ。

    「もともと強いブランド力を持っている」プレーヤーは、
    web上での事業において成功するのみならず、
    web上で別のブランドを育成することで、
    オフラインも含んだ更なる事業機会の獲得が可能である、
    ということになろう。



    (もとのページに戻る場合はこちらへ