盆と正月、誕生日とクリスマス
糸井重里さま
今月は、私、浮き足立ってます。
なぜかって、3日に野田秀樹作・演出の『Right Eye』、
岩松了作・演出の『水の戯れ』が同時に幕を開け、
6日にはデヴィッド・ルヴォー演出の『ルル』の初日が やってくるんですから。
幼いころ祖母を訪ねていくと、
「盆と正月が一緒にやってきたようなものだねえ」
などと周囲の大人が、囃子たてました。
老人に「よろこべー」と強要していたんです。
僕って、盆と正月だったのね。
ついでにいうと、僕は、12月17日生まれなので、
誕生日とクリスマスが一緒にやってきます。
少年にとって、レーシングカーとか野球盤とか
天体望遠鏡とか、大物のおもちゃを買ってもらえる機会は、
一年にこの二回だけです。
いちどきにやってくるなんて、盆と正月と思いきや、
プレゼントは、倍になったり、ふたつになったりはしない。
ひとつでごまかされてしまう。
12月生まれにとっては、「不条理」なんて、
子供の頃から知っているおなじみの観念なんです。
気をとりなおしていうと、
今年の12月は、野田、岩松、
デヴィッド・ルヴォーが三人で、プレゼントをもって、
押し掛けてきてくれているようなものですから、
ぜんぜん不満がない。さびしくない。
えー、こんなにもらっちゃっていいのって感じです。
昨夜は「水の戯れ」お疲れさまでした。
こわーいお芝居ですが、こころの跳躍がすばらしい。
ひとは、あんなふうに、意識の断絶を生きていて、
表に現れる行動は火山の噴火みたいなものなんですね。
竹中さん、樋口さん、串田さん、尾美さん、李さん
川津さん、これほどの困難を強いる芝居を闘っている。
野田秀樹とは、別の極にあって、
演劇史に残る仕事をされていると思います。
糸井さんの「速度が弾丸を殺すとき」
(「カナだからの手紙」12月4日)を
読みました。おもしろかった。刺激された。
4日に僕も10枚の原稿を
小学館の「せりふの時代」に渡しました。
1月はじめに書店にならびますが、
発売されたら編集部の許しを得て、
イトイ新聞に採録するとして、
ここではラフなスケッチをしてみましょうか。
「右目の奥の闇」
ノンフィクション演劇とうたった
野田秀樹作・演出『Right Eye』は、
かれじしんが右目の視力を失った事件を縦糸に、
カンボジアのアンコールワットで
クメールルージュの兵士に捉えられ、
スパイとして処刑された戦場カメラマンの物語を横糸に、
構成されている。
時間も空間も異なったこのふたつの事件をつなぐのは、
右目の奥の闇だった。
私たちは目によって外の世界を眺めている。
目には、私たちの前にある視界がひろがっている。
しかし、たちどまってみると、目も、鼻や、指や、
おしりと同じようなからだのひとつの器官にすぎない。
けれど、目は外部と内部のちがいを際だたせる。
目が、その機能を失ったとき、
何も見えなくなるだけではない。
眼球のなかにある闇が忽然と浮かび上がってくるのだ。
野田はこの芝居のなかで、
「正義」が失われた時代を描いている。
「報道の自由」がみすぼらしいものになってしまった現実を ふみしめる。
カメラマンは「報道の自由」をふりかざして
戦場にのりこむ、
クメールルージュはスパイとおぼしき外国人を処刑して、
その社会の「正義」を貫徹しようとする。
そこには、「自由」と「正義」の
正面からのぶつかりあいがある。
一ノ瀬泰造の時代から、時間が経過して、
今の日本はなさけないくらいに墜落してしまった。
野田が右目の視力を失って入院した病院には、
女優の夏目雅子さんが最後の日々を過ごしている。
パパラッチが病室の窓を狙う。
そのために、カーテンは閉じられたままだ。
彼女は真夏の空をのびのびと見る権利さえ奪われている。
そこには、「のぞきみする自由」が、ヒューマニズムの論理 を踏みにじっている。
野田秀樹は、ここで日本の現実を嘆くだけではない。
自由と正義を信じて、まっすぐに対象をみつめる視線を
私たちは失った。
のぞき見をする自由を、だれにでもある欲望として見つめ、
じぶんを棚にあげて、
ヒューマニズムをふりかざすことはしない。
けれど、今私たちの目は闇に閉ざされてしまった。
自由と正義が信じられた時代が点滅する光として、
網膜の記憶に残っているだけなのだ。
どんよりとした液に満たされた右の眼球は、
ひたすら虚ろで何の役にもたたない。
残された左目は、過去とも現在とも、
現実とも妄想ともつかない曖昧な領域に
視線を泳がせている。
私たちはどこから来て、
いったいどこに行こうとしているのか。
こころは考えている。
こころには、自由の分子が行き場を失って、
うろたえている。
けれど、その微細だけれど確かな運動は、
その活動を止めたわけではない。
細胞が押しつぶされ、壊死し、
ごみばこに投げ捨てられようとも、
最後の瞬間まで、動き回り続けるだろう。
野田秀樹、吹越満、牧瀬里穂の分子は、
劇場という闇の中で、永遠の生を与えられた。
かすかな光に向かって、それでも出口を探して、
ひとは立ち止まらない。
刺激に反応し、ふりむきざまにことばを投げかけ、
思いをあふれさせる。
絶望のふちからすくい取った希望の水を手渡されて、
私は劇場から歩き出した。
長谷部浩
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