Drama
長谷部浩の
「劇場で死にたい」

『水の戯れ』(その三)

糸井重里さま

気の張る原稿が続いていたのですが、ようやく昨日、
というか今朝の8時頃に紀伊國屋書店の「i feel」にのる
「久保田万太郎の四季第四回 夏、
その二」を書き終わりました。
資料のやまに埋もれ、読めば読むほど疑問がふえてくる、
まるでジャングルのなかを
磁石なしにさまよっているようなものです。
だどりつきたい場所は、よーくわかっているのですが、
沢や岩がじゃましてだどりつけない。
その迂回路を見付けるのが楽しかったりするのですが。

さて、中断していた昨年の「水の戯れ」について、
もうすこし書き継いでみましょう。
本多劇場では、糸井さんと「客席で会いましょう」
と待ち合わせていました。
ロビーでちょっとさがしたのですが、
見あたらなかったので、とりあえず開演を待ちました。

岩松了の書く戯曲は、俳優が引き立つ芝居です。
なぜなら、登場人物のこころのうちを、
観客に想像させるように書かれているからです。
今、こんなことをいっているけれども、
おそらく他のことを考えているのだろうな。とか。
今、だまってミシンに向かっているけれど、
他のふたりの会話を彼は、
どんな気持ちで聞いているのかな。とか。
ミルクをこぼしてしまったのは、
もしかしてわざとかもしれない。とか。
ひとのことばや行動の裏にある意味を、
さぐりたくなるように仕組まれています。

そんな台本を受け取った俳優は、
なにを考えるのでしょうか。

1、そのことばや行動を起こさせる内面を
  じぶんのなかで作る。
2、あまり深く考えないで、ことばを淡々としゃべる。

一見すると、1が正解のように見えますが、
実は、2のほうが観客に訴えかけるちからは強いのですね。
いや、2をやっているように見えて、
1の痕跡を消し去ってしまう。
というのが、いい俳優さんのめざしている
ところなのでしょう。
舞台の上で、いい演技というのは、
俳優が考えることではなく、
観客に考えさせるタイプの芝居をいうのです。

「水の戯れ」で、樋口可南子は、寸分の隙なく、
あらゆる瞬間、そのすがたが美しく見えました。
観客に背を向けていても、
そのかたちは揺るぎなく美しく見える。
それは、明子という人物は、
なによりも他人に美しく見えたいと、
こころのそこから願っている人間だからです。
明子は、無意識のうちに、
そう振る舞ってしまう性格だからこそ、
周囲の人々は彼女から目が離せないのです。

水の戯れについて以前書いたときに、
岩松了は、人間の悪意を描くといいました。
人間のなかには、俳優も含まれています。
彼は樋口可南子という女優さんに、
わなをしかけています。

いうまでもなく、女優は作品のなかだけではなく、
いつも美しくあらねばならない宿命を負っています。
周囲のだれもが、美しくあってほしいと願っていると
よく意識しています。
その習性が、そのふるまいが、周囲を狂わせていく。
あなたはとても恐ろしい存在なのだよと、
岩松了は樋口可南子に告げているのです。

美しくあることに、
一ミリの疑いでもさしはさんだとたんに、
明子という役柄は、舞台の上で
リアリティを失ってしまいます。
私が感動したのは、このことばのナイフにたいして、
樋口可南子が見事に、女優という存在を
肯定していたからでした。
そこには、気品をもって見られることを
職業として選んだ人のりんとしたプライドが
揺るぎなくあったのです。

また、長くなってしまいました。
明後日からは、宮崎で平田オリザの
「東京ノート」を見に行っていきます。
美術館のロビーを舞台にした作品を、
宮崎県立美術館のロビーで上演します。
はたして、どんな効果があるのでしょうか。
今から楽しみです。

正月から休みなしって感じだったので、
すこしのんびりしてきます。
それでは、また。

99年2月12日

長谷部浩

1999-02-15-MON

BACK
戻る