Drama
長谷部浩の
「劇場で死にたい」

番外編
編集部註:今回は、番外編のその3です。
その1その2を読んでない方は、そちらから
お読みください。

生きることの感触
The Scene of Being Alive
平田オリザ、坂手洋二、永井愛、鈴江俊郎、
マキノノゾミ、鐘下辰男の劇作をめぐって


第3章

鐘下、坂手が過去を描き出すとき、
現実の社会への痛烈な批判を前面に押し出すのに対して、
あくまでウェルメイドな喜劇の体裁を守って、
風刺のちからで日本人の現在をあからさまにするのが、
永井愛とマキノノゾミである。
81年、大石静とともに二兎社を旗揚げ。
91年、主宰をつとめるようになった永井愛の代表作は、
昭和生活史3部作と題された『時の物置』(94年)、
『パパのデモクラシー』(95年)、
『僕の東京日記』(96年)である。
それぞれ、1961年、1946年、1971年を
時代設定として、当時のありふれた市民生活が
描き出される。
ウェルメイドな劇作のたくらみは、
モノの取り扱い方に際だっている。
私たちの戦後がモノとの関わりによって語られるのだ。
『時の物置』では、物置のなかのテレビ、
『パパのデモクラシー』では、
リュックのなかのさつまいも、
『僕の東京日記』では、岡持のなかのラーメンが、
もうひとりの主役となる。
46年、戦争直後のさつまいもは、
だれもが目の色を変える貴重な食料であった。
61年、高度成長期にさしかかると、
家の中にやってきたテレビは、家族のありかたを変えた。
71年、学園闘争が盛んになった時代、
学生が製造した爆弾は岡持のなかに収まり、
ラーメンと称して隣人にあずけられた。
永井愛は、時代の思潮を声高に主張したりはしない。
あくまで私たちの身近にあったモノによって、
時代の空気感を生活のリアルな感触とともに、
観客に伝えようとする。
この連作が書き継がれた94年〜96年は、
第1章でのべたように社会不安が深刻化した時期だが、
作風に変化は認められない。
人間が食べ、会話し、笑い、いさかいを起こし、
そして寝る。こうした営みは、
いかなる時代にあっても変わらず続けられてきたと、
大きな構えでしたたかに伝えるのである。
『時の物置』(96年・而立書房)のあとがきは、
この劇作家のスタンスをよく表している。

時代の転換期を日常生活から描きたい。
私の知っている最初の転換期は、
テレビの出回り始めた高度成長期である。
と、気張って構想したものの、思い浮かぶのは、
当時の小学生として見聞きした近所の話ばかり。
本当によく近所の人が来た。
みんな、ただおしゃべりをしに来たように思う。
(中略)
すべてはおぼろげでしかないが、辿ればふいに、
焚火の匂いや雨上がりの土の感触も甦る。
(中略)
「物置」である。
とりとめなく物が入っているはずだ。
現在は必要とされない物が入っているはずだ。
それでいて、捨てられない物が入っているのだ。

「焚火の匂いや雨上がりの土の感触」を彼女は、
机に向かいながら思い出している。
この文章からも、都市文明の高度化とともに、
私たちが忘れられてしまった
身近な自然をいとおしむ眼差しが認められる。
90年代は情報の網目が世界をあまねく
覆い尽くした時代である。
湾岸戦争に限らずニュースは、
衛星を通して世界にリアル・タイムで届けられ、
インターネットのネットワークは、
マスメディアによる報道の独占をくつがえした。
ヴァーチャルな世界像が生活に侵入してくるなかで、
私たち固有の身体は、
そのよりどころをどこに探していくのか。
永井は季節感と自然の恵みに目をむける。
『時の物置』の舞台では、
茶の間に置かれた炬燵にひとびとはあたり、
冬の寒さをしのぐ。
幕切れ、でかけようとする息子は、
傘を持って行けと呼び止められる。
雪でもなく、嵐でもなく、
月並みな雨が路地にふりかかっている。
家族は子供が濡れるのではないかと気遣っている。
ささやかだけれども大切な、
生活のディテイルに永井はこだわり、
耐えがたいものになりつつある五感の喪失を
補償しようとしている。
『ら抜きの殺意』
(97年・テアトル・エコーによる上演)は、
第一回鶴屋南北賞、
『見よ、飛行機の高く飛べるを』
(97年・青年座による上演)は、
文化庁芸術祭大賞を受賞した。
外部に提供した作品でも、
ナイーヴな言語感覚に支えられた劇作が
高い評価を受けている。
一方、京都で劇団M.O.P.を率いる
マキノノゾミが取り上げるのは、
日本の近代を代表する知識人たちである。
出世作となった『MOTHER──君わらひたまふことなかれ』
(94年・青年座)は、
女流歌人、与謝野晶子を取り上げる。
そればかりではない。
『KANOKO』(97年)は小説家、歌人の岡本かの子、
『フユヒコ』(97年 青年座)は、
物理学者、随筆家の寺田寅彦を描いている。
与謝野、岡本、寺田はいずれも、明治に生まれ、
大正・昭和を生き、第二次世界大戦の終戦を待たずに
亡くなっている。その意味では、日本の敗北と、
それにともなうドラスティックな価値観の転換を見ずに、
その生を閉じた人々であった。
これらの劇作には、明治政府が推進した西欧化、
近代化が行き着いた結末としての「大日本帝国」への
批判は明確だとはいえない。
むしろ、時代の体制のなかで、
その存在が反抗のシンボルとなった芸術家の肖像を、
エピソードを中心に描き、
彼らのスタイリッシュな生き方に憧れを隠さない。
『MOTHER』に、示唆に富むせりふがある。

晶子
……私もこの世に闘うべき敵がいないとは
思わないわ。敵はいる。
大きな敵が、強大な敵が彼方にいるわ。
その正体が何なのか、私にはわからない。
けれども、その敵と闘う方法を、
そのための武器を
私たちは間違えて選んじゃいけないのよ……
ねえ須賀子さん、聞こえてる?
私はあの人にしがみつくこの手を
放してみようと思うの。
二度とつかまえられないかもしれないけれど……
でも、たとえこの身にどんな犠牲を払っても……
どんな寂しさが私に訪れても……
もう一度、私自身とあの人に取り戻させるの。
そう、断固として美しい人生を。

ここで敵とは国民を戦争に巻き込んでいこうとする
体制であり、あの人とは、晶子の夫で、
詩人・歌人の鉄幹だろう。
しかし、強大な敵の正体がつかめない。
愛する人を失う犠牲を払っても、
美しい人生を取り戻したい。こうした実感は、
物質中心主義に疲れ果てた末に、
じぶんじしんに誇りを持ち、
価値ある存在として社会から認められたいという
願いを持つ90年代の市民によっても共有されるだろう。
この巻に収録された『東京原子核クラブ』(97年)も、
原子物理学者でノーベル賞を受賞した
朝永振一郎をモデルとしている。
その周辺に描かれるのは、学者、新劇俳優、
ジャズピアニスト、ダンサー、
学問に理解のある海軍将校である。
戦時下を扱っても、権力の横暴を周到に背景に退かせて、
直接的に舞台にのぼらせることはない。
『東京原子核クラブ』で注目すべきところは、
広島長崎の原爆投下を聞いて、
「人類がついに原子核エネルギーを解放したという
その事実に、興奮せずにはおられなかった自分」を
明確にせりふにしている部分である。
そこでは、もちろん興奮した自分をかえりみて、
被爆者の人々に対して、罪深いともつけくわえている。
私たちは、湾岸戦争や阪神大震災の報道に駆り出された
軍事評論家や地震学者が、
内心の興奮を押し隠した態度で、
荘重に振る舞おうとしていたことを思い出す。
マキノノゾミは、その劇の中心に、
芸術家の女性と、科学者の男性を、
私たちが新たな生のスタイルを築き上げるとき、
指針を与えてくれる存在として選んでいる。
彼らはその仕事に生き甲斐を感じ、熱中している。
しかも、世俗には染まらずイノセントであり続ける。
無私の精神を失わない。
官僚の汚職が次々と明るみにでる現代にあって、
こうした近代の人物像は郷愁と憧れをかきたてる。
マキノの劇は、消費財としての文化人神話を
再生産しているのである。

(つづく)

1999-05-29-SAT

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