ほぼ日 |
そうして家電は機能から
「楽しみ」みたいな話に
なってくるんですよね。 |
新田 |
ええ。そうですね。 |
ほぼ日 |
楽しむためのものがバンバン出て来る。 |
新田 |
ええ。要は競争するように、
隣の家が買ったからみたいな感じで
電化製品が普及していくわけです。
で、折しも高度経済成長の時期ですし、
次何買おうかみたいな形で
物がドンドン増えていく。
そうなった時に今度は
生活に直接関係ないものに目が行くんです。
隣のうちが車があるとかテレビあるとか。 |
ほぼ日 |
3Cでしたっけ? |
新田 |
3Cの前かな? 三種の神器の時代ですね。
3Cはカー、クーラー、カラーテレビ。
その前の三種の神器っていうのは
冷蔵庫、洗濯機、テレビじゃなかったかな?
三種の神器が流行ったのは昭和30年代前半、
3Cが流行ったのは昭和の40年代前半
くらいかな?
つまり冷蔵庫、洗濯機、テレビっていうのは
今までの家事労働を減らしていく
部分があるじゃないですか。
冷蔵庫ができることによって
買い物の手間が省けますよね。
まとめ買いができるようになるから。 |
ほぼ日 |
うんうん。 |
新田 |
洗濯機に関してみると、
すごく重労働だったのが楽になった。
テレビはちょっと異色ですよね。 |
ほぼ日 |
うん。楽しむものですからね。 |
新田 |
うん、楽しむもの。それが入って来て、
昭和40年代になるとそれに増して
今までなくてもいいものが普及してくる。
車っていうのは乗り合いで使っていた、
公共のものだったんですね。 |
ほぼ日 |
個人で所有する必要は、それほど、なかった。 |
新田 |
クーラーも、ライフスタイルですよね。
カラーテレビに関しても、
まあ白黒があれば
要は足りてたわけですけど、
より楽しく、快適になものに
なっていくんですね。 |
ほぼ日 |
そうですね。贅沢品になっていく。 |
新田 |
テレビが出始めの頃っていうのは
教育メディアとしての位置づけも
あったみたいですけどね。
テレビ朝日はNETっていって、
日本エデュケーショナルテレビ。 |
ほぼ日 |
そうでした。 |
新田 |
東京12チャンネルっていう
今のテレビ東京の前身も、
教育番組専門局として
許可をもらったそうで、
昭和39年の開局当時の名前は
日本科学振興財団テレビ局という
名前でした。
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ほぼ日 |
「娯楽のために」よりも
「教育のために」のほうが、
人はお金を使いやすいんだそうですね。
例えばおもちゃでも、
何か教育的な要素をそこに足すと
親は買ってあげやすくなるっていう。 |
新田 |
ラジオなんかそうですよね。
ラジオで何とか講座をやるっていうんで
中学生の子どもにトランジスタラジオを
買うのを許した、とか。
そういうのから始まって、もっと先、
昭和40年から50年くらいになると
LL学習っていうのが仕掛けられ始めます。
早い段階では昭和38年の
マイソニックっていう
小型のオープンリールなんですけど。
これなんかはほんとに、
当時の広告なんか見ても
詰め襟の学生が出てたと思うんです。
これで英語を勉強しようみたいな。 |
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ほぼ日 |
テープレコーダーも最初は教材だった。 |
新田 |
うん。やっぱり学習教材として入って来て。
国の統計ではラジオやテレビの普及は
「教育」とか「教養娯楽」
っていう分類なんですよね。 |
ほぼ日 |
最初はそうやって家庭に滑り込んで来た。 |
新田 |
ラジカセなんかも
初めはそうだったんでしょうね。 |
ほぼ日 |
ラジオ講座を録音するためのもの。 |
新田 |
昭和41年生まれの武井さんも
その手のクチではないですか? |
ほぼ日 |
そうなんです。
中学生の頃にラジカセを買いました。
けっこうマジメに英語のテープを
聞いていましたけど
もちろんラジオのエアチェックもしましたよ。
ナショナルのラジカセだったな。
あ、これも覚えてます。
フィンガー5が宣伝してました! |
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ほぼ日 |
それからこれもうちにありました。
青いやつ! |
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新田 |
うちは赤がありましたね。 |
ほぼ日 |
これ、すばらしいデザインですね。
いまも中古で見ますよ。 |
新田 |
リバイバルされていますよね。
あ、この「クーガ」というラジオは
糸井さんがコピーコンテストで
入賞したという商品なんですよね。 |
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ほぼ日 |
そうそう!
「クーガたちよ、吠え過ぎてはいないか。」
っていうコピーで、
公募に応募して、入選したって。
もとのコピーが「吠えろ、クーガ。」
だったのに応える意味のコピーだったって。
つまり「クーガ」が「吠える」っていうのは
「売れていて、いろんな世帯にある」
ってことだから、すごくいっぱい売れたら
「吠え過ぎ」になるわけだって。
そういう意味をこめたって言ってました。
これが1973年か‥‥。 |
新田 |
で、ラジオにしてもテレビにしても
教育機材として普及したあとは
今度は形、デザインが
勝負になってくるっていうとこですよね。 |
ほぼ日 |
うんうん。 |
新田 |
で、いわゆる5球スーパーっていう
真空管を5つ使ったタイプのラジオが
流行った時期が
昭和30年代の前半にありまして。
ほぼ同時期にこういう多様性があった。
メーカーによって形を変えて。 |
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ほぼ日 |
多様だけど、フィフティーズですよね。 |
新田 |
フィフティーズです。 |
ほぼ日 |
これ以前のラジオって、
といっても、ドラマや映画でしか
知りませんが、
玉音放送を聞くみたいなのって、
タンスの上に乗っけて、
神棚みたいになってましたよね。 |
新田 |
格調高いというか、
家族全員で耳を澄まして聞くようなものから、
だんだん各部屋に一個になっていくと、
おしゃれなもの、その人の趣味で
選べるようなものっていうことで
多様化していったんですね。
で、今回の展覧会で、東京流行生活だから、
普通なものの多様性っていうのを見せるため
同じ時代で東京、もしくは東京の近くで
暮らしてた人が
どういうものを使ってたのかっていう
事例として、ラジオを並べてみたんですよ。 |
ほぼ日 |
それで全部「どこで使われていたか」が
キャプションになってるんですね。
台東区で使用。世田谷区奥沢で使用。 |
新田 |
ええ。 |
ほぼ日 |
集めましたね!
そういうふうに言われると、
ぐっと地続きに感じますね。
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