ほぼ日 |
池田屋事件の検証で
どんなことが疑問になったんですか?
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市川 |
まずいちばん最初、
突入したのは誰かっていうこと。
4人説と5人説A、5人説Bがあって。
人によって証言が違うんですよ。
まず4人説は、
永倉新八の『浪士文久報国記事』。
「それよりまかりいルハ近藤勇、
沖田総司、永倉新八、藤堂平助」
とあるんですね。
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ほぼ日 |
おお、豪華メンバー。
香取慎吾、藤原竜也、
山口智充、中村勘太郎!
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市川 |
(笑)で、5人説Aなんですけれど、
近藤勇が池田屋事件の3日後に書いた
元治元年6月8日の書簡にある記述です。
「打入候は、拙者、沖田、永倉、藤堂、
養息周平今年十五歳、右五人に御座候」
と、あるんですね。
養息の周平というのは、
この事件の直前に、
近藤勇の養子になった少年です。
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ほぼ日 |
この局面に15歳の養子を
自分と一緒とはいえ突撃班に入れる、
というのは‥‥なんだか妙な気も。
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市川 |
そうなんですよね。
だからこの記述は
「周平の名誉のために、
付け加えたのかもしれない」
という検証がされるわけですね。
で、もうひとつの資料が
永倉新八が、『浪士文久報国記事』とは
また別の本でね、
違うことを書いてるんですよ(笑)。
奥沢栄助がいたと。
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ほぼ日 |
わあ、困った。
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市川 |
これ、両方とも明治になってから
書いた本なんで、やっぱり記憶が、
曖昧になってて。
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ほぼ日 |
ううむ、あるかもしれないですね、
そういうこと。
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市川 |
ええ、ありますよね。
で、誰が最初に池田屋に
入ったかっていう記録は、
どんなに探しても、
この3つ以外にないんです。
なので今回の模型では
「突入!」っていったときに、
誰が突入したのか、
その裏付ける資料は何なんだって
いうことを、模型を見ながら
検証できるようにしました。
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ほぼ日 |
なるほど。
ひとつの答えを導くのではなく、
検証結果を模型にしたって
ことなんですね。
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市川 |
建物にしても、そもそも、
池田屋の1階と2階の床高は
どれぐらいあったのかって、
実は誰もわかってなくって。
これは模型作るときに困ったな、
階段の角度もわからないぞ、
と思ってたら、
スタッフの1人が表階段の写真をみて
その角度を測れば、
階高が出てくると気がついたんです。
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ほぼ日 |
あ〜。そっか、計算上‥‥。
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池田屋の内部 写真提供:霊山歴史館
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市川 |
そうするとね、ありえないぐらい
急な階段なんです(笑)。
ほとんど垂直に近いんですよ。
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ほぼ日 |
計算してみたらそうなっちゃった。
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市川 |
うん、やってみたらそうなっちゃった。
でもそれが「検証の結果」なので、
そのままにしました。
つまり前提となってる資料のどこかが
間違ってる可能性があるんですね。
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ほぼ日 |
昔の日本家屋の階段なら、
急なのは間違いないですけどね。
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市川 |
急なのはありえるけれど、
これはね、ほとんど垂直に近くって。
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ほぼ日 |
それは、ありえないと思います。
でもそれだったら、「階段落ち」しても
おかしくないですね(笑)。
ところで当時の浪士たちの身長って、
どのくらいあったんですか?
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市川 |
身長はわからないですね‥‥。
大男として有名なのはいるけど、
それでも六尺とかね。
つまり大男で180センチとか、
そんなぐらいですよ。
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ほぼ日 |
ほかは、小柄なはずですよね。
今、テレビドラマだと、
香取君だったり、
ぐっさんだったりするから、
大っきいイメージがあるけど。
たぶんそんなに大きくないですね。
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市川 |
身長ってね、時代によって、
伸びたり縮んだりするんですよ。
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ほぼ日 |
え?
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市川 |
今知られてる範囲なんかでは、
明治大正の日本人の身長は低いんです。
それは明治大正期の日本の食環境、
平たく言えば豊かさですよね。
過酷だったんですよ。
明治維新になって、文明開化で
日本は素晴らしくなったって、
そういうふうにイメージするんだけど、
もうぜんぜんそういうことなくて、
ものすごい過酷な労働を
みんなに強いるし、栄養も悪いし。
つまり、人口が増えちゃって
経済発展の分よりも食っちゃうんです。
だから、移民もしなきゃいけないし、
植民地も必要だし。
それに比べると、江戸時代は、
ゆったりしてるんです。ほんとに。
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ほぼ日 |
豊かだったっていうふうに
聞きますよね。
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市川 |
ある意味で豊かです。
ぜんぜん基準が違うんですけども。
だから身長も、明治が最低なんですよ。
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ほぼ日 |
江戸の方が大きい?
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市川 |
江戸の方が大きい。
でも、おそらく150センチ代、
160センチ代とか、
そんなとこだろうと思いますけど。
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ほぼ日 |
いまよりもちょっと小さな日本家屋に、
いまよりもちょっと小柄な男たちが
ふみこんでいった。
ところで、
長州や土佐などの尊攘派の志士たちが
池田屋で密会しているという情報は
近藤勇たちはどうやって得たんですか。
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市川 |
どこに池田屋があるかって、
彼らにはわからないわけです。
まず池田屋っていう名前も知らない。
どっかで会合がある。
今夜はどっかで会合をやってる。
そういう情報がはいってきます。
で、探すんですよ。
近藤隊10人と、20何人の土方隊と、
分かれて京都の町を探すんです。
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ほぼ日 |
展示に、それをつきとめるために
古高俊太郎という人を土方が拷問したと
いうことが書いてあって、
ちょっと驚きました。
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市川 |
古高俊太郎っていう人は、
枡屋喜右衛門と名乗って、
京都に潜伏していたんです。
彼が不審者だとわかって、
6月5日の朝に捕まえて拷問すると、
いろんなことを白状するんですね。
尊攘派が禁裏御所を焼き払い、
孝明天皇を奪って
山口城へ連れ去る謀反を計画しており、
そのために長州の志士たちが
四条辺りの町屋に隠れていると。
ただ、その日の会合がどこであるか、
古高も知らないんです、実は。
それで、探せっていうんで、
二手に分かれて探すんです。
そして目星をつけた怪しい旅籠が
たまたま池田屋だった。
後世、池田屋事件っていわれますけど、
池田屋が最初から
わかってたわけじゃないんです。
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ほぼ日 |
どうやって池田屋を
つきとめたんですか?
いくつか候補があったんですか?
池田屋、何屋‥‥。
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市川 |
これはなかなか難しいですね。
実際には候補があったはずです。
怪しいところを何軒か潰してるんです。
で、池田屋というのは
長州藩の定宿なので、
ここが怪しまれるのも当然ですよね。
だから、全くわかんないなかを
ローラー作戦で潰したわけではなく、
実際はある程度絞ってあったんだろうな
というふうに思うんですよね。
で、10人しかいない近藤隊が、
たまたま池田屋に行き当たった。
ビンゴだったんです。
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ほぼ日 |
ちなみに古高への土方の拷問、
苛烈きわまりないって
書いてありますけども。
逆さ吊りにして
足の甲に五寸釘を打ち立てて
そこに百目ロウソクを立てたって。
うーん、なんか、物語的ですよね?
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市川 |
吊るしたのは間違いないんですけどね、
これは新選組特有の、
土方伝説のひとつだと
私は思ってますけど(笑)。
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ほぼ日 |
美学が入ってますよね、
この拷問の表現が。
後世つけられた物語かも
しれないわけですね。
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市川 |
僕らは誰が拷問したかとか、
どういう拷問したかとかいうのは、
むしろどうでもいいことなんですよ。
そういう伝説を作りたい人がいても、
それはそれでいいと思っています。
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