ほぼ日 |
土方歳三が厳しかったっていうのは、
ほんとっぽいですか? |
市川 |
実は、土方の人となりが、
よくわからないんです。
この展覧会を準備していて、
本物の資料を読み込んでいくと、
いちばん人となりがよくわかるのは、
近藤勇です。近藤はいっぱい
文字を書きますから。
彼の手紙やら何やら読んでると、
近藤はこういう人っていうのが
わかるんだけど。
土方はわからないです。 |
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土方歳三肖像写真パネル
(佐藤家蔵/写真提供=
日野市ふるさと博物館) |
近藤勇肖像写真パネル
(佐藤家蔵/写真提供=
日野市ふるさと博物館) |
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ほぼ日 |
土方は女の人がすごく好きだって
いうことはわかりますよね(笑)。 |
市川 |
それはわかったんです。
いい男で、確かにもてたんだろうし。
それはよくわかるんだけど、
人となりはよくわからない。
ただ、おそらく、
組織論のあり方からすると、
近藤は上に立つ人で、正論をぶって
鷹揚に構えてれば良くって、
それを組織した人には、
かなり厳しく締め上げる人がいないと。
やっぱり組織としては、
回ってかないとこがあって。
そういう普遍的なあり方から考えると、
そうやって伝説から言われてるような
側面っていうのはあったんだろうな、
というのは信じられるとこですよね。
司馬遼太郎さんがどうしてあそこまで
土方が好きなのかっていうのは、
僕は実は自分なりに理解できてない
ところがあるんですけれど。 |
ほぼ日 |
「ほぼ日」のスタッフで
「新選組なら誰が好き?」なんて話を
するんですけれど、
「それより坂本龍馬がいいなあ」
なんて話になったりするんですよ。 |
市川 |
それはわかりますよ。
龍馬だったら龍馬で、
やっぱり世界観がありますから。
日本の国はこうせにゃあかん、
みたいなところがあって。
それが新選組は
あんまり感じられないですからね。
なんていうか、悲劇なんですよね。
一種の悲劇なんですよね。
ドラマにしても、
この仲のいいグループが、
やがては殺し合うことになり、
最後は近藤自身も斬首となる。
それを我々はわかっていながら
見ているわけです。
ですから高杉晋作も西郷隆盛も
大久保利通も魅力的だし‥‥。 |
近藤勇晒し首の瓦版 小島史料館蔵
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ほぼ日 |
新選組は悲劇として
見るしかないのかな。
この若者たち──新選組の人たちは、
逆の立場だったかもしれない、
出会った人が尊攘派で、
先にそこに傾倒してたら‥‥。 |
市川 |
ほんとそうですよ。
近藤自身も、
ある種のイデオローグとしては
成熟してないんですよ。
つまり、みんなを惹きつける議論を、
自分の中でたぶん作れてなくて。
で、けっこうばらばらとしてて。
ただ大きくは固まってたんでしょうね。
おそらくいろんな歴史の事件ごとに、
思想の確からしさとか考え方とか、
やっぱり問われるわけですよね。
その中でだんだんだんだんと方向が、
明らかになっていったんじゃないかなと
思うんですけどね。 |
ほぼ日 |
有り余るエネルギーはあって、
それが新選組に結実したのかなとも。 |
市川 |
歴史の舞台で活躍したいって思う若者が
実際にほんとうに歴史の舞台に
出れるかというと、
ほんのわずかしかいないんだけど、
彼らは希有な存在ですよね。
運と実行力とっていうことだと
思うんですけどね。 |
ほぼ日 |
あと、たまたま時代の流れで。 |
市川 |
でも、時代は等しくあったわけだから。
全ての人が出れたわけじゃなくて、
彼らは出れたんですよ。
運といえば運だと思うんですけど、
ただ、ほんとに、真摯であった。
そういうところに若者らしさが
見えますよね、ほんとに。 |
ほぼ日 |
年齢、かなり若いんですよね。 |
市川 |
20代後半から、30代前半ですね。 |
ほぼ日 |
なんかよく言われますけど、
そのぐらいの歳の人たちが
日本を変えていたわけですね。
新選組の末路は、
生き延びた島田魁(しまださきがけ)や
永倉新八の日記に詳しく
出てくるわけですよね。 |
市川 |
ええ。 |
島田魁日記(八月十八日の政変) 霊山歴史館蔵
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ほぼ日 |
長生きした彼らと、
さらし首になった近藤勇とは、
どこが違ったんでしょう。
その分かれ目っていうのは
何なんでしょうね‥‥。
永倉新八と近藤勇は
途中で仲たがいをしてますよね。
物の本によると、逃げてる最中に、
永倉新八と原田左之助が
自分の家来になるんだったら、
一緒にいてもいいみたいなことを
近藤勇が言う。
ふたりは、家来とはなんだ、
みたいな感じで
別れ別れになってしまった‥‥。
同じ志でいたはずのチームが。 |
市川 |
あれね、不思議な話ですよね。
これは運ですよね。 |
ほぼ日 |
永倉新八や島田魁は
かなりの強運の人なのかもと
思いました。 |
市川 |
かなりの強運だと思いますよ。 |
ほぼ日 |
永倉新八なんて明治を生き抜いて
大正に亡くなっていますものね。 |
市川 |
しかもね、大事なときにちゃんと
本命のところに居続けて居続けて、
修羅場、修羅場に全部参加してて、
最後まで生き残ったんですよ。
すごいですよ。
だから、僕も、永倉新八っていうのは
すごく思い入れがあって。
今回の担当をするにあたり、
最初に面白いなって思ったのが、
永倉新八着用の、陣羽織でした。
京都の大丸で仕立てたって
書いてあって、
それがまた面白いんですけど。 |
永倉新八着用陣羽織 北海道開拓記念館蔵
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ほぼ日 |
和歌が書いてありますね。 |
市川 |
文久3年の2月に江戸を発つときに、
万感の思いだったのでしょうね、
これからやるぞ、みたいな和歌です。
「武士乃節を尽くして
厭まても貫く竹の
心そ一筋」
「節を尽くす」というのは
当時の武士にとって、
とっても大事なことなんです。
こういう歌を詠んでること。
そして、これを着ながら、
ああ、鳥羽伏見を戦ったんだなぁ、
淀城のとこで戦ったんだなぁ、
八幡堤で戦ったんだなぁ、
戦って戦って戦って、
その永倉とともにこの陣羽織が
あったんだなぁ‥‥と思うと。
人が死んでも、こういうのが残り、
こうして今に伝えられている。
そんなふうに思ったんです。
展示が始まった今も、
やっぱりマイ・フェイバリットは
これなんです。
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