── |
往来物と呼ばれる教科書ですが、
どんなものを読んでたんですか。
今でいう、名作文学であるとか? |
石山 |
往来物っていうのは、
今で言うと教科書ですから、
隠れベストセラーなんですよ。
だから出版業者もこれを狙って、
戯作者とタイアップして往来物を出せば、
もっと売れんじゃないかと考えまして。
十辺舎一九とか曲亭馬琴とか式亭三馬とか、
有名な江戸の人気戯作者と
タイアップして出す。
馬琴の日記によると、
実際に出版社が来て、
書いてくれと言われたとき、
一回断るんです。三両というのを断って、
五両まで値段をあげて。
で、書いたら書いたでね、
本人やる気出てきちゃって、
何度もこんな字じゃだめだ! とか、
1年間くらいずーっとかかりっきり。
もちろん、自分の『南総里見八犬伝』と
並行しながらね、やってますけど。 |
▲楠三代往来 十返舎一九著 文政7年 小泉吉永氏蔵 |
市川 |
それから『実語教・童子教』『庭訓往来』
みたいなものは、みんなが読む、
それこそ古典じゃないでしょうか。
みんなこれは必ず暗唱しちゃう、
っていったような
性質のものだと思いますよね。 |
▲絵本庭訓往来 |
市川 |
それから法令も使われましたね。
使いなさいって、奨励するんですよね。
そして、熟語集みたいな語彙集。
それから、消息。
これは手紙のマナーブックみたいなものです。
それから、地理。歴史。
そして商売往来ですね。 |
── |
これさえやっとけば、
江戸で生きていくには大丈夫そうですね。 |
石山 |
よく、川柳で詠まれてる歌にあります。
「名頭(ながしら)と江戸方角と村の名と
商売往来これでたくさん」。
名前の頭、つまり苗字ですね、
名前の字を熟語集にして
出した本があるんですよ。それが名頭。
江戸方角っていうのは、江戸の地名ですね。
村の名っていうのは、
“村の名づくし”って言って、
近隣の村の名前を、読み書きできた方が
当然いいということなんです。
そして商売往来。これだけで充分だと。
江戸に住んでる子だったら、
あるいは江戸の近隣に住んでる子だったら、
まあ、これくらいで生きていけますよと。 |
── |
そうすると、寺子屋に行ってる子供たちって、
知ってることがだいたい、
共通してるってことになるんですよね。 |
石山 |
3年くらい学べば、ある程度はね。 |
── |
後々大人になって、
川柳とか詠んだりする時に、
共通の知識があると
すごく便利でしょうね。 |
石山 |
ええ、一定の教養が、こういったもので、
形成されたと思いますよ。
ただ、今回の展示でも出してますけど、
高度な教養を積む人もいれば、
「これでたくさん」という人もいて、
ばらばらなんですよ。 |
── |
じゃ、ものすごい頭のいい子供が
出ちゃった場合ってどうしてたんですかね。
「もう、超天才! こいつ!」
みたいなのがいた場合は‥‥?
‥‥あ、功利主義ではないわけだから、
だから上を目指すということは
なかったのか‥‥。 |
市川 |
そうですね。
どんなにできようが、できまいが、
親の仕事を継ぐことに変わりはないわけです。
ただ、ほんとの鬼才っていうか才人は、
枠に収まらずに飛び出しちゃう人も
いることは、いましたね。 |
── |
以前お話をきいたなかでは、
円山応挙もそうでしたものね。
奉公先のご主人が才能をみつけてくれて
狩野派に弟子入りさせてくれたところから
才能が花開いて‥‥。 |
市川 |
つい最近までだって、
そうだったんじゃないかと思いますよ。
東大くらい行ける人だって、
家業を継いだということはざらにあった。 |
── |
そういえばうちの実家の近所の
たこ焼き屋さんは、
一橋大学の出だというので評判でした。
ところで、男の子と女の子は
学習内容が別だったんですか? |
石山 |
女子用の教科書というのがあって、
それは基本的にはかな文字なんです。
やっぱり女性の使う文字は、
基本的にはかななんですね。 |
── |
男はかな文字を書かなかった? |
石山 |
漢字かな交じり文ですね。
この資料を見てください。
これ一部漢字を使ってますけど、
ほとんどひらがなです。
絵半切(えはんぎり)といって、
手紙用の半切紙に、
花鳥などの絵がすられたものです。
これを買ってきて、上から字を書きます。
手習いの上達を披露するという
目的もあったんでしょうね。
この絵半切、ふたつ並べて見ると、
なかなか面白いんです。
この「いろはにほへと」と「初春の」って
明らかに腕が違うんですよね。
腕が違うとね、やっぱり使ってる絵半切も、
全然レベルが違うんですよ。 |
▲▼絵半切 小泉吉永氏蔵
|
── |
「いろはにほへと」を書いた人は、
あまり自信がなかったんだ!
だからちょっと、こう「へたうま」みたいな
それなりの絵半切を、
「私これでいいわ」なんて買ってきて(笑)。 |
市川 |
逆に上手い人は、いい絵半切を使って、
絶対失敗できない緊張感の中で
書かなきゃいけないわけですね。
やっぱり集中力とかね、
こうやって磨かれるのかなって
思いながら見たんです(笑)。 |
── |
いや、ほんとそうですよね。
本番だと思ってやるってことが
すごく大事なんですね。
ところで、
この蛇腹になってる折り本ていうのは、
先生を驚かすためにも
使われたんですね(笑)! |
市川 |
(笑)。 |
▲寺子屋遊び 歌川広重画 天保年間後期 公文教育研究会蔵
▲師匠を驚かす子ども「莟花江戸子数語録」(部分)
歌川国芳画 安政4年 公文教育研究会蔵 |
── |
広重も描いてますし国芳も描いてますね。
先生を尊敬してるわりには、
こう、仲がいいですよね。 |
市川 |
そうなんですよね。 |
── |
ものすごいこわい存在っていうよりは、
楽しかったっていう風にしか見えない。
先生も人間的だし。
不良少年もいたんですね。 |
市川 |
「不行跡の文吉くん」。
石山の研究なんですけど、
歴史学の人も、学校の先生たちも、
おもしろがってくださる展示なんです。
「昔からいたんだな、こういう奴が」って。 |
石山 |
大野雅山の門人に、数えで10歳の
「文吉」っていう子どもがいたんです。
その子が、どんなに問題児だったかを
雅山が文久3年の日記に残しているんです。 |
【門人文吉の不行跡(抄訳)】
三月十八日
小刀を持って庭裏あたりに植え置きし
木を切り歩き、これを取り留め候えば、
悪口を吐き、或は朋友の持ち物を切り、
机の下に昼寝致し、机を重ね上に座り、
少しも従わず、甚だ以て困り入り候
三月二十日
良助を水取桶に突転し、
双紙に男根などを書き乱し
四月三日
この日も一字習わず読まず、
ただ机・文庫の上駆け歩き、
稽古場中を騒がし、
とめれば悪口を吐く
四月二十日
我机前に来り、尻をまくり、
寝て居り大の字になり、実に類なし、
師匠とも何とも思わず、唯ふざけ次第、
実に難渋至極、これ師匠の不運也
四月二十七日
稽古所にてちんぼを出し、子供に見物をさせ、
これを止むどれども少しも聞き入れず、
実にこの様子の子供百人に壱人もなし
五月二日
千人に壱人もなし
|
|
── |
ひどい‥‥! |
市川 |
こんなんだったら、
破門とかクビとかにすればと
今の人なら思うところですが、
でも、寺子屋には来るんです。
ひきこもりにもならないし、
登校拒否にもならないん。 |
── |
親を責めるわけでもないんですね。 |
石山 |
この記録見る限りはないですね。 |
── |
先生も何のつもりで書いてたんでしょうね。
例えば、今だったら、
後で文句言うために書いとこうとか、
色々あるじゃないですか。功利主義的には。 |
石山 |
一応、大野雅山は
自分が悪いんじゃないんだということを、
一番冒頭に書いてますね。
でも、この日記のおかげで、
何がどうしたってこともない。 |
市川 |
なんとなくイメージですけどね、
「怒らずに、背中で語る」というタイプの
先生っていませんでしたか?
掃除をやらない生徒の前で、
あえて、自分でもくもくと
掃除をしている先生とか。
そういう後ろ姿を見せる教育効果、
寺子屋ってそういうタイプの教育だったと思う。
悪いことしても体罰するわけじゃない。
日本では体罰の文化が前々発達しないんですよ。
ルソー以前のヨーロッパとは全然違っていて、
ヨーロッパの伝統社会では、
体罰に積極的なんですよ。
子どもには、知識もしつけも、
注入しなきゃいけないという、
調教型の教育なんですよ。 |
── |
悪いことしたら、痛い目にあうと。 |
市川 |
ええ。子供ってのは、
そうしないとちゃんとした
まともな人間にならないと。
これは、ある種説得力持ってるんですよ。
でも、そういう教育観を
日本は持ってなかったんです。
悪いことしたらピシピシやるとか、
覚えなさいってピシピシやるとかって
いうんじゃなくて、いいことを見せながら、
ずっと待つんです。
「待ち」の教育のような気がしますね。
線香を持って正座してなさいという
寺子屋の罰にしても、
あの線香は、熱いって意味ではなく、
時間測るだけなんですよ。 |
▲「諸国稽古図会」(部分)歌川広重画 天保頃 公文教育研究会蔵 |
── |
線香1本分ガマンしなさいっていう? |
市川 |
あとは、留め置き、つまり居残りで
先生に説教されるとか。
それが寺子屋の一番重い罰なんですよ。 |
── |
破門! ということは
ぜったいにないんですか。 |
市川 |
破門! となる場合もあります。 |
── |
あるんですか?!?! |
市川 |
けど、謝り役というのがいるんですよ。 |
── |
謝り役? |
市川 |
「おまえは破門だ!出てけ!二度と来るな!」
とか言って、机を縛り付けられて
追い返されるわけですよ。
それで、泣きながらえーんって
帰る絵があるんですけど、
そうすると近所のね、何と言うか、
お年寄りか何かが、もう一度連れて来て、
「すいませんでした」って謝るんです。 |
── |
親じゃなくていいんだ。 |
市川 |
親じゃなくてもいいんですよ。 |
── |
共同体だから。 |
市川 |
子供である場合もあるんですよ。子供。 |
── |
子供が子供を? |
市川 |
同じ寺子屋の子供がね、
「すいませんでした」って
謝りに来たりするんですよ。
そうするとね、
今回は許してやるって話になるんですよ。
それ、出来レースで、
最初から破門するつもりなんかないんです。
「おまえは破門だ!馬鹿者!」とか言っといて、
で、来るのを待ってるわけですよ。 |
── |
ああー。 |
市川 |
もうそれが前提となった破門なんです。 |
── |
落語みたい(笑)! |
市川 |
だから、破門って、
かなり例外的だったと思います。 |
── |
さきほど「破門!」のときに
机を縛り付けて帰されるということでしたが
‥‥机は私物だったんですか? |
市川 |
そうです、そうです。
入学する時に持って来るんです。
親が机持って、子どもの手をひいて
来るんですよ。で、裕福な商家だと、
奉公人がね、ついてきて。
お酒とかそういうのいっぱい持って。 |
── |
先生にさしあげるんですね。 |
市川 |
ええ。それが定番の図なんですよ。 |
── |
お入学っていうのは、
時期が決まってたんですか。 |
市川 |
時期はね、決まっていたということでは
ないんですが、だいたいは、初午です。
2月くらい。それから、なぜか、
6月くらいとかも多いんですけど。 |
── |
卒業とかも、とくに決まっていない?
自然にいなくなった感じがするんですけど。 |
市川 |
そうだと思います。
時期もばらばら。だって、
個人で進路も違うし事情も違うし。 |
── |
その時は、あれですかね、また親が来て、
「お世話になりました」みたいな
儀式的なことはあったんですかね。 |
市川 |
記録は見たことないですけど、
個別にはあったと思った方が
自然だと思いますけどね。 |
石山 |
とくに卒業時にではないですが、
先生に「お世話になりました」というのは、
農村ですと村の祭りで、
ちょっと用事があった時には、
筆子が師匠に、蒸篭を贈るっていうような
記述がありますね。 |
市川 |
結婚式に呼んだりとか江戸に奉公行く時には
挨拶行くとか、帰ってから挨拶行くとか、
そういう関係が続くんですよ。
良くも悪くも、人間関係の濃密な社会が
基本なんです。
今もね、師弟関係ってあるじゃないですか。
卒業生が遊びに来たりとか、
先生って‥‥場合によっちゃ、
一生続く場合もありますよね。
でも、今と昔はどう違うかって言うと、
今はね、例えば担任と
クラスの生徒っていう関係って、
これ、師弟関係っていうよりも、
制度的な職制関係なんですよ。
純粋に私的な人格関係と、
職制的な師弟関係と、
それが二重化してるんですよね。
でも、それに対して、
江戸時代は一本しかないんですよ。
私的な師弟関係しかないんですよ。
しかも強烈で、絶対変えることができない。
とくに田舎だったら。
「二君にまみえず」っていう
武士の倫理とまったく同じですよね。
生涯続くんです。
だから先生も生徒も曲がったことができない。
やっぱり、今はまったく、
先生が悪さしちゃう世界ですからね‥‥。 |
── |
ちょっとそろばんのところを、
もう一度戻って聞いてみたいんですけど、
読み書きそろばんと言っても、
読み書きが多くて、
そろばんはそうでもなかった、
ということなのですが‥‥。 |
市川 |
そろばんてね、やっぱりひとつは
「難しい」ってのがあると思うんですけど、
よく「そろばん勘定」って言いますよね。
計算で動くとかね、損得を計算して
動くとかって、武士にとっては、
あるまじき行為だったんですね。
社会の質として。 |
── |
恥ずべき行為。 |
市川 |
恥ずべき行為なんです。
このへぼい殿様に仕えてたら自分は駄目だ、
と思っても、江戸時代の武士は、
運命を共にしなきゃいけないんですよ。
中世の武士はもっとドライですよ。
中世の武士はね、こんなへぼい奴はやめて、
次行ってみよう、みたいな感じで、
動いてくんです。
でも江戸時代は、
すごく平和な時代が続いちゃったから、
観念的なものがすごく大きくなって、
この人のために一生仕え、
一緒に死ななきゃいかんみたいな、
そういう教育を受けるわけですよ。
すごい理想主義すぎちゃって、
まったく現実感がない。
そして「計算をする」っていうのは、
封建的な社会では
非常にあってはならんことみたいに、
肥大化するんですね。 |
── |
その考え方がベースにあるんですね。 |
市川 |
武士たちは、
社会をよくするためにはもちろん動きますよ。
水路を作るとか、普請をするとかだったら、
ものすごい計算をするわけですよ。
三角関数もやりますし、
立方根とか平方根とか当然やりますし。
けれどもそういう人たちって、
低い位置に置かれちゃうんですよね。
そういう人たちの不満っていうのは、
ものすごくあるわけです。 |
── |
技術としての算術だったってことですか。 |
市川 |
うん。で、しかも金儲けとか、
そういうのに密接に関係してるから
余計低く見られちゃう。
‥‥一般社会でもちょっと
似たようなところは、やっぱりありますよね。 |
── |
江戸の町人でもそうですか! |
市川 |
そういうところはありますよ。
ただし、町人はやっぱり生活の中に
密着していますから。
商人はそろばんできないと
困っちゃいますからね。
商人の子どもはそろばんを当然やります。 |
── |
それは、寺子屋でやるんですか。 |
市川 |
寺子屋でやる場合もありますし、
塾ももちろんあります。 |
── |
あ、「和算塾」みたいな塾も
寺子屋とは別にあったんですか。 |
市川 |
もちろん、一緒に教えてくれるところも
ありますよ。
手習みたいなものは寺子屋行って、
そろばんはそういうところに行って。 |
── |
じゃあ、男の子も、
女の子より暇だったっていうけれど、
中にはそろばん塾にも和算塾にも
行ってたような忙しい子もいたんですね。 |
市川 |
いた可能性はもちろんあります。
商人でしたら、必須ですよね。
ただし、みんながみんなって
いうわけではないですよ。
だって、どんぶり勘定とかで充分な、
その日暮らしの家計だったら、
足し算引き算ができればいいわけですよ。
立方根、平方根、必要ないですから。 |
── |
江戸の、町人て実はわりと豊かというか、
そんなに働かなくても大丈夫だったと
聞いた事がありますが。 |
市川 |
ええ。江戸の町人って、
「その日暮らし」が全然できちゃうんですよ。
つまり、朝例えば、極端な話、
一文もなくても、朝いくらかお金を借りて。 |
── |
えっ、誰に借りるんですか? |
市川 |
いるんですよ。金貸しが。
いっぱいいるんです。 |
── |
高利貸しなんですか。 |
市川 |
高利貸しなんですよ。
朝数百文かりて仕入れをして
夕方100文あたり3文の
利息を払っても全然平気なんですね。
実は日利3%って猛烈な高利貸しなんですけど
金額が少ないと割高感がないんですね。 |
── |
返せちゃう?
つまり、借りたお金を元手に‥‥ |
市川 |
なんか売る物買って来て、売り回ってって。 |
── |
その日に働き、日銭を稼いで、
借金帰して、残ったお金で、
お風呂行ってあいよっつってご飯食べて
お酒飲んで寝ちゃう? |
市川 |
‥‥というのが江戸はできちゃうんですよね。
他の都市がどれくらいできたかっていうのは、
それはかなり疑問ですけど、江戸は豊かなんで。
武家の消費支出も多いし、人口も多いんで、
できちゃうんですね。 |
── |
聞けば聞くほど、江戸の人たちが
生活も教養もゆたかななかで
暮らしていたんだなあというのが
わかりますね。
寺子屋で基本教養みたいなものを
8割がたの人が身につけていった、
っていうことが、江戸の文化に
すごく大きく影響してたんですね。 |