アーカイブ 2002/11/07
 
第8回 何かやらなきゃ、おさまらない
糸井 藤田さんは、ご自分でも、
「ワルだった」とおっしゃっていますし、
まわりの選手たちも、そのことを
かなりよく知っていますが、一般的には
あまり知られていないエピソードですよね。
藤田 やっぱりもう、ずいぶん昔の話ですから。
糸井 ほんとうに、悪かったんですか?
藤田 けっこう、悪かったですね、そう言えば。
糸井 暴れんぼう系?
藤田 暴れんぼうだったですね。

ですから、極端な時には、
学校の行きかえりでは必ず待ちぶせされて、
集団で上級生に襲われたり、
校舎の下を歩いていると、2階から、
ぼくをめがけて机が降ってきていました。
糸井 (笑)あはははは。
藤田 おたがいに、
また仕返しをするものですからね。
やられたら、やったヤツを、
ひとりずつ覚えておきますし。

学校の帰り道には
松林がいっぱいあるものですから、
上級生が、その中に忍んでいて、
帰ってくるヤツらをひとりずつ見ていて、
ぼくを探しだすという‥‥。

毎日がそのくりかえしですから、
まぁ、学校へはあまり行きたくないですよね。
糸井 (笑)必ず誰かに待たれている‥‥。
藤田 でも、不登校にはならなかったですね。
糸井 そういう嵐の中を行くタイプだった?
藤田 嵐の中を、やっぱり行きました。
行くものだと決めていましたからね、その当時は。
糸井 「背の高い子」だったわけですか。
体格のいいタイプ?
藤田 大きいほうでした。
やっぱり目立ったんですね。
糸井 もっと小さいときというのは、
ふつうの子だったんですか。
藤田 どちらかというと、小さい時から
背が大きい部類に入っていましたね。
ばかでかくはないけれども、大きいという。
糸井 やっぱり、やんちゃだったんですか。
藤田 やんちゃは、中学生ぐらいからです。
小学校の時は、どちらかというと
いじめられっ子みたいな感じでした。
もっと強いのが、他にいましたから。
糸井 そこでのチェンジのきっかけは、
何だったのですか?
藤田 やっぱり戦時中から終戦にかけて、
予科練帰りの人が学校にきてからかなぁ。
大きな長い棒を持って、
校庭でケンカしていたりなんかするのを、
見ているうちに、だんだんと‥‥。
糸井 漁師町の話みたいですね。
藤田 実際、漁師町としての色が濃かったです。
今でも祭のときは相当ケンカが起きます。
糸井 高校時代の、暴れ放題のころも、
まわりは見捨てたりはしなかったんですか?
藤田 いや、手に負えなかったでしょうね。
糸井 親は?
藤田 親はよく、面倒を見てくれました。
よく学校へあやまりに行ってくれました。
‥‥これが、いちばんツラかったですね。

親を呼び出されるわけで、
「『親と一緒に来い』と言われた」
こちらとしては言いにくいことを
言ったら、ちゃんと行ってくれるわけです。

それで、先生に叱られて
一緒にトボトボ帰るわけです。
それが、いちばんイヤだったですね。
糸井 先生に反抗することはなかったんですか?
藤田 いえ、だいたいぼくは、
学校へ行くと職員室に呼ばれて、終わるまで
職員室の机の下に座っているのが日課でしたから。
糸井 (笑)
藤田 職員室の中を、ひとまわり
ひっぱたかれながら
グルッと、まわったことがありますね。
ですけど、その時はその時で、
先生の言うことをきいているんですね。

「この野郎!」と思って反発したのは
1回しかない。すずりをガシャッとね。
糸井 先生を、すずりで殴った?
藤田 ええ。
あまり叩かれて、麻痺しちゃってね。
そのへんにあるもので、手に触れたものを
そのまま顔にガシャッとぶつけた。
それだけが、唯一の反発だったです。

あとは素直にハイハイといいながら
悪いことをしていた。
だから、先生からしたら、
手に負えないように、見えたでしょう。
糸井 やはり戦後の混乱がそのまま色濃く‥‥。
藤田 そうですね。

ほんとにその時は、
「何かやらなきゃ、おさまらない!」
みたいなエネルギーで一杯でしたからね。

でも、いま思えば、いい時代だったです。
何をやっても、
学校を放り出されるようなこともないし。
あわや放校なんていう時もありましたけど、
でも、ちゃんと置いてくれましたからね。
糸井 そのころ、野球をやっていましたか?
藤田 野球をやるのは、もっと後からですね。
終戦になってから、
「何かやろうか」っていうのがきっかけです。
 
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