80's
ミーちゃんの縁側。
「80代からのインターネット入門」のその後。

ミーちゃんの縁側で、旅行の話なんかを聞く。

4.お正月にギリシャに行ったいろいろ(下)。

ギリシャは、初めてで話では聞いていたので憧れていた。
最初にパルテノン神殿を遠くから見た時、
あんなに古い物を今、此の目で見た事に感動した。
明るい空に輝くように立っている!!!
未だ海外旅行も初めのうちだったので
遠くから神殿のような物を見ていなかったので。
その後オリンピック発祥の地である「競技場」で、
オリンピックの開催した地名が
第1回から石に刻まれているのを見たりした。 
 
3日目頃「エーゲ海クルーズ」で
2・3の島に降りてみたりした。
小さな島なので「船付き場」らしく無いところに止まる。
降りた所には「猫」が、あちこちにいた。
お魚の船など着くのでかしら?
その辺で寝ていたり、
のそりのそりと、だるそうに歩いていた。
私は「海なし県育ち」なので初めて、こんな風景を見た。
船を下りて見学するような所もなく
自由解散で「おみやげ屋」を覗いて歩いた。
私は一人で好きな店で何か見つけて歩いていた。
その内、太い毛糸で織った布で作った
暖かそうなジャンパーが気に入り、それを買った。
支払にお釣りのことで手間取り、やっと海岸へ出た。
すると乗ってきた船が、ポーポーと、
盛んに汽笛を鳴らしている。
その辺を見回しても誰も居ない。
このまま置いて行かれそうな気になり
慌てて走り、船に着いた。
みんなで「待っていたのよ」と、ほっとしていた。
私のために「汽笛」を鳴らして待っていて貰ったのだ。
その瞬間、申し訳無かったと同時に
恥ずかしくて汗が、どっと出た。
又も、やっちゃったか。一人では駄目だなーー。
と、この時考えた。
「我が道を行く」の、ミーちゃんなのでした。
これでは「団体旅行」は駄目なのだ。

アテネで観光して、いよいよ帰国の日が来た。
全員決められていた時間にロビーへ集まった。
そのうち添乗員さんが慌てているように見えてきた。
何かしら?とみんなが、不安な顔になってきた。
遂に添乗員さんが困った顔をして
「今、連絡があり、
 ストックホルムから、こちらに廻るはずの飛行機が、
 何らかのトラブルが出来て来られなくなったので
 会社と連絡して他の飛行機を探すので待ってください」
と説明した。
年末の29日から1月4日の旅行で
4日が確か日曜日なので
お勤めの人は5日に出勤すれば良かったような気がする。
うろ覚えだが。
夕方になっても飛行機が決まらないので、
遂にこのホテルに又一泊することになったが、
そんなことでは仕事の関係で1日も延ばせないと
男の人が抗議した。
兎に角バンコックまで行けば
各地へのル-トが沢山あるからと
明日の朝そうすることに、やっと決まった。

その夜は空いている部屋に組み合わせも変わり
泊まることにした。
1月初めなのに「部屋の暖房」が付かないので
電話で添乗員さんに「なんとかならないか」と言ったら
「今夜一晩我慢できませんか?」との返事。
未だ近くでは雪がある寒さで
「そんなわけにゆかない」と言ったら
ホテルの人をよこした。
丁寧に中へ入り、ずーっと窓際まで行き
長いカーテンを、少しずらしてみた。
ガラス戸の端が少し開いていたのをピシャッと閉めたら、
ごぉーとスチ-ムがかかった。   
此処で一つ利口になった
お掃除の人が、完全にガラス戸を閉めて無く
「密閉」されていないので
スイッチが入らなかったのだった。
無駄がない仕組みに驚いた。           
                  
翌日バンコックまで飛んだ。
成田行きのキップが15枚くらいだけとれたので
「くじびき」になり私は負けた。
当たった人はその日の中にバンコックを飛び立った。
他の人は次に切符が買えるまで
ホテルで仮眠して待つことになり
空き部屋に一人、二人と分けられて
着たままベッドへよこになって待っていた。
やっと翌日の飛行機の切符がとれて残り組も帰れた。
その頃はスーツケース等自分で持って帰ったので
乗り換えの時、階段は一段毎におろして運んだ。
見かねて後ろから来た男性が
上まで一気に持っていってくれた。
有り難くてもお礼も言う間がなかった。

上野から一番直ぐ出る汽車にして
『前橋』は諦めて「上越線」で「渋川」で降りて
ハイヤ-をとばし
家にも寄らず勤めている会社へ直行した。
未だ1月5日の9時頃だった。
3日まではお正月休み、4日が日曜日なので
5日から出勤と、なっていたので。
飛行機事故でもなく帰れたので
これも「運が良かった」と       
思うより仕方がないのか。

(つづくわよ) 

2001-06-17-SUN

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