YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson97  一期一芸

「手首を切る女のところへ、男は決して戻らない。」

のっけから、ぶっそうな話で申しわけない。
でも、たしか北野武さんの本で、
そんな内容を読んだおぼえがある。

一時的に、女のところへもどっても、
それは、恐怖と義務感が男をしばりつけているからで、
そんなのおっかなくって、
心が縮み上がってしまう、
自由がないところは、
結局、男は逃げ出したくなってしまう。

すねたり、ひねたり、心配させて、
人の気をひくやり方に、
出口はないということか。

人の心は、
いい匂いのする面白そうな方へ、自然に向く。

だから、人の気持ちをこっちへ向けたいなら、
自分や、自分のまわりに、
ちいさくても何かたのしい雰囲気をつくって、
香らせるしかない。

ほ、ほ、ほたる、来い。
こっちの水は、たのしーぞ。
こっちの水は、おもろいよ。
ほ、ほ、……。

すると蛍は、きれいな灯をともし、
むこうから、集まってくる。

人は、たのしげで、面白そうな雰囲気に集まり、
反対に、面倒な、陰気な雰囲気から、逃げ出す。

いくら、気が許せるからといって、
友人に、いつも愚痴ばかり聞いてもらうのでは、
相手も逃げたくなるだろう。

ふだんから、自分のまわりに、いかに
面白そうな雰囲気をつくっておくか?
それも、かっこつけたり、
自分にうそをついたりせずに。

理屈では、
毎日、面白いことをして、
ほんとに楽しく面白く暮らしていれば、
話題や、情報発信にはこと欠かない。

だけど、これ、なかなか難しい。

日々、刺激に満ちた面白い生活をし続ける人は、
いる、と思うけど、現実には少ない。
それに一生、常に右肩あがりの人もいない。

多くの人が、平凡な日常を生き、
輝くような面白いことが、少し、あって、
また、単調な日々を生きていく。

トータルで見たら、何にもなかったり、
つらかったり、しがらんだり、大変だったり、
ということのほうが多いのかもしれない。

だから、等身大に、正直にコミュニケーションすると、
常に、面白そうにしているわけにもいかないのだ。

では、つらいときは、どうしたらいいんだろう?

暗いときは、じっとだれにも会わず、情報発信もせず、
ひとりでがまんするべきなのか?
それとも、強がって、
いつも楽しそうなふりをしているのか?

そういうとき「変換装置」があればなあ、と思う。

つらいことを、つらいまま、ただつらく話しても、
自分も、まわりも、まっくらになる。
でも、暗い話も、面白く、
なんらかの変換装置をくぐらせて、
表現することができれば、
変な言い方だけど、明るいときも、暗いときも、
面白い話題にこと欠かない。

実は、脚本塾で出会った友人たちが、
この変換が本当にうまいので、驚いている。

最初は、ただ、わけがわからず、
なんで、こんな話が面白い人が集まったんだろう?
と思った。そのうち、これは偶然じゃなく、
明らかに努力の結果なのだとわかった。

彼女たちの全員が、
書くことに、ひとかどならない情熱を持っていて、
若いうちからずっと書き続けてきた人だった。
ずっと言葉と葛藤しつづけ、
表現を磨いて来た底力がある。

だから、話をしても、
イメージを言葉で再現するのがうまかったり、
構成がしっかりしていたり、
聞く側から見て、必要な注釈をいれてくれたりする。

でも、いちばん大きいのは、
自分が何を表現したいか、
ちゃんとわかっているということだ。

たとえば、ひとつの体験を話しても、
その体験でなにを表現したいか、という、
「ピント」が定まっている。
ときには、暗い話もしたり、
自分のカッコわるい姿もさらけだしたりもするけれど、
彼女たちは、このピントを手放すことはない。

もちろん、作品とちがって、
日常の会話だから、「ピント」といっても
明確なオチや主題ではない。
もっと感覚的なものなのだし、
会話も流動的にうつっていくのだけど、
彼女たちは、そのたびに、
自分で面白い、表現したいと思うものに
さっとピントを定めて話す。
このピントは、聞く側にも決して損は
させないように設定してある。

やるなあ、さすが表現者。
これは、素人には、
なかなかできない芸当だと思う。

小論文で体験を入れるとき、多くの子が、
「体験を書く」になってしまう。
体験に引きずられて、自分の表現のゴールを見失うのだ。
結果、長い体験を書いたあと、
もうしわけ程度のオチがついたり、
ひどい場合は、「で、何が言いたかったの?」
という文章になる子もいる。

でも、うまい子は「体験で書く」。
言いたいことがあり、
その手段として体験を書くから、
うまく、ゴールを決める。

これは、自分の体験を話すときにも
言えるのではないだろうか?
あったことをあったまま、
あった順番で話すだけになったり。
途中で何を話しているのかわからなくなったり。
ただ、聞いてもらいたかっただけになったり。
私も、話は得意じゃないから、よくそうなる。

つらい体験なら、なおさらのことだ。
だれかに話せてよかった。
もしくは、私のこのつらい気持ちをわかって。
という話し方になるのは、ごく自然なことだと思う。

ところが、彼女たちは、そうではない。
つらいことを話すにも、
日常のちょっとしたエピソードを話すにも、

ただつらいじゃ、つまらない。
ただ、私をわかって、でもつまんない。
もう少し突き放した、
聞き手と、自分の真ん中あたりに、
ピントを設定して、
表現をしようと試みる。

たぶん、ずっと、ものを書いてきて、
その先にある何か表現してやろう、それが面白いから、
そのためには自分も、自分の体験さえもつきはなして
素材にできる、という、
もの書き魂というか、性(さが)が身に着いたのだと思う。

だから、つらい話をしていても、
やはり、彼女たちの話は、面白い。
変換装置が利いている。

書くことが、そういうふうに
日常に花を咲かせていることは、
わたしにとっても希望だ。

以前、大学の教授が、
「人にものを頼むには、何か芸を見せなあかん」
と言っていた。
シーズンになると、学生が、単位のムシンにくる。
でも、ただ、「単位がほしい」とたのむだけではだめ、
人にものを頼むんだったら、
人をわらかす、とか、感動させるとか、
何か芸のひとつもして奉仕しろ、ということだ。
単位ほしさを、せつせつと手紙に書いてきた子がいて、
その手紙は面白かったら単位を出したそうだ。

そうだなあ、人様に、
つらい話をきいてもらったり、
相談にのっていただいたり、するとき、
ただラクしていてはだめだ。
やっぱ、一芸くらいはみせないと。

変換装置は、まわりを明るくする。
でもそれだけでなく、
自分がいる位置から、ポーンと飛べるような気がする。
その高みを見てみたい。





『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2002-05-29-WED

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