YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson99 文章のラストをどうするか?

あなたは書きものをするとき、
ラストをどうしめくくっていますか?

私が、はじめて本を書いたとき、
どうにも書けなかったのがラストでした。
最後のさいご、あと300字くらいが、
どーーしても書けない。

量は、225ページのところを、
370ページくらい書いてたから、
書きすぎてしまったくらいだった。

第―稿の締め切りに間に合わなくて、
それを削って直す(第二稿)まで、ラストは待ってもらい、
しかし、書いても書いても、いっこうに出口がない。
結局、三稿を返し終わっても、
まだラストは書けなかった。

「書けない」にも2種類ある。
ひとつは、
自分の想うイメージに到達できないという苦しさ。
でも、そのときは、
ほんとうに「書けない」それだけだった。

航海に、たどりつく港がない感じ。
書ける予感のないところに向けて、
キーを打ちつづけている。
キーがカタカタ、カタカタ、言う音が
ひどく他人事に通り過ぎて行く、カタカタカタ………、
気がつくと余裕で7、8時間たっている。
その繰り返しだった。

いったいなんでこんなに書けないのか?

これまで編集者で、たくさんものを編んできたはずだ。
まとまりのないものに方向をつけたり、
落としどころを考える役目だった。
小論文では、結論の書き方を、
何度もサポートしてきたはずだ。

でももう、その日に入れないとだめというときまで、
ラストのたった300字が書けず、
朝、下北沢で編集者のJさんに会った。

「山田さん、一冊のまとめを書こうとしていませんか?」

そうだと思った。ラストには、225ページの、
7ヶ月書いてきたことの、いやもっと、
若い人の考え・書く力をサポートしてきた17年の結晶!
みたいなことを書かなければ、
少なくともそうしなければ、と想っていた。
でも、そこに出口がないことも
私はどこか知っていたふしがある。

「山田さん、それが短い言葉で言えるようなら、
わざわざ一冊の本の形で出す必要はないんです。」

言いたいことは、その個所、その個所で、
すでにしっかりと言えている。
それを1冊という長い字数で積み重ねていって、
その果てに、本のラストがある。
だからまたそこで、
一冊をまとめるとか、一冊を結論づけるとか、
ラストに壮大な役割を持たせようとすると
なかなかうまくいかない、
経験上、ソフトランディングした方が
うまくいっているのだそうだ。

「本」という表現、を思った。

私がずっとやってきたのは、
小論文という表現、
月刊誌編集という表現、

同じことを言うのなら、それを、小論文で言おうと、
月刊誌の形に編もうと、本で書こうと、ネットに書こうと、
何で言おうと同じだよ、と言う人がいる。

たぶん、それを言える人は、
さまざまなメディアを渡り歩いて、
特性のちがいを経験し、
「普遍性」を手にしたのだろうと思う。
そうなれたら自由だ。

でも、まだまだ、
これからメディアを広げていっている私にとって、
「何を」言うかは、
「何で」言うかにずいぶん影響されるし、
それが面白いとも思っている。

本の構想が立ったとき、
ネットに書いたものが使えると最初は思っていた。
ところが、本の文脈にはめてみると
どうも違和感がただようのだ。
内容のことではない、目線というか、息というか、
どっか、何かがちがうのだ。
私もそう思ったし、編集者のJさんもそう言った。
「不思議ですね、パソコンの画面上で見たときはまったく
気にならなかったのに、」
結局、ネットに書いたことと同じ内容を言う個所も、
本にする段には、すべて書き起こすことにした。

同じころ、他の出版社でも、
ネットからダウンロードした私の文章を見て、
編集者さんたちが、
「ネット調でなく、書籍用の文体に
書き直してみてもらえますか?」と言った。
「ネット調?」本とどこがどうちがうんだろうか?
と思ったが、感覚だけを頼りに、書き直してみた。
実際やってみると、明らかに別の作用が引き出されていく。
結果、やはり印象がちがうものが書きあがり、OKが出た。

別のフィールドで編集をしてきた私も、
ずっと「本」でやってきた編集者さんたちも、そこに、
内容以前の、「本という表現」の何かを見ていた。
経験者なら、
その「本」の枠を超えるのも壊すのも自由だが、
私はビギナーとして、「本」という未知の表現を、
まず、まっとうしてみようと思った。

「本とはなにか」未知のまま、感覚をたよりに
書き進んでいく。
生まれてはじめてのことをやっている、
名づけられないけど、
これまでと勝手がすごく違うと思った。
そうやって書いていって、最後に突き当たったのが、
「本のラストをどうするか」という問題だった。

本のラストは、小論文のラストとはずいぶん違う。
小論文は短いもので400字、
ちいさくても本は100,000字の世界だ。

400字で言いたいことを言うためには、
段落は、それぞれはっきりした別の役割を
はたしていないといけない。
論点を示す段落、論拠を示す段落、意見を示す段落。
そして、それらが、
方向を持って配列されなければならない。

分業が進んだ、少数精鋭の会社みたいだ。
だれ一人、他の人と同じ仕事をしている余裕はない。
だれが一人欠けても成り立たない。
一人の仕事は、部分にすぎず、
部分と部分が、正しい順序でラストまでつながっていって、
はじめて成果になる。

部分の機能と全体構成が肝。
だから、小論文のラストの役目は重い。
自分の主張をはっきりとうち出す、
命題に対する自分の答えを言い切るところだ。

では、単純に、この400字の構造を
100,000字に拡大すると本になるか?

一般論は言えないから、あくまで私に限った実感として、
同じことを400字で言うのと
100,000字で言うのとじゃあ、
言う内容が変化するばかりか、
「生き方」までがちがってくるような気がした。
量が内容を凌駕するのだ。

100,000字を、
各パーツの機能と、構成で引っぱろうとすると、
ヘタすると、骨がりっぱで
中がすかすかになるおそれがある。
100,000字の結論を、最終部分に託すと、
結論部は、その重みにつぶれる。

だから、もっと部分が立ち上がっていく必要がある。
部分の中に力があり、世界があり、魅力があるように。
どこから読んでも面白いし、どこを読んでも面白いし、
最後がわかってしまっても、また読み返したくなる。
そういうものの方が
一冊としては強いんじゃないかと私は思う。
その方が、書く人も編む人も大変だけど。

かっちり構成を固めて、
ゴールも、そこへ行く道筋も、全部わかってしまうと、
ヘタをすると予定調和におちいってしまい、
書く「意欲」は減っていく。

あなたはどうだろうか?
100,000字の長丁場を、書く側、読む側として、
構成主義と、部分が立ち上がっていくものと、
どちらの意欲が持続すると思うだろうか?

私がやってきた編集の仕事場は、
構成力が問われる世界だ。
内容以前に、一冊のCONTENTS(目次)が立つこと。
情報の方向や、配列がものを言う。
それをがんばって身につけたことは一生の財産だと思う。

でも、はじめて15万字の書きものをしたとき、
ラストにきて言葉を失っていた私は、
予定調和、構成主義から、
もうちょっと違う世界へ足を踏み出していたんだと思う。

ラストをどうするかという問題は、
そこまで、その人がどう書いてきたか、
生き方をあぶりだす。

一冊のまとめという大役から
解放されて光明が見えたものの、
依然ラストには苦戦していた、
その末、編集者さんに導かれて、
やっとみつけたラスト、そこに「読者」がいた。
ふと、15万字の時を共有した読者を想ったら、
自然にことばがわいて出た。それは驚くことに、
私が一冊をかけて一番言いたかった言葉だったし、
自分が何者か、
これ以上ないくらい教えてくれた言葉だった。

文章のラスト、
これまであなたはどうしてきたのだろう?
どんなあなたを見つけてきたのだろうか?

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2002-06-12-WED

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