YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson100 書くということ


あなたは「書く人」ですか?

職業にするしないに関わらず、
うまい、へたにも関係なく、
生きてく中に「書くこと」があるかどうか?

生きてく中に「書くこと」があるって、
どんな感じなんだろうか?

友人・知人には、
「書くこと」が人生の真ん中にどん、とある人がいる。
彼女や彼らは、
「書くこと」に情熱をもち、
「書くこと」にこだわり、
「書き」つづけている。

17歳で小説家としてデビューした女の子は、
「書くことができなければ、もう、自分じゃない」と、
私の前ではっきり言った。

わたしは、こうした人の気持ちがわからなかった。

私は、いわゆる「書く人」ではなかった。
「書くこと」にこだわりも情熱もなかった。

そんなので、よく小論文の編集者がつとまったな?
と、意外に思う人がいるかもしれない。
でも、私たちのチームは、
「文章表現」という考えから離れたからこそ、
小論文業界でも、面白い新しいことができたんだと思う。

「文章表現」という切り口から入っていくと、子どもは、
書き出しにどういう言葉を持ってくるか?
同じことを言うにも、どう表現するか?
書いては消し、書いては消し、
「表現をねる」ということに集中してしまう。

でも、私たちは、「表現を練る」のでなく、
「思考を練る」、もっと言えば、
「コミュニケ―ションの構造を練る」ことを優先させた。

文章の向こうに読み手がいて、目指す結果がある。
この文章のゴールは何か?
文章のこっちに
今まで生きてきた他の誰でもない自分がいる。
自分がいちばん言いたいことは何か?
そうやって、自分の意見と、ゴールとの距離を測り、
相手側から見て、説得の構造を組み立てていく。
設計をしたり、建物を建てているのに近い感覚だ。

自分を偽らず、自分の考えを
相手にどう伝え、どう通じ合うか?
これは、私が編集の仕事で
書きものをするときも同じだった。

小論文の講義や、取材記事や、
依頼書や企画書、たくさんたくさん文書を書いたが、
「ものを書いている」という意識はなかった。
私がやりたいのは、
教育であり、コミュニケーションであり、
つまり、相手の持っている力を生かすことだ。
「書くこと」はその手段にすぎなかった。

だから、「書く」という漠然とした目標を、
人生の中心に据えている人がわからなかった。
「書くこと」でどうしたいのか?
書くことで芸術やっている人もいるし、
書くことで福祉をやっている人もいる。
同じ「書く」と言ってもずいぶん違うだろう、と。
その手段にすぎない「書くこと」そのものに、
意味や情熱をもつということが、
わたしにはどうしてもわからなかった。

十代の人を取材しているとき、こんな言葉にでくわした。

「自分は、書くことに頼っている」

2人の十代から、ほぼ同じ時期に聞いた。
どちらも芸術肌の子で、
大勢の中で光っていて、周囲から愛されていた。
はやいうちから表現することに目覚め、
感覚がとぎすまされているぶん、
表現することの痛みや孤独もはやくから味わっている。
十代でそういう「底」を味わうことは、
ときどき戻ってこられないほど彼らを傷つける。

そういう彼らが、「書くことに頼っている」。

そして、自分は、頼っているんだということを
はっきり自覚して書いている、ということに、
私は、また、衝撃を受けた。
彼らは、依頼心とは縁遠い生き方をしていた、
自立心が旺盛で、自分の生き方を持っていた。

私にとって、ものを書く作業は、
仕事であり、責任があり、目的があり、結果が検証され、
緊張する、苦しい作業だ。
それに「頼る」なんてとんでもなかった。

ところが、会社を辞めてこの2年間、
思いもかけず、たくさん「書く」生活になった。
いま、この「書くことに頼っている」という感覚が、
自分なりに消化できるような気がしている。
また、「書くこと」が手段でなく、「書くこと」そのものに
意味を見出し、情熱をもつ人の感覚も、
わかるように変わってきた。
いや、変えられたといったほうがいいもかもしれない。

とくに、目から鱗のような
出来事があったわけではないのだ。
この2年間、くる日もくる日も、書いて、
ある量に達した時、自分の身体の中で、
自然に気づかされていた。

それを自覚したのは、
友だちの再就職の知らせをもらったときだ。
友人は、昔から書くことが好きで、
勤めていた企業をやめ、
もっと「書くこと」に近い出版社で働こうと
就職活動をがんばっていた。
でも、この就職難の時代、うまくいかなかった。
結局、書くこととは
全然関係ない仕事に就職を決めたという。

ところが、彼女がつかんだ気持ちは、
意外にも諦めではなく、
「自分は書きたいのだ」と言うことと、
「これからは、逃げずに、
 その気持ちと向き合っていこう」
という確信だったという。
現実の厳しさが、彼女の眠っていたものを
揺さぶり起こしたのだ。

私は、彼女にこう返信していた。

……………………………………………………………………
Kちゃん、就職おめでとう。

新卒にも、働き盛りにも、中高年にも、
ほんとうに就職が厳しいこの時代に、
しっかりした仕事を手にしたのは、尊いことです。

Kちゃんのメールの
「結局自分は、ずっと書きたいのだなあという
ことがよくわかった」というのを読んで、
なんだか、すっきり晴れ晴れとしました。

こんな確かな、強いものってないんです。

私は、会社をやめた年、5人の友人と知り合いました。
みんな「書く」ということに、
ひとかどならない情熱を持っていて、
ずっと書き続けています。
企業にお勤めしていたり、派遣社員してたり、
みんなまだデビューはしていませんが、「書いて」います。
その事実に、すごくはげまされるのです。
書くことに関係ない仕事も、
消耗する日常も、見えない明日も、
いざ、「書く」段になると、
すべてが、書くのにつながります。

「書く」というのには、
どんな無駄も、どんなマイナスもありません。
マイナスは、書くとき、
オセロが、ざざざーっと白に裏返るように、
ぜんぶプラスになるからです。

「書きたい」かどうか、と、
自分が「書きたい」ことをしっているかどうか、
それがあれば、これから、かなしかったり、つらくても、
かならず、そこを基軸に、
自分の力でゆっくり立ち上がれるからです。

山田
………………………………………………………………………

つい2年前まで、
「書くことにこだわる気持ちがわからない。
 書くことは、
 目的あっての手段にすぎない、道具にすぎない。」
と言っていた、私の言葉とは思えないから、
自分でも驚いたけれど、
そのとき私は、心からそう思っていた。

「企業での編集は楽しかった。
 書くことは孤独でつらい、こんなはずじゃなかった」と、
さんざん憎まれ口を言っていた「書くこと」が、
気がつけば、この2年間私を支えていたんだなあ、
とそのとき気づき、
深々と「書くこと」に頭をさげる想いだった。

この、
「オセロが、ざざざーっと白に裏返るような感覚」は、
苦しみをバネにするというのとは全然、性質が違うし、
人は傷ついた分優しくなれる、というのとも、
不幸を売りものにするというのとも違う。
見返すことでもない。
ましてや、救いとか、癒しということでもない。

現実の厳しさに救いはない。どんなに文章に書こうと、
痛いものは痛い。悲しいものは悲しい。
でも、書くことで、その痛さの意味が違ってくる。
その痛みを観ている自分の目が違ってくる。

例えば、今の自分のつらいことを、
墓場に行って、
死んだおじいさんや、おばあさんに話すとしたら、
自分の中からどんな言葉がわき出てくるだろうか?
死者に語るということは、
現実の何の利害もない、全て欲が洗われた、
きれいな目から、
いまの自分の利害や欲、痛みを観るということだ。
そのとき、自分はどんなふうに映ってくるだろうか。
きっとそれは、いまとは違う見え方をしている。
私が今想う、書いて裏返る、裏に往くとは、
少しそれに近い感覚かもしれない。

もう一度、あなたは「書く人」ですか?
あなたにとって書くとは、
どういうことか教えてください。



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2002-06-19-WED

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