YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson102 作品のゴール


ちょっと前、友だちがコントを書いていた。

人を笑わせる!

今の自分には、最も難しいゴールだ。
人を怒らせる、あるいは、泣かせるものを書け、
と言われるほうが、まだイメージがわく。

松本人志さんや、
新進気鋭のお笑いの人がやっていることは、
技術面でも、感覚面でも、あまりに高度で、
まいりました! と
打ちひしがれるような気持ちで見ている。

ところが、こどものころはそうではなかった。
両親の私に対する口癖は「おまえ、吉本へ行け。」
小学校の趣味や特技の欄にも、
「人を笑わせること」と書いていた。

親戚や、友人の集まり、はじめて会う人にも、
私は中心になって笑わせる側で、
こどもながらに、「人を笑わせる」ことは、
「人と通じ合う」手立てだったんだろうと思う。

恐れしらずなことをやっていたなと思う。
「笑い合える」ということは、
初対面の人でも、何かの世界観を共有することだ。
しかも、「うんそうだ、確かにそう思う」という
納得レベルではなく、「笑う」という域まで。
しかも、四の五の説明せず、一発で。

こども心に、全身で相手の気を読んで、
体当たりで表現をしかけ、
日常のこととして、
人との間に「笑い」という橋をかけていた。

それが、いつごろからか、
ピタッとしなくなってしまった。
まったくしなくなった。

どうしてなんだろうか?

最近、意図して人を笑わせたことなんてあったろうか?
意図しないところで「笑われる」ことは、よくある。
私は、ほんとうによくある。

だけど、編集するにしろ、書き物にしろ、
講演のちょっとした「マクラ」にさえも、
私は「笑い」をとるということを考えたことがない。
やろうとしてもできない。

私が、やっていることは、
仕事から、日常のちょっとしたコミュニケーションまで、
教育なんだと思う。相手の持てる力を生かすこと。
こどものころ、
いつもどっかで人を笑わかそうとしていたように、
どっかで、相手の力を生かそう、生かそうと考えている。

なんて書くと、
「きれいごとだ」「偽善だ」と思う人もいるだろう。
そうだろう。
わたしだってそんな人がいたら、うさんくさいと思う。
でも、自分にとって、切実だ。

自分では天職と思っていた
小論文の編集長の仕事を去って、
2年間は、喪失感という痛みの中にいた。
そこに、不安が重なると、
未来は雲り、自分さえ見失いそうになる。

でも、そのたびに、
「人の力を生かす」ということを想った。
悲しかったり、先が見えなかったりしても、
私は、そこを基軸に、勉強をしたり、ものをつくったり、
仕事を立てたり、人との関係を結んでいけばいい。
その経験をしてきたし、技術も磨いてきた、
そう考えると、内から力が湧いてきて、
ゆっくり自分の力で立ち上がれる。だから大丈夫なのだ。

厳しい時代に、やがて中年を迎え、老いていっても、
こういう想いがあると、強いと思う。

自分のゴールに気づかされたのは、
仕事で、さまざまなタイプの編集者を知ったからだ。

たとえば、同じ「環境問題」で特集をしても、
編集者によって、やってることは、ずいぶん違う。
現場では、「落としどころ」と呼んでいるゴール。

ある人は、環境問題の解決とまではいかなくても
1ミリでも社会をよくしようという願いをこめて編集する。
この人がやっているのは「福祉」だなと思う。

ある人は、人や社会への効果よりも、
純粋に、「知」そのものの探求に興味がある。

ある人は、新・奇な情報を、集めてきて知らせることに
ゴールを置く。教育より「報道」に近いのかなと思う。

私は、読んだ人の考えを生かす、
ということを考えるから、やっぱり「教育」だろうと思う。
どんな仕事でも、人が育つ匂いのしないところでは、
私は、働いていて寂しいんだと思う。

以前『BRUTUS』の編集長をしていた斎藤和弘さんは
落としどころを「消費」と表現していた。

同じ編集といっても、
やっていることがこれだけ違うのだから、
業種より、ゴールが似ている人の方が、
仲間なのかもしれない。
実際、学校関係者より、むしろ、
音楽やってたり、ドラマつくってたりする人の中に、
似た匂いのする人を見つけ、
「あなたがやっているのはもしかして教育では?」
と聞いてみたくなるようなこともある。

他のものをつくったり、仕事をしている人は、
いったいどんなゴールを目指してやっているんだろう?
友人に聞いてみたら、反応はさまざまだった。

そもそも、ゴールを意識したことがないし、
したくない、つくっていることそのものが面白い、
という人もいれば、
自分の書いたもので、人や社会にどうこう、と
考えること自体、おこがましいんじゃないか、
という意見もあった。
ゴールを意識するというのは、よくも悪くも、
私が企業で育ったからだと思う。

そして、「マス」や「利益」が無自覚なまま
ゴールに紛れ込んでくるのも、
企業にいた自分の特徴なのだと、
これは、会社を辞めてから、気がついた。
たまに、補助金を受けた研究所の仕事などをすると、
その温度差に愕然とする。
「同じつくるなら、より多くの人に喜ばれるように」
という考えとは、
全く違うベクトルで仕事をしている人がいる。
人によって、現代(いま)をつくっている人もいれば、
50年後、200年後を見ている人もいる。

ものを書いている友人は、
ゴールを「カタルシス」だと言った。
つらいことや、悲しいこと、
読者と一緒に、暗いトンネルをくぐるように入っていって、
くぐりぬけた、その先を見られないか、
そういうことを考えて書いているそうだ。

「教訓」を与えようとしたり、
「快楽」を提供しようとしたり、
いろんなゴールがあるなかで
今年、最も衝撃を受けたのは、
ミヒャエル・ハネケという人がつくった
『ピアニスト』という映画のゴールだ。

ラスト、映画館で私は、悲鳴ともなんともつかない
変な声をあげてしまった。
その瞬間、突き飛ばされたような衝撃を受けた。
スタッフロールは、無音で、
絵も音もない闇に、
放り出された観客たちが、
私と同じように途方にくれていた。

ものすごく重いものを引き受けてしまった気がする、
芸術か、なにか悪いものか、
とにかく気分を変えようと、銀座のブティックによろよろと
入ったが、もう何も、目には、入らなかった。
今年観たどの映画とも、一線を画すものだった。

あとから、この、ハネケさんのインタビューを読んだら、
こんなことが書かれていた。

「観客に対して私はいかなる解決も提供しません。
 ただ問いを投げかけるだけです。
 観客自身を不安と攻撃の真っ只中に
 投げ込むことのできる形式を探し求めているのです。」

何の、娯楽も、気晴らしも、解決も与えない。ましてや、
まやかしの解決策で観客をなだめるようなこともしない。
だから、観客は、観た後の空白を自分で埋め、
自分で責任を引き受けなくてはならないのだという。

「問題提起」をゴールとした作品は、他にもある。
私たちも、よく小論文で、答えでなく「問い」を
なげかけるというゴール設定をする。
ただ、どんなにいい「問題提起」をしても、
他人事だと思うと、読者は逃げることができる。
うまく編集しても、
読者がその問題を、ひとごとで終わらせず、
「自分に引き寄せて考えようとする」
に留まっている気がする。
これではゴールは決まらないのだ。

ハネケさんは言う、
「結局のところ、いかに奈落に突き落とすような
恐ろしい物語を作ってみても、
我々に襲いかかる現実の恐怖そのものに比べたら、
お笑い草にすぎないでしょう。」

そうなのだ。
「こしらえ事」に観られたら、おしまいなのだ。
ハネケさんのすごいところは、
「自分には関係ない」と観客が逃げることが、決して
できない形式を試しつづけていて、
「問い」で、観客自身の現実を「直撃」することだ。

遠いドイツで生まれた、ハネケさんの作品のゴール、
そのゴールは、2002年の日本を生きる私自身だった。
どんなゴールより恐い現実だ。

あなたはどうか。
ゴールはどこを向いているんだろう?
そして、ゴールを決めるとはどうすることだろうか?




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2002-07-03-WED

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