YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson131  1人称がいない


さきおととい。

観ていたビデオを止めたら、
自動的にテレビ画面にきりかわった。
そこには、
「モーニング娘。」の
新メンバーを決める番組がうつっていた。

オーディションで最終候補に残ったという
3人の女の子に、
女の先生が、ダンス・レッスンをしている。

先生は、3人の女の子と、
まったく、
まったく、
いったいぜんたいどうしたことだ、
というほど、コミュニケーションがとれないことに
絶望している。

女の子たちは、
ななめ下を見て、
表情がない。

女の子たちの身体は、
まるで、弾力のないゴムと鉛(なまり)でこねられ、
そこに置かれたかのように、
反応が鈍く、重い。

先生が、厳しく言っても、
さとすように言っても、
励ましても、
声がとどかない。

女の子たちは、ときたま、判断を迫られてこまったときだけ、
自分以外の2人のようすを探るように、
目だけを左右へ泳がす。
でも、先生を見ない。
ふたたび、ななめ下へ目を落としてしまう。

先生は、とにかく自分の言ったことに反応させようとする。
「返事をしよう」、それだけのことを
なんどもさとす。
女の子に復唱させる。でも、

「わかった?」

ときくと、返事をしない。
ひどく遅れた、タイミングで、
ほんのわずかに、身体が、
返事をするかのように気色ばむ。

先生が、「返事は?」と促すと、
引いて、ふたたび鉛の人形になってしまう。

再度、つよくうながされ、
鈍いタイミングで、
腹に力のない、気のない「はい」が、
だれからともなく、もれてくる。

3人のうち、だれが「モー娘」になれるかは、
このあとのダンスと歌で決まる。
それで、
プロの振付師と、ボイストレーナーが、じきじきに、
彼女たちをサポートするためにやってきた、
という場面だった。

3人の女の子たちは、
自分で「モー娘」になりたくて応募したのだし、
レッスンに、必死にくいついていくしかないし、
プロにレッスンをつけてもらえるのは、
めったにない、ありがたいことだから、
先生たちには、感謝、感謝だし、
はたから見れば、そういうひたむきな展開を期待する場面だ。

ところが、すべて上記の調子で、
レッスンどころではない。
あきれたダンスの先生は、荷物をまとめて帰ろうとするし、
歌の、男の先生は、
どうして、わからないんだ!? と、
先生の方が泣き出してしまった。

ダンスの先生は、「わかったら返事をして、
わからなかったら、この場で言って」と確認する。

「わかった人?」と呼びかけると、
だれも手をあげない。では、
「わからない人?」と呼びかけると、
これまた、手をあげない。
いったいどっちなんだ? 
怒りをとおりこした先生が、

「ここには“人”がいない」と言った。

「そうそう、この感じ!」と、私は、
次ぎ観るビデオもそっちのけで、
画面に食い入ってしまった。

私は先日、人に頼まれて
高校生の書いた文章を大量に読んだ。

読んでいてなんとも、はがゆい、息苦しい、腹立たしい、
不思議なストレスがたまる。
同じ作業をした文章のプロ4人のうち、2人に感想を聞いたが、
やはり、強いストレスを感じていた。

その、なんともやるせない感じが、
ダンスの先生の、「ここには“人”がいない」という感じに、
ピッタリ、共感したのだ。

文章が下手くそでも、バカなことを書いていても、
文章のなかにちゃんと、書いたその人がいる、というのはいい。
読んでいて、ヘンなストレスはたまらない。

だけど、そのうちの何人か、
無視できない数の人の文章が、
「書いた人がいない」という感じなのだ。

「おーい! あなたはだれですか? 
あなたそこにいますか?」
と原稿用紙に呼びかけたくなる感じ、
原稿用紙にそんなことをしても無駄なのに、
両肩つかんで、ゆすりたくなる感じ。

その様子を、同じ作業をした1人が、
「あなたの足はどこに立ってるの? って感じ」と言った。

彼らはもちろん、「自分」に立脚して文章を書いてはいない。
だから1人称は、「私は…」ではない。
また、「いまどきの若者は……」というような目線で、
平気でいまの若者のことを書くから、
「私たち若者は…」という意識でもない。
ましてや「われわれ日本人は…」ではない。
「おろかな現代人たちよ……」みたいな目線でも書くから、
この時代の人でもない。

かと言って、
空とぶ鳥の目で、俯瞰(ふかん)しているのでもない。
そうするための知識が足りない。

地面からも、時代からも、ナナメに浮き上がって、
人がいない虚空に向けて、何か言っている感じ。

書いた人がいない文章というものは、読み手もいないのだ。
読んでいても、文章が、こっちを見てくれない。
「その言葉、だれに向かって言っているの? どこを見てるの?」
と言いたくなる。

ちゃんと、その人がその人として、そこにいてくれない。

「1人称が“私”でない、というだけじゃなく、
1人称そのものが、文章にいない。
思春期の子は、まだ自分になれない、
というようなことが言われる。
でも、言い過ぎで誤解されるかも知れないけど、
この文章の1人称は、
まだ、人間になれない、という感じなの」

私は、同じ作業をしたもう一人に、
やるせない気持ちをぶつけた。すると、その人が、

「そうそうそう。
まだ人間になれない感じって、よく、わかりますよ。
でも、この子たち、
ふだんの生活では、私は…、私は…、って、
よく言いますよね。」

わたしは、
ミスタードーナツなんかで、高校生を見つけると、
会話に耳を傾ける。

たしかに、「私は…、あたしは…」とよく言っている。
その人が夏美という名前なら、自分で自分のことを、
「夏美はねえ…、夏美は…」とよく言っている。
会話の中に、1人称は、ちゃんといる。

テレビのシーンが切り替わり、
モー娘候補の女の子たちにレッスンの感想をたずねている。
女の子は、さっきとは変わってよくしゃべる。
ただ、その言葉づかいは、カメラ向けのものではなく、
なまりも、口調も、友だちとだべっている感じ。
一気にくだけてしまう。
さっきの、先生との距離を1万キロとすると、
今度は、相手との距離が、10センチくらい、
急に近い。

自分がないわけじゃない、
事実、日を追ってレッスンは進んだ。
彼女たちが特別問題児というわけではない。
どこにでもいる、いや、むしろ大勢の中から選ばれたのだから、
なにか持った子たちなのだろう。

では、あのレッスンのとき、
幽体離脱でもあるまいし、「自分」はどこにいったのだろう?
あのとき、彼女たちの中で、なにが起こっていたのか?

この状況を、ある人は、
「いまどきの若い子は、
あいさつができない、
返事もろくにしない、
人の目をみて話ができない。
そういうしつけしらずなこどもに、
プロが、芸能界のきびしさを教えていた。」

というんだろう。でも、そうではない。

あいさつができない子どもに、
「あいさつ」を教えていたのではない。
返事ができない子どもに、
「返事」を教えていたのではない。
ことがそんなに単純なら、
教えることのプロである先生は、
いとも簡単に教えたろう。

3人の女の子たちは、あがっていた、とか、
恥ずかしがっていた、というだけでもない。

どんなにあがっていても、
はずかしがっていても、
あがっているその人、恥ずかしがっているその人がいれば、
コミュニケーションは成立する。

小さいこどもが、はずかしがっている姿を想像するとわかる。
小さいこどもに、ニッコリ、笑いかけると
照れくさそうに、お母さんのうしろにかくれてしまう。
かげからこっちをのぞく。
「恥ずかしいのね」とお母さんが言う。
「恥ずかしがってんだ」と自分も思う。
恥ずかしがっている相手がそこにいて、
恥ずかしがってる、と思う自分がいて、
これはこれで、それなりのコミュニケーションになっている。

私は、講演のときなどに、すごくあがる。
「ズーニーさん、あがってましたね」と言われる。
「うん、あがってた」と答える。
あがっている自分がたしかにいて、
あがっているんだと思うまわりがいて、
これはこれでコミュニケーションになっている。

そうではなく、このときの3人の女の子とは、あきらかに、
コミュニケーションが成立していない。

相手の心が読めないのではなく、
そこに「その人」が居るのか居ないのか、
そこから疑わなければいけない、ひどく疲れる感じなのだ。

いったいこれはなんだ?

それにもまして、不思議なのは、
ちゃんと、その人が、その人として、そこにいてくれないと、
どうして、こんなにまわりは
はがゆい、消耗する、腹立たしい感じになるんだろう?
ということだ。

私は、たくさんたくさん文章を読んできて、
なのに、なぜ、
その人がその人として、ちゃんとそこにいない文章に出会うと、
そのたびに、また、新たに、
こんなにも、腹立たしいのだろう? 消耗するのだろう?

ダンスの先生も、歌の先生も、
あの涙や怒りは、ポーズなどではなかった。
もう、何人も若者は相手にし、教えてきたプロだ。
なぜ、憤りはつきることがなく、
涙は、あらたに湧き上がってくるのだろう?

ちゃんと、その人が、その人として、そこにいてくれないこと、
そこに新鮮な憤りを感じつづけられるかどうかは、
もしかしたら、
その人の教育力とかかわっているのかもしれない。

そこに憤ることがない人は、
教える力もないんじゃないんだろうか? 

同じ番組を見た人、
あるいは、似たような経験をした人は、
何を感じたか、ぜひ、きかせてください。





『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2003-01-22-WED

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