おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson144 金の自由 わたしの名前、ズーニーは、 カシミール語で「月」という意味だ。 北インドのカシミールを旅したとき、 地元の人につけられた。 そのとき一緒にいった友人は、 ソンドリ=金(きん)という名前をつけられた。 金さん、月さん、インドの旅。 金さんは、どことなく江角マキコをおもわせる、 りりしい感じの女性で、 金さんのことを、わたしの知人は、 「目がきれい。すいこまれそう。」と言った。 金さんと偶然、朝のバスで乗り合わせた知人は、 金さんの澄んだ目が放つ空気に圧倒されて、 ひとことも口がきけなかったという。 そこまでいうか? と金さんの瞳をみたら、 大きく澄んで、一点の曇りもない。 金さんと私は、同じ企業に勤め、 どういう偶然か、同じ2000年に辞めてしまった。 金さんは、会社で勤めていくことに はやくから疑問をもっていた。 当時、会社に骨を埋めてもいいとさえ思っていた私は、 金さんの相談にのりつつも、 どちらかといえば引き止める立場だった。 それが、まさか、私のほうが、2ヶ月はやく 会社を出て行くことになろうとは。 金さんは、向こうの学校で学んで教師になるのだと、 2000年夏に、サクラメントへ向けて旅立っていった。 行く前に、「映画『八月のクリスマス』がいいよ」 と何度か言っていた。わたしは受け流した。 私は泣かなかった。 2000年は別れの年だった。 長年勤めていた会社と別れ、 天職と信じた仕事と離れ、 長い間の仲間とお別れし、涙もかれはてた。 いま、まぶだちも行ってしまう。 サヨナラだけが人生だ。もう、どうとでもしてくれ。 金さんを見送ったあと、喪失感のなか、 ふらふらと、ビデオ屋に行っていた。 『八月のクリスマス』を借りていた。 観終わったあと、あたたかく切ない作品の力をかりて 私はやっと、金さんとお別れした悲しみに、泣けた。 友だちが海外へ行ってしまった。淋しい……。 3年経った。 金さんが、先日、ひょっこり日本に帰ってきた。 短い東京の滞在で、金さんが残していったものは、 ひとことで言えば、精神の自由さだ。 筆が立たぬゆえ、うまく伝えることができないが、 金さんといると、 一人の人間が自由であるというのは、 こんなにもいきいきと、 まわりの人まで解放するものかと思う。 金さんといると、心に自由の風が吹く。 金さんはどうしてこんなに自由なのか。 会社にいたころと比べ、私たちは多くを持っていない。 わたしも金さんも今は、とても質素な生活をしている。 金さんは学生だからなおさらだ。 金さんは、いま、心から向かう学問をしているが、 それがこの先仕事にどうむすびつくのかまだわからない。 渡米には、家族の理解も得られなかった。 それでも、一寸も、 だれに対しても引け目を感ずることもなく、 どこに行っても物怖じせず、かといって気負いもなく、 自分自身に胸をはって、しゃんとしている。 その姿に、気品さえ感じる。 私は、会社を辞めれば自由になるとか、 金が無い方が自由だとか、 そんなことが言いたいのではない。 私から見れば、地位も、お金も、才能も、 温かい家族も、なにもかもを手にしているような人が、 人にちょっとものを頼むにも、 必要以上にへつらったり媚びたり、 正しいことを言うのにも、びくびく、おどおどしたり、 少しのことで、根底から自信をなくし、 自分を卑下したり、自虐的になったりしているのをみると、 ひとつの疑問がわいてくるのだ。 いったいどうすれば、この小さな自分の身ひとつ、 胸を張って生きられるのだろうか? お金がないから胸を張れないという人は、 なら、いったい、いくらあったら胸を張れるのか? その金額に達しても、まだ胸を張れないのはなぜか? 成功したら胸を張れるという人が、 ひとつ成功を手にして、 よけい不安になっているのはなぜか? 人望があればという人は、 いったい何人の部下や後輩や、友から慕われれば、 自分に誇りがもてるのか? 小さな自分の身ひとつ胸を張って生きるために、 そんなに深遠な努力、たくさんのものが必要か? それはこの先何年もかかるようなことなのだろうか? それはもっと簡単なことではないか? いま、自分を自由にしてはやれないものか? 金さんは、 そんな「問い」を残して、また旅立っていった。 今度はいつ会えるのだろうか。 そのときまでには、 この「問い」に自分の答えを見つけていたい。 小さな自分の身ひとつ、 どうすれば胸を張って生きられるのか? 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) bk1http://www.bk1.co.jp/ PHPショップhttp://www.php.co.jp/shop/archive03.html |
2003-04-23-WED
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