おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson213 わたしの生きる場所 さみしいなあ。 近ごろは、寂しいと感じることさえなくなるほど、 5年目をむかえる、この、 フリーランスの生活にも慣れてきた私だが。 たったひとつ、慣れない、というか、 以前にもまして、 寂しいと感じるようになってきたことがある。 それは、一緒に仕事をやってきた人との別れだ。 先日も、一緒に仕事をしてきた企業の担当者が 転勤してしまい、 予想以上にこたえている自分にガクゼンとした。 そんなアマちゃんじゃやっていけない。 そもそも、フリーランスという形態が、 サヨナラの連続だ。 さまざまな企業や学校の依頼を受けて、 全国どこでも出かけていく。 そこで、講演や、ワークショップなどをたてる。 長期の講義のときもある。 担当者と企画を練り、準備をし、 何十、何百、時には、千の人たちとの間に、 教育的な感動が生まれる。 でも、その瞬間が、別れの合図。 やっと心が通じたというのに、 ひとつ仕事が終われば、それでサヨナラ。 担当者と別れ、生徒と別れ、 私ひとり、速い乗り物にのり、次の目的地に向かう。 旅がらす。だから、寂しがってなどいられない。 この夏、広島で4ヶ月をともにした学生たちと別れる時も、 新幹線のホームで、私は泣かなかった。 別れの多さに比例して、 しだいに、そのつらさにも慣れていくものだと思っていた。 でも、これだけは、どうしてか慣れない。 それどころか、年々、別れのつらさは深くなっている。 なぜだろう? この夏、学生に、未来の「居場所」をテーマにした 文章を書いてもらった。 以前の私は、「自分」というものは、 「意志」であったり、「マイテーマ」であったり、 「自分の中から考えていくもの」という傾向が強かった。 でも、自分の意志で会社を辞め、 「居場所」を失ってみて、 想像を絶する、生きていくことの難しさを実感した。 首の根をつかまれ、地面に押さえつけられたようで、 呼吸もできない。 朝起きて、「生きるぞ!」と気合いをいれなければ、 崩れそうになる。 いくら「意志」があっても、 それを生かす「場」がなければ、 手足さえ、動かせない。 「場」なんだ、人を生かすものは。 もっと言えば、自分と人との関係をいかに 築いていくかなんだと、思い知らされた。 だから、学生に未来を考えてもらうとき、 どこで、どんな人たちと、 どんな関係を築いていきたいか? 「居場所」、からもっと進んで、自分の「生きる場所」を、 未来の仕事とリンクしていかにつくっていくか、 イメージだけでもしてほしかった。 それで、ささやかでも、自分の考えで仕事を起こし、 コツコツ続けて、人との関係をつくり、 自分の生きる場所をつくっている複数の人の例を参考に、 「未来にどんな、自分の生きる場所を築いていきたいか?」 というテーマを投げかけた。 にも関わらず、 「将来、築いていたい自分の生きる場所は、家庭。」 「ふるさと。」 という答案が、とても多かった。 よい家庭を築きたい、 ふるさとを大事にしたい、という考えは、 とっても大切なことだと、もちろん、私も思う。 だが、仕事という投げかけをしたにも関わらず、 あえてそれを避けるかのように、 若い人に、「私的に安らげる場を得たい」という、 「守り」の傾向が強くでていることに疑問をもった。 仕事を通じ、「他者」や「外」との関係を切り開いていこう という感覚が、あまりにも薄い。 「居場所」を「生きる場所」と言いかえても、 いまの若い人にとって、 「場」は与えられたり、確保するものであって、 自分の手で築いていくもの、 というイメージは育てにくいのだろうか? 私自身が、そうだった。 生まれながらにして、「家庭」という居場所を与えられ、 与えられていることにさえ気づかなかった。 小学校、中学校、高校と、「箱」をのりかえ、 大学にはいる時は、多少苦労をしたけれど、 いったん大学という「箱」を得てしまえば、 4年間は安泰だった。 そうして、居場所を「箱」ととらえて 次々のりかえてきてしまった自分にとって、 「就職」というのは、 次なる「箱」を確保するための「試験」にすぎず、 そして失敗したとき、 自分の「居場所」を失うことになり、 現実以上の挫折感を味わうことになってしまっていた。 どうして、もっと、柔軟にとらえられなかったのだろう? 次なる「箱」が得られなかったといって、 いや、逆に、 22歳やそこらで、「会社」という次の「箱」を得たからといって、 そんなの、まだまだ「自分の居場所」でもなんでもないよ、と。 自分の「生きる場所」は、これから時間をかけて、 自分の手でつくっていくもんだ、と。 学生の中に、光る答案をみつけた。 その学生は、高校生のとき、あることがあって 「自分の居場所」を完全に失ってしまった。 体重もひどく落ち、心が悲鳴をあげているのに、 だれひとり気づいてくれず、 ほんとうにつらかったそうだ。 いてもたってもいられない状況から、 たぐりよせるように演劇に出会い、俳優を目指す。 しかし、俳優の道もそんなに甘くない。 ある公演で、裏方をやった。 朝から晩まで、寝るまもなく、粗末な食事で くる日も、くる日も、裏方にあけくれる。 俳優という意志に反しての裏方だったというのに、 そこで、彼は、自分の生きる場所を見つける。 公演が成功した時の満足感が、 自分が俳優として出演したときと、 比べものにならないくらい大きかったというのだ。 気がつくと、自分が出演していないそのビデオを、 何回も、何回も、嬉しくて見てしまう自分がいたという。 自分が俳優として出たビデオはそんなに何回も 見られない。 そして、その学生は、「舞台メイク」を通して、 家業の「化粧筆」の製作の面白さを再発見する。 それは、地域の伝統産業であり、 自分と家族、自分とふるさと、 自分と「芝居」をつなぐものである。 さらに、芝居をこえて、ひろく美しさを求める人々と、 自分をつなぐものである。 気づけば、自分と外をつなぐものが家にあった。 高校という多感な時期に、 与えられた居場所を失ったことが、 彼を「生かした」と、私には思えてならなかった。 与えられた「箱」があれば、そこを守るようになる。 しかし、「箱」を追われれば、生きられない。 生きられないから、 生きる場所を自分で開拓せざるを得なくなる。 外の人間とつながるためには、 自分の想いや考えを、なんらかの方法で表現して伝え、 認めてもらう以外にない。 彼のその姿が、 会社という箱を失い、個人としてこの社会に、 生きる場所を求めてもがいてきた自分と重なった。 表現しなければ生きられない。 しかし、自分の思いや考えをさらすことは、 裸を通り越して、 めくれた身体の内側をさらすようなものだ。 そこをたたかれると、とびあがるほど痛い。 でもそこに、通じ合う歓びもある。 広島で4ヶ月をともにした学生たちと別れる時、 その学生も見送りにきてくれていた。 学生たちは、たどたどしく、 思い思いに、この4ヶ月のことを言葉にしてくれた。 それが押さえても、胸をじーんと打った。 短い間だったけど、私たちは、心でつながっていたのだ。 走り出した新幹線の中で、 ふと、自分はどこに帰るんだろう? と思った。 自分は、その4ヶ月、岡山に住んで広島に新幹線通勤し、 東京と仕事をしていた。 終われば、また東京に戻り、 9月からは、講演で、旅から旅へ、そして旅へ。 自分には、 ホームグラウンドもなく、所属する会社もなく、 苦楽をともにする同僚もいない。 自分の居場所はどこだろう? と考えて、 はっきりわかった。 今回のように、仕事を通して、 自分の想いや考えを表現し、通じ合ったとき、 相手との間にできた絆、 それこそが、私の帰るところ、 私の居場所だ。 箱ではない、土地ではない、目には見えないけれども、 まちがいなく、わたしの生きる場所だ。 仕事を一緒にしてきた人との別れがつらいのは、 自分は、その人との間にこそ、生きていたのだから、 他の人が、会社と離れるとか、 ふるさとと離れるのと、同じだから、 あたり前だとわかった。 そう思ったら、あとからあとから涙が出てきて、 新幹線の中で、別れのつらさに声をあげて泣いた。 物理的に離れても、絆は残る。 こうして、これからも、全国あちこちの人との間に、 目には見えない絆ができて、 自分は、そこに生きるんだ、と思った。 それは、自由な気がした。 あなたの居場所はどこだろうか? 未来に、どんな人と、どんな、自分の生きる場所を 築いていきたいだろうか? 最後に、 読者からの、このメールを紹介して、終わりたい。 <生きる喜び> 転職した会社からのメールです。 全9回の 「勉強?それとも仕事?」シリーズ考えさせられました。 「勉強して、金を貰う。」結構なことではないか! 確かに、ココ何年か勉強する機会(期間)は多かった。 そして、ココ数年の勉強期間が 転職への小さからざる理由の一つではなかったか? ところが、ソウはいかない。 居心地が悪いのだ。 もっと大袈裟に言えば、 この地球に、この日本に、この会社に、 このポストに、 この机に、立って生きている実感を持てない。 つまり、勉強では 「自分の根を下ろせない=張れない」のだ。 そして、根を張ってない成長には、手応え、実感がない。 だって、使う当てのない武器の習熟度が上がったって、 何の意味があるのだろう? やはりアウトプットして、 外との繋がりを実感できなければ、生き苦しいと思う。 モチロン、アウトプットは評価とセットなので、 へこむコトもある。(の方が多い) しかし、へこむからこそ、へこまなかった時、 アウトプットを歓迎された時 「嬉しい!」=生きる喜び。 (読者 森智貴さんからのメール) 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2004-09-01-WED
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