YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson228 秒殺の時代を生きる

ここのところ、
「白い巨塔」「砂の器」「黒革の手帳」など、
昔のドラマを、いま風にアレンジしているのが続いている。

ふと、昔のバージョンがみたくなって、
「白い巨塔」「砂の器」と借りて観た。

まず、ぱっと思ったのが、画面が暗い。

っていうか、「灰色」なのだ。
なぜなら、出演者の年齢層がぐっと高い。
出演者には、おじさんというか、
おじいさんという印象の人も多く出てくる。
頭も白く、しわも多く、着ているものも地味なのだ。
また、いわゆる
美男美女ではない役者さんも数多く出てくる。
昭和の体型、親戚のおじさんと変わらないような顔立ち。

こどものころ、リアルタイムで観ていた自分でさえ、
絵になじむのに時間がかかった。
でも、慣れてくると、地味な色彩の中に、
味わい深い、人間模様が、浮かび上がってくる。

一転、現代バージョンにもどってくると、
蛍光灯がパッ!と点灯したように、明るく、華やかだ。

とにかく、出演者の年齢層が圧倒的に若い。
それと、みんなが、モデルのようにきれいだ。
顔やスタイルのつくりが繊細で、
ひと目で人を引く華がある。

テレビ時代になって、リモコンが登場し、
チャンネルをまわされないように、まわされないようにと、
絵が淘汰されていった結果、
この「ひと目で人を引くきれいな人だけの世界」、
になったのかと思うと、しばらくショックを隠せなかった。

美男、美女は、
コミュニケーションをショートカットできる。

テレビの前で、リモコンをかまえ、
「つまんない番組は秒殺するぞ」
とまちかまえている視聴者に、
「この登場人物のおばさんは、一見地味ですが、
じっくりみていくと、とっても味がある人なんですよ」と、
四の五の説明している暇はない。

ぱっと観てきれい、絵で観てきれい、
そういう美男・美女が画面を構成していれば、
目がとまり、一発で画面に引き寄せられる。

この、リモコン秒殺現象は、
当然、テレビから現実の世界へと波及する。

人間なら見た目、ものならパッケージで選ぶ。
その取捨選択に、ほとんどの人が、1日と悩まない。
1時間でもない、ほとんど「秒単位」だ。

みんな悪気はない、ほんとうは「中身」だとわかっている。
でも、情報は多すぎ、忙しすぎ、
それぞれじっくりつきあう暇はない。
だから、いざ、選ぶ段になったら、
現実には、秒単位でわかりやすいものを手にしている。

私自身も、物事を「見てくれ」で選んでは、
そのことに気づいて落ち込み、また、同じことを繰り返し、
情報の海の中で、もがいている。

いまほど人が「外見」でものごとを判断し、
判断される時代はない。

そこでは、四の五の言わなくても、
一発でコミュニケーションできる
「容姿」が、かつてないほど強いカードになってしまった。

今も昔も、美人は強く、
私も、きれいな人は大好きだ。

美男も、美女も、
いるだけで、その空間がうきうきと
幸せな気分になる。

私は、人生の早い段階で、
きれいな人の力は、
素直に認めたほうがいいと思ったし、
心から認める。そこに文句を言うつもりはない。

でも、いま、未曾有の整形ブーム、
年がら年中やっていて終わりのないダイエット、
毎日メディアで繰り広げられる「若返り」の秘策……、
外見依存度が加速している。

しかも、ある、ひとつの狭いパターンにとらわれている。

そのパターンとは、
顔が小さく、手足が長く、
目鼻立ちがくっきりしていること、
そして、若いこと、だ。

これらはいいことだけど、
みんなが、このひとつのパターンにやっきになっていくと、
「きれい」の定義がどんどん狭くなっていって、窮屈だ。

テレビドラマでも、
顔が小さく、手足が長く、
目鼻立ちがくっきりしている人が、主役を演じ、
もっとも性格のよい、もっとも共感のもてる
最後に幸せをつかむ人間を演じる。

だから、顔が小さく、手足が長く、
目鼻立ちがくっきりしている人は、
内面も、生き方もよい、成功をつかむ人だ、という
思考パターンが、無意識のうちに刷り込まれる。

女性だけではない、
最近読んだ、ノンフィクションの恋愛もので、
主人公の男性が、恋する女性と付き合うために、
涙ぐましいほど、
自分のパッケージに気をつかう現実がある。

髪は、どこで切るか? 
床屋じゃなく、美容院で。
切った髪は、どうスタイリングするか?
ワックスはどう使う?

洋服は何を着るか? どこで買うか?
ジャケットひとつ買うにしても、あのブランドはNG、
このブランドならOK。

食事は、どこにいくのか、
こういう系統の店はダサい、こういう店ならOK。

この時代にあって、彼のアプローチは正しい。
いくら内面がよくても、
パッケージを、ある水準以上にしておかないと、
ふりむいてくれない女の子が多いからだ。
まずパッケージ、それから内面、それが現実。

みんながそれをわかってしまっていて、
自分のパッケージに気をつかいすぎるほどつかい、
パッケージを磨いていくことで、
さらに水準があがっていく。

この延長に、どんな世界が待っているのだろうか?

先週、九州大学に講義に行った。

約4時間におよぶ講義とワークショップのラスト
選ばれて前に出た学生たちが、
印象に残る、ほんとうにいいスピーチをした。

それは、時間を延長したため、
注意をしにきた建物の管理者が、
スピーチの面白さに、注意をするのを忘れ、
思わず1時間聞きいってしまったほどだった。

約100名の学生のなかには、
1年生もいる、4年生も、大学院生もいる
卒業生まで乱入してきていて、
まさに「大学」、熱気の坩堝だった。

前に出て、スピーチをした学生たちは、
その「場ヂカラ」をみごとにつかんでいた。

「予定調和」のスピーチがひとつもなかった。

よく、言うそばから、
「この人は、次、こういうことを言うだろうな」
というのがわかってしまう人がいる。
あれは、なんだろう?
あるいは、途中までいい線言っていたのに、
最後は、とても無難な一般論でオチをつけてしまい、
聞いていて、「あーあ、最後のまとめはいらなかったな」
と思うようなことがある。
「場」と対話せず、
自分に仕込んだもので勝負するからだろう。
あるいは、途中まで、場と対話しても、
不安になって、また、自分の殻にひっこもるからだろう。

この日の学生は、
自分をよくひらいていた。
聴衆をよく信頼して、自分を投げ出し、
聴衆から引き出されるものを感じとり、
そこで、自分の奥から生まれる言葉を大事にしていた。

だから、聞く側は、
いい意味で、次なにを言うか予測がつかない。
注視し、そこで生まれる新鮮な言葉に目を輝かせ、
「もっと、もっと」と引き出しにかかる、
発表者もそれを感じて、さらに自分の殻を破る。

若い人の、こういうライブ感覚は、
ときに、くやしいほどだ。

最後までスリリングで、熱のある、
そして、胸の深いところに入ってくるスピーチだった。

その感想を、聞いていた女子学生の一人が、
「恋をする」と形容した。

「1人が前に出て発表をすると、その人に恋をした。
また次の人が発表をすると、その人に恋をした。
1人発表するたびに、恋をしてた」と。

決して不謹慎ではない、
とてもきれいな気持ちで言っていることを
信じてほしい。
その感覚が、よく理解できた。

この日のテーマは、
「はじめての人に自分をどう説明するか」。
自分という存在の「真ん中」にあるものを、
いかに表現するかが肝だった。

そして、この日のゴールを
「本当の想いが言えたという自分の実感」に置いた。

そうはいっても、ふだんの生活では
なかなか、「本当の想い」を表現することはできない。

自分の内面に、ひろく、深く、問いかけ、引き出し、
整理する作業が、どうしても必要である。
それが、「考える」という作業である。

ワークショップで、
2人1組のインタビュー形式で、
学生たちが自分の過去、現在、未来、
人や社会の関係に質問しあっていく。
すると、自分でも
思いもよらない本心が口から出ることがある。
そのときは、インタビューする学生も、言った方も、
「あ、いま、おもわぬ本心が出た!」とわかる。
なぜか、同時にわかる。

そのようにして、時間をかけて、丁寧に内面に問いかけ、
引き出した果ての、学生のスピーチは、
ふだんの学生には見られないような、
深い、本当の想いに貫かれていた。

そのようなスピーチは、
聞いていて、はっと、
言葉が、胸の深いところに入ってくることがある。

確かに、初対面の人であるのに、
自分の身近な人よりも、もっと近い距離まで言葉が届く。
不思議な懐かしさのようなものを感じる。

その人の、想いの深いところに触れ、
切ないような、なにか、どきどきするような、
共鳴するような感じを受けたり。

その感じを、
女子学生は、「恋をする」と形容したのだと思う。

人の深い想いにふれると、
容姿は気にならなくなる。
いや、「容姿が立ち上がってくる」と
言ったほうがふさわしいか。

明らかに人目を引くような容姿ではない人でも、
その人が想いを語り、
自分がそれに触れ、共鳴したときに、
その人の外見までもが、独特の存在感をもって、
自分の中に立ち上がってくるときがある。

「あっ、気づかなかったけど
この洋服、この人に似合っている、<らしい>な」とか、
「この無骨さが、なんだかユーモラスで味があるわ」とか、
「なんかいい、この人いい!」というふうに、
それまでの自分の外見の好き嫌いの殻を破ったところで、
その人の存在が、自分の中に立ち上がってくる。

こういう感覚は自由で、ひらいて、いる。

人の内面がわからないうちは、
私たちは、外見にとらわれ、外見で判断するしかない。
それが、加速していく世の中だからこそ、
自分の想いを表現できる人は強い。人の心をつかんでいる。

音楽をする人や、小説を書く人は、
容姿に関係なく、人の心をつかんでいるが、
あれは「音楽だから」ではない、「小説だから」でもない。
自分の深い想いを表現している、できる、からだ。

学生のスピーチのように、
ごくふつうの人が、ごくふつうに、丁寧に考え、
自分の本当の想いを、口にした。
ただそれだけで、人の心をときめかせる。

いまの人が、若返りとか、小顔とかに走る
何分の一かの情熱で、パッケージよりも、
自分の想いを、自分の言葉で、どう表現するかに、
一生懸命になったなら、

いまよりずっと、容姿のとらわれから自由になり、
恋のようなときめきに、日常、
胸を躍らせて、生きていけると思う。




『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2004-12-15-WED
YAMADA
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