おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson230 「アイ」が表せない 2005年、初更新です。いかがお過ごしですか? ちかごろは、こんな電話のやりとりにも すっかり慣れた私です。 「もしもし、山田ズーニーさんのお宅でしょうか?」 「はい。」 「あの、ズーニーさんは?」 「はい。」 「あのぉ、ズーニーさんをお願いしたいんですが…」 「はい、私です。」 「えっ、あっ。…………(絶句)」 私の性別を間違えている人が、 まだ過半数はいるみたいだ。 性別と言えば、昨年来、気になっていることがある。 ちかごろ、女子よりも男子の方が、 ことばの印象がきれいな気がするのは、私だけだろうか? あくまで、自分の経験した狭い範囲でのこと、 主観的なものなのだけれど。 学生さんとか、若い人と接していて、 文章を読んだり、しゃべったりしたあとの印象が、 男子の方が、ふわっとやさしく、 繊細で、きれいな感じがする。 女子の方は、ここへきて、なんというか、もうひとつ、 存在が立ち上がってこない感じなのだ。 とくに、しゃべる言葉が、 ごめんなさい、私も含めて、 妙にバサバサした汚い印象を受けることきがある。 なぜだろう? いままで、むしろ、私には、 女性の方が、表現が豊かという頭があった。 だから、つい最近、そう思い始めたら、 ずっとひっかかっている。 あんまり、私がこれをしつこく言うものだから、 友人が、こんなことを言った。 「女の人が、自分を表現する言葉がないのでは?」 その友人は、 ある劇作家の言っていたことを、 こんな風に教えてくれた。 「たとえば、<出て行け!>という台詞を、 英語から日本語に翻訳する場合。 英語だったら、<出て行け!>は、 女が言おうと、男が言おうと、表現は同じだ。 ところが、日本語に訳すとき、 男が言うか、女が言うかで、表現が変わってくる。 男だったら、<出て行け!>で、そのままだ。 だけど、女が言う場合、<出てって!>となる。 ところが、これでは、意味まで変わってしまっている。 <出て行け!>は、「命令形」。 <出てって!>は、「お願い」。 女性語に訳すとき、意味まで変わってきてしまう。」 それを聞いて、自分自身が感じていた、 言葉に対する不具合が何なのか、わかったような気がした。 私は、英語でいう 「I=アイ」にあたる言葉を探しているのだ。 自分にしっくりあった言葉を。たぶん、ここ数年来。 「私」という言葉があるじゃないか、と思うだろう。 もちろんそれで、ほとんどはやっていける。 でもときどき、この1人称「 I = 私」から はみ出す自我がある。 男性には、「私」のほかに、「ぼく」、「オレ」がある。 男子の学生に、文章を書いてもらうときも、 「1人称 =私」で書かせるときと、 「ぼく」、「オレ」で書いてもいいときとでは、 出てくる言葉もずいぶん違うように思う。 つまり、「1人称 = 私」では、あらたまってしまい、 「ぼく」、「オレ」でないと、解き放てない自我がある。 なのに、どうして、 女性には、 「ぼく」「オレ」にあたる言葉がないんだろう? 「あたし」も「あたい」も、ちょっとはすっぱな印象で 自分とは遠い1人称だ。 「わて」とか、「あて」もちがう。 生まれてからずっと、ふるさとの方言で、 「1人称=うち」をつかって育った。 もっともなじんだ1人称だった。 しかし、それは、標準語社会に通用せず、 とくに東京にきて10年するうちに、 まったく使わなくなった。 いまさら、「1人称 = うち」に戻ろうとしても、 あのころとは、ずいぶん、 内面も生き方もちがう。もとには戻れない。 「ズーニーは」というように、 「1人称 = 自分のなまえ」を自分で言ってカワイイ歳は とっくに過ぎている。 先ほどの、「出て行け!」の話にもどると、 では、普通に女性にこの言葉を言わすなら、 どう訳したらいいのだろう。 「出て行ってください!」でもお願いになる。 「出て行きなさい!」でもやさしい。 そのまま、「出て行け!」と言わせたなら、 よっぽどキツイ女性か、よほど苛立っているか、 とにかくキャラに影響が出てしまう。 そこには、「出て行け!」のような強い命令は、 女性はしないものである、とか、 あってはならない、という考えが見てとれる。 いまのように、会社で女性がボスに就任するなど、 予想もできない時代に育まれた感覚だろう。 文化や社会の中で、 女性は、あるべき「女らしさ」の制約を受けてきた。 以前は、政治に参加できなかった。 お母さんのころは、就職や進学の機会を阻まれた。 私が社会に出る80年代にも、 「女の子は花嫁修業をすれば、別に働かなくても」とか、 「結婚したら、会社を辞めるもの」 というようなことを、まだ、さんざん言われた。 それから20年。 いまは、大学を出る女子にも「就職はどうするのか?」 と当然のように聞かれるようになった。 こんなに、男女が同権で働ける社会がくると、 祖母の世代は、予測できたろうか? ジェンダーの面では、この何十年かで女性は めざましく自由になった。 でも女性の「言葉」はどうだろう? それに見合うだけ、自由になっただろうか? 自分自身を考えてみて、女性の生き方の変化に、 言葉の方がおっついてきてない気がする。 たとえば、この会話、 あなたは、どちらが女だと思いますか? A 「コンセプトは悪くないけど、 落とし込みが甘いんだよ。」 B 「わー、ごめんなさーい!」 A 「いや、謝らなくていいんだよ。 基本的にこの路線はOKなんだから。」 B 「あぁ、うれしいです。そう言っていただけで…。 なんだか、考えすぎてしまって…。」 A 「だろうね。ここ、データがほしい。 客観的に判断できるから。」 Aは私。れっきとした女。Bは20代の男性だ。 会社では、こんな会話が日常茶飯事だった。 20代、30代を企業戦士として駆け抜けたら、 私の言葉は、こんなふうに、 どうも、「女」ではなくなっていた。 自分でも、これじゃいかんな、と思って、 途中で女らしくしようとしたことがある。 そのときお手本にしようとしたのが、 昔の映画の、原節子さんとか、浅岡ルリ子さんの言葉で。 ほんとうにきれいな女性の日本語で、 あこがれて、自分でもああいう言葉を使おうとした。 でも、これは、やはり、「男は仕事、女は家庭」と 言われていた時代の女性に即した言葉だ。 生き方が違う、自我がちがう。 どうにも、仕事の現場に置いてみてそぐわない。 先ほどの、ABの会話で、 私の言葉は、確かに「女」じゃないけれど、 かといって、男になりたかったわけではない。 言葉を機能的にしようとしていたのだ。 とにかく30代は鬼のように仕事があった。 しかも、読者や、チームのメンバー、 社外のスタッフに対して責任は重い。 動かしているお金も大きい。 新人が、「わー」とか、「あぁ、」とか、 「…」と言葉をつまらせるとか、 情緒的な表現をしているのに対して、 私の方はドライだ。 情緒を含むと言葉は重くなり、 スピーディーに回転しない。 伝わり方にもブレが出てくる。 論理的にものを考え、効率的に進め、 意味を考え、指示を出し、 決めることを決め、責任を取り、 メンバーを守り、泥をかぶり、修羅場をくぐり、 そういう自我で、ものを考え、表現しなければならない というときに、女性ならではの、 うまい表現が見つけられなかったのだ。 なにしろ、女性が、これだけ社会進出することなど、 私たちは、かつて経験したことがない。 それで、男性が長い社会生活の中で、 培ってきた仕事の言葉を、使わざるを得なかった。 当然これは、男が使ってきた言葉だから、 女が使うと習慣に触る。汚くうつったり、 殺伐とした印象になる。 かといって、女らしい言葉にしようとすると、 それは、「男は仕事、女は家庭」の時代に育まれた言葉、 どこか、働く自分のメンタリティーにそぐわない。 それで、私自身が、 両者を揺れながら、自分の内面にふさわしい 働く女性にふさわしい新たな表現を、 ずっと模索しつづけているように思う。 企業にいた自我と、フリーランスの自我もまた違う。 だから、試行錯誤はつづく。 私の文章が女でなく、男でなく、 中性的な印象を与えるのは、 このような背景からではないか? 若い女の子が、ひところ、 「1人称=ぼく」を使ったり、 急に言葉が乱れたり、ときに汚い印象に聞こえるのも、 ここ何十年かの、女子の生き方・社会での位置の変化に 言葉がおっついてこなくて、 もどかしいのかもしれないな、と思う。 私も、「ぼく」を 女性も1人称として使えるようにできないか、 と真剣に考えたことがある。 男性と同じ仕事をして、フリーランスでやっていると、 男性と同じようなことを悩み、 男性と同じような雄々しさをもったり、 所在無さを抱くことがある。 そこで生まれる新たな自我を、 まだ女性特有の表現にできない。 そういうときに、「1人称=私」よりも、 「1人称=ぼく」で思考し、表現したほうが、 いまの自分の内面に近いと思うことが、ときたまある。 でも、もし、実際に、「1人称=ぼく」を使うとなると、 習慣に触るから、まともにとりあってはもらえない。 一度、「1人称=ぼく」で、文章を書いてみたら、 どんな自分が出てくるか、やってみようと思ったが、 やっぱり、長年、これは「男」のものだという 自分の中の習慣性が邪魔して、すぐに挫折してしまった。 やはり、男性の「ぼく」「おれ」に相当するような言葉を 女性独自に新たにつくるのがいいのかもしれない。 働く女性にふさわしい、内面を解き放つ1人称を。 そうすることで、より自由になれるのではないか。 ひらがなを発明した女性だもの、 新しい1人称ぐらいつくれそうなものだが。 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
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2005-01-12-WED
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