おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson234 「通じ合う」という問題解決 大学の講義で、一度だけ、 「殴られる!」と思ったことがある。 「センセイ! 先生! 来て!」 講義室のうしろから、ただならぬ声がし、見ると、 大柄の男子学生(ここでは仮にダイタくんと呼ぼう) 代田くんが、もう一人の(仮にホソヤくんと呼ぼう) 細谷くんの胸ぐらをつかんで、 まさに、殴る寸前だった。 代田くんの目はつりあがり、 こぶしをふりあげ、そこで、ようやっととどまっている。 ぎゅーっとつかまれた細谷くんの Tシャツの首のところは、のびきっている。 代田くんの怒りの緊張感が、 まわりにたくさんいる学生をすくませている。 その緊張の糸は、いつ切れてもおかしくない。 フリーランスで、コミュニケーション・文章表現の インストラクターをしている私は、 大学からも依頼があれば、非常勤講師として行き、 文章の書き方、話し方、コミュニケーション論、 編集術などの講義を持つ。 さまざまな大学に行ったが、こんな場面は初めてだ。 私は、びびって、いた。 どうしよう……、どうしよう……。 「教室で教師が刺された」というような 嫌なニュースが、頭をよぎる。縁起でもなく。 私が行くと、学生たちの、 「センセイ、なんとかして!」という無言の視線が、一斉に 私に集中し、突き刺さる。 一目見て、「もう言葉は通じない状況だ」と思った。 私は、代田くんのことは信じている。 でも、人の感情のメーターが振り切れたときの行動は、 たとえそれが自分のものであっても 制御しきれないと心得ている。 私が彼だったら、ここまで感情があらぶったら、もう、 だれに何を言われても、だめだ。 むりやりにでも、 この場から身を引き離し、どこかに出ていくとか、 数をかぞえるとか、時間を置くとか、 言葉じゃない部分で感情を静めないと、 もうどうにもならない。 それどころか、ここで、かける言葉をまちがったら、 代田くんの、最後の我慢の糸を切ってしまう。 いったいどんなコミュニケーションが 代田くんに通じるのか? もうかなり前の、この一件を思い出したのは、 このところずっと、単行本やテキストの執筆のために、 「人を動かす言葉」について考えていたからだ。 「お願い」「おわび」「人を励ます」「誤解をとく」など、 もう一度、コミュニケーションの基礎に立ちもどって、 自分自身の人生のたなおろしをしながら、 現実の中で、「実際に人が動いた言葉」、 「私自身ほんとうに動かされた言葉」をたどっていた。 たとえば、「人を励ます」というシーンで。 以前ここにも書いたが、私は、母が病気のとき、 「はやく元気になって」を突きつけすぎてしまい、 母を、かえって威圧してしまったことがある。 落ち込んでいる人を励まそうとすると、 つい、何かアドバイスしなければと私たちは思う。 アドバイスだと、 どうしても相手より目線が高くなりがちだ。 相手を一段、高いところから見たり、 相手の非を指摘したり、 相手に変われ、と押しつけたりしやすい。 私も、母に「はやく元気になれ=変われ」 と押しつけてしまっていた。 それが、すぐには元気になれない=変われない 母を追いつめてしまっていた。 現実に、母を支え、回復に導いたのは、 担当医の、一見、励ましとは、真逆にあるような言葉、 「もとのようには元気になりません」という言葉だった。 周囲が病気を忌み嫌い、母と一日もはやく切り離そうと 焦っていたのに対し、この医師の言葉には、 「病気がある日常も、また自然のこと」と 受け入れる根本思想があった。 だから、母は安らぎを覚え、この言葉を大切に胸に抱き、 落ち着いて、病気のある現実に向かい合えたのだ。 これまで、私自身、励まされて、かえって プライドが傷ついた言葉や、 ほんとうに元気になった言葉を思い返すと、 「人を元気にしてやろう!」などと思った時点で、 もう、なにかエゴが入り込んでくるような気がする。 それよりも、同じように、悩んだり、もがいたりしている 友人の言葉に、ふっと、力が湧いてきたり、 ふと自分に向けられた、深い理解に、気持ちが落ち着いて 結果的に、力がもどってきた記憶のほうが強い。 代田くんの話にもどって。 後から聞くと、代田くんが怒ったのは、 代田くんが書いた文章にたいして、 細谷くんが言った、たった「ひと言」だったそうだ。 それだけに、ものすごく 大切にしていた部分に触ったのだろう。 一触即発の状況で、 私は、代田くんに、「落ち着け」とさとす代わりに、 私自身が、できるだけ落ち着いたふりで、その場に座った。 彼らを刺激しない程度の距離だけとって、そばに、 ただ、だまって、じっと座っていた。 一時は騒然となった講義室、 ちょうど、グループにわかれて作業をしていた途中だった。 わたしがなにを言うかと期待していた学生たちも、 あきらめて一人、また一人、と作業にもどっていった。 代田くんのグループの学生も、 気もそぞろなんだろうけれど、それでも、 一人、また一人、と作業にもどった。 ふと気がつくと、代田くんは、 細谷くんの胸倉から手は離していた。 しかし、煮えくり返ったはらわたが おさまらないという感じだった。 机に座ったまま、みじろぎもせず、前方を睨みつけている。 全身から、怒りがたぎっている。 方向を失った怒りは、たまり、よじれ、だんだんと、 私に向かっているようだった。 やがて、時間が来て、 私は講義のまとめをし、講義は終了した。その直後、 代田くんが、ものすごい剣幕で 私のほうに近づいてきた。 講義のレジュメを投げつけて、 その土地の言葉で、こういう意味のことを言った。 「この講義はなんだ! 人に文章かかせて、ばかにさせて!」 代田くんは、ここで一気に、 やり場のない感情の全部を、 はっきりと私一人にぶつけてきた。 私はもう、黙ることも、逃げることもできない。 彼は、「言葉」を求めている。 もうちょっとで、理性が振り切れそうな代田くん、 私は押さえようとしても、身がヒクヒクする。 ここで、かける言葉をあやまったら、今度こそ、 私は殴られてもしかたがない状況にいた。 いったいどんな言葉が彼に届くというのだろうか? たとえば、「誤解を解く」というシーンで。 「それは誤解だ」が、 なかなか通じないのはなぜだろう? 誤解をしてきた時点で、相手が疑っているのは、 その事実がどうのこうのよりも、もう、 こちらの人間性だ。 つまり、相手から見た自分の信頼性が ゆらいでいる。だから、自分の言葉も、 ふだんのようには信じてもらえない。 そこへ向けて、誤解されたら、こっちは、 それを訂正しようと、必死になって、 「それはちがう」「嘘をいうな」 とやってしまいがちだ。 相手からみると、これは、 自分の言うことを、 片っぱしから否定されまくっている状態だ。 あげく「証拠をみせろ」 「いいかげんなことを言うな」 とやると、もう、 相手は自分の判断力まで否定されているように感じる。 だから、ますます、言葉が通じなくなるのだ。 私も昔、会社にいたときに、後輩のTちゃんから、私が、 彼女の企画をかげでけなした、と誤解されたことがある。 まったく身に覚えがなかった。 身の潔白を証明しようとして、 つい、キツイ言い方をしてしまった。 Tちゃんは、結局、信じるとは言ってくれたが、 自分の言い分を強く否定されたためか、むっとしていた。 それよりも、常日ごろ、 私は彼女の発想はとてもいいと思っていた。 だから、事実の究明なんかよりも、さきに 私が、あの企画を本当にいいと思っていたことを 彼女に伝えてあげればよかったと、いまでも思う。 もし、あのとき、代田くんに、 (あのときは、夢中で、 そんなこと考える余裕はとてもなかったけれど、) 「なんだこの講義は!」と言われて、杓子定規に、 「いや、それは違う、ちゃんとした講義なんだ」 とばかりに、講義のねらいや効果を説明してみても、 どんなに配慮や努力をしたと言ってみても、 代田くんは、自分の言葉をまたも否定された感じで よけい腹がたつだけだったろう。 現実には、あのとき、いっぱいいっぱいの 私の口から、とっさに出てきた言葉は、 代田くんの質問にもなにも答えていない、 前後の文脈にも、なにも関係のない唐突な言葉だった。 私は、代田くんが以前、ある課題を書いていたとき、 もう、まったくのお手上げの状態になって、 どんな風に突破口をつかんで、 どんな風に文章を完成させたか、とか。 先日の課題で、代田くんが、 最初に書いたものはどうだったか、 改作したものは、どうよくなったか、とか。 要するに、私がいままで、見てきた、 代田くんの文章への取り組みの真摯なところ、 代田くんの文章の、どういういうところを どんなふうにいいと思ってるか、 うそのない気持ちを一気に、まくしたてた。 誇張でもなんでもなく、私の目の前で、 はらわたから全身にはみだしていた代田くん怒りが、 みるみるしずまっていくのが見えた。 代田くんはうなずいて、 「納得するところもあった」と言った。 たぶん、講義の中に納得するところもあったという意味で、 言ってくれたんだと思う。 ずっと講義室に張り詰めていた緊張は、 あっけないほど、あっさり、解けた。 「お願い」も、「おわび」も、 「人を励ます」のも、「誤解をとく」のも、 技術はもちろん必要で、私もそれを仕事にしているのだが、 細かいことよりも、何よりも、 どっか、なにか、相手と心がつながる所を見つけ、 しっかり「通じ合う」ことが、 いちばんの問題解決ではないかと私は思う。 落ち込んでいる人は、励まさなくても、 たった一人、心が通じ合う人がいれば、力が湧くし、 事実の究明よりも、相手と通じ合えれば、 誤解は解けはじめている。 そつのないおわびも、一瞬も相手と通じ合えなければ、 ストレスになるし、 私自身、「受けたい!」と思う依頼文は、 文章の中の必ずどこかに、私の仕事への適確な理解がある。 逆に、気持ちの通じない人との仕事はとても疲れる。 ストレスとは、 自分の想いが、うまく通じていない感じから 起こっているのではないだろうか? 今日、あなたが、だれかと通じ合うことには、 莫大な価値があると、私は思う。 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
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2005-02-09-WED
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