おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson236 相手の気持ちを考えない勇気 メールを送信しようとして、 まだ、相手から返信がきていないことに気づいた。 立てつづけにメールを出すのもどうか? いつのまにか、自分は、メールは、たてつづけに送らず 相手からの返信を待って、次を出すようになっていた。 それで、相手の返信を待ってから送信しようと、 保存しかけて、ふっと、思った。 これは、「メール」だよ。 しかも、なにも変なことなど書いてない、 むしろ、いい内容なのだ。 「メール」で、 そこまで気をつかわなければいけないんだろうか? もともとメールは、相手と距離をとるための道具だ。 いきなり、相手の家に訪ねていくわけではない。 電話より、全然、相手の邪魔なんかしてない。 「送っておくから、 ご都合のよいときにお読みください」という感じの、 きわめて遠慮がちな通信手段だ。 その遠慮がちな道具で、 さらに、相手に遠慮している自分に気づいた。 ここまで遠慮して、どうする? 私。 この前、ちょっとうまく行かないことがあり。 「どうもうまく行かなかったな、しばらく距離をおこう」 と考えた。とたんに、自分が自分にツッコンだ。 また、距離? 「しばらく距離」ばっかりとってるんじゃないの? 私。 「しばらく距離を置く」、 人間関係がうまく行かないときの得策のように 言われているけれど、 ほんとに距離を置くことが いいことなんだろうか? その間、閉ざされてしまう想いとか、 それで、薄れていってしまうものとか、 そもそもなんのために距離を置いたのかさえ、 忘れてしまうこと、とか。 なんか、縮こまっているなあ。 ニュースなどでは、 「相手の気持ちを考えない」若者の犯罪とか、 「相手との距離をわきまえない」ストーカーとかが、 目立つから、話題にされる。 だから、もっと相手の気持ちを考えよう! と、ここで、言うべきなのかもしれない。 でも、学生とか、実際、私が接してきた若い人には、 そういう、「ずけっ」とした人が思いあたらない。 むしろ、家族や友人にまで、とても気をつかう、 優しい、いい子が多い。 なにかひとつ、 私に頼むにしても、私に負担にならないように、 メールには、絵文字でちゃかしながらも、 「忙しいのに、ほんとにごめんなさい」とか、 「ありがとう」が何度も、何度も、書いてある。 そんなに気をつかわなくていいのにと思う。 むしろ、相手の気持ちは考えすぎ、 距離は取り過ぎている。 その方が問題ではないだろうか? このところ、自分のまわりで起きた すれ違いを考えてみると、 相手の気持ちを考えない、というよりは、 むしろ、相手の気持ちとか、 相手がどう想うかとか、 お互い、考えすぎて起こっているように思う。 ふたをあけて、話してみると、 「こうしないと、 あなたがいやがるだろうと思って、 わざわざ、こうしたのに」 「私だって。 あなたにとって、いいだろうと、 配慮して、気をつかって、 あえて、こっちを選んだのに」 という感じで。 一見、自分のことを考えていないように見える相手も、 実は、かなり 自分に気をつかってくれていることに驚く。 自分も、気がつけば、 相当、人に気をつかって生きている。 生きていることに、はっとする。 ただ、お互いの気づかいが、それぞれ 自分にしてほしいと望んでいることとズレている。 だから、お互いのことを 考えていないかのような錯覚が起こる。 お互いのことを考えすぎて、 それで動きづらくなったり、 本来の方向からズレてしまったり。 自分も相手も、 息苦しくなっている。 「人間関係は目的ではない。」 以前、読者の方から教えられた この言葉を身に刻む。 「遠慮などするものではない。」 画家をしている友人に、 自分が、いい、美しい、面白いと思ったことに 遠慮などするものじゃないと、 厳しく教えられたことを思い出す。 「相手のこと」を考えすぎると、 嫌われるのを恐れたり、相手に執着したりして、 結局は、ぐるっとまわって、 「自分のこと」を考えてしまうことになる。 いま、自分に足りないのは、 「相手の気持ちを考えない勇気」かもしれない。 つまり、自分はどうしたいのか? 自分は何をいいと、美しいと、面白いと思うのか? いま、この時間、この空間に、 どういう生き方をすれば 自分は、自分で気が済むのか? それを出しきって、 相手にぶつけてみる前に、 もう、相手の出方を読んで、 相手の志向を、先回りして、 そっちにあわせておこうとする 小ずるい自分がいた。 ふたたび、メールにもどって。 まだ返信がきていない相手に、 このメールを出すか、どうか考えた。 ちょっと長いメールを出したり、 立てつづけにメールを出すくらいのことで、 こんなくらいのことで、相手に負担ではないかとか、 しつこいと思われないかとか、 自分は気をつかっているんだな、 臆病という側面もあるな、と思った。 でも、そういう縮こまりも、そろそろ飽和状態だ。 それよりも、自分はここで、どうしたいのか? ここで、 考えていることを伝えたいのか?伝えたくないのか? ここで、どういうふうに相手に向き合うことを、 自分で良しと、美しいと、面白い、と想うのか? すごく小さなことだけど、ちゃんと考えてみた。 そして、これがいい! 面白い! と思ったことに、遠慮をしてはいけないのだと思った。 送信ボタンを押したら、とても、すっきりと元気が出た。 この程度のことで、引く相手なら引けと思えたし。 そんな心の体力のない相手ではない。 うるさいと思ったら、まず、私にそう言ってくれる。 なぜか、そこは、とてもすっきり信頼できた。 それで、このあと、 自分の望むような反応が返ってこようが、こまいが それは全然かまわない。それでいいのだと芯から思えた。 これが、捨て身になるということでもあるし、 相手を信じる、ということでもある。 自分のことを考えきることが、 ぐるっとまわって、相手の意志を尊重することになる。 相手が、自分の望む反応をしないと怨んだり、 相手への執着がなかなかあきらめられないのは、 相手に気に入られようと思って、 不本意なことをするからだろう。 もっと、自分の想ったことを表現すればいいのだと思う。 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
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2005-02-23-WED
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