YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson240 「想いを話す」という自己教育

先週、ワークショップをやった。
最後のスピーチで、

「健康」について話した、若い女性がいた。

彼女は、その人生の中で、
「健康」を大切に思い、
人の「健康」をサポートしたくて、
スポーツ・クラブで働きはじめた。

しかし、
しばらくして疑問がわいてくる。

「これが健康な状態と言えるのだろうか?」

多くの人が、まわりの人と話そうともしない。
仕事帰り、疲れた顔でやってきて、
独り、ランニングマシンなどの機械に向かい、
苦渋に満ちた顔で、黙々と今日のノルマをこなし、
だれとも顔をあわせず、
独り、また、黙々と帰っていく。

「これが、自分のサポートしたかった健康だろうか?」

つきあげる違和感の中、
彼女は、考える。

「人が健康な状態であるとは、どういうことか?」

考えて、彼女は、
人が健康であるとは、「笑い」がある状態、
という、極めてシンプルな、自分の答えにたどり着く。

気づけばそれが、
健康に関する仕事をしようと決めたとき、
そこに、彼女が込めた「想い」だった。

彼女は、その「想い」に気づいてから、
たとえば、ストレッチなどをする際、
できるだけ、まわりの人に話かけるようにし、
できるだけ、まわりの人を笑わせるようにした。

そこにいる人たちの、
明るい「笑い」を見ているうちに、
これこそ、自分の志した「健康」であると想う。

いま彼女は、「人が笑っている」という、
彼女の目指す「健康」の世界観に向かっている。

そのスピーチを聞きながら、
私自身が想う「健康」とは、
まさに、こんなふうに、
人が「自分の本当の想いを話せる」状態だとおもった。

ここでは、すべて紹介できないが、
この日も、生徒のみなさんのスピーチは、
一人一人、まったく違う色を放っていて、
予定調和がなく、最後まで、次、
何を言うかスリリングで、胸を打たれるものだった。

講義や、ワークショップでいつも想う。
人が「本当の想い」を話すとき、
常に、予想を裏切って面白い。

面白い話をしているのではない。
本当の想いを話したら、面白いのだ。

本当の想いを話せ、と言っても、
ふだん、私たちは、あまりにも
層の浅いところから、声を出している。
だから、話すほうにも、聞くほうにも、
なにか寂しさが残る。
顔をあわせても、「出会えて」ない。

でも、2人1組のインタビュー形式で、
その人の、いま、興味があることにはじまって、
その人の過去、現在、未来、
その人と他者との関わり、
その人の仕事へ、テーマへ、世界観へと、
ていねいに「問い」を立てて、

「想い」を掘っては引き出し、掘っては引き出し……、
引き出しては、整理して、その果てに、
やってもらうスピーチは、

想いと言葉がぴたっと一致して、
「声」まで変わってくる。

話す方も、聞く方も、顔が輝いてくるのは、
話のうまさや、完成度ではなく
想いの深い層から発する「声」に、満足しているからだ。

自分の想いを、掘って、掘って、掘って…、気づいて、
引き出して、整理して、言葉とぴたっと一致させる作業、
それが、「考える」という作業だ。

「考える」という作業は、
ちっとも高尚なものではなく、
ていねいに、問いを組んで、自分に問いかけ、
正直に、問いと答えを積み重ねていけば、
だれにでも出来る。

ただ、このごろ、
ワークショップをやっていて思うのは、
自分の「本当の想い」を知るためには、
他人を必要とするんだな、
「考える」という作業は「人」を必要とする、
ということだ。

「考える」という作業は、ひとりぼっちでもできる。
むしろ、孤独にやった方がいいと、私は思っていた。

しかし、2人1組のインタビュー形式で、
聞き手が、相手の想いを引き出していくようにすると、
予想以上に、本人も気づかぬ本音を引き出せることに
気づかされた。

たぶん、ひとりで、自問自答している分には、
自分自身だという甘えもあり、
「想いを言葉化する」努力を
怠けてしまうからではないか。

たとえば、冒頭の女性だったら、
自分の目指す「健康」の世界観を、
自分独りで考えているよりも、
インタビュー相手に伝えるほうが、
よっぽど言葉化に力を使っているはずだ。

親しい友人や家族でなく、
自分と距離のある相手ほど、
言葉化の能力は、フル稼働する。

また、相手は、人間なので、
反応が、表情や態度に表れる、
その反応が、また、自分の想いに気づかせ、
もっと深い想いを引き出していく。

さらに、「みんなの前で話す」と、
「言葉化」するエネルギーはどっと強くなり、
みんなの、表情や、態度、
その「場」の力で、さらに、自分の本当の想いに、
気づかされ、引き出されていく。

人前で、本当の想いを話す。

これは、予想以上に教育効果が高く、
また、歓びの深い行為だと、私は思う。
話すまでは、おっくうだし、恥かしくもあるけれど、
実際話してみると、予想以上に気持ちいい。

いま、勉強熱心な人が多い。

でも自己教育とは、何だろうか?

自己教育というときに、
足りないものを「吸収」しようとしている人が
多いように思う。

でも、みんな、もう、充分多くを吸収している。

足りないものを吸収しないことより、
自分の中にたまったものを出さないことの方が、
ずっと体にわるいように、私には思えてならない。

また、自己教育と称して、
「欠点」を克服しようとしている人も、
とても多いように思う。

「変わらなきゃ」という声をよく聞くし、
「自分の悪いところがあるなら言ってほしい」
という人も多い。
ズバリ自分の欠点を言ってくれる人を
ありがたがる傾向も強い。

でも、何が欠点かは、
自分の目指す方向によって変わってくる。
冒頭の女性のように、
同じ「健康」の仕事に関わっていても、
「笑い」のある方向を目指すのか、
「体の機能アップの最短距離」を目指すのかによって、
必要な能力も、欠点も変わってくる。

なにが「欠点」か? 何が「才能」か?
出してみるまで、実は、だれにもわからない。

出す前に、何を「変える」というのだろう?

あとは、「出すだけ」、つまり、
あとは「自分の想いを出す」だけになっている人が
とても多いように思う。

いま、無気力に見える人ほど、実は、
吸収も充分、自分を変える必要もなし、想いがたまって
あとは「出す」だけ、になっている人は
多いんじゃないだろうか。
出番のベルはとうに鳴っている。
遅すぎることは決してない。

自己教育として、もし、なにかはじめてみるとしたら、

今日、自分が本当に想っていることを、
だれか「人に話す」ことからやってみませんか?



『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2005-03-23-WED
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