おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson246 「払う」感覚 その日。 午後1時の打ち合わせに、 まにあうように、私は、駆けて行った。 でがけにお風呂にはいったのと、 その日は、ひどくあつかったのと、 急速に、水分が失われていく。 電車に間にあって、息をついたら、 ツター、ツター、っと汗がつたって、 のどがカラカラだった。 打ち合わせをする建物について、 自動販売機で、飲み物を決め、買おう!としたら、 さいふがないことに気づいた。 リュックの胸ポケットにパスネットがあったので、 ここまで来れた。 でも、私は、さいふをわすれてしまっていた。 「飲もう」と、していた体はあきらめきれないのか。 ない、と頭はわかっているのに、 手は、もういちど、丹念に、 リュックのあらゆる部分を探りなおした。全部探して、 ほんとうにないんだ、と受け入れると、 自分が小さくなったような みょーな、みじめな感覚におそわれた。 そのまま打ち合わせへ。 冷たい飲み物がでるかも、と期待したが、 熱いコーヒーだった。それでもありがたかった。 三角の小さなカップの濃い液体は、 ジュワっとすぐに無くなった。 この日は、エライ人も集まる、とても重要な会議で、 「お水をいっぱいください」と言える状況ではなかった。 あきらめて、私は会議に集中した。 さいわいに、 よいアイデアが出て、生産性の高い会議だった。 会議が終わると、 また、どっと、「かわき」がおそってきた。 エレベーターホールで話しかけられても、もう、 自販機に並んだ飲み物が、 おいしそうに目にとびこんできて、 気もそぞろな感じになる。 どっと、おなかもすいてきた。 会議がおわったら、 おそめのお昼をどっかで食べようと思っていた。 建物を出て、どうにかならないか考えた。 が、ここから、かなり歩いて、電車をのりついで、 自転車で家にかえるまで、 お金は、どうにかなりそうでは、ない。 しかたなく、家を目指して、歩きはじめた。 やっとのことで、成城の駅につくと、 ふだん見慣れた駅前の風景が、いつもとは、 まったく違うものに感じられた。 あのスーパーには、くだものがたくさんある。 あの先のドトールでは、 生のグレープフルーツを絞ってジュースにしてくれる。 イタメシ屋さんには、パスタも、ケーキも、 フルーツのカクテルも、 わたしの好きなものがたくさんある。 いつもなら、店頭にならんだ品物は、 魅力的で、買うものも、買わないものも、 目でひととおりおしゃべりして愉しい。 でも、いまは、目を閉ざしてしまいたい。 閉ざそうとすればするほど、かえって、 その魅力が、存在感が、自分の中で大きくなって哀しい。 こんなに豊かにものがあふれているというのに、 自分は、こんなに渇いて、お腹もすいているというのに、 なにひとつ、自分の手には、入らない。それは、なぜか? お金がない、つまり、 「自分から支払えるものがない」からだ。 どんなに豊かな世の中でも、 たとえ、ものはあふれていても、 対価を「払える自分の準備や能力」がないと、 そして、実際に「払う」という能動的な行動にでないと、 実は、なにひとつ手には入りはしないのだ、 という厳しい原則を、いまさらのように思い知らされた。 以前、編集者さんの手紙にあった、こんな言葉がよぎる。 「これだけたくさんの人がいるのに、 みんなとても寂しそうに見えるのはなぜなのでしょうか?」 思えば、友だちができるとき、 まったく気づかなかったけど、 自分はなにかを「払って」いた。 払っていたことに気づかされた。 それは、プレゼントとか、おごるとか、 物質的・金銭的な意味では、決してない。 経験の中で、 みえない貯金のようにしてコツコツためてきた、 優しさや、面白みや、哀しみや、何か魅力のようなもの。 それを、うまくいえないが、 相手に対して、 「使う」、「払う」というような、積極的、 能動的な行為におよんで、 初めて、友情を得てきたように思う。 たくさんの人にかこまれていてもよそよそしいとき、 この、見えない、人間としての貯金はあるか? なければ、どう培い、どうためていくか? も問題なのだろうが、それ以上に、 いま、ここで、それを、 人に対して「払う」とはどういうことか? 「払う」感覚を、磨き・鍛えることが 必要なのではないだろうか? いまの人は、 内面にたくさんの魅力をためこんでいる。 しかし、勇気を持って、 実際に「払う」という行動にでなければ、 実は、なにひとつ手には、 入りはしないのではないだろうか? ……………………………………………………… テレビ放送予定 NHK教育「日本語なるほど塾」 1.最終回の再放送 5月5日あさ5時5分〜 2.第1回再々放送 5月5日午前2時25分〜 (=4日の深夜、日付まわった26時25分) 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
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2005-05-04-WED
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