Lesson247 「お願い」の肝
人に「ものを頼むこと」を、
「返事をもらうこと」と思っている人が、
わりといるようだ。
たとえば、
私が近ごろ返事に困っているのは、こんな依頼だ。
わかりやすくするために、
ちょっと極端にして紹介すると、
「もしもし、
山田ズーニーさんのお宅でしょうか?
はじめまして、××社の○○と申します。
実は、ズーニーさんに、
単行本をお願いしたいんです。
書いていただけないでしょうか?
あ、あの、
お願いしてもよかったんでしょうか?
だめだった……でしょうか?
あ、内容ですか?
内容は…、
コミュニケーションの本と考えておるんですが…。
で、書いていただけるんでしょうか?
いただけないんでしょうか?」
これは、いわゆる「返事つめより型」の依頼だ。
お願いの中身もそこそこに、
YESか、NOかと、相手に返事をつめよる。
答えるほうは、
情報がないので判断のしようがない。
もしも、たったこれだけで、「はい書きます!」
と私が言ったら、かえって無責任だと思う。
出版は責任の重い仕事だ。
安請け合いはかえって迷惑で、
内容や対象や時期など、
必要最低限のことはうかがってからでないと、
返事のスタートラインにもたてない。
でも、この、返事をつめよるような依頼をする人は、
先に「返事」をもらってから、
それから「お願い」をしようと思ってるんではないか?
とさえ、おもえる節がある。
そう、通常は逆。
先に「お願い」をして → それから「返事」をもらう
でも、「返事つめより型」の人は、
先に「返事」をもらって → それから「お願い」?
なのだろうか。
たとえは悪いかもしれないけれど、
先に「おつきあい」をして、
それから「結婚の約束」ではなく、
「結婚してくれるか、くれないか」、
相手に返事をつめよって、
そこで「結婚する」と、
あらかじめ約束してくれた相手とだけ、
そんなら「つきあう」、
みたいな、みょうな、逆転現象がある。
これは、なぜなんだろうか?
これを読んでいる人の中に、
そんな依頼をする人がいるのか?
と思っている人もいるかもしれないが、
「いる」。
少なくともわたしの実感では、最近、目立って、「いる」。
だけど、たとえば、
いきなり知らない人から電話がかかってきて、
「100万円のブレスレットがあります。
買いますか? 買いませんか?」
と言われても、
少なくとも、それは、どんな形で、
どんな材質で、どんな魅力があるのか、
聞いてから出ないと、返事もなにも、しようがない。
「返事をつめよるな、伝えろ!」
と私は思う。
「お願い」の見せ場は、「頼み込む」ところにも、
「返事をつめよる」ところにもない。
「伝える」ところにある!
少なくとも私は、自分にそう言い聞かせている。
そう言えば、私が本をお受けした編集者さんは、
みんな「伝える」というプロセスを大切にされていた。
頼み込むのでなく、
返事をつめよるのでなく、
ある人は、電話で
ある人は、手紙で、
ある人は、メールで、
ある人は、実際に会って、
ある人は、自分がこれまで手がけた本を見せて
ある人は、企画書で、
ある人は、タイトルや目次をつくって
みな、それぞれにちがった、自分らしい方法で、
日ごろ私が書いたものをどう理解しているか、
自分はどんな編集者か、
一緒にどんな本をつくりたいか、
「伝える」ことを大切にされていた。
そう言えば、
私が、本をお受けした編集者さんのお一人は、
私に「書いてくれるか、書かないか」と、
1回も返事を聞かなかった。
ただ、テーマを投げかけてくださって、
1回目にお会いした時は、そのテーマについて
面白いおしゃべりをし。
2回目にお会いしましょうというときも、
「書いてくれるか、書かないか」などまったく聞かず、
そのテーマを本にするべく、さらに突っ込んだ話をした。
もちろん、そのテーマが、
自分の問題意識にピッタリだったのが大きいが、
その編集者さんの姿勢には学ぶものがある。
商品でいえば、
相手に「買え」とはひとことも言わず、
相手に「買うか、買わないか」も全然つめよらず、
淡々と、淡々と、商品の魅力を「伝える」。
そんなアプローチにかえってお客さんはひきつけられる。
私が、尊敬する編集者さんには、共通して、
先週このコラムに書いたような、
必要なものには「払う」感覚
があると思う。
お金やモノをくれるという意味では決してない。
必要なものに労力を払う。時間を払う。創造力を払う。
たとえば、最初から、本のタイトルや目次、中身まで
かなり具体的につくって
もってきてくださる編集者さんもいる。
相手が書かないとなれば、その労力はすべて無駄になる。
それでも、そんなことはおかまいなしに、
惜しみなく労力を「払って」、依頼に臨んでおられる。
手紙や、企画書をくださる方も
やはり、それだけの労力を「払って」いる。
また、なんども会って、
お話の中で、企画を形にしていかれる編集者さんも、
それだけの時間を「払って」いる。
一方、「伝える」ということを、
まったくといっていいほどしないで、
「返事をつめよる」依頼をする人に、見え隠れするのは、
「それなりの努力は払うつもりだが、
それは、やってもらえるという感触なり、保証なりを、
得て、その先だ。無駄な労力は払いたくない」
という感覚だ。
依頼するものにより、場合により、
これは、否定されるべきものではない。
むしろ、効率的、合理的、と奨励されるのかもしれない。
でも、それは、大勢の中から選ばれる依頼か、
人の心を揺り動かす依頼か、というと、そうではない。
さらに、私が、そうした人に感じるのは、
合理主義より、もっと、漠然とした恐れのようなものだ。
どん!とお願いして、どん!と断わられたら、
傷つきそうで、なんとなく恐い。
だから、あらかじめ、相手の返事を探りながら、
ちょっとずつ、ちょっとずつ、自分をひらいていく。
どことなく臆病な依頼。
腰が引けると自分もつい、そうなる。
自分の依頼がうまくいっているのなら、
どんなやり方でもいいと思う。
でも、うまく行かないとき、次の3つを、
惜しみなく「払い」、「伝え」てみてはどうだろうか?
・日ごろ相手をどう理解しているか。(相手理解)
・自分はどのような想いをもって
これに臨んでいるか。(自己紹介)
・一緒に何を目指すのか。(志)
これからなにか、
人に「お願い」をしようとしている人におうかがいします。
相手に返事をせまるまえに、「伝え」ましたか?
『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円
内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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