Lesson248 想いを形にする
「おとなの小論文教室」は、
おかげさまで、5周年を迎えました!
こうしてクリックして訪れる
あなたがいなかったら、
5年間、とてもつづけてはこれなかったし。
そもそも「山田ズーニー」という人は、
この世に存在しなかった。
「読む」という行為をとおして、
私を「生かし」続けている、
とおくにいるのに、
私の人生を運んでいる、
あなたの存在をおもうと、
不思議でなりません。
ほんとうに、ありがとう。
このコラムは、
2000年5月17日にスタートしました。
当時、16年勤めていた「会社」を辞め、
不安の中にいた私は、
この日を独立記念日と決め、
今度は、「個人」として、
ふたたび社会とつながることに漕ぎ出したのです。
その挑戦は、まだ、つづいていますが、
ちょうど5周年にあたる昨日、
2005年5月17日、思い切って、
表参道にささやかな仕事のスペースを借りてきました。
表参道にオフィスをもつことは、
ここ何年、冗談のようにして言ってきた夢でした。
しばらくの間、
人の流れのあるところで、
出会いと、交流を重視しながら仕事をやっていこうと思います。
5年前のコラムに、
私は、こう、書きました。
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「Lesson15 好きなものに忠実でいる勇気」
自分の体の中に、
「好きなこと」
「やりたいこと」
が宿るというのは、女性が子どもをさずかるように、
不確かで、だからこそ、感動的なものだと思います。
願って探し求めても、
「好きなこと」がみつかるものではない。
ところが、そんなの忘れている時に、
むしろ、こんな時に困るという時に、
ふっ、とあらわになることがあります。
体の中に宿ったそういう思いは、胎児のように、
ある意味では強く、
ある意味では、非常にもろい。
自分が心からやりたいことは何か?
そういうものが、さずかったとき、
どうやって守りぬくか?
自分の心の火種は、
いつも何かの危機にさらされていて、
手離させよう、
あるいは、ほんのちょっとずつすりかえてしまおう
という誘惑にさらされている。
組織にいても、どこにいても同じ。
日々追っかけてくる。
形にならないとき、
そういう「想い」が果たして意味があるのか、
自分の中からの無力感に襲われることもある。
しかし、逆を考えてみたい。
好きなもの、心からやりたいことがない人生は、
「私にはお金がある、しかし、私は何が好きかわからない。
この金を何につかいたいかもわからない。
私のまわりには人がいる。
けれど、私はこの人たちが好きではない。
私はだれが好きかわからない。」
ということになる。
そういうのは、一生問題として、私はいやだ。
心からやりたいこと、
好きなことを堕胎するようにして、
生きている人がいるとすれば、
その人が、日々、得ているものは何なのだろう?
逆に、心から好きな、やりたいことがあれば、
生きてて面白いし、苦労もいとわないし、
お金がなくても、いいオーラ、
出してられるんじゃないかとおもう。
そしたら、自然に仲間も集まってくるんじゃないか。
これは、あくまでも私の仮説だ。
今、私は、私の人生を使って仮説を検証しているところだ。
この検証には、客観的な指標はいらない。
編集生活をふりかえると、人脈もスキルも、
想いをこめた仕事だけが自分に残った。
将来によかれと苦い薬を飲むようにした仕事は
地盤沈下を起こし、私の中では消えてなくなっていた。
心の火種をどうやって発見するか? 消さないか?
消すとすれば、それは社会や組織でなく自分であるし、
本気で守ろうとしたら守りとおせるのだと私は思う。
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いま読み返すと、
表現が青くさく、気恥ずかしい。
また、これを書いた当時から時代もかわり、
「やりたいことをやろう」、と、時代も、
手離しには、励まさなくなってきた。
自己実現難民や、ニートや、
「やりたいことがみつからない」というのが、
ひとつ、時代の悩みのようにもなり。
「やりたいこと」へと若者をあおることが、
逆に若者を追いつめてしまうのではないか、
私も、なんどかそれを反省した。
しかし、私自身は、これを書いた当時と、
なにも変わっていない。
それどころか、この5年間、ますます、
ささやかでも、わきあがった自分の想いに忠実になり、
それを実行にうつすようになってきた。
表参道にオフィスを借りるときも、
いま、そんな身分ではないことはよくわかっていた。
しかし、「やがて収入が備わって」、
「やがてそれなりの身分になって」やろうと想っても、
そのときにはもう、気持ちが萎えてしまっていたり、
行動力が無くなっていたり、
そうしたらもう、一生、住めないな、という気がした。
好きなところに住む、というのは自由なことだ。
「いま」しかない、と思ったし、
友人と神宮前を散歩したときの、
「ここだ!」という直感を大事にしようと思った。
幸いに会社員時代にコツコツためたものがあるから。
それをきれいにつかって、住める間だけ、
短い期間、理想のところに住んでみようと思った。
「理想を形にする」
5年前、上記のコラムを書いたとき、
読者の方が送ってくださった言葉だ。
これが、2年間、ひきこもりのような時間を経たすえに、
やっとみつかった、自分のやりたいこと、だと。
「自分の想いを形にする」。
わたしも、この5年間やってきたことは、
ひたすら、それだけだったかもしれない。
経済効率もすっとばし、
社会的な立場とかそういうのにもまったく関係なく、
ひたすらコツコツと、コツコツと、
想う教育の世界を形にすることをやりつづけた。
会社を辞める時も、
自分のやってきた「考える力・書く力」の教育は、
きっと大切なものだ、
もっとひろい人々のために生かしてみたい、
という「想い」だけが、たしかにあって、
具体的な保障はなにひとつなかった。
仕事がなくて、不安で、不安で、
のどから手がでるほど仕事がほしいときも、
そこに「想い」をいたすことのできない仕事は、
オロオロしながら断わった。
果たして、こんな生き方が、いいのか悪いのか。
「私の人生を使って仮説を検証する」とある。
とりあえず、5年間、
想いはコツコツと形になってきたようだ。
ちょうど5周年にあわせたように、
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』の韓国版ができあがり、
手元にとどいた。
「あなたには書く力がある」ことを伝えたい。
私の想いは、ハングルになり、海をわたった。
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』は16刷、
『あなたの話はなぜ「通じない」のか』は11刷、
コツコツと、コツコツと、進行形で伝わっているようだ。
テレビやラジオでも、想いは届けられていて、
大学でも講義できるようになった。
そして、いま、
なにより力を注いでいるのが、ワークショップだ。
全国の大学、企業、地方自治体などとリンクして
おこなっているワークショップでは、
「人が自分の頭で考え、
自分の言葉で、想いを表現する面白さ」
を体感してもらう点で、
ここのところ目にみえて成果が出てきた。
一方、この5年間のマイナス面は、
とにかく血が出るほど「孤独」であったということだ。
会社のように、みんなでひとつのゴールを目指す、とか
だれかのゴールを支える、というのではなく
「自分の想い」から
なにかをおこしていこうということは、
形になるまで、自分にしか、わからないものだ。
形になってからも理解されるまで、時間がかかる。
だから、一定期間は、どうしても、どうあがいても
非常に孤独になる。
「孤独」を引き受ける覚悟や、
長期にわたる孤独への耐性がないと、
「自分の想い」からなにかをおこしていこうという
生き方はむずかしいかもしれない。
これが、口でいうほどたやすくない。
ちょうど5周年にさしかかるころ、
どういう偶然か、
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』の小木田さん、
『あなたの話はなぜ「通じない」のか』の鶴見さん、
そして、この「おとなの小論文教室」の木村さん、と、
私を5年前から知る編集者さん3人に、
たてつづけにお会いする機会に恵まれた。
この人たちは、わたしが、
まだ書き手として未知数なときから、
私にものを書かせ、育てた人たちで、
わたしの恥かしい内面も、全部見られている。
親に向かうような、かがみに向かうような感じで、
この人たちにむかうと、
自分のこの5年間がなんであったか、
照らし出されるような気がする。
ところが、この5周年のタイミングでお会いしたときは、
かつて感じたことのないような、
不思議な感覚を感じずにはいられなかった。
話はじめて、「何だ、この感じは?」 と想った。
少々、乱暴なことばをぶつけても、
話題をおおきくふっても、
どうしようもなく「通じ」ている。
5年前、初対面のときは、
ぎこちなかったり、すれちがったりしたことも
まるでうそのように、
5年を経て、会話の濃さがまったくちがう。
あのころは、とてもいきつけなかった
深い、微妙な部分まで、想いと言葉が一気に
到達するときがある。
「通じ合って」いる。
5年を通して、わたしは、
かけがえのないものを得ていたことを知った。
5年間、非常に細々と、心もとなく、
「想いを形にして」、しつづけてきた。
思いがけず、それを、だまって、コツコツと受け取って、
ずっと観つづけて、くださった人がいた。
それが5年間、降り積もってこその、
通じあう境地がそこにひらかれていた。
会社をやめて、ふたたび社会に、人の中に
はいっていくにはどうしたらいいか、
途方にくれたときには、
砂漠のように感じた、この東京に、
そのような存在を得たことは、勇気、である。
編集者さんは、
たくさんの「読者」の自我や、想いを自分に背負い、
読者の感覚の先端として
書き手に触れている、
というようなことをどこかで聞いた。
ということは、5年を経て、
通じあう編集者さん、
そのむこうにたくさんの通じあう「読者」がいる。
わたしは、自分の想いを形にしていくことで、
通じあう「あなた」を得た。
ずっと、孤独だ、孤独だ、
とおもってあるいてきた5年間だった。
でも、ここへきて、ぐわっ、とおとずれた、
この感じは、何だろう?
5年間、一度も、もとめることはなく、
むしろ、つっぱねていた。
「自由」をもとめるためには、
ベクトルがちがうから
潔く、てばなしとかなきゃいけないといつも思っていた。
自分にはいらない、似合わないと、
ずっと思ってきたけれど。
もしかすると、この感覚が、
「しあわせ」
ではないかと思う。
『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円
内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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