Lesson263 表現者の味方
もしも、からだの微妙な形状まで
はかる機械があったなら、
火曜の夜の私のからだは、
すこし、めりこんでいる。
火曜日は、このコラムの原稿を書いた後だからだ。
「ああ〜(あんなこと書いちゃったよ)」とか、
「うー(もうだめだ)」とか、
ため息とも、うめきとも言えない声が
おもわず、もれる。
電車に乗っていても、人と食事をしていても、
前後の脈絡に関係なく、
私が声をあげるので、
まわりから、怪訝な顔でみられる。
表現したあとは、いまだにこわい。
いったいなんで、
こんなにこわいんだろう。
思うように書けなかったら自己嫌悪になるし、
それは、自分が悪いだけだし、
がんばるしかないし。
それを、ここで愚痴る気持ちはない。
しかし、そうではなく、
思いのたけは書けたときでも
あとから結果をみれば、
編集者さんや読者の反応がよかったときでも
いや、むしろそういうときほど、
書いた直後は、のたうちまわっていることがある。
まず、最初の関門は編集者さんの反応だ。
いまだにメールをひらくのが恐い。
「よっし!」とか、
「ここで逃げたら、今日のあとの時間
ずっと生きるのに遅れる」とか、
自分に言い聞かせ、
気合いを入れないと向き合えない。
オーバーな、と言われるかもしれないが、
ここが、自分の内面がめくれるようにして、
外の世界に触る、最初の窓だ。
地球で最初に、自分の書いたものを読む人から、
いったいどんな言葉が帰ってくるか。
それは、自分の世界観をつくるのに
大きく影響している。
この関門を突破したら、
次は、翌日のアップを見るのがこわい。
最初のころは、悲愴な面持ちでパソコンに向かった。
クリックする手のためらいがすごい、
身体を前のめりにして、
手に体重をかけるようにしてようやっとクリックする。
このモニターの向こうで何か起こったら。
こっぱ微塵に自分が砕けるのか、
ぐらいのかまえだった。
ここも突破すると
最後にして最大の関門は読者の反応が待っている。
書いた直後の自分の実感、
編集部の反応、
読者の反応、
どれもいけてないとき、
「消えてなくなりてー」という感じで、
体が空気圧におしつぶされ、
めりこんでいく。
はじめのころは、3つの関門突破だけで、
クタクタだった。
さすがに今は、それほどではないが、
それでも、3つの関門をくぐるときは、
いまだに、一瞬の「逃げ」と「勇気」が交錯する。
実は、一度だけ、逃げたことがある。
まだ、書き初めて間がないころだ。
そのころは、1回のコラムを書くのに、
ものすごく時間がかかっていた。
窓が西向きだったのだが、
朝陽を浴びて書き、
陽が高くなって書き、
西陽を浴びて書き、
浅くねむってまだ暗いうちから起きて書き、
また朝陽が登っても、西陽が射しても、
気づかず夢中で書いていた。
2000年5月にコラムを連載しはじめ、
夏には、両目の下に、
くっきりと大きなシミができていた。
さまざまな方法をためしたが、
それは消えないでいまもある。
私は、「ほぼ日ジミ」と呼んで
勲章のように感じている。
できはともかく、
それだけ夢中で何かをやった痕跡として。
そのときも、そんな感じで、
何日もかけて書いたんじゃないかと思う。
終わりの部分でとてつもなく書き直した。
「書けた」とおもった、原稿を送った。
そのあとなんとも言えない、
今まで経験したことのない
恥かしい、逃れたい想いがした。
そんなことをしても、
どうにもならないと思うのだが、
電話線を抜いて、パソコンの線も抜いて、
とにかく一刻もはやく逃れたくて部屋を出た。
今日だけはもう、3つの関門をくぐる意気地など
どこにもない気がした。
しかたなく映画館にいったが、
映画になど集中できるはずもない。
何を見たのかさえ記憶にのこっていない。
ただただ映画館の闇のなかで、
「ああ〜」と
ため息がでそうなのを押さえていたことだけ
鮮明に記憶に焼きついている。
町をふらふらしても、逃れきれない。
どこをどう歩いたのか。
なにから逃れているのか?
逃げたら、よけいどんどん追いつめられる。
とうとう観念して、家に向かうも、
駅まで帰って、往生際わるく、
駅の近くのジャズバーにはいって、まだうだうだした。
お店のお姉さんと音楽の話をしたが、
ここでも音楽に集中できるはずもなく、
何を聞いたか、レコードジャケット1まい、
曲ひとつの記憶もない。
あきらめてとうとう家に帰る。
あきらめて、パソコンに電源を入れ、電話線をつなぎ
スイッチをいれた私の胸は、
恐怖と緊張におののいていたと思う。
そこには、
編集者さんの反応と、更新画面、読者の反応、
3つの関門が、一気にかたまっておしよせるからだ。
1つ1つ突破していかないと、逃げると、
こうして、あとでかたまって現実に直面することになる。
ここが崩れたら、わたしもこっぱ微塵になる。
パソコンをあけたら
信じられないことが起こっていた。
書き初めていらい、初めて
その原稿ははっきりと編集部に評価されていた。
編集者さんもとてもほめてくださっていた。
読者からは、熱い、濃いメールがいっぱい来ていた!
歓べわたし。
しかし、書いた直後の自分の実感は、
「なんとも言えないへんなものを書いた」だった。
まったくそんな展開、予想だにしていなかったのと、
逃亡生活に疲れきっていたのとで、
放心しきってしまった。
「自分の中のものを出したからだろうね。」
そのときのことを
小説を書いていた先輩に話すとそう言った。
原稿に自分の中のものを出してしまうと
なんともいえぬ恥かしさがともなうと。
でも読む人は、そういうものがわかるんだと。
先日、読者の高校の先生が、
こんなメールをくださった。
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<感じていることを言葉にする勇気>
「考えているけど言葉にできない」
という生徒もいます。
でも、それは考えているのではなく、
感じているだけなのです。
感じていることを
言葉にすることが考えることです。
ところが、彼/彼女らが、
感じていることを言葉にできないのは、
勇気がないからなのです。
言葉にすると、誰かに評価されてしまう。
それが自分に返ってくるのがこわいのです。
「傷つくのがこわい」
というのが彼/彼女らの根本思想です。
傷つかないように、
傷つかないようにと自分で自分を守るがために
どんどん不自由になって、
かえって人を平気で傷つけたり、
コミュニケーションがとれません。
結果、何一つ得るものがないのです。
・言葉にできない
・コミュニケーションがとれない
・考えない
この悪循環の中で、
子ども達はもがきもせず、努力もせず
ただ「不快な思い」だけ募らせていきます。
(読者のゆきさんから)
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感じたことを、外に表すための勇気、それが育つ場
それらがないことによって、
つらいことや、やなことは、
ただただ、不快な気分となって
身体にたまっていくだけ。
そう考えると、やるせない。
私は、先週のコラムに
たくさんのメールをいただいた。
母との辛い事件。
それは、自分にとって痛みであり傷である。
人に知られたくない恥かしいことである。
読者はどん引きかとも覚悟しつつ、
しかし、書かずにはいられなかった。
でもその想いを、言葉にし、外に表出したとき、
自分の心の奥底にあった願いが見えた。
まったく予想だにしなかった、
編集者さんのあたたかい言葉と、
たくさんの読者のあたたかいメールに
自分の言葉が着地したとき、
自分の中の哀しみの塊がとけて
状況を切り拓く力にかわっていった。
表現すれば、むしろつらいことこそ力に変わる。
いまだに、表現によって
致命傷を受けることなく、書きつづけていられるのは、
自分のことばが着地する、
この読者の母のような世界観に育まれてこそだ。
この、表現の歓びを
その生徒さんは、知らない。
でも、自分を表現することがどんなにこわいか、
大人になってもまだ、
思春期のような、自意識過剰症のような、
「こわい」を繰り返している私には、よくわかる。
だから、私は、表現する人の味方になりたい。
人の表現を高みからみて、
ああだこうだと言って傷つける人から守りたい。
表現する人がつぶれてしまうから。
生かさなければならないから。
人の表現を高みからみて裁く人たちもまた、
表現する側に立った経験、
人の反応を浴びた経験がないのだろう。
自分では表現せず、何も失わず、
そういう人は、一見正しく、きれいに見える。
でも、そういうきれいさにごまかされてはいけない。
人の表現にあれこれ言う前に、
自分の唄をうたってほしい。
表現する、それだけで尊いではないか。
表現は何も、小説を書くとか、絵を書くとか
音楽をすることとはかぎらない。
音楽つくったって、自分の中のものを何も出さなければ
表現ではないし、
仕事の指示だって、自分の想いを言葉にすれば表現だ。
表現とは、自分の想いを形にして人に通じさせること。
私は、それをしている人の味方です。
表現して、その照り返しに、
おろおろしたり、醜くなっている人の味方です。
表現する、それだけで尊い。
今日こそ、感じたことを言葉にしよう。
その勇気は、きっと自分の中にあるから。
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『考えるシート』講談社1300円
『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円
内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ) |