おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson 291 理解という名の愛がほしい 私のワークショップに来てくれた生徒さんの中に、 「お医者さん」がいる。 そのお医者さんは、医師である自分の仕事を 「人を承認する仕事だ。」と、 きっぱり言いきった。 からだを悪くするまで、 どうしようもなく悩みを抱え込んでしまって、 診察にくる患者さんの話を、 そのお医者さんは、まず、じっと聞くそうだ。 患者さんは、 だれにも言えなかった自分の想いを話しだす。 患者さんにどんどん、どんどん想いを出してもらって、 ただ、じっとじっと、聞く、のだそうだ。 患者さんの想いが出つくしたときに、 その人に応じた、率直な共感の言葉をかける。 「つらかったでしょう。 よくがんばりましたね。 ここへくるまで、 あんなつらいことも、 こんなつらいこともあったのに、 一人でずっとがまんして、 体もこんなに苦しいのに、それにもたえて、 でも、今日は、 ちゃんとこうやって、自分を治すために、 自分の力で、ここまで来て……、」 どっ、と、泣き出す患者さんも多いそうだ。 「それでいい。」 「あなたはそれでいい」と、 患者さんのあふれ出た想いを「承認」する。 それが仕事だという。 話して、話して、泣いて、泣いて……、 帰るとき、患者さんは、もう、すっきりしている。 診察にきたときに、どうしようもなく暗かった顔に、 活力がよみがえっている。 以前、嫁姑問題で、悩みぬいて、 でも、だれにも言えなくて、 ひとりでじっとがまんして、 とうとう体をこわしてしまって診察にやってきた、 あるお嫁さんの話をひとしきり聞いた後に、 そのお医者さんは、 「クソババア、はやくシネばいいのにネ」と、 お嫁さんが決して言えない言葉を、 先に代弁して、さらりとあかるく言ってあげたそうだ。 すると、お嫁さんは、心が軽くなる。 「そんなことは、決して想っちゃいけない」 と思っているから苦しい。 お姑さんから、いじめ抜かれていれば、 人間だもの、憎悪の感情はおこる。 でも、 「そんなこと想っちゃいけない」と自分で抑えつける。 社会的にもそんなこと許されない。 「想っちゃいけない」が、 「そもそもあってはいけない」になり、 そして、「ない」ことにされてしまう。 でも自分で、どんなに「ない」ことにしようたって、 現に、その感情は自分の中に「ある」。 認めてくれなかったら、その感情だって浮かばれない。 みなしごにされた感情が、体を攻撃する。 そのお医者さんは、 その人の中で、みなしごにされている想いも、 ちゃんと「承認」する。 「あっていい」 「ある」 「それでいい。」 私は、ときたま、このコラムに 自分の醜い内面を書いてきた。 計算、など、できるわけがない。 ものすごく勇気がいる。 「これを書くと、 自分の評判は悪くなるだろうな」と思うし、 「批判のメールは、痛いかなあ」と思う、 それを想像すると腰が引ける。 批判メールはそれくらい嫌なものだ。 でも、なにか、スキーの前傾姿勢をとるように、 ぐっと腹に力を入れ、「覚悟」して、書く。 そうまでして、なぜ自分は、自分の醜い姿を 人にさらしているんだろう? 最近、書いたものでは、「連鎖」がそうだった。 「連鎖」というコラムは、 私が、母親にあたりちらし、 母親を泣かす場面からスタートする。 このときの私は、たぶん、 最もそんなことを書いてはいけない時期だった。 NHKの教育番組に出ていた。 教育系の本を出版したり、 教育委員会からも、次々と講演依頼がきていた。 「先生」でなければいけなかった。 「コミュニケーションの達人」は、 うちわのもめごとなどあってはならない。 そんなプレッシャーの中で、 私は、カタチにはめられつつあった。 教育テレビで、相手を理解するだなんだと えらそうなことを言っている「ズーニー先生」が、 私生活で、母にあたりちらす姿を見て、 人はなんと、思うだろう? 母とのことを書くか、 無難なコミュニケーション技術の話にしようか、 心が揺れた。 ちょうどそのころ、 単行本の 『おとなの小論文教室。』第一巻の編集をしていた。 6年にわたる膨大な量のコラムを、 「自分を表現する」 というテーマで再編集していた。 そこで私は、久々に、 連載当初の自分の書いたものにあった。 不思議な原稿だ。 書き手としての技術も、経験もない。 真剣な、どこまでも真剣な「想い」だけがそこにある。 書いた私も、編集者さんも、 読んでいて、つっかえる、へたくそな原稿。 しかし、むしょーに、かきたてられるものがある。 「うそ」を書かない。 そのために、一分のかっこつけることも、飾ることも、 妥協することも、決して許さず、 へこへこになるまでもがき、 戦い抜く自分がいた。 かっ! と目が覚める想いだった。 過去の自分の姿を見て、 いまの自分を表現したくなった。 やはりあの、 母にあたりちらした醜い自分のことを書こう。 露悪的になったのではない。 懺悔、でもない。 理由はシンプルで、たった一つ。 それが、「ほんとう」だからだ。 「連鎖」の原稿を書き上げて、送信したとき、 他人の評価は、まったく、わからなかった。 たぶん、教育の仕事をしていくうえで、 一角を失うだろうと思った。 おもいもかけず、 担当編集者さんの、温かい言葉に着地し、 ぽかん、としていると、 やがて、読者からたくさんの、 降るほどの理解と共感が寄せられた。 その読者メールに導かれるようにして、 「連鎖」のシリーズ、 人とつながる勇気のレッスンが生まれた。 高校生に向けた講義で、 題材として「連鎖」をつかったときも、 目の前で、たくさんの高校生が 理解と共感をよせてくれた。 嬉しかったのは、ある高校から、 「連鎖の原稿を見て……、 こういうことこそ、 いまの高校生に教えなければいけない」 と、高校生向けの講演依頼が来たことだ。 ひとつひとつが、まったく予想外の反応で、 感動的で、とても勇気づけられた。 あの、醜い自分を書くかどうか悩んだとき、 カタチにはまらなくてよかったと思う。 あそこで、もし、 コミュニケーションの達人のイメージを 守りに入っていたら、 自分はどんどん、身動きがとれなくなっていったろう。 あの「連鎖」の原稿が分岐点になった。 以降の言動は、ずっと楽になり、 書くものの幅も、実用いっぺんとうではない、 より自分らしい方向にひろがっていった。 勇気をくれた読者=あなたに感謝したい。 ありがとう。 3月13日、おかげさまで、 『おとなの小論文教室。』第二巻が刊行できた。 『理解という名の愛がほしい』 というタイトルについて、 私が、まだ「山田ズーニー」でないときから、 ずっとずっと見てきてくださった編集者さんが、 こんな感想を寄せてくれた。 「“理解という名の愛がほしい” ――外とのつながりを求める 切実な叫びであると同時に 媚びない・甘えないという決然たる意思表示。」 切実かつ媚びない、 人とのつながりの希求という解釈が、 自分でも「はっ」と気づかされ、嬉しかった。 私はたぶん、このような「理解」がほしくて。 ただ、ほめられたいのでもなく ただ、すかれたいのでもなく、 ただしい理解がほしくて、 常に、ほんとうの姿を伝えようと、もがいている。 何を書くか、だけではなく、 何を書かないか、によっても嘘はつくられる。 都合の悪い自分を隠しつづけているうちに、 人から見た自分の輪郭は、 どんどん、自分とは別物になっていく。 自分の中に「ある」ものを、 「ない」ことにして、人と手をつないでも、 それは息苦しいところに自分を追い詰める。 私がときに、醜い自分をさらしてまで、 ほんとうのことを書こうとするのは、 ひとつには、そんな理由からではないかと思う。 この弱い自分のいったいどこから、 そんな決然たる姿勢が出てきたのか、と考えると、 この勇気は、もともと、 読者であるあなたからいただいたものだ。 6年近くの間、何度か「あたって砕けろ」と、 自分の醜い姿をさらしたが、 一度も砕けなかった。 むしろ、そういうときほど、 惜しみない、 降るほどの理解を注いでくれたあなたがいた。 「人とつながることは、難しくはない。 ただ、勇気がいることなんだ」と、 あなたは教えてくれた。 今度は、私から、 ささやかでも勇気をかえせるだろうか。 おとなの小論文教室。第二巻、 『理解という名の愛がほしい』は、 第一巻の延長ではなく、思い切って書いた時期も跳び、 「人とつながる力」をテーマに再編集した。 この本を踏み台に、あなたに勇気を出してほしい。 僭越だけど、そう思う。 自分のなかで抑えつけた、 「ない」ことにされていた部分も、 「ある」と認めてほしい。 恐れずに、人に伝えていってほしい。 愛という感情は理不尽なものだ。 正しいかどうかではなくて、 立派かどうかではなくて、 その人の「ほんとう」の部分に、 理屈抜きで、生まれ出る。 自分の「ほんとう」を伝え、 想う人と通じあって、あなたに幸せになってほしい。 今度はあなたが、理解を手にする番です! ………………………………………………………………… 『理解という名の愛が欲しいーおとなの小論文教室。II』 河出書房新社 ●刊行記念ワークショップ開催● 新宿・紀伊國屋ホール 4月1日(土)17:00−20:30 チケット(1000円)は3月13日より キノチケットカウンター(紀伊國屋新宿本店5階)にて発売 予約・問い合わせ 03−3354−0141 紀伊國屋書店事業部 『おとなの小論文教室。』河出書房新社 『考えるシート』講談社1300円 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
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2006-03-15-WED
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