おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson295 独立感覚 II いま、世の中と、しっかりリンクして、 何かやっていこうと思ったら、 数字との対決は、逃れられない。 「数字にとらわれないで仕事をする」と言った時点で、 すでに数字を基準とした発想である。 私も、数字にプレッシャーをかけられ、 うまくはねのけたと思ったら、 数字にからめとられ、 ふと気がつくと、数字に助けられ……、 数字とは抜きさしならないところで生きている。 それでも、 どんなに青くさいと言われようが、 数字より大切なものが「ある」と信じている。 「ある」としたら、それは何だろう? 先日。 新宿の紀伊國屋ホールでワークショップをやった。 結果、満員のお客さんに恵まれ、 教育に携わるものとしては、冥利、を感じずにはおられない 人が育つ場になったのだが、 その直前の日、 「ほぼ日」スタッフに電話をし、 号泣する私がいた。 「ほぼ日」には、6年近くコラムを書いているが、 電話とはいえ、 スタッフの前で泣いたのは、これが初めてだ。 泣いた、などというかわいいものではない。 聞く方が、どん引きする、 いわゆる「泣き語り」というやつで、 なにか、言いかけては、 「えっ、えっ、おっ、おっ、」としゃくりあげ、 おんおんおん、と声をあげて泣き出す。 だったら、しゃべらなきゃいいのに、 それでもしゃべろうとするから、 「えっ、えつ、おぐっ、ぐっ」と言葉がわれる。 かわいいコがこれをやると、まだ聞けるんだろうけど、 中年過ぎて、これをやると、なんと格好の悪いことか。 そんなにまでして、 「泣き語り」までして、 何を言おうとしていたのかというと、 とても単純なことで、 「きのう、私は、 ほぼ日のコルクボードで、 ワークショップの宣伝をしてくださいと頼みました。 でも、それは、とりさげます。 ワークショップの宣伝は していただかなくていいです。」 ただ、これだけのことを言うのに、 涙がこみあげてしょうがなかった。 オフィス・ズーニーというのは、 社長というか、従業員というか、 あとにも先にも、とにかく「私一人」なんだけれど、 へんな会社で、 営業を一度もしたことがない。 向こうから来た仕事を一生懸命やるという スタンスで6年きた。 イベントとかの宣伝も、 私の方から、「これを何々に載せて宣伝してください」 と、頼んだことはない。 採りあげてくださるのは、 すべて、どこかで私の活動を見知って、 共感してくれた人の、自由な意志によるものだ。 なぜ、そんな行き方をするのか? 明文化したことはない。 営業や宣伝がどんなに大切かは、 マスマーケティングが進んだ会社で、 こっぴどく仕込まれたし、 私自身、会社で、宣伝不足で痛い目にあっている。 身にしみているつもりだ。 しかし、独立して、 あっちで頭を打ち、こっちで壁にぶつかりしている間に、 これからは、違う行き方をしてみたいと、 自分の中で、無意識の「何か」が変わったのだと思う。 その自分が、じゃあ、なんで、 自分から「宣伝をしてください」みたいなことを 頼んだのかというと、 焦っていた。 焦って、自分を見失っていることすら、 気がつかないくらい、 プレッシャーにからめとられていた。 今年のワークショップは、 1ヶ月きって決まったこともあり、 昨年のような、大規模な告知がほとんどできなかった。 にもかかわらず、席数は、昨年より30%増えている。 そもそも、今年のワークショップは、 昨年のお客さんの、あまりの反響に驚いた、主催者の、 熱いラブコールを受けて、実現したもので。 それは、とても嬉しい、勇気が湧くことだったのだが、 今年は、昨年以上の質、量が期待されていた。 その期待がプレッシャーとして、 どっとこの身にのしかかった。 自分の器と、この手のプレッシャーに対する経験値が あまりに小さい自分に気づかされた。 今年の告知の規模、 過去の他の人のイベントの動員数、 自分の人を呼べる力量……、情報をかき集め、 どう希望的に見積もっても、今年は空席が浮かんでくる。 「お客さん、こなかったら、どうしよう……」 悪い条件は重なるもので、 ワークショップについて、お伝えしたこのコラムが、 だれが悪いのでもなく情報伝達の小さなすれ違いで、 11時間更新をストップしなければならなかった。 よりによって、このタイミングで……。 ホールのたくさんの空席が頭に浮かんだ。 鏡を見て、びっくりした。プレッシャーに、 ぐっさりシワがはいって、五歳はふけた私がいた。 恥ずかしいことだが、 このような経緯から焦って、直前になって、 人に宣伝を頼むようなことをしてしまったのだ。 ところが、どうしたんだろう? 宣伝をたのんでしまった後で、 「これはちがう」という気持ちがわんわん起こってきた。 「これまで、こんな行き方はしなかっただろう!」 自分が自分を叱る。 もう一人の自分が自分を弁護する。 「だって、お知らせしなければ、 人も来ようがないじゃないか。 お客さん、来なかったら、どうするんだ?」 「恐れ」が、どっと押し寄せてきた。 「お客さん、こなかったら、どうしよう……」 「充分な、教育効果があがらなかったらどうしよう……」 「どうしよう……、どうしよう……」 緊張に締め付けられそうになったとき、 体の中から、はっきりと、こんな言葉が突き上げてきた。 「それは、自分の実力だ。」 お客さんが来なかったら、それが自分の実力だ。 うまく教育効果があがらなかったら、それが自分の実力だ。 失敗したら、それが自分の実力だ。 それが自分だ。 そこからはじめればいい。 すーーーっと、心が落ち着いた。 いま、 頼み込むようなことをして、宣伝をしてもらっても、 いくらか席がうまったとしても、 自分は、そういう 「かさ上げ」みたいな行き方は好まないのだ。 もともと会社を辞めたとき、 なにもないところに、自分の意志だけが生まれ。 自分の腕ひとつで、どこまで行けるのか、 行けるところまでは行こう、と歩き出したんじゃないか。 「かさ上げ」して結果を出しても、 その次は、かさ上げした自分からのスタートで、 結局、身の丈にあわないプレッシャーを さらに背負うことになる。 等身大の自分でいい。 それに、人に宣伝を頼むんじゃない。 そうじゃなくて、「伝える」んだ。 「伝えて」、それに共感してくれた人が、 その人の自由な意志で、 心から人に勧めてくれるのでなくては意味がない。 そういう、心からの言葉だけが人を動かすのだ。 伝える、人を動かす、ということは、 根本の動機が大切で、人にはそれを読み取る力がある。 そこを甘くみてはいけないと、だれよりも、 言い続けてきた自分だった。 宣伝を頼んだことそのものではなく、 その前提となる 「伝える」ことをしていなかった自分を恥じた。 少なくとも、「伝える」ことを仕事にしている自分は、 ここで、こんな進み方をしてはいけない。 「宣伝を取り下げます」と、電話をしたときに、 自分は、図太く、 したたかな行き方をしたいわけではでなく、 いまは、美しく、納得のいく形で、コマを進めたいのだと、 「ほんとにそうだ」と思ったら、 泣けて泣けてしょうがなかった。 空席を引き受ける、と100%覚悟ができ、 中年が、かっこ悪く、 電話で泣きじゃくっているころには、 チケットはとっくに売り切れていた。 当日、集まった人たちが、 つくり出している雰囲気を見て、 まちがいなかった、という気持ちが大きくなった。 それまでは、 自分でも自分がどうしたいのか、わからなかった。 今回、友人・知人・仕事関係者への告知をいっさいせず、 ただご挨拶とか、ただ見学目的で、 チケットを買ってくださるという方を、おことわりし、 一方では、お客さんがこなかったらとオロオロし、 自分は単に、やるべきことをなまけ、 ただこわがっているだけではないか、とも疑った。 でも、開場前から、 じっと、キャンセル待ちに並んでる人や、 ワークショップに真摯に取り組む人の姿をみて ようやくはっきりした。 私は、ここにくる人の「動機」を大切にしたかったのだ。 当日、来た人は、一人ひとり、 「自分をなんとかしよう」とか、 「自分の表現力を高めよう」とか、 思い想いの、教育目的でやってきている。 しがらみや、よしみできてくださる人たちでなく、 かさあげでもなく。 でも、私は、アウェイで戦いたかった、というのとも違う。 教育は、動機が大切だから、 参加している人どうしが、 よくもわるくも、互いに影響しあう。 向かう動機を持った人と、 人が育つ場を、きちんとつくる。 それが、いまの自分にとって、 数よりも大切なことなのだと、よくわかった。 あの電話で泣いたとき、 宣伝を頼んでも、取り下げても、 結果は同じことだった。 結果は同じでも、もしも「かさあげ」の方を選んだなら、 当日、場に臨む、 自分の動機はちがったものになったろう。 教育の現場で、それは生徒に伝わってしまう。 それが小さくても、 何かに魂を売り渡すことなのだと思った。 あのとき売り渡さなくてよかった。 自分の進む段階によって、 数が雄弁なときと、数が雄弁ではないときがある。 いつか、自分にも、数が雄弁なときがくるだろうか。 親類、縁者に頼み込んででも、 人に土下座をしてでも、 数を動かそうとする日がくるだろうか。 動機によっては、それも、 かっこいいことなのかもしれない。 でも、いま、 自分が感じなくてはいけない危機感はそこではない。 まず、「伝える」ことだ。 いちばん届く形で、自分のやっていることを伝え、 そこに共感をもち、動機を持ち、 本人の意志で、アクションを起こしてくれる人と、 考える力や、表現力を生かす、 おもしろい、場なり、ものなりを、きちんとつくること。 そこにトライしつづけること。 数を動かそうとするのでなく、 状況を動かそうとするのでなく、 人の「心」を動かす。 そこを見失わないようにするのが、 2006年のいま、自分にとって切実な「独立感覚」だ。 ………………………………………………………………… 『理解という名の愛が欲しいーおとなの小論文教室。II』 河出書房新社 『おとなの小論文教室。』河出書房新社 『考えるシート』講談社1300円 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
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2006-04-12-WED
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