おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson 307 理解の破壊力 こんなことを言うと、 私の印象は悪くなるだろうなあ。 でも、自分の人生で体当たりして感じたことだから しょうがない。 最近、思っていることがある、それは、 クリエイターとして 相手と同等以上の力をもつ人でないと 相手のことを傷つけられないのではないか ということだ。 ここで言うクリエイターとは、絵を書いているとか、 デザインやっているとか、そういう意味ではない。 職種に関係なく、 自分の畑からはやしたもので 勝負している人。 たとえそれが、 ひょろひょろしたきゅうり1本であろうと、 ペンペン草であろうと、 言葉であろうと、 音であろうと、 アイデアであろうと。 世の中には、 自分という畑からはやしたもので勝負する人、 人が畑でつくったものを 集めたり・流通させたり・加工したりする人、 人が畑でつくったものを楽しんだり・支えたりする人、 さまざまで、さまざまいるから、いい。 私は、いま、個人という立場で、 教育というフィールドで、 自分の経験から生えた、 ねらいやカリキュラム、アイデアや方法で、 表現の授業を立てていっているから、 やっぱり教育分野のクリエイターなんだと思う。 天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず というのは、ほんとに本当に賛成だけど、 そういう 侵してはいけない平等さ、かけがえなさとは別に、 人は自分で何かを目指したとたん、 その道の序列、つまり上下を引き受けざるをえない。 ずっとまわりの人と上下なくやってきた人も 料理人を目指したら、そのとたんに、 自分よりうまいものをつくる人、 自分より手際の美しい人に 出くわすことになるし。 アイドルを目指した人は、そのとたんに、 自分より容姿がいい人、 人気がある人、魅力のある人を見、 その力量の上下を、 まざまざと見せつけられることになる。 みんながかけがえないオンリーワンである という考えが、人を励まし、 共感を得ることを知っていて あえて今回は、その引き受けざるをえない 上下の話からはじめようとしている。 つくり手としてどっちが上か下か。 なんてそんなのだれがどうやって決めるの? 第一、比べなきゃいけないの? と思う人も多いだろう。 しかし、これは私の実感として、 比べるものでも、決めるものでもない、 感じてしまうものなのだ。残酷なまでに。 「この人はできるな」 「ちょっと負けてるな」 そう感じるまでに、あまり時間はかからない。 よく、時代劇で、 剣先をつきあわせたサムライ同士が、 戦う前からもう、 「おぬし、できるな」といっている。 その道に覚悟をもち、経験を重ね、勘を磨き、 人知れず修練を積み重ねてきたもの同士、 剣先をあわせたときに、 ごまかしようなく感じてしまうものがある。 あんな感じで、 わたしにとって、力量の差は、 仕事で向かい合ったときに、 残酷なまでに「感じる」ものなのだ。 私にはいま、敬愛しているマンガ家さんがいる。 彼女と仕事をしたのはたった1回。 でも、彼女の描く力を信頼し、尊敬し、 好きになるには充分だった。 仕事で、彼女に私をまんがに描いてもらった。 最初のラフがあがってきたときに、 グサッと胸に激しい痛みが入った。 まんがに描かれた私の顔は、 とてもコワイ顔をしていた。 しかも、どうしてわかったのだろう、 十代に克服したはずの、自分のコンプレックスが、 はっきりと復元されて描かれていた。 その顔をみたときの、 私の痛みをなんと表現していいか。 からだの芯を突き刺すような、 ここしばらく感じたことがない、 非常にストレートな、にごりのない痛みだった。 痛みに冴えていく感覚の中で、 「傷つくとはこういうことだ」ということと、 「自分はここ最近、 実は傷ついたことがなかったのだ」 ということを、どこか冷静に思っていた。 ほとんど半泣きのような状態で、 これをこのまま、 世に出さないでくれと編集者さんに頼んで 描き直していただいたら、今度は、 どう観ても自分で、 かつ、愛すべきキャラクターとして 自分のまんがができあがってきた。 人は多面的な存在だから、今度は、 人間としてのかわいげのある部分を引き出して 作画してくださったのだ。とてもうれしかった。 最初のラフを見て、 どうしてあんなに傷ついたのかといえば、 ずばり自分そのものだった、からだ。 あの絵は、ほんとうに、よく描けていた。 私はどこか自信のない物腰のせいか、 優しい人と誤解されがちだ。 しかし、じつは、 とてもキツイ、コワイ部分がある。 それを、初対面で、 描かれた本人が勘所に 突き刺さったとおもうまでに、 深く、的確につかみ出してくれたのは、 この人が初めて、ではないだろうか。 マンガ家さんは、決して、悪意をもって マイナス面をデフォルメしようとしたのではない。 表現の神さんがいるとすれば、そこに忠実に、 「観た、まんま」を描いた。 その「観たまんま」の私の姿の中に、 本人ですら、まだ掌握しきれていない、 しかし、そのとーり!の私のキツサまでがさらりと、 そして、ありありと描きだされていた。 私は、傷つきながらも、 彼女の私への的確な理解に、 まいりました、というか、 敬意というか、信頼感を憶えずにはいられなかった。 ヘンなことだが、傷つけられることで、 他の人が達しなかったところに触ってもらい どこか癒されたような感覚さえあった。 実際、仕上がったまんがは、 私の言わんとする内容を、読者に、 私が直接伝える以上に、わかりやすく、端的に伝え、 しかも、まんがとして自立した面白さを備えていた。 非常に素晴らしいものだった。 また彼女と一緒に仕事をしたい。 相手と同等か、それ以上の理解力がないと、 相手を傷つけることさえできない。 これが、私のいま抱いている仮説だ。 理解には、「正確さ」というような角度と、 もうひとつ、「深さ」がある。 自分が、自分という人間を理解するにも、 自分の持っている 「理解力=正確さ×深さ」でとらえている。 だから、たとえ、 他人が自分のことをとやかく言っても、 本人が掌握している正確さ、 深さにまで達していないと、 まとはずれ、違和感、 「わかってないんだよなー、この人」とか 「なんか、ちがうんだよなー、それ」というふうに、 受ける感じに、にごりがある。 それは、ヘンに煩わされたり、 ムカムカさせられるということで、 「傷つく」というのとは、どこか違う。 「傷つく」というのは、 私にとって、一瞬で深部に達し、 スパッと切れて 鮮血がにじむような、にごりのない痛みだ。 相手が、 自分と同等かそれ以上の理解力をもっている場合、 相手の言葉は、 自分でも掌握できるかできないかのところ、 つまり 自分が気にしているところに触る可能性が出てくる。 さらに、まだ自分が気づいていない暗部に触る、 いや、暗部でなくとも、 自分でも掌握しきれてない部分を、 ずばり他人から指摘されたら、 それだけで自尊心が傷つくこともある。 理解してつかんだものを、どう表現するか。 そこで、また、表現力もとわれる。 マンガ家さんが、 的確なマンガで私を描き出したようにだ。 そこで、相手以上に、端的に表現する力がないと、 やはり、相手の深部にまでは刺さらない。 だから、えーっと、私は何が言いたいんだろう? 傷ついた、と相手を恨むようなとき、 恨みは相手に対する賞賛でもある、ということだ。 感情の方向をかえれば、 相手とは、好敵手とか、よき友になって、 刺激的な面白い話ができるかもしれない。 読者のテツオさんは言う。
理解力=破壊力でもある。 |
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2006-07-05-WED
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