おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson313 「私を見て」という表現 「自分のつらい経験を話す」とき、 伝わるときと、伝わらないときがある。 その差は何だろう? 表現の教育にたずさわっていると、 生徒さんの文章やスピーチをとおして、思わぬ、 人の「つらい経験」にでくわすことがある。 リストラ、失恋、大切な人の死、 信じていた人の裏切り、自分の病気など……、 人は想像以上に苦しみを抱えて生きていると、 いまさらのように驚かされる。 講義や実習を通して考えた末の表現だからだろうか、 生徒さんの話す「つらい経験」は、 聞く人の心に、すっとしみこみ、 静かな共感を呼び寄せる、 「伝わる」ものがほとんどだ。 ところが、ごくごく、まれに、 いっこうに「伝わらない」表現に出くわすことがある。 そういうときは、講師として自分の責任も感じるので、 なんとか「この人の言いたいことをくみ取ろう」と 聞き耳をたてるのだけれど、 話し手が「つらい経験」を、 話しても、話しても、 まわりの人に通じていかない。 話し手が、言えば言うほど、 話し手と聞き手の見えない壁が厚くなっていき、 聞き終わったあと、場がゲンナリしていることがある。 「伝わる」と「伝わらない」の差はなんだろう? 感情的か、客観的か、の差か? そうでもない。 よく、「話し手は感情的になってはいけない、 どこか客観的に自分が見えていないと」 などと言われる。 でも、話し手が、 こみあげる感情をどうすることもできず、 「泣き語り」をしているような場合でも、 伝わるものはちゃんと伝わっている。 逆に、伝わらない表現は、泣いて話そうが、 冷静に話そうが、 明るく話そうが、どーしても伝わらない。 この差はなにか? 他人事でなく、私にとっても、 文章を書くうえで、講演をするうえで、切実な問題だ。 考えて、ひとつ気づいたことがある。 伝わる表現は、どこか「潔さ」がある、ということだ。 表現をする前の段階までに、 あるいは表現をすることで、 「捨てる」ということが、うまくできている感じがする。 逆に、伝わらない表現は、 この「捨て」がうまくできない。 「あれも、これも、ついでだからこっちも、 もったいないからそっちもあっちも……」 というように、 両手ににぎりしめた言いたいことを、 どのひとつも手放さず、あるいは手放せず、 にぎりしめたまんま、表現している感じがある。 「ひとつを選ぶ」ということは、 他のすべてを「捨てる」ということだ。 「何も捨てられなかった=何も選べなかった」表現は、 刺激的な話題が次々出てきても、 どれもメインに浮上することができず、 結局、聞いた後、「何かひとつ」残るものがない。 聞いた人が、 何を言いたかったんだろう、ともやもやする。 逆に「捨て」が効いた表現というのは、 話が紆余曲折しても、 うまくまとめることができなくても、 聞いたあと、シンプルなメッセージとして、 あるいは、言葉にならない印象として、 「何かひとつ」、 聞き手の中に強く響いてくるものがある。 小論文の指導では、よく 「経験を書く」のではなく、「経験で書く」と言う。 伝わる表現は、 「どうぞ、私のこのつらい経験を、たたいて、踏んで、 好きなようにしてください」と、 聞き手に、潔く、 サンドバックのように差し出しながらも、 その経験を通して、 「何かひとつ」伝えたいことがある。 「経験を話す」のでなく、 「経験を通して伝えたい、何か」がある。 一方、伝わらない表現は、 まだ、「経験を話す」という段階に終始していて、 そこから伝えたい何かをつかむ域まで行けていない。 「経験で書く」、というと、 生前、岡本敏子さんがアトリエトークで 岡本太郎さんの『明日の神話』について 話されていたのを思い出す。 「岡本太郎は、原爆を通して 原爆にも屈することのなかった、 人間の生命の美しさを描いた」 という意味のことを話してくださった。 「暗い絵ではない」、「まけてない」、と。 原爆に負けなかったからこそ、今日、こうして 私たちがここにいるのだと。 原爆を通して、何を書くか。 その悲惨さ、その爪あと、 責任の追及、平和への希求、 たくさん伝えるべきこと、 伝えなくてはならないことがある。 その中で、 「生命の美しさ」 を描きだそうとする発想に打たれる。 「経験を書く」のではなく、 「経験で書く」のであれば、 もっともむごたらしい経験を通して、 最も美しいものを伝えることも可能だ。 そこに、「表現」をしかけていくことの、希望がある。 私は、「つらい経験」を話しても、 なぜか伝わらないときの、 かもしだす磁場のようなものを考えていた。 伝わる表現が、つらい話でも、 なぜか読後感、さわやかで、 受け手のほうが活力を与えられたような、 ありがとうと言いたくなるようなのに対して、 伝わらない表現は、 「自分が…、自分が…」という磁場の中に 受け手のパワーを吸い取ってしまうような、 疎ましさがある。 ひと言で言って、「自我の磁場」だ。 どうしてそうなるのか、 なぜ、あれもこれもと握りしめたまま、 捨てられないのか、 なぜ、自分が…、自分が…、の表現になっていくのか、 と考えて、 そういう人は、さびしいのではないか、 と私はおもった。 愛情が欠乏しているから、無自覚のうちに、 表現の中で、人の愛情を求めてしまう。 聞いてくれ、わかってくれ、 「私を見てくれ」 が、無意識の主題となってしまっている。 「私を見てくれ」、たしかに、それは、 赤の他人から見て面白い主題とは言えない。 そういう表現は、まわりがしんどい。 人はあまのじゃくなもので、 最初から「くれくれ」言われると、 うざったく思って、遠ざけてしまう。 反対に、ささやかでも、与えられると、 自分からも与えなければ!という気になる。 実際、つらい経験から、 なけなしの視点なり、メッセージなりを浮上させ、 無意識にも人に与えるもののある話には、 共感や、人の感謝が注がれ、 表現する人と、受け取る人の間に よい循環が生まれていく。 さびしいがため、無自覚なままに、 「私を見てくれ」が主題になってしまい、 かえって人に疎ましがられ、 さらにさびしくなって 「私を見てくれ」が強くなっていく、 悪循環。そこに、「自分が…、自分が…」という、 つよい自我の磁場が発生していくように思う。 「考える」ということは、 自分のもてる負の経験も、 人に与える何かに変換できる作業ではないかと思う。 つらかったり、さびしかったりするときに、 その経験を語る、のではなく、 その経験「で」、何を伝えたいか? つきぬけるさびしさより、 「私を見てくれ」より、 もっと強い、もっと自分が面白いと思う主題を、 つかみ出していく、 「考える力」が私たちにはあると思う。 人は最もさびしいときに、 もっとも豊かなものを伝えうる、 「考える力」のその可能性を信じたい。 ………………………………………………………………… 『17歳は2回くる―おとなの小論文教室。III』 (河出書房新社) 『理解という名の愛が欲しいーおとなの小論文教室。II』 河出書房新社 『おとなの小論文教室。』河出書房新社 『考えるシート』講談社1300円 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
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2006-08-23-WED
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