おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson325 死を思いとどまらせる言葉 1 先日、旅先で私は、 ひとりのタクシー運転手さんを探していた。 2年前、そこを訪れたとき、 ひとり旅で、日も暮れて、 ずいぶん寂しい所へ来たものだと…。 おなかがすいているのに、店はどんどん閉まっていく。 その初老のタクシー運転手さんは、 わがことのようにあせって、閉店前のお店に ごはんが食べられるようにかけあってくれ、 近くの温泉にはいれるようにしてくれた。 背をかがめ、私のために、あっちこっちと、 小走りする後姿を見ていると、可笑しいような、 懐かしいような、切ないような感じになった。 観光タクシーなどめったに乗らない私だが、 その人の応対で、なぜか次の日乗ってみようと想った。 聞けば、その土地の観光タクシーでも屈指の、 いい運転手さんらしく。 運転手さんは、終始あたたかく、 しかし、近づきすぎることはなく、 絶妙な距離感の調節で、 そっと一人にしておいてくれたり、 親切に説明してくれたりした。 あの運転手さんでなくてはならない。 2年ぶりに訪れたその土地で、 名前もタクシー会社も覚えていなかった私は、 泊まっていた旅館や、タクシー会社を巻き込んで ちょっとした捜索さわぎをおこし、その末、 やっと探し出し、 今回また運転をお願いすることができた。 久々にお会いできた運転手さんは、変わりなく、 でも今回、こんな話をしてくれた。 33年間のタクシー勤務生活で、3人だと。 それは、「死を思いとどまった人の数」だ。 死のうと決めて、そこを訪れ、 タクシーをたのんで、 どこか人気のない死に場所を探す。 しかし、運転手さんの温かい人柄に触れて、 思いとどまることができました、と、 あとから手紙などで 自己申告してきたお客さんが3人いる ということだ。 最近、いじめによる自殺が問題になっている。 先日も、 「死を予告してきた子どもに、 エライ人の命を大切にという言葉は、 なぜとどかないのか。 あなただったら、どう言って思いとどまらせるか?」 というような質問を受けた。 私は、今まで、この問題を書くべきではない、 自分の手で扱える問題ではないと、ずっと避けてきた。 私は、親や先生にまさるものはないと常々思っている。 私は、学校の先生や、親御さんに対しても コミュニケーション研修をさせていただくが、 現場の先生は、医療で言う臨床経験が豊富な分、 コミュニケーションの潜在力はほんとうにすごいし、 親の愛は、いまさら言うまでもない。 親や先生でも手におえない問題に、 部外者の私が何言えるよ、と。 私は子どももいない。 現場の先生のような対こどもの経験値も少ない。 自分の子どものころを思い出して何か言おうとしても、 昔と今とでは、 子どもの置かれた状況には違いがありすぎる。 何もできない。ゆえに、何もしない。 と決め込んでいた。 でも、実際、あの運転手さんは、 11年に1人の割合でたすけている。 死を決意した人は、 長くタクシー運転手をやっていれば、 なんとなくわかる、という。 だから、寂しい場所を観光するときも、一人にしないで ずっとくっついて見張っていたと、運転手さんは言う。 運転手さんは、蚊にかまれ、 足をかきむしる私に、すかさず、 お弁当に入れる小さい魚の形の醤油入れを差し出した。 ホウセンカを焼酎につけた、 奥さん手製のカユミ止めだと言う。 つけると、ほんとうにカユミはおさまった。 この運転手さんは、優しい。 ひとりよがりの親切でない、 相手がほんとうに欲しているところに、 相手が欲しているタイミングで、さっと手がとどく。 ムラがなく、その優しさは持続する。 お客にとって、タクシー運転手は、 部外者どころか通りすがりだ。 でも、距離のある 他人だからこそできることもあるのだと、 この運転手さんは教えてくれる。 それで、 「死を予告してきた子どもに、私なら何を言うか?」 正解はない、はずすかもしれない、でも、 現時点の自己ベストの方針を 考えてみようと思い至った。 死を予告してきた子どもに、 どんな言葉がとどくのだろう。 とどかない言葉ならすぐ浮かぶ。 ひとつは、 「命を大切にしろ。」 ひとつは、 「生きたくても生きられない人もいるのに……」 ひとつは、 「おとなになれば今の苦しみなんて……」 もっと不幸な人を思いなさい。 ――人を元気にしようとして、 私もつい使ってしまう手口だ。 「生きたくても生きられない人もいるのに……」 「ごはんが食べたくても食べられない人もいるのに……」 「世の中にはもっともっと苦しんでいる人もいるのに、 どうしてあなたは……」 わたしは、生まれて初めての本を書いたとき 7ヶ月、ほとんど人に会わず執筆をした。 そのあいだ、三食、三食、 独りでごはんをたべる、のが、つづく、 というのが、精神的にしんどくて、しかたがなかった。 いまはもう、覚悟もすわり、 二、三ヶ月ぶっつづけて独りでメシを食おうが、 人に会えなかろうが、屁でもないほどの、 いいのか悪いのか、強靭な孤独への耐性が しみついてしまった私だ。 一日三食、単純計算して630食、がまんして独りで食べ、 さっさと原稿書きゃあ済む話だと、いまなら言える。 でもそのときは、それが、いっぱいいっぱいだった。 それが、つらいのだと。 こらえても、おもわず弱音がこぼれてしまうときに、 決まって人から言われる言葉があった。 「あなたのように 本を出したくても出せない人もいるのに…」 何をぜいたくなことを言っているのだ、 あなたは恵まれているのだからがんばれ、と 言う人は、ほんとうに私を力づけようとして 言ってくれたのだと思う。 だけれども、私は、この言葉を言われると のどがつまったように、グウの音も出せなくなり、 かといって、飲み込むこともできず。 悩みは独り抱えるしかないと、非常に孤独感が強まった。 私自身をふりかえっても、本を出す前は、 孤独だったが、本を出すと言う希望もあった。 実際、本を出すという関門をくぐってみてわかったが、 そこには、なみいる プロの中で書き続けなければならないという、 これまで歩いてきた坂道より、はるかに角度のきつい、 かつて見たこともない急勾配がそそり立っていた。 苦しみは序列できるのだろうか? ごはんを食べられる人の苦しみは、 食べられない人の比ではないと一蹴できる。 でも、ごはんを食べるという 難問を解決しても決して終わらない 人間のその先にある苦しみに挑戦しているとも言える。 苦しみは人と比べてランキングするものではなく、 その人個人の人生のステージの中で、 すでに乗り越えた苦しみであるか、 新たな苦しみであるかを見たい。 新たな苦しみに出くわしている人には、 その大小を問わず、私はそのことに敬意を払いたい。 「命は大切だ」 ――普遍の真実をぶつける。 「おとなになれば今の苦しみなんて」 ――すでに苦しみを越えてしまった人が 向こう側からものを言う。 普遍の真実も、 対岸からのもの言いも、より不幸な人を思えも、 相手が大事だからこそ、言うのであって、 言う方はほんとうに一生懸命で、 それを考えると切ないのだけれど、 どれも極端に言うと、 「あんた間違っている」につながってしまう。 「命が大切というのは人類普遍の真実だから、 だから、死のうとするあなたは間違っている」 「おとなになれば、 もっと不幸な人と比べれば、 いまのあなたの悩みなどとるにたりない、 だからそんなことで悩むあなたは間違っている」 相対化されたり、 序列化されたり、 普遍の真実をかざされたり、 おおきなスケールで、 いわば、あらゆる角度から 自分の非を指摘される、 なにより、その上から目線のものいいの根底にひそむ 「あんた、だめじゃないか」 という無意識の優劣構造に、 自分はダメなんだろうかと疑っている人は、 よけい追いつめられていくんじゃないかと思う。 人は、はっきり言われる「おまえはだめだ」より、 相手の言動から無意識に感じとれてしまう、 「おまえはだめだ」のほうに、深く傷つく。 心の根っこで 相手を尊重してないととどかない言葉がある。 その尊重感をどこからどうもってくるか? どう伝えるか? 死を思いとどまらせる言葉、 非常に難問だけれども、 現時点での自己ベストの方針を打ち出すべく 次週も、ひきつづき考えてみたい。 あなた自身が、ほんとうにつらかったとき、 言われてうれしかったのは、 だれの、どんな言葉ですか? |
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2006-11-15-WED
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