おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson331 錆びない思考力 正月、実家に帰ったら、 「あれ、お父さんも年とったかな」 そんな場面があった。 見かけは年齢より若く見える父だけど、 言動になんともいえず「思考の老い」が見え隠れする。 娘としては切なかった。 「思考が老いる」とはどういうことなんだろう? 不思議なのは 相変わらず母の頭の中が若いことだ。 田舎の主婦、特別なことは何ひとつしていない、 なのに、なにかの判断をするとき、 母は私よりも若いのではないかと思うことがある。 母の頭は老けない、なぜなんだろう? 昨年の暮れ、 私は生まれて初めて小学校で 表現教育のワークショップをやった。 何が驚いたって、 小学生が、まだ、習ってもいない「要約」を おとな顔負けにやってのけたのに、 私は倒れそうなくらい衝撃を受けた。 しかも私が課したのは、 受験生や大学生でも頭を抱え込む 高難度の要約だ。 小学生2人1組になって、 インタビューをしあう。 片方、約30分40問くらいの質問をする。 その40問の質問に、 それぞれ別々に答えた答えを ぜーんぶまとめて、しかも、ひと言で要約させる。 ひと言で要約させることで、 表面的でない、 相手の根っこにある想いや価値観=根本思想に 踏み込んだ理解ができるからだ。 しかし小学生にそれをさせるか? 前の晩、私は、指導案から このメニューを取ったり入れたり さんざん悩んだ。 で、できなくてあたりまえだ。 ただ、挑戦する機会だけは与えてみよう、 ということに決めた。 小学生は「要約」といってもわからないから、 「いま、相手から30分かけて聞いた話を、 ぜーんぶ、頭に思い浮かべて。 いい? 思い浮かべた? それじゃ、次に、それを、ぎゅーっと縮めてみよう。 ぎゅーっと縮めて、 ぎゅーっと縮めて、 さらにぎゅーっと縮めて…… それをひと言でいってみよう」 と投げかけてみた。 そうしたら、 私の近くで女子とインタビューしていた男子の口から 「生命の尊さ……」 という言葉が間髪いれずに飛び出した。 男子は続けて、こう言い直した。 「つまりはさあ、 生命の尊さに気づいた、ってことだろ?」 できてる! 30分、40問かけて 相手から聞き出したインタビューの答えの 根本思想に迫る要約が、たった一言でできている! あっちでも、こっちでも、 ズバッとひと言要約の声が飛び交い、 できないとか、やることがわからないと質問する生徒は 皆無だった。 しかも、相手の言葉をつかうんじゃなくて、 相手が一回も言っていない、 新たな自分の言葉をつかって、 相手の根っこにある想いを要約し、理解してのけた。 この恐るべき要約力はどこからくるのか? 私は休み時間に生徒に念を押し確認したが、 要約はならったことも、 したことも、きいたことさえないという。 授業を見ていたスタッフが、 こどもは変な先入観とか邪念とかがないから、 人の話をきくとき、ほんとうに素で、まっさらな状態で 聞くから、相手の言うことをそのままに 理解できるのかもしれないなあ、と言った。 たしかに、人の話にも、要約にも、まったく先入観がない。 「何のために」とか、 「これをやってどうこうしよう」とか、 「うまくやろう」という野心とか、 「できないかも」とか、 「苦手だから」とかのネガティブ思考もない。 ただ、言われたままに素直に縮めました。 縮めたら、要約できちゃいました、みたいな。 こども力。 計り知れない生命力を感じた。 同じ環境でいっせいのせいでサバイバルしたら 私は完全に負けるんじゃないか。 そんな後だったから、 父の思考にしのびよる老いの影が、 いっそう際立ってみえた。 正月、 重く熱い土鍋を台所から居間に運ぶのは父の役目だ。 ところが父が運べないと、コンロの前で手間どっている。 だれかがもっていったのか、違う場所にしまったか、 とにかくいつものところに「なべつかみ」がない、 それが理由だった。 それをみて、母と私が同時に全く同じことを言った。 「なべつかみがなくても、そこに、 ふきんもタオルもたくさんあるでしょ」 なべつかみがなきゃ他のもので代用すればいい。 そう思って私は、はっ、とした。 思考が老いるとは、「柔軟性」がなくなることなんだ。 父の頭には、鍋は「なべつかみ」でつかむもの という一直線のイメージがあり、そこにとらわれ、 イレギュラーに対処できない。 思考の老化というと、 忘れやすくなるとか、希薄になるとか、 なんとなくそういうイメージがあった。 でもそうではない。 思考が老いるとは、 しだいに一つの考えに固まり、硬直化し、 融通を利かせたり、自由に思考が動き回れなくなること、 やわらかさや、しなやかさを失うことだと思った。 正月、もう一つ切ない光景があった。 実家をおとずれた姪と甥、 母にとっては孫にあたるふたりが、 わずかな時間いただけで あわただしく鳥が発つように帰ってしまったことだ。 孫はこの2人しかいない。 母は正月、孫に会うのをどんなに楽しみにしていたか。 姪と甥は、小さいころから実家で正月を過ごしていた。 しかし、いまや女子大生と新社会人だ。 いろいろ忙しいのだろう。 かわいい孫に食べさせようと、 母は、暮れから大量の食材を仕入れ、 あまり丈夫でない体を駆使して下ごしらえなど 時間と手間をかけて準備をしていた。 しかし、そのシャドウワーク(影の働き)の多くは 無駄になった。 それでも母は文句をいうどころか、 せっかくの準備が無駄になることなど まったく苦じゃない様子で、 また次の客人のために準備に余念がなかった。 田舎の人というのは、訪問するとき、 何時にくるとか、何人で来るとか、食事をするしないなど きっちりとアポイントをとらない。 互いに余計な気をつかわせまいという美学なのだろう。 そのため、田舎の主婦は、いつ人がきてもいいように、 何人きてもいいように、 おなかがすいたといわれてもいいように、 はやめに、おおめに準備をしかける。 しかもデリバリーとかないから、 とてもてまひまかけてやる。 それでも、お客さんのほうは、なかなかこなかったり、 人数が増えたり減ったり、 食事はすませていたり、好き嫌いがあったり、 早々に帰ってしまったり、 せっかくの準備が無駄になったりなど日常茶飯事。 私だったら、そんなことがあったら、 「食べてくるんならそう言ってよ」とか、 「人数増えるんだったら先に言ってよ」と 怒りそうなものだが、 母は、お客さんの予想外の展開に対して体力があり、 動じないどころか、むしろ楽しんでる。 正月中ずーっとみんなのために シャドウワークの権化と化している母をみていると、 母だけが損な役回りをしている 田舎の女性の人生って、いったい何なのか? という割り切れない憤りと、 このようなスキルこそ、私が学ばなくてはいけない しかし身につけるのがもっとも難しい尊いものではないか という想いが交錯した。 いつ来るか、食べるかどうかわからない人のために、 心をこめた準備をして待つ、しかも、たのしんで。 いまの自分にはあまりにもステージが高い。 「親を安心させよう、楽させようとおもって、 なんにもしなくていいようにすると とたんに老化が進みますよ」 私が正月のいろいろわりきれない想いを話すと、 以前、脳の老化に関する本を手がけたという 編集者さんが言った。 「脳には、いつも、大変だ、大変だ、 ラクはできないと思わせておかないと」 たとえば定年退職した人に、ビルの管理などをまかすと、 きっちりと仕事を把握してこなせる人は、 在職中、最後までずっと 「実務」をこなしていた人なのだそうだ。 はやくからエラクなってしまい、 さっさと実務を手放して、 ラクでわりのいい仕事にまわってしまった人は、 やろうとしても、もはや、できない、 使い物にならないこともあると。 私は、母の頭がいつまでも 柔軟で若いわけがやっと腑に落ちた。 母の日常は家事、つまり「実務」の権化だ。 しかも、田舎のファジーなコミュニケーションのなかで、 予想しながら、相手の意図をはかって準備をしたり、 でもその予想がはずれてみたり、 それでも、だいたいのことを、細かく相手に聞かなくても ちゃんとわかるようになっていったり……。 それは、柔軟さも鍛えられるわけだ、 いちばん大変なポジションに身を置くことが、 結局、母の思考を錆びさせなかった。 「何時にくるの? 何人来るの?」 がっちがっちにアポイントを固めてから会う、 予定をくるわされると怒る、 都会のコミュニケーションの中で 硬直化しているのは、 むしろ、自分の方ではないかと思う。 生まれてはじめての高難度の要約が、 先入観がないからこそ、できてしまった小学生のように、 すでにわかっていることも、 いちどすべての先入観をとりさって 真っ白な目で見たら、全然別の顔を見せ、 自分にできることはグンとひろがるのかもしれない。 一度真っ白になってそれに向かう。 いつまでも思考が若いとはそういうことかもしれない。 |
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2007-01-10-WED
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