YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson344 会社のサイズ


大きい会社と小さい会社、
選ぶとしたらどっちだろう?

私は就職のとき、
会社のサイズについて
まったく考える頭がなく、
受けたのも、
従業員、数人の小さな会社から
大企業までとバラバラだった。

会社は大きい小さいに関係なく
中身が肝心、と言われる。

たしかにそうだ。
なのだけれども、
「サイズに規定される」部分もあるな、と
つい先日、あらためて気づかされることがあった。

単行本『おとなの進路教室。』の
デザインを担当した尾原史和さんは、
まだ高校生のころ、
まだ将来なにをしたいかも、
ぜんぜんわかっていなかったころから、
バクゼンと

「自分は、大会社はナイな」と考えたという。

将来働く自分の姿をイメージしてみて、
ワンフロアーに200人もいるような大きな会社で
自分が働いていることがどうにも想像できない、
というか、自分はもたない、と
かなりはやい段階から思ったという。

高校のときと言えば、
私は「小学校の先生になる」と思っており、
まわりの友人もそんな風に「職種」で、
なりたいものが、あったり、なかったり。

だけど、何人規模の学校で働いているかとか、
どんな教室のどんな空間で働いているかとか、
そんなことは全然イメージさえしてみなかった。

尾原さんは、
まず自分が働くところのサイズとか、
空間でイメージしている。

感覚的に捉えるところが面白いと思った。

尾原さんは、『R25』や『ニュートラル』など
つきぬけたデザインを次々やっている。
私よりひと回り以上歳が小さいのに、
10人強のチームを率いている。

どんな経歴をたどってきたのだろう?

デザイナーになるといえば、
素人の私、
大手広告代理店のデザイン部から独立するとか、
有名デザイナーのもとで修行を積んだのち独立とか、
しか浮かばないのだけど、

尾原さんが、
社会人のスタートを切ったのは二十歳のとき、
地元高知県の、
従業員20人くらいの小さな印刷会社だった。

名刺や会社の封筒などをつくっているところで。

デザインに関するところは、
ほぼ尾原さん1人。

ここでの2年の経験がとても大きかったという。

例えば地元の企業から封筒などの依頼があった場合、
新人でも自分が出て打ち合わせからやる。

クライアントの要望をいちから聞くところからはじめ、
自分でおおもとから考えてデザインをおこし。

小さな印刷会社では工場長にかわいがられて、
印刷機の使い方から、
組版から、紙の知識、コストまで、教わったという。

つまり、自分が考えたものが、
どんな紙に、どんなふうにして印刷され、どう形になり、
それがいくらかというところまで自然に見渡せる所にいた。

地元なら、自分がデザインしたものが、
実際に企業でどう使われているかも、目の当たりにし、
自分の会社の経営状態も敏感に感じ取るわけで。

いちから自分で考えさせてもらえて、
仕事の全工程、最初から最後までトータルで学んでいける。

尾原さんは2年後に東京に出るのだが、
デザイン学校を卒業した時点では、
同級生たちのように、東京に出たいとか、
有名デザイナーのもとで修行をしたいとか、
なぜかいっさい、そういう気にはなれなかったそうだ。

いまふりかえって、もし、
デザイン学校を卒業した時点ですぐに、
尊敬するデザイナーのもとで働いていたとしたら、
ある程度上司のデザイナーが考えたものを、
「この先をやって」とふられる、
というようなことになっていただろう、という。

おおもとのところから自分で考えないで、
だれかの発案の部分的作業を請け負う、
それを何年かやっていると、
デザインというものが何かわからなくなってしまう、と
そんな危機感を語っていた。

私は、聞きながらはっとした。

私が新人の3年間をすごしたのが、
ワンフロアに百何十人といる大きな会社の
日給の編集アシスタントだった。

やっていた仕事は校正とレイアウト。

会社のサイズが大きくなればなるほど「分業」が進み、
やっていることは「部分」になる。

それでもおかしなもので、
自分が部分的、末端の作業をしているなどとは
つゆも思わず、
自分が教材をつくっているくらいの気持ちでいた。

というのも社員の人はよく会議といって席をたった。
その間なにをしているかよくわからない。

一方自分のやっていることは、
文字をわりつけたり、間違いを直したりの実作業なわけで、
具体的にカタチになるところを担当していたのだ。

社員になってみて、はじめて、
編集とはこういうことかと視野が開ける思いがした。

家作りにたとえると、
自分はそれまで決められた場所に、
決められた図面を渡され、それを丁寧につくりあげていた。

だけど、その間、
社員の人は、広い世の中を見渡して、
どこに、どんな家を建てようかとリサーチしたり、
設計図そのものから考えていたのだ。

社員になってからも、
自分が編集という「部分」を担当しているという自覚が
なかなか育たず、
壁にぶつかっては、営業や製作の大切さに気づかされ。

さらに社員になっても、さらに、それは、
部長なり、課長が、リサーチし、設計した事業の
一端をになうというピラミッド構造は続くわけで、

なんやかんやで、自分の仕事をとりまく
全体が見通せるまでに10年かかったと思う。

はやいがいいというわけではないけれど、
尾原さんがはやくに独立できたのは根拠があると思った。

キャリアは人と比較するものではないけれど、
単純に年数を追えば、二十二歳で社会に出た私より、
尾原さんは二歳はやく社会に出ており。

私が大企業で完全なる部分・末端の作業やっていた
3年間には、
尾原さんは小さい会社ですでに仕事の矢面にたっており、
2年で会社のしくみや仕事の全工程をひととおり
見渡せるようになっていた。

そういえば会社にいたころ、
外部の人に、
「御社の社員は非常に優秀だけれども、どこか幼い」
というようなことを言われ気になっていた。

分業が進んだ大きな会社にいる人は、
ある部分においては、非常に特化した能力が育つけれども、
それ以外の部分になると疎いというような
ともすれば大きなギャップが生じやすいのかも。

けれど、大きな会社では、
全国レベル、世界レベルと仕事の規模も大きい
ということも生じやすく、
その特化した能力には素晴らしいものがある。

大きい会社と小さい会社、選ぶとしたらどっち?

それはその人の目指すものによってちがってくる。

尾原さんがもうひとつ、
高校のときから自分の将来についてバクゼンと
思っていたのは、

「自分の感覚が生かせる仕事に就く」

ということだ。

まだまったく何をやりたいかもわからない、
デザインというものも全然知らなかったときに、
でも、

なにか自分を出して、
自分の感覚を出してできる仕事に就けたらいいな
と思っていたという。

キャリアアンカーというのは、
もしかしたらこういうバクゼンとした想いなのかも。

会社のサイズも、どこでどう働くかも、
このバクゼンとした想いに忠実になることで決まっていく。

この先、たとえデザイナーというカタチが変わろうとも、
「自分にしかできない新しい面白いもの」をつくり続ける
と尾原さんは言う。

「新しい面白いもの」ならどんな職種においても
生み出せるのだけど。
経済の人が、経済に、
言語学者の人が、人間の言葉に、
働きかけるように、

最終的には、「人間の感覚」に落ちていく、
その部分で新しい、面白いものをつくる、のが
デザインの立ち位置で、尾原さんの譲れないものだ。

自分にあった組織のサイズは、
自分の譲れないものに忠実になることで見えてくる。
私はそう考える。

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2007-04-11-WED
YAMADA
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