おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson345 自分を生かす 今日はまず、読者のメールからお読み下さい。 (プライバシーに配慮して改変して紹介します。) <怒ることで見えてきたもの> 今、会社を辞めようとしています。 というより、決意せざるを得なかったのです。 私が受けていたものは、 「モラルハラスメント」というものでした。 (周りの第三者が調べてくれたのです。) 人間完璧なヒトはいないわけですが、 どこかに何らかの欠点があり、不得手があります。 そして、その不得手だけを例え少しずつであれ、 毎日指摘をされ続けると、 ヒトの自信なんていうものは簡単に崩壊します。 傍からみれば、 「それ以上のこと(=得手、長所)やってんだからさ、 (気にする事ない)」 ということであっても、 当事者は確実に弱っていきます。 今回、このことを会社とは関係ない仲間にぶつけた時 モラハラにあった経験者がいて、その時は 「『ハイ』と『ごめんなさい』を言うために 会社に行っていた」 そうです。 ちょっと前なら「えぇ?、そんなコト!」と 純粋に驚いていたことに 今は素直に「そうなんだよ。」と思えます。 そんなあっちゃイケナイことが、 自分のスグ身近に存在することに。 先日、私が統括するグループで、 私の出張中に メンバーにアンケートがとられました。 リーダーである私のマイナス面ばかりを 書き出させる不自然な項目が並んでおり、 一方でリーダーのプラス面などを 書かせる欄はありません。 そのアンケート結果をもとに、 「これまで私のさいさんの忠告を あなたは真剣に聞き入れようとしなかったけれど、 これまであなたに言ってきたことは、 やっぱりみんなも感じていることだ。 メンバー全員があなたになんらかの不満を持っている。」 正直愕然としました。 メンバーからアンケートのやり方は聞いていました。 マイナス面ばかりを出させる不自然な聞き方に メンバーが怒っていたのも分かっていました。 しかし、ショックで何も言えませんでした。 「なぜ、ここまでする?」 ということに。 「自分があなただったら、 こういうことは、はっきり言ってほしいから、 あなたのために憎まれ役を買ってでている」と、 この芝居がかった台詞に。 「なぜ、そこまでする?」 「目的は何なんだ?」 攻撃者たちの目的が私の排除(=退社)にあるのであれば 分かり易い。 でも、そうではないのです。 私の思考は、そこで留まったのです。 どう整理してイイか解らないこの状況、 確実に弱っていっている自分。 そんな時、私の留まった思考が動く切っ掛けは二つでした。 一つが、「モラルハラスメント」という名前です。 名前があること、名前がついている安心感。 説明し易い、というより、説明していいんだ、というか、 何かそんな感情が湧いてきました。 そしてもう一つ、私を救ってくれたもの。 それは、「周りの怒り」でした。 この話しを聞いた周りの人間が、私への行為にみな 怒りを露わにしたのです。 「そうだ、怒ることなんだ、コレは。 普段のオレなら、他者がやられていたら、 絶対怒っていたことなんだ。」 モラハラ等の攻撃がキツイのは、 「まさかこんな」といった、 受け手側が全く想定していない領域からの攻撃を 無防備な状態で受けてしまうからだと思います。 じゃあ、そんなコトも想定して、構えて、 防御してヒトに接するのか? ズーニーさんはどう思いますか。 (読者 カズオさんからのメール) カズオさんへ メールをありがとうございます。 モラルハラスメントについては、私には、 コメントしたり、ここで採り上げていくだけの 知識や力量がありません。 なので私は、私の体験にひきあてて、 実感をもって言えることだけを、お伝えしたいと思います。 私も、プライバシーに配慮して、 改変を加えて話します。 以下に登場する、団体、人物、設定は すべて架空のものです。 ただし、私の感じ・考えたことにうそはありません。 私も、ある人から、否定されているうちに、 自信を失ったことがあります。 私の上司は、人格否定はしなかったのですが、 とにかく仕事の質について厳しい人でした。 ついていける人、脱落する人、さまざまでしたが、 私は、上司を大変尊敬しており、 とにかくついていこうと必死でした。 よいときは、上司に褒められ、 天にも昇るような気持ちでしたが、 悪いときは、手のひらを返したように冷たく扱われます。 話しかけても 返事をしてくれないようなことさえありました。 いまから考えれば、怒っていいことです。 仕事の出来と、返事をするしないはカンケイない。 返事をするのは人として最低限の礼儀です。 しかし私は、二重の意味で怒ることをしませんでした。 ひとつは、上司の心象を悪くして よけい評価が悪くなったらどうしよう。 そして、もうひとつ、これが大きいのですが、 ぞんざいな扱いを受けるのは、 自分の仕事のできが悪いから、 ひいては自分の能力がないせいだから、 と怒りを飲み込んでしまったのです。 あるとき、がんばってもいっこうに 上司に認められないことが続くことがありました。 自分の仕事を否定され、続け、 ひいては自分を否定されたように思い、続け、 自信をすっかり失い、 仕事上の頼みごとをしてもあとまわしにされたり、 など、ふつうなら、激怒するような扱いを受けても、 甘んじて受け入れ続けていると、 ほんとうに自分が人より劣るつまらない人間に 思えてきます。 そのころの、印象に残る光景があります。 お客さんを対象にした、商品説明会、 私が担当した商品について、 お客さんが私に質問をしたときです。 「その質問はおかしい」と、 お客さんにまくしたてている自分がいました。 それを見ていた同僚が、 「山田さん、ものすごく怖い顔してたよ。 あれはまずいよ、 お客さんにあんな顔しちゃあ」と。 弱い犬ほどよく吠えるといいますが、 よほどびくびくと自分に自信がなかったのでしょう。 お客さんはふつうに質問しただけなのですが、 なにか非を指摘されるんじゃないかと、 ほえてしまった、弱虫の自分がいました。 おかしいのですが、そのころでも、 わたしのやった仕事は実はちゃんと成果は出ていました。 数字をみればあきらかなことで。 認めてくれる人もまわりにいたのです。 なのに自分の耳はいっこうにそれを受け付けませんでした。 あるとき同僚の「しのちゃん」という人が、 ニヤニヤと、私のやった仕事をもってきて、 「これいいねえ、課の○○さんもほめてたよー」 と言いました。 それは、例の上司に けちょんけちょんに言われた仕事でした。 私は、こんな仕事をほめるなんて、 見る目と危機感がないせいにちがいないと しのちゃんに冷たい態度をとりました。 翌年の商品企画を決める会議でも。 私は、とうていその商品を翌年も残す自信が持てず、 その年限りでつぶす気でいました。 しのちゃんが、「あれはいい企画だから、 自分が責任を取るから」と、 翌年もその商品をつくるよう残してくれました。 終わりは上司の異動というカタチであっけなく訪れました。 上司が去ったあと、印象に残る風景があります。 またも、お客さんを対象にした商品説明会、 私が担当した商品について、 お客さんが質問をしました。 今度は余裕をもって笑顔で答える自分がいました。 なぜ、いま、ふつうに笑顔でできることが、 あのときはできなかったのだろう? 自分が当時、尋常ではないほど追いつめられていたことに いまさらのように気づきました。 自信をすっかりなくし、緊張し、 ものすごく心が堅く小さく縮んでしまっていたと。 渦中にいるときはなかなか気づけないものです。 お客さんに笑顔で接していると、 お客さんも、安心して次々に話しかけてくれます。 平常心で余裕を持って聞いていると、 商品に対するいろんな情報がはいってきました。 お客さんの意見は、 何が役に立った、どんなふうに役立ったと、 肯定意見がほとんどでした。 正直、こんなに役立っているのかと、 目がさめるようでした。 そうしているうち、 しのちゃんが残そうと言ってくれた あの商品の話になりました。 私が自信をなくしたあまり、 一度はゴミ箱に捨てようとした企画です。 それを、目の前で、ほんとうに役立ったと 歓んで、顔を輝かせながら話すお客さんがいました。 なぜかその声は、ものすごく素直に入ってきました。 しのちゃんはまちがっていなかった、 ごめん、と、ありがとうが同時にわいてきました。 自分の自信のなさのために、 あの企画を閉ざしてしまわなくて本当によかった、 命びろいをしたような心地がし、 次の瞬間、いままでなかなか耳に受け付けなかった、 自分の仕事への肯定的な意見やさまざまな情報が、 やっと、一気にはいりこんで、つながって ああ、と、気づくところがありました。 「はじめてではない。」 あの企画をいいと言ってくれた人も当時からいた、 他にも複数いた。 最も自分が自信を失っているときでさえ、 自分は働いていたし、だれかの役に立っていた。 その働きを認めてくれる人もいた。 「自分を肯定する情報は、すでにあった。」 しかし、まったくとりこめなかったのはなぜだろう? そのせいで、たくさんの企画やアイデアを捨ててしまった。 あの企画がいまこのような実りを生んでいるのなら、 他にも生かしたり、発展させられるものはあった。 あのときに戻って、ほんのちょっと自分のつくったものに 自信を持って、生かして、‥‥しておれば、 枝分かれしたり、発展したり、次のものが生まれたりして 今見える風景はちがっていただろう。 私は自信を失ってしまったために、 自らの可能性の芽をいっぱい捨ててしまった。 もうどうしようもない。 後悔がありありと自分の中にわきました。 自信を失うことは、自分の中にあるよい芽を殺すことだから ほんとうにもったいない。 なんで活かさなかったかなあ、 もったいない、 他人の価値軸を信じて、自分の可能性を捨ててしまった。 いま辛かったときのことを思い出しても 他の感情はやがて全部消えるだろうと思います。 つらかったことも、憤りも。 ただ自分にあった可能性を 捨ててしまったということだけが、 痛恨のきわみとして残ります。 それだけです。 あの時どうして活かさなかったかなあ、 生かす、ということは、当時の自分にとって、 ただあと、「自信を持つ」だけだったかもしれない。 それがどんな立派な人であれ、 自分の存在を尊重しない人間の言うことの中に、 自分を生かすのに有効な情報は そんなにはないのではないか。 この次、同じ状況に追い込まれたら、 「自分を生かす」ことだけを考えようと思います。 そのために、どうすれば自分を肯定する意見が得られるか? それらをどうすれば自分の中にとりこめるのか? 自分を信じることができるのか? それが課題です。 |
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2007-04-18-WED
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