おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson347 初対面の人をむかえ入れる 私は人見知りだ。 初対面の人と会うのが苦痛で、 なじむまでにそうとう時間がかかる。 でもふしぎなもので、 そんな私でもすんなりなじむ人がいる。 初対面でも すぐ心の距離が縮まる人と、 自分の「よそもの」感が際だつ人、 なにがちがうんだろう? 心の狭いやつだと思われるかもしれないが、 私は「なんでズーニーなの?」 と聞かれることが苦痛で苦痛でしょうがない。 なんでなのか、ほとんど恐怖にちかい。 私は、たった1人で仕事をしているので、 いやでも初対面の人に数多く会わなければいけないし、 自分ひとりが「よそもの」で、 会社なり、学校なり、初対面の集団の中へ、 たった1人で入っていかなければいけない。 で、必ず聞かれるのが、 「なんで、ズーニーなんですか?」 という質問だ。 講演などをするため、初対面の集団の中へはいったとたん、 いちばん最初に、これを聞かれ、 会う人ごとに、かわるがわる聞かれ、 講演後の質問コーナーで聞かれ、 懇親会で、また、つぎつぎに聞かれ、 別れ際に、 「あのー。ずーーっと気になってたんですけど‥‥」 と、また聞かれ、 まったく同じ説明をずーーーっと、しているときがある。 その間、自分はずーーーっと、よそものだ。 「質問」というのは、 あいたいする(相対する)構造だ。 質問する人と、質問される人が、向かい合っている感じ。 自分ひとりがよそものとして、 他はうちとけたグループにはいっていったとき、 いきなり質問ぜめにあった経験はないだろうか? 「どっからきたの?」 「何してるの?」 「なんでそんな髪型なの?」 ‥‥というふうに。 質問は興味・関心のあらわれ、 うまくいくと、とてもいい。 注目してほしい、聞かれたい、言いたい、 という気分のときには、すごく親切なことだと思う。 だけど、これ、 人見知りの人にはわかるとおもうけど、 見知らぬ人に囲まれ、いきなり質問ぜめにあい、 自分だけがしゃべりつづけるのは、けっこう苦痛だ。 へたすると、 うちとけた仲間の中に、異質な人間が入ってきて、 珍しいというか、好奇の目で見るというか、 異質さを際立たせることにもなりかねない。 質問は、「目立つ部分」に集中する。 自分ひとり黄色い顔をして、 白い集団の中にはいっていって、 「おまえはなぜ、そんなに黄色いんだ?」 と質問され続けているうちに、 自分の異質感が強まっていく、そんな感じだ。 聞く方は、つい、気になって聞いただけ、 挨拶がわりだ、軽く受け流してほしいと思う。 だけど、「なぜ」、英語でいう「WHY」の問いは、 5W1Hのなかで、最も難度が高く、 答えるほうにチカラを要する問いだ。 「なぜ、ズーニーなのか?」 という質問は、自分にとってはいきなりけっこう重い。 とてもひと言では語れないものがある。 ところが聞く方は、答えに重さなんか求めてない。 というか、 コミュニケーションの入り口のあいさつなのだ。 答えは、なるべくあっさりほしい。 そこを切り口に、会話がはずめばいい、くらいの 位置づけで聞いている人もいるだろう。 軽くあいさつがわりに聞いてくる相手と、 そのわりには重く、とても軽くは答えられない自分、 その温度差に、まず、とまどいがあり、 一つの集まりで何回も、何十回も答えているうちに、 集団のなかで、自分の異質感がつよまる。 一方、この「相対する構造」とは、 まったく違う、むかえいれ方をする人がいる。 以前こんなことがあった。 ある集まりで、 私だけがまったくの初対面で、 むこうは旧知の間柄の数人のグループの テーブルに入っていかなければならなかったときだ。 軽くあいさつしたあとは、みんな、 とりたてて私に注目することもない。 質問をしてくることもない。 「あれ、自分にみんな無関心なのだろうか?」 一瞬不安になった。 あまのじゃくなようだが、人見知り族には、 注目されすぎるのもツライが、 逆に、無関心というのも、とても寂しいものだ。 そうおもった矢先、 「この牡蠣、おいしいよ」と、隣りの人が、 ポン! と差し出してくれた。 見ると、牡蠣にブルーチーズが乗って焼いてある。 はじめて見た。 食べてみるとほんとうにおいしい。 思わず、「うわー、おいしい!」と声が出た。 すすめてくれた人が、「でしょ!」と、 私が「うんうん!」と‥‥、 すると、テーブルのほかの人も 「どれどれ」と次々に手を伸ばし、 みんなで「おいしい!」の大合唱になった。 ただ「牡蠣がおいしい」、 それだけで私は、自然にテーブルの住人になっていた。 これは、「共感の構造」だ。 「質問」が、 相手と自分が向き合う「相対する構造」なら、 これは、牡蠣というものを向こう側において、 自分と相手が仲良くとなりに並んで牡蠣を見ている感じ。 同じ側にいる。 「あなたは何者か?」 「自分は何者です」 と名乗りあわなくても、 「牡蠣おいしい」で一発で通じ合える。 さりげなく作業をふってくれることもうれしい。 ほとんどが初対面の人たちの ホームパーティにいったとき、 やっぱりすぐはいっていけず、とまどっていると、 「ごめん、これ手伝ってくれるかな」と、 その中のひとりが、ぶっきらぼうに、 たまねぎをむく作業をふってくれた。 私たちは、名前も聞かず、 あいさつもせず、 無心にたまねぎをむきあった。 むいているうちに、 どちらからともなく、 ポツリ、ポツリと、言葉が出てきて、 会話しようとも思わないで、自然に会話をしており、 むきあげたとき、小さな達成感とともに、 気持ちのどこかが通じていた。 やっぱりこれも、 たまねぎをむくという「共通の目的」に向かって、 自分と相手が同じ側にいる感じだ。 さりげなく、 「牡蠣おいしいよ」と差し出してくれた人も、 「これ手伝って」と、 名前も聞かず作業をふってくれた人も、 たぶん、異質なものを異質なものとして扱わず、 ふだんどうりの自分たちの仲間のように扱ったのだろう。 それが、そのときの自分には居心地がよかった。 なにか質問することがわるいように 聞こえたかもしれないけれど、 見知らぬ人がはいってきたとき、 質問でもなんでもいい、積極的に話しかけ、 なんとかコミュニケーションをとろうとすることは いいことだ。 その気持ちだけで、相手もうれしいと思う。 でも、その押しに相手が引いていくようなときには、 自分が、相手と向かい合う構造に立っていないか、 ちょっとだけ考えてみて、 一緒に何か、見る、食べる、するなどして、 相手を見るんじゃなく、 相手と一緒になにか見ることによって、 同じ側に立つことも試してみるといいと思う。 |
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2007-05-09-WED
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