おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson349 操作される質問 自由に会話をしているようで、 実はこちらには、たった一つの返事しか許されていない、 そんな息苦しいコミュニケーションになってないだろうか? 今日はまず、読者のメールからお読み下さい。 <操作されそうになる会話> 答えが一つしかない質問あります、あります。 イヤなパターンその一 ママ同士で集まったとき。 Aさん:Bさんって○○よね。(誉め言葉) Bさん:そんなことないわよ〜 それ言うならCさんの方が○○よ。 Cさん:え〜そんなこと、ないって。 Aさんだってすごいじゃない。 ここで、そう、ありがとう。って認める答えをすると ????という反応がかえってきて、 陰でこそこそ言われたりする。 でも私は本当にそう思ったら、 最近は「ありがとう」と答えるようにしている。 その二 よく娘が使う。 自分の中で答えが決まっていて、それを人に言わせる。 朝の洋服選び、 「こっちとこっち、どっちがいいと思う?」 と聞きながら、本当は自分でもう決めている。 じゃあ、なんで人に聞くの?と腹が立つ。 自分の選んだものを私が選んだとき。 「やっぱりママもそう思う。よかった」 こういうときはまだ許せる。 その三 私が「決まっている答えと違う答えをしたとき」 「えーそう?」と、とても不満げな顔をする。 じゃあ自分で決めれば?って本当に腹が立つ。 この時には、彼女の中では答えは本当に一つ。 その答え以外に私が言うことが許されていない。 他の答えをしようものなら、 逆にこちらが不愉快な思いをさせられる。 私が不愉快な思いをしないようにするには、 彼女の望む答えを言うしかない。 →彼女は自分に都合のいい答えを 私の口から答えさせたい。 その二の場合は、 「自分の不安」を解消させたいためだけど、 その三は違う。 私の「意」に反する答えを言わせることで、 「自分の優位性」を確認したそうな気がする。 自分の気持ちまで支配されている感じがとてもイヤ。 今私は幼稚園の新米教師です。 この一週間ぐらい、子ども相手の会話で 自分が「操作」「支配」されそうになる会話について、 とても注意深く観察しています。 それが、この「一つしかない答え」に当てはまるのです。 もうすぐ三才になる女の子なのですが、 その子が絶対的に正しい「正論」をもちだしてきて、 「○○ってそうだよね」と正しさを強調するのです。 そういわれると答えは「そうだね」しかないのです。 「そうだね」と同意させることで、 彼女は自分の正当性と優位性を 証明したいような気がします。 私が「そうだね」というと満足そうで、 違う答えをいうとすかさず「なんで?」が入ります。 一つしかない答えは、 人を操作するあるいは服従させると感じます。 いかがでしょうか? (新米教師さんからのメール) <正解はどっちが持ってる?> 私は職を転々としていることを楽しんでいます。 それで、違う職場、違う人たちと、 コミュニケーションをうまくとる秘訣などを 聞かれるんですね。 自分の中にそういうものは特に決めているわけでもなく、 よしじゃあ考えてみるかと思って 考えてみたときに、 「自分で答えを決めている質問を相手にしない」 でした。ズーニーさんが先週コラムに書いていた 幼稚園時代の女の子は 「へたではない」と言われることを決めていたので 「へた」と言われたことを不快に思った のじゃないかと思うからです。 女性に2着の洋服を見せられて 「こっちとこっちのどっちが似合う?」 という質問みたいなことです。 もちろん女性本人は 決めているときづいてないかもしれないし、 本当に聞きたいのかもしれませんが、 「こっち」というと 「そうかなぁ‥‥」と言われることも ありえると思ってます。 私の中では 「彼女が思っている方と逆を選ぶと 機嫌を損ねるかもしれない」 と勘ぐってしまっているので 当たりはどっちだ?という 意見よりも正解を求められている心境なのです。 自分の意見であれば自信を持って発言できますが、 正解を当ててほしいというのであれば、 自分の意見よりもより正解に近い方を 選ばざるをえないのです。 そこに自分の意見だとか選択の余地はなくて、 ただ正解か不正解しかないのではないかと思うんです。 だからそういう質問はしないでいいような気がします。 「今から会いたいです。○○で待ってます。 ずっと待ってます。」 なんていうメールに無性に腹がたったのも、 行きたいとか行きたくないではなくて 私の選択の余地はないんですか、ということに 腹をたてていたのかもしれませんね。 (裕一さんからのメール) 「対等な関係」を築く、とは、 相手を操作しない・自分も操作されない会話を つみあげることかな、とメールを見て思った。 平たく言うと、自分にも相手にも、 返事を選択する余地があるかどうか。 これがなかなか難しい。 先日も、信頼する人に、 「この人ならわかってくれる」とおもい、 自分のつらい体験を話した。 ところが、相手が途中ではさむ質問が あまりにも的はずれで、すっかり脱力してしまった。 うらめしそうに相手をみる私に、相手はひと言、 「的はずれの質問だったかもしれない、 でも質問したのは、わかりたかったからだ」と言った。 自分が逆の立場になってみて、やっとわかる。 身の上話を聞くほうは、話すほうと対等ではない、 相手に操作されやすい。 どういうことかというと、まず情報量。 体験を語るとき、圧倒的に情報は話す側にある。 あたりまえだ、本人が身をもって体験したことなのだ。 そのときどんな状況だったか? 細部はどうだったか? 答えはぜんぶ、話す人が持っている。 一方、聞く人は、そのことについて全然知らない。 話す人の言葉だけ、 その少ない情報をたよりに想像していかければならない。 そりゃあ、すっとんきょうな質問のひとつもするよと思う。 話のゴールは「わかってくれ」。 私も知らずに強要していた。 なにを「わかれ」というかというと、 その体験が客観的にみてどうこうではない。 体験を通しての「私の気持ち」をわかれ、 つまり正解は「私の主観」だ。 聞くほうは、 圧倒的に相手より少ない情報量、 正解も相手に握られたまま、 意見がわかれても勝ち目はなく、 「わかる」というただひとつのリアクションをしいられ、 それ以外のリアクションをすると機嫌をそこねる、 というひどく不利な立場にいる。 正解はどっちがにぎっている? これ、職場の上司と新人の会話にも 言えるかもしれない。 仕事に関する情報量は、 上司と新人では格差がある。 ある問題に対する答えも、上司は経験上 すでに知っているかもしれない。 そういう方向で会話をすれば、 新人は自分の自由な意見でなく、 「上司の考え」をあてにいかなければならず、 はずれると「おまえはわかってない」 と機嫌をそこねられ、とどのつまりはいつも、 「部長のおっしゃるとおりです」 敬服というただひとつのリアクションをしいられる。 若い人がときに上司とのつきあいをケムたがるのも、 選択の余地なし、 いつも着地点はひとつのコミュニケーションが 窮屈なのかもしれない。 操作される会話。 でも、いちばん操作を用心しなければならない相手は 「自分」かもしれない。 自分も心のなかで自分と会話している。 問いかけ方によっては、 自分を選択の余地のない、袋小路へおいつめる。 わたしも、いっときよく 「野たれ死にをしてでも自分のやりたいことをやるか、 安定を選んで夢をあきらめるのか」 というような問いつめ方をした。 「やりたいこと」というのは、「やりたい」のだから、 この問いを発した時点で、すでに心の答えは出ている。 「野たれ死に」などとつくと、 選ばなければ臆病者になってしまう。 二者択一のようでいて、操作されやすい問いだ。 それでも正解を選べずにいると、 「自分にはがっかりだ」「意気地なし」と 自分をなじるようなことにもなる。 「なんで、よくある疑問の型にはまらなければいけない?」 と、先日ラジオ「おとなの進路教室。」で話を聞いた、 「イトヲチェさん」という人が言った。 彼女は、美大を卒業するとき、 「就活か? 創作か?」 というよくある問いのパターンにはまらなかった。 「有名な人の劇的な人生と比べて 自分はなんてぬるいことをしてるんだ」と 自分を追い込むようなことも違和感をもって避けた。 多くの人が「卒業」という期限で線引きし、 カウントダウンのようにして、 働く先なり、創作の方向なり、 カタチを決め、進路を決め、していくなかで、彼女は、 「なるべく迷える場所に行こう」 としたという。なぜかといえば、 大学時代に「演劇」をやっても、「映像」を撮っても、 自分にはこれだ!と思えるものがなく、 「自分が自分の世界観を出すのには どういうものがいいんだろう?」 という迷いは、迷っていい、 必要な迷いだと思ったからだそうだ。 彼女はじっくりと時間のなかで 違和感を「ろ過」するようにして、 いまは「これだ!」というものをつかんだ。 自分をほんとうに自由にさせてやる、とは、 彼女のようなことではないかと思う。 操作される質問。 何かを決めるとき、 よくある疑問のカタに自分を押し込んで、 ただ追いつめるだけになっていないだろうか? 自分をほんとうに自由にしてやる質問とはどんな質問か? それは日頃の、自分も相手も自由にする ひらかれた「対等な会話」から、 鍛えられ、生まれてくると私は思う。 |
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2007-05-23-WED
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