YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson350 断らせる知恵


人を誘うときに、
わたしが気を使うのが、
いかに相手が断ってもいいように誘うかだ。

どういうことかというと、
立場や状況によってチカラ関係が生じている
場合がある。自分でも気づかずに。

たとえば編集者さんをライブに誘うようなとき、

自分としては、きっと相手の感性で
こういう音楽好きだろうな、と
純粋な気持ちで誘うのだけど、

もしかしたら、むこうは、編集者と書き手、
「断ったら仕事にさしつかえるかも」
とおもい、無理してつきあってくれるかもしれない。

いかに断りやすい雰囲気をつくれるか。

これがなかなか難しい。
先日も、四苦八苦しながら、
そんなメールを書いていたら、
しだいに「怒ってんのか?」というような文章になり、
しまいには、読んだ相手が
「誘いたいの、誘いたくないの?
 私に来てほしくないわけ?」
と思うような、みょーな文面になってしまった。

読者のKさんは言う。


<相手の「NO」を受け入れる準備>

私は、不登校・ひきこもりの若者の支援という仕事柄、
カウンセリングの勉強もしています。
カウンセリング場面で、
クライエントに解釈を投与したり、
提案をしたりする時、

私は、クライエントが「NO」を言えるように
心がけています。

それは、言い方も工夫しますが、こちらの心情が肝心で、
こちらが自分とクライエントの対等性を、
本気で信じていないと、
クライエントはそれを敏感に察知して、
「NO」と言えなくなってしまうのです。

同様に、日常でも、
こちらが相手の「NO」を受け入れる準備が無いと、

相手は、こちらに迎合した答えを出してしまい、
自分を確認して自分の人生を歩むことが
できなくなってしまうのです。

「対等」であることは、本当に難しいです。

普通の大人同士、子ども同士でも難しいのに、
大人と子どもでは、
ましてや大人と
「不登校・ひきこもり」の子どもや若者では、
よほど意識していないと、上下関係になってしまいます。

(読者のKさんからのメール)


……………………………

反射的に思い出した光景がある。

私には、このところ
仲良くしている20代のカップルがいるのだが、

どうしてか、そのカップルのそばには、
いつも自然に人が集まってくる。
しかも、わんさと。

たとえば休日の午後、
そのカップルを含む数人の友だちで待ち合わせる。
それが、いつのまにか友だち数人が自然に合流して、
7、8人に増えている。

それが、ごはんを食べるころには十何人かに増え、

お酒を飲むころには20人くらいに増え、

気がつくと30人くらいになっている。

いつも、なにかするというと結構な大人数になるので
こんど本気で、バスをまるまる一台借り切って
旅行に行こうとしているほどだ。

いまどきの20代は、
大人数を嫌い、限られた少人数だけで遊ぶ、
というような先入観が私にはあった。

だから、まず、その人数にびっくりした。

体育会系ではない。
2人が強引に友達を誘っている様子などみたこともない。
でも、どんどん集まってくる。
私も気がつくと毎週のように2人に会いたくなっている。

いったい2人のなにがそうさせるのか?

このなぞはそんなにカンタンに解けるものではなく、
理由も、いくつも組み合わさっているのだろう。
でも、その理由のほんの一端を、
ちょっとだけかいまみるような出来事があった。

土曜の夜。
このカップルと待ち合わせてお好み焼きを
食べていると、次々友だちが合流し、
けっこうな人数になっていた。

1次会の店をでて、
さあどうする、というとき。
独特のみんなが
躊躇(ちゅうちょ)している間(ま)がある。

なんとなく、まだ話足りないような、
でも、時計をみると結構な時間にもなっているような、
でも、帰るのもさみしいような、
夜はこれからというような、

どうする? どうする? 次どうする?

というみんなの視線は、
自然にグループの中心的な人物に集まる。

この場合、グループの中心はカップルの男性のほうで、
(かりにここで「タクロウくん」と呼ぼう)
タクロウくんは、
次の行動を決めたり、動き出したりする起動力がある。

私は、流れから見て、当然タクロウくんが
みんなをつれて、そのまま2次会にいくものと思っていた。

ところが、意外にもキッパリ!と、
タクロウくんが
「じゃあみんな、ここでいったん、おひらきにしよう!」
と言ったのだ。

私は「え?」と思った。
いま、ここでタクロウくんが
「二次会行くぞー!」と声をかけたら、
みんなイヤとはいわない。
ほとんどの人が歓んでついていくとおもったからだ。

「じゃあ、一本締めで!」

とまどっている私たちを動きださせるために、
タクロウくんがみんなに一本締めをうながした。

「パン!」

深夜の都会に、一本締めが響いた。いさぎよく。
その瞬間、なにかが断ち切れた感じがした。

このあとどうしようか、
自分の中に本当の「空白」が訪れた。

そのあとみんなは解散したのか?

いや、結局、みんな二次会にいったのだ。

その日の二次会は、
みんな積極的で、いつも以上に
話に花が咲いたような気がする。

私は何で、つきあいが悪いとされる20代が、
タクロウくんのところに、20人も30人も
好んで集まってくるのか?
理由の一端をかいま見たような気がした。
自由があるからだ。

タクロウくんは
「断りやすい雰囲気」を作ったのではないか。

集団で行動していると、
無意識に集団パワーのようなものが
生まれていることがある。

それが知らぬ間に、しがらんだり、
ときに圧力になったりする。

強い人には、「帰る」なら「帰る」と言えるし
「私は私」、「あなたはあなた」、
なんでもないことなんだけれど、
これが弱い人には、けっこう言い出せなかったりする。
そんなに強い人ばかりではない。

弱いというとネガティブだ。
人には、自分のまわりの人に歓んでもらいたい、
かなしませたくないという気持ちが働く。
そのために、自分の本意とはちがう迎合に出ることもある。

「行きたい人だけ2次会に」といっても、
集団に無意識に生まれているパワーの流れはあるから、
つきあう、しがらむ、流される……、
みたいなことで、ついてくる人もでてくるかもしれない。

そういうしがらみを、あの一本締めが断ち切ったのだ。
深夜の中、「パン!」と。

そこで帰りたい人はすんなり帰れる。
そこで帰らない人もそれぞれに考えざるを得ない。

「自分はどうしたいのか?」と。

私も、ふっと流れが途切れ、
訪れた空白の中で考えさせられた。
「私はもっとみんなといたいんだな」と。

だれかがつきあってほしくて
だれかがつきあわされるんじゃなく、
流れの中で、惰性で流されるんでもなく、
行動力のある誰かについていくのでもなく、

「自らの意志」で行きたいと思った。
それを自覚させられた。

結果2次会にいくことは同じでも、
なんとなくつきあいで出てるとおもうのと、
自分がホントにきたくて出ているのでは、
「場」の作り方がまったく違う。
いつも以上に盛り上がったのも、
一人ひとりの「自由な意志」があったからだ。

1次会から2次会への一コマ、
あまりにもささやかなことだ。でも、
でもお客さんでいる人に、
一瞬で主体性を持たせるということは、
やろうとしてもなかなかできることではない。

「対等であることは難しい。
日常の中でも、NOを受け入れる準備がないと」
と読者のKさんも言うように、
日常の場面、場面で、ちいさく、かわいく、きっちりと、
NOを受け入れる準備をしていかないと、
いざと言うとき大きなNOを許す度量も
生まれない気がする。

自分が集団の多数派になったり
なんらかの権威や権力の側にたってしまっていたり、
逆にさみしさにとらわれたりしてしまったときは、

あの深夜、「一端解散」の声をあげ、
独りNOを受け入れる準備をしたタクロウくんの勇気を
思い出そうと思う。
一本締めの「パン!」という響きとともに。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2007-05-30-WED
YAMADA
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