YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson351 相談をうまくする


相談は、「だれに」「なにを」聞くか、
実はけっこう難しい。

軽い気持ちで相談したら、
相手と険悪なムードになってしまった、

あるいは、

親切だと思って相談にのったのに、
相手はすでに答えを決めており、
それと違う答えをした自分は、うらみを買ってしまった、

なんて経験はないだろうか?

ともだちから就職の相談を受けた、読者の
「就活真っ只中の4年生さん」は言う。


友達が内定を2社もらい相談されましたが、
私にはアドバイスできないって気づきました。

社会人経験もないし、
友達が内定もらった2社についてよく知らない。
下手に何かを言っても結局主観になってしまう。
私が言ったことで、
彼女の人生を変えてしまうかもしれない。

私自身「どっちがいいか」人に尋ねるときに思うのは、
「A」「B」どちらかを言って欲しいのではなくて、
「A」「B」に辿りつくまでの『アドバイス』だったり、
自分の迷いを取り払える納得できる『決め手』
のようなものを求めているのだと思います。
(読者の就活真っ只中の4年生さんからのメール)



相談は、「だれに」するか、
その人に「なにを」聞くのかが重要だ。

ただ話を聞いてもらいたい、
人に話すことで自分の考えを整理したい、
不安なので理解や共感がほしい、
心の中で答えはでているが勇気がでないので
自分の答えを後押ししてほしい、

など、無意識に答え以外の
「支え」を求めていることも多く、
それはそれで「よい」と私は思う。

この場合、「人選」は、
ひごろから、自分への理解が深い人とか、
一度でも心の支えになってくれた人、
その人と話すと心が安らぐ、あるいは勇気がでる、
といった方向であたっていくといいと思う。

なかなかできないことだが、
もしあらかじめ「支えがほしい」と自覚できていれば、
「人に話すことで自分の頭を整理したいから、
聞いてくれるだけでうれしい、
とくにアドバイスを求めているわけではないから」
と言っておけば、相手もスムーズだ。

でもそうではなくて、
ほんとうに判断する上での具体的な相談をしたい、
となった場合、

「だれに」「なにを」を間違える人、
けっこういるのではないだろうか?
自分への反省もこめて私はそう思うのだ。

心の「支え」以外とすれば、では「何を」求めるのか?

「答え」がほしいのではない、と多くの人が言う。
だとしたら「なにを」?
ここがあいまいになっているから、人選ミスもおこる
のではないか?

多くの人はもしかしたら、ヒント以前の、
“情報”を求めているのではないだろうか。

なにかを決められないとき、
その方面の「情報」が圧倒的に不足している、

そんな場合が多いのではないかと私は思う。
「いや、この情報社会で情報はたくさんある」
と思う人も多いと思う。
たしかに情報はたくさんあふれているけれど、

その中から「信頼のおける情報」が見分けられない、
バーチャルで自分にとっての
「リアル」な情報になりにくい、
それ以前に「調べ方」がわからない、

ということがあって、
判断するのに必要最低限の情報が
自分にはそろっていない、
ということが、実は多いんじゃないだろうか。

「情報」「観点」「意見」。

心の支え以外の部分で、人に相談をもちかけるとき、
求めているのは主に、上の3つではないかと私は思う。

相談をするということで、
最近、「とても相談のもちかけかたがうまいなあ」と
感じいった出来事があった。

友人が病気になり、
診察にいった2つの病院で、
2つの違う治療法を示された。

ただでさえ病気になったら心細い、
しかも手術も絡んでくる病気で、
さらに医者の判断がわかれるとなったら‥‥。

私だったら、どうしよう、どうしようと不安になり、
身近な人に相談をもちかけ、
いたずらに心配させたかもしれない。

ところが友人が身近な人に一斉メールした相談文書は、
意外にも明るかった。

そこには、「情報がほしい」とはっきり書いてあった。

二つの病院で意見がわかれているから、
サード・オピニオンをとりたい、
ついては、その病気について
「信頼のおける病院・医師を知っていたら
 教えてほしい」と
はっきり書いてあった。

文書の全編にわたって、
読む人が、明るく面白く読めるようにと工夫してあった。
「相談理由」、「これまでの経緯」、
「相談したいポイント」が
とてもわかりやすく書かれていた。

そして、自分の状況を公開することで、
読んだ人が、1人でも多く定期健診にいくなどして、
早期発見に一役かえるといいなという、
「相談を受ける側にも
 なにがしかのメリットがあるように」
ということが、とてもよく配慮された文書になっていた。

私はすがすがしさを覚えた。

これが、「意見」を求められたら私はまったく
お手上げだったと思う。
その病気のことを知らないし、経験もない。

だけど、その友人は、素人である私たちに
いたずらに参考意見をもとめて悩ますようなことは
しなかった。
病気のことは、
サード・オピニオンをとって、
まず「専門家」と相談する。
身近な人たちには、ひろく「情報」提供を求める。

「だれに」「なにを」がとてもクリアになっていた。

「情報」「観点」「意見」。

この場合、「情報」とは、
そもそもどんな治療法があるのか?
信頼のできるどんな医師・病院があるのか?
など、ヒントやアドバイス以前の「基礎情報」だ。

ただし、自分がその道に詳しくない場合、
「どこからどんな情報を集めてきたらいいのか?」
がわからないことがある。さらに、
「情報は集まったけれど、
 この情報をどういうモノサシで判断すればいいのか?」
がわからないことがある。
そのモノサシが「観点」だ。

たとえば、
よい病院をどういうモノサシで見極めればいいのか?
最高技術を持つ大病院ということで見るのか?
医療ミスの少なさか?
親身になってくれる小規模の病院がいいのか?
この情報の見方、選別の軸、つまり「観点」そのものを、
詳しい人に相談で、求めることもできる。

そして、最終的に「意見」を求める相談もある。
たとえば、「最終的に自分はどの治療法を選んだらいいか
助言がほしい」あるいは、
「あなただったらどの治療法を選ぶか
 参考意見として聞かせてほしい」などだ。

「観点」や「意見」を相談する相手は、やっぱり、
1信頼できる、2その道に詳しい人間、
がいちばんだと思う。

「情報」が圧倒的にない人間にとって、
「観点」や「意見」を求められても
ヘタなことを言えない。
自分が知らないことについて人に助言をするというのは、
やっていてモヤモヤととても心苦しいものだ。

内定を2社もらってどうしようか? という相談の場合、
あくまで、私なりの「観点」を示すと、
最低限、3つの情報が必要だと思う。

べらぼうにくわしくなくてもいいから、
その2社の最低限の情報(会社と仕事に関する情報)
自分はどんな長所やこだわりを持って
生きてきたかという情報(自己理解)
その業界をめぐる社会状況がいまどうなっているのか、
これもべらぼうにくわしくなくてもいいから
最低限の情報(業界をめぐる社会認識)

で、この3つをかねそなえた相談者というのは、
なかなかいない。

「自分はどうしたらいいか、ご意見を」
という聞き方だと、
つきつめれば3つを知る人しか、
意見できないことになる。

その会社や業界はOBなどが詳しいけれど、
OBたちは
自分の能力やこだわりを
知っているわけではないし。

一方、親や友人は、自分のことを長年見ていて、
どんな人間かよく知っているかもしれないけれど、
その会社や業界にくわしいわけではない。

「だれに」「なにを」相談するか?

3つをすべて望まず、
たとえば、その業界に詳しい人には、
「業界をめぐる社会状況について教えてほしい」と、
それぞれ相手の得意分野で、
得意な情報を分けて聞き出し、
最終的にそれらを集めて、

自分はどうしたいのか(意志)

を決定することもできる。
「意見」を求めるなら複数の方が依存しなくていい。

悩んでいるときは、
手当たりしだいに相談することがあってもしかたがない、
わたしもそうして人の手を煩わせてきた。
でも、相談することがかえって
自分の消耗感を強めるときは、

「支え」「情報」「観点」「意見」

自分が相手に求めるものは何か、
立ちどまってちょっと確認してみるのもいい。

意志ある選択が道を拓く。

「自分の意志で決めた」と言える選択になりますように!

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2007-06-06-WED
YAMADA
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