おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson353 相談のゴール 相談し、相談にのって、かえって関係を悪くした そんな体験をもつ読者も多い。 私たちは相談にどんなゴールを見つければいいのだろう? 読者のNONさんは言う。 <相手は良いことをしたと晴れ晴れと去った> 相談して、もっと気持ちが重くなった体験があります。 繰り返し繰り返し【あなたにはそれが出来てないけれど、 私はこんなに素晴らしい!】 要は、相手からそういう話を 延々【逆に聞かされた】のですから。 私にはどんどんエネルギーを奪われている感覚が ありました。 (読者 NON) これなどは、相談の出口に、 相手の自己顕示みたいなものを 見てしまった例かもしれない。 相談のゴールになにがある? 読者の3人はこう見る。 <「容認」という出口> 誰かが「相談」とも 「愚痴」ともわからない話をするとき、 無意識のうちに「容認」を求めているのかもしれない。 だって、自他から正しさを求められ続けるのって つらいですもんね。 (もんもん) <「希望」というゴール> 相談、における、ゴールには 「希望」がなければならないだろう、ということです。 「大丈夫。きっと、うまくいくよ。頑張ってみようよ。」 という励ましや 「今のままでは、まずい。〜しないと、ダメになる」 という叱りや、 「‥‥というふうに、してみたら、 もっとステキになるんじゃない?」 という提案や 手法や、相手に話す、気づかせることは、 色々あったとしても、 その結果、相手が手にするモノには、 「希望」がなければならない。 それが、相談される人にとって、 最低限の、最大の使命じゃないかと。 (帰ってきた極楽王子) <その後の関係をつむぐ> 友達の相談にのってアドバイスをして叱られた、 私にも似たような経験があります。でも、 その場はその友人は一時は怒りを感じたかもしれない、 でも、だいぶ後になって 似たようなシチュエーションになったときに 「そういえばあの時こんなこと言われたなぁ。 じゃあ、そのアドバイスも実践してみるか?」 と思えるようになる場合もあるんですよ。 その場では気まずい雰囲気はあるかもしれませんが、 そのアドバイスが後々活きることもあるんですよね。 こういう事ができるのは 普段の友人との関係性にもよりますが、 人間関係の構築方法に正解はありませんし、 たとえ、その友人と関係が疎遠になったとして 後々会うことができなくなったとしても 「あ〜、あの時こういってくれたあの人は どうしてるかな。 今はもう会うこともできなくなったけど あれを言ってもらったことは今ではいい経験だよ」 って思えるときもありますし。 そういう事のくりかえしも経験しましたので、 自分が友人が相談に乗ったことで、 叱られてしまいショックを受けても、 「あ、ごめんね〜変な事言って」とそのままやりすごして 「今、友人は人の意見を参考にしたいのではないのだな」 と割り切るようにしました。 で、ある程度時期が経ったら 「そういえばあの件どうなった?」と 聞いてみたりすると、 本人が考えた上での行動をしているのであれば それでも良いですし、 私か、誰か別の人の意見を参考にした上での 行動をしていて、 元気でいるんであれば、「良かった、良かった」と 思うようにしています。 相談を受けた時だけの対応に焦点を置かず、 その後の関係性の維持というのも考えて、 「相談」「愚痴」に対する対応まで考えていくと、 相談する側も相談される側もうまく距離感もって やっていけるんじゃないかと思いました。 あと、衝突するときはしょうがないとも思います。 (美和子) 相談といえば、私は人生最大の相談をしたことがある。 会社を辞めるかどうか決めるときだ。 いまふりかえっても、 38歳、次の勤めるあてもなく、 16年勤めた、良い会社を辞める決定など、 自分ひとりでは、到底できなかったと思う。 「相談」の力を借りた。「相談」が私を押し出した。 検討期間は4日しかなかった。 それまでの辞めようと追い込まれるまでのいざこざで 心身はすっかり消耗しきっており。 考えようとしても、どうしよう、どうしようと、 不安と焦り、憤りと緊張が、ただ体をめぐるだけで、 いっこうに、なんにも、ちっとも、進まなかった。 「このままではだめだ。 このままでは、これからの人生を左右する 重要な4日間を、みすみす何もできず、 ただ無駄にして終わってしまう。」 そこで私がとった行動は、 尊敬する人に、できるだけ多く、 「会って」相談にのっていただくことだった。 4日間で、それでも10人ちかくは相談したと思う。 人選は今から思うと、 自分がこうなりたい、尊敬できる、かなわない というものを持っている人間。 相手が私のことをよく知っていること。 会って話ができる人。(どうしてもダメな場合は電話) これらは、あくまで、あとから思ったことで、 そのときは無我夢中で「だれがいいか」と模索した。 でも、自分がとんでもないリスクを しょうかもしれないというときに、 「メールで相談しよう」などという気は いっさいおこらなかった。 また、編集者という仕事をしていたので、 りっぱな先生方をたくさん知っていたが、 こっちが原稿や本で一方的によく知っているだけで 相手が自分のことをあまりよく知らない、 という人もなぜか選択肢にのらなかった。 あとから思えば、働く女性、 しかも、それぞれの分野でつきぬけた仕事をしている人 が多かった。 なぜ10人か。 それまで小論文の編集をやっていて、 一つのテーマにたいする意見は人によって非常に違うこと、 専門家の間でさえ意見はわかれることを、 身にしみて思い知らされていたからだと思う。 だから、相談するとなったら、 数やろうとどこかで決めていた。 何人かが、いい質問をくれた。 これが、まず助かったことだ。 「会社を辞めてどうするの? 他の会社に移るの? 自分で何かやるの?」 「辞めるか辞めないかで悩んでいるの? それとも単に勇気がでないだけ?」 「会社に残ればそれなりに勉強になる仕事が できるだろうけど、 それはあなたがやりたいことか? あなたでないとやれないことか?」 さらに助かったのは、不思議なことに全員が 辞めた方がいいか、辞めないほうがいいか、 あいまいにせず、 自分の意見を正直に、はっきりと言ってくれたことだ。 「会社からどう扱われようと、自分を信じて でーんとかまえて仕事を続けていればいいのよ」 「山田さんは想いを語っているときが 一番生き生きと嬉しそう、 だから会社を移るのでなく、 自分で何か始めようと思っているなら そのほうがいい」 相談しているうち、問題が整理され、 自分はこれまで人にこのように見られてきたのだなと 自分の輪郭、置かれている状況が うっすらと浮かび上がるような気がした。 にもかかわらず、いっこうになにも決められず、 そのあげく 最後にはボロ雑巾のようになって 先輩の家に転がり込んで、 泊まらせてもらって、明け方近くまで 泣いたり、粘ったり、迷ったり、相談して、相談して、 私はそのまま眠ってしまった。 翌朝、目をあけたら 相談のゴールがきっぱりと訪れていた。 私が相談のゴールに見たものは、 「本心」だった。 自分は本心のところで「会社を辞めよう」と 思っているのだな、 ということが、どうしようもなく はっきりと見えてしまった。 本心を知る、ということは、 ただそれだけのようだけど、 自分にとってそれまでの人生にない、 風景さえまったくちがって見える 強烈な経験だった。 ふだん自分の本心なんて、 自分がいちばんわかっていないのだな、 むしろふだん見ないように、そこをあいまいにして、 生きてるんじゃないかとそれから思うようになった。 相談にのってくれた人たちは「産婆」だ。 10人の産婆の手によって、 なでられたり、さすられたり、押されたり、 引き出されたりしながら、 うんうんと4日間の難産の果てに 私は「本心」を産みあげていた。 幸か、不幸か、 出てきた「本心」に、言葉や、覚悟や、 行動が全然ついていかず、 でも、出てきてしまったもん、押し戻すこともできず、 自分の本心なんだから、 こんなに確かでごまかしのきかないものもなく‥‥。 それからは、出てきてしまった「本心」を抱え、 おっかなびっくり、そこに行動や言葉や生き方を 追いつかせようと ずっと追いかけっこをしてきたようだ。 相談のゴールになにがある? もうあんな面倒で恐いことはこりごりだと思いながらも、 私は自分の本心に出会いたい。 そして、小さな親切大きなお世話としりつつも、 自分はたぶん「産婆」をやるだろうと思う。 |
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2007-06-20-WED
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