おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson355 危機に自分の「考える力」を生かす これから何か、 つらい状況をむかえようとしている人へ。 そういうときほど、私たちは、 自分持てる「考える力」を生かし、正しく考え、行動し、 つらい状況をのりこえなければいけない。 でも、人によっては、 ふだんどおりの「考える力」を生かせないばかりか、 不運が不運を呼ぶように、 泥沼の状況を呼び込んでしまうのはなぜだろうか? 先日、ある人に相当ひどいことを言われた。 私は怒るのも忘れ、 あっけ‥‥にとられていた。 それはその人のカンチガイだったからだ。 ちょっと考えれば、すぐわかることだった。 その人は、ふだん冷静。 いろんな人の気持ちを配慮し、 慎重に考えてから、ソツのない言動をする。 その人物と、いま目の前で、 ほんのちょっと確認すればわかることを確認せず、 私を傷つけようと、ひどい言葉を吐いている人物が、 同じ人にはとうてい思えなかった。 「ふだん冷静なあなたが一体全体どうしちゃったの?」 誤解は解け、聞けば、その人はごく最近 最愛の人に裏切られてしまったそうだ。 それで、私まで裏切ると思ったそうだ。 けど、最愛の人がその人を裏切ったことと、 私が裏切るかどうかは、なんの因果関係もない。 いつもどおりのその人でいてくれたら、 まわりも仲良くできるのに、 こんなふうでは本来離れない人まで離れていくよ…、 と思ってハッとした。 私も少し前、仕事相手にひどいことを言った。 しかも言っている最中、 ひどいことを言っているという自覚がまったくなかった。 相手がなにか悪いことをしたのか? いやなにも、それどころか親切にしてくれていたのだ。 ひどいことを言って何かいいことがあるのか? いや、自分も相手もただ不利益をこうむるだけだ。 時間がたって、 あとから、あとから、 つくづく自分はひどいことを言ってしまったと、 後悔するより、あぜん、とした。 どうして自分はあんなにひどいことが言えたんだろう? 自分もまた、その相手とはなんのカンケイもない、 別の仕事先からかなり理不尽な要求をつきつけられ、 無意識に他でもされるのではないかと 暗い想いにとらわれていたことに気がついた。 「つまらない恐怖心に支配されてゆく平凡な人間」 そんな言葉が、 最近みた芝居の解説にあった。 その芝居は、 ごくごく平凡でまじめなサラリーマンが あるきっかけで、 被害者から一転、残虐な加害者になっていく話だ。 みているうちに、他人事ですまされない、 人間だれしもああなるかも、 いや、まじめで平凡にやってきた人間ほど簡単に、 加害者に転じてしまうのかも、 ひょっとしたら自分も? ということを感じさせられていた。 芝居のタイトルは「The Bee」だ。 蜂が、 先日、私のオフィスに飛び込んできた。 ものすごく大きく、肉厚の蜂で、毒をもっていそうで、 ブォンブォン不穏な羽音をたてて跳びまわった。 私はスキをねらってオフィスの窓をひとつ、 またひとつ、と開けていき、 やがて、すべての窓を全開にした。 そうして「出て行ってくれ」と祈りをこめて蜂を見つめた。 蜂は、なぜか窓のないほうへ窓のないほうへとあがき、 私と蜂とのにらみ合いはゆうに1時間を超えていた。 そこへ友人がやってきて しばらく思案していたが、 やがて優しい友人は私のことを思いやって、 「殺虫剤かなんかないですか?」と言ってくれた。 殺したくない、殺せない、殺す必要がない と私は反射的に思った。 以前テレビで見たのだ。 養蜂場の人が、ネットも手袋もつけず、 素手と素顔で蜂にまみれ、 それでも刺されず、元気に働いている姿を。 小さな女の子も何のガードもつけず、 蜂をいっぱいからだにまとわらせて、仲良くしていた。 私はその晩、蜂と同じ空間で、 でもできるだけ離れて静かに寝ることにした。 翌朝、目覚めて窓を全開にした。 蜂はいつのまにかいなくなっていた。 蜂は、追ったり攻撃したりしなければ襲ってこない。 少なくとも、あの時あの蜂、自分にとってはそうだった。 にもかかわらず人はなぜ蜂を殺すのだろう? 被害をこうむると恐れれば人は簡単に加害者になる。 「それを恐れなければ‥‥」 どこかでそんな声がした。 恐怖にとらわれればリテラシーが落ちる。 リテラシーとは「情報の読み書き」、 まわりの状況を正しくとりこんで、正しく考え、 そこにふさわしい言動を表現していく力だ。 この能力は、心の影響を受けやすい。 心がひろくベストコンディションなら、 リテラシーも活発に自由に機能する。 心が狭く堅く縮こまってしまうと、 自分をとりまく情報の読み書きもうまく機能しなくなる。 ほんのちょっと確認すればいいだけのことに気づかず、 私を攻めたてた人も、 ちょっと考えればわかるはずなのに、 大切な仕事相手の気持ちにも、自分の立場にも気づかず、 ひどいことを言ってしまった自分も。 つまらない恐怖心にとらわれて、視野を狭くし、 あやうく大切なものまで失いかねないところだった。 恐怖心のやっかいなとこは、 やすやすと加害に転じさせることだ。 「自分が被害をこうむりそうだ、恐い」 と思っている人ほど、 いつもはしないひどいことを人に対してしてしまいやすい。 「それを恐れなければ‥‥」 きれいごとに聞こえるかもしれないけれど、 私は真剣にそう思う。 恐れなければ案外それですむ話ではないかと。 人に裏切られても、 そのことを過剰に恐がったり、嫌がったり、 まだおこってもいない他の人の裏切りまで 先回りして予測して、 人を疑ったり、恐れたりしなければ、 自ら視野を狭くすることもなく、 加害に裏返って人を傷つけることもない。 ふだんどおりの情報の読み書きさえできていれば、 やがてよい情報も自然にはいってくるし、 そうすれば良いアイデアも浮かび、 自分の置かれた状況に最もふさわしい 適切な言動をしていける。 すると新たな出逢いもあるだろう。 「恐くない。」 私は自分に何度もそう言い聞かせていた。 すると、ふしぎなもので、 今まで自分をとらえていた恐くてしかたがなかった状況が、 だんだんと、ほんとうに恐くないような気がしてきた。 するとふしぎなもので、すーっと視野がひらけるように、 必要な情報がはいってきて、よいアイデアも浮かんで、 ますます恐くなくなってきた。 そんな簡単なことではないと思われるかもしれない。 でも、恐れなければそれですむ話かもしれない。 やってみなければわからない。 何か自分に不利益をもたらすものがそこに「ある」ことと、 それを「恐がる」こととは別だ。 どんな理不尽な、どんなひどい状況がそこにあっても、 せめて、それを「恐い」と思うか、 「恐くない」とおもうか、 私は、自分の意志で自由に決めさせてほしい。 そして私は「恐くない」を選びたい。 こんなこと、ちっとも恐いことではないと。 ほんとうに恐ろしいものというのは こういうことではないと、 自分に言い聞かせていきたいと思う。 それが大変な状況であればあるほど、 自分のリテラシーを高め、知恵も知識も経験も総動員して ことにあたらなければのりきれないから。 自ら視野を閉ざすような余裕などないから。 恐がる暇はない。 危機にあるときほど、 私たちは恐れから自由にならなければいけない。 いま恐がっていること、 それを恐れなければ、きっとうまくいく。 すくなくとも私はそう思う。 |
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2007-07-04-WED
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