YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson357 ひいて、つないで、ひろげて


人間関係で、なにかうまくいかなくなったとき、
私たちは、つい、相手を分析しようとしてないだろうか?

分析的に見ることが、
ときにいい結果を生まないようで‥‥。

少し前、こんなことがあった。

少し前、ある人と仲たがいして、
1ヶ月くらい疎遠になっていたことがある。

その人はふだん辛抱強く、ねばりづよい人だが、
その日は、あっさりと「キレ」た。

それから約1ヶ月、私たちはメールもせず。

不安の中で
私はいろんなことを考えた。

だけど、その1ヶ月間、悩んだり考えたりしたことは、
ほとんど意味をなさなかった。
なさなかったと関係修復してから気がついた。

1ヶ月後、意外にもあっさり関係は回復したのだ。

で、私がその1ヶ月間にやっていた
意味をなさなかった行為というのが「分析」だ。

そうなってしまった原因の分析、
相手という人間性の分析、
自分という人間の分析。

私は、なにかというと、
ほりさげるクセがあるようだ。

最初は、腹立ちまぎれに、
「相手はああいう人間だ」とか「こういう人だ」とか、
相手の人間性をあげつらい、
まあ、相手をワルモノにしようと格闘していた。

しかし、それがうまくいかず、しだいに、
「自分のこういうとこが悪い」
「こういうとこを直さなきゃいけない」
と、関心が内に向きはじめ、
だんだん自己分析と反省の嵐になってきて、

でも、それって原因を、
相手か、自分か、どっちかの「人間性」みたいなとこに、
無意識にもっていこうとしていることで、
最後には、自己否定に陥って、で、反省。
結局は、いつも自分の人間性を改善することで
問題解決しようとしてしまう。

違う相手と、違う問題に遭遇してるのに、
いつも同じ解決方法、
これってどうよ?

「解剖するんですよ。」

複雑系の学問に明るい友人に、そういわれて、
ギクリ、とした。

なんだかわけのわからないものをわかろうとして、
これまで私たちがとってきた方法は、「解剖」なんだと。

「たとえば、
 社会というのは、
 人間がたくさんいて社会になってたり、
 知能というのは、
 脳細胞がたくさんあって知能になってたり、
 生命というのは、
 細胞がたくさんあって、生命体になってたり、

 いろんなたくさんの要素が
 よくわからないんだけど、
 ぐちゃぐちゃ複雑にからみあって
 まったく新しい世界を生み出してしまう。

 そういうものをいままでの科学では、
 どうあつかっていいかわからなかった。それで、

 たとえば、生命ってなんだろう?
 っていったら、“解剖”するわけですよ。」

と友人は言う。友人はさらに、つづけて

「で、解剖して
 脳みそがあるとか、肺があるとか、胃があるとか‥‥。
 さらにそれらを顕微鏡で見て、
 “細胞”があると。

 さらにそれをもっと詳しく見て、
 “遺伝子”があると。

 じゃあ遺伝子を分析しようといって
 どんどんどんどん細かくしていって‥‥

 でも細かくしていっても、
 で、生命ってなに? 生きてるってなに?
 って、結局わかんないじゃないですか。

 そういうアプローチでは、
 複雑なものはとらえきれない。」

そこでどうにかならないものかという、
アプローチの研究が「複雑系」なのだそうだ。

近寄って、切って、分けて、顕微鏡で見て、
どんどん細かくしていっても、
それでも見えなかったものが、

ちょっと引いて、部分と部分の「関係」を見たり、
もっと引いて、「全体」のつながりを見たり、
全体が生み出すものを見たり、

「複雑なものを複雑なままに」
あつかうことではじめて、見えてくるものがある。

見るべきものは、
自分と相手の「間(あいだ)」ではないか、

複雑系の話を聞いて、そうおもった。
なにか問題があると自分は、
「自分」と「相手」を別個の人間として切り分け、
それぞれ解剖するようなアプローチをしていた。

だけど、自分がどういう人間か、
相手がどういう人間か、ではなくて、
大事なのは、その「間」にあるものではないか、と。

どんな「関係」を築いているか?
互いにどう「影響」し、影響されているか?
お互いの関係からどんなものが生まれているか?

かりに、顕微鏡でお互い腹の中をのぞいてみて、
「あいつは無責任な人間だ、自分は責任感が強い」
と分析したとする。
でも、だから相手がダメで、私がいい、とは即ならない。

そこにどんな「関係」がはたらいているか?

一方が一方に影響し、
責任感を引き出し、高めていくような関係ならば、
おたがいが出会った意味がある。

いい人間といい人間が出会った、
だから即、いい関係とも言えず、
マイナスとマイナスが出会ったから、即悪いとも言えない。

お互いの持っているいいものが生きない、
それどころか互いのいいものを殺しあうような関係ならば、
それは、いい関係といえないし。

相手がどう、自分がどう、よりも、
いったいどうすれば、お互いのいいものが
生かしあえる「関係」になるかと考えていけば面白い。

自分と相手は互いに影響しあってここにいる。

自分の言ったひと言、なげかけた行為、
それによって引き出された相手の成分が、
また自分に跳ね返ってきて、自分の成分が引き出され、
自他が形成されていく。
この意味では、自分と相手は切り離して考えられない。

相手と自分、切り分けないで
「つないで」セットで考えてみる。

さらに、自分と相手をとりまく全体へと
もっともっと目を広げて考えることも必要だ。

例の1ヶ月疎遠になった人というのが、
その1ヶ月、身近な人のご病気がほんとうに大変なときで、
加えて、通常の3、4倍の量の仕事がのしかかり‥‥、と
後から聞くと、ぎりぎりの、せっぱつまった状況だった。
いつも辛抱強い人がなぜキレのかも、
後から聞いて、腑に落ちた。

その人の身近な人のご病気や、
その人を取り巻く組織の関係や、仕事の状況が、
微妙に複雑に関係しあって、
めぐりめぐって、結局、
自分と相手の関係を圧迫していた。

だから、1ヶ月して、身近な人の病状が落ち着き、
仕事量が通常にもどったときに、
自ずと関係も修復したというわけだ。

逆に考えれば、そのケースでは、
私がどんなに自己分析し、自己を変節してみたとしても、
相手をとりまく状況がかわらなければ、
問題解決もなかったというわけだ。

自分と相手だけを見ていては、把握できない問題がある。

相手もまた、身近な人々や組織の人々の関係性の中で
複雑に影響を受け、生かされている、
ひとりでは生きられない人間であり、
私もまた、その相手によって生かされている存在だ。

その複雑につながる関係を、少し引いた目で、
ひろく複雑なままに見てみるとわかってくることがある。

切り取って、分けて、ワクをはめて‥‥、
わけのわからないものに出くわしたとき自分は、
そうやって、それを何とかわかろうとしてきた。

でも、相手と自分が対立しているとおもうときほど、
自分と相手の間にあるものへ、
相手をとりまく人間関係や状況へ、
自分と相手をとりまく全体の幸せへと、

目線を引いて、関係をつないで、視野を広げて
考えることをしてみたい。

自我からいつでも離れられる視座を持つということは、
ほんとうに自由なことだと私は思う。

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2007-07-18-WED
YAMADA
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