おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson358 志をもつと人は一時期「孤独」になる ひとりになることを、悪いものだと考えがちだ。 私も、独立したてのころは、くる日もくる日も あくなき「ひとり」で。 そういう時期が4年間は続いたかと思う。 いったいこの孤独は自分がどんな悪いことをした罰なんだ? 不安な日はそうも考えた。 だけど、つい最近、 人はある時期、孤独になる。それは当然のことで、 ああそうか、と腑に落ちることがあった。 それまで、 性格もよく仕事も人一倍できるような人が会社で孤立する というようなケースにでくわすと、 「なんであんないい人が‥‥」と理不尽でならなかったが、 それも今ならわかる気がする。 なにか独自の世界をもったとき、人はしばらく孤独になる。 ひとりになったって、いい。 それに気づかされたのは、 ジャワの舞踊をやっているYさんと出逢ってからだ。 「夕方になるとすごいスコールが降るんですね」 Yさんはジャワの記憶をそう語る。 Yさんはジャワに留学していたことがある。 ジャワではスコールが降ると、 約束があってもだれも外に出ない。 大雨の中、傘をさして、ずぶぬれになっても 決められた時間、踊りのレッスンに行くのは 日本人のYさんくらいで‥‥。 「なんだ、こんな大雨の中をかわいそうに、 雨が降ったら家にいていいんだよ」と、 レッスン場の門番さんに驚かれたそうだ。 ジャワでの生活は、「一日に用事はひとつ」。 「雨が降ったら家にいていいんだ」というようなことを 学んでいく日々だったと言う。 スコールが降ると、約束の時間にだれも行かず、 だれも連絡をとりあったりしない。 でも狭い町だから、雨があがるタイミングもみんな同じで、 雨が小降りになったのを合図に、 だれからともなく、 しずくがぽたぽた垂れるなか、 リンタクに乗って、ひとり、またひとりと集まってくる。 ちょうど雨があがるころ、いい感じでみんな集まってきて、 なにごともなかったようにレッスンがはじまる。 「ジャワにいるときのようなペースで日本で生きていく っていうのはすごい難しいんだろうなあ、 とは思っていたんですよね。 生活のしかたも違うし、 何分刻みで電車に乗ったりジャワではしないし‥‥」 ジャワの時間の流れは、Yさんが留学前に勤めていた 東京の、企業での、効率に切り刻まれていく時間とは まったく違うものだった。 そのジャワに、国費の留学生として招かれ、 2年4ヶ月、宮廷舞踊を学んだ。 王宮のステージに立たせてもらったこともある。 日本人が王宮の舞台に立つなど大それたことと、 ためらうYさんの背中を、 グレイトマザーのようなジャワのお師匠さんが押した。 「あなたはもう、教えたことはできる」と。 夜、王宮のステージで、 素足で大理石を踏みしめている感じ。 そこはかとなく漂ってくるジャスミンの花の香り。 夜鳴く鳥や虫の声。 その中で踊った経験は、 いまでもありありとYさんの中に生きていて、 記憶の反芻の中によみがえる。 「そうした時間の流れはジャワでしか味わえないと、 どこかで認識しつつも、 ジャワの踊りが生まれてきた元になっているものだから、 自分の中にためこんで、東京に戻ってきても、 いざ踊るとなったら再現できたらいいな、 再現できなければいけないんだ、 という想いはすごくあったんです」 日本に伝えたいという想いがYさんの中に育っていった。 ガムランという踊りの音楽には、 曲に名前を刻む習慣がないため、 作詞や作曲、だれがつくったのかわからないことも多い。 オーケストラのような指揮者もいない。 だれからともなく音楽をくりだし、 みんなまわりの人に合わせあい、響きあい、 調和のなかで音楽を演奏してゆく。 Yさんのやっている宮廷舞踊は、商業主義のものではない。 王宮で、神様にささげてきたものだ。 「ジャワでは空気が濃厚で、 いろんな匂いがしたり、とってもねっとりしていて。 日本では手を動かすのにもシュッと速く動かせるものが、 ジャワではゆっくりと動いていく。 その空気の濃度の違いまでも日本にもって帰って、 観ている人が感じてくれたら」 ジャワの世界をためこんで、 Yさんは冬の東京に帰ってきた。 印象的だったのは、帰ってきたYさんが くる日も、くる日も、パウンドケーキを焼いていたことだ。 もともと寒いのがきらいなYさんは、 ジャワの暖かな生活に毛穴もひらいて、 冬の東京が寒くて、寒くて、どこにも行かなかったという。 ケーキを焼くとあたたかいので、 毎日、向こうで習ったパウンドケーキを焼いていた。 計量カップなどをつかわなくても、目分量ですぐ焼ける、 すっかりつくり方まで 身についてしまっていたパウンドケーキ、 くる日も、くる日も‥‥。 「世界ごと何かを失う」ってこういう感じかもな。 別れにもいろいろある。 自分の世界から、だれかたった1人いなくなっただけでも 寂しくてしょうがない。 たった1人の体温を失ったことで、 自分をとりまく空気もかわる。 でもYさんは、向こうの仲間も、お師匠さんも、 鳥の声も、花の匂いも、スコールも、濃密な空気も、 時間ごと、温度ごと、世界ごと、 ごっそりすべてと引き離されて、 たった一人、東京に帰ってきた。 懐かしくてたまらないだろうなあ‥‥‥‥。 ジャワの世界をたぐりよせる唯一の手段が パウンドケーキだった。 日本に帰ってきたYさんが経験したのはまさに温度差で、 まわりは、本場で勉強してきたYさんが さぞバリバリやるだろうと期待した。 でもYさんはなかなか動き出せずにいた。 「自信がなかった、どうしていいかわからなかった」 と言う。 そんなYさんは、まわりの人からは、 のほん、として見え、なぜバリバリやらないんだと思われ、 Yさんはしだいにまわりとテンションがあわなくなり、 一緒に続けてきた仲間とも 続けていくことができなくなって、 ある時期、 ほんとうにたったひとりになってしまったという。 本物を経験してくるとはこういうことかもしれない。 送り出すほうは、本物に触れてさぞすごくなって 帰ってくるだろうと思うが、 圧倒的な本物を知ってしまったほうは、 そのすごさに打たれ、自信をなくしても自然なことだ。 それがまわりにはボケているかのように映る。 「どうやって自分が得てきたものを日本の人に伝えるか? ってすごく難しいとおもったんですね。 日本という全然別のところでジャワ舞踊というものが どうやって機能するか、だれも認識してないわけだから、 その伝え方がわからなかったんですね」 ジャワでやっていたことを、 そのまんま日本でやっても伝わらない。 文化や時間の流れが違う日本で、 同じ世界を再現して見せるには、 なにか「翻訳」のような力を働かせなければならない。 その翻訳をどうやっていいのかもわからない。 ひとりでやっていけるかどうかも自信がない。 だからYさんは、なかなか動き出せずにいた。 Yさんがジャワでつかみ得た世界、 それはまだYさんの中だけにあって、 Yさんが自分でなんとか 外に出して伝えないと、だれにもわからない。 抱えているものが独自で大きければ大きいほど、 自分がそれを出して伝えなければという志も強まり、 同時に、それはおいそれと外に出せないし、伝わらない。 つまり、孤独になる。 Yさんも、徐々に伝えたいものを 表現として外に出していき、 徐々に協力者を得て、はっきりしたカタチを つくりあげるまでに6年かかっている。 その間、家族や友人が励まし続けたという。 「あなたは踊りをやらないとだめだ。続けなさい」と。 私は自分の4年間の孤独が、ああそうか、と腑に落ちた。 私も、高校生への小論文教育を通してつかんだ、 「人が自分の頭でものを考える」という 圧倒的に面白い世界を もっともっと多くの人に伝えようと思って、 会社の外へ出た。 でも、高校生の小論文教育でやっていたことを そのまんまやっても、一般の人には伝わらない。 考える面白さを、ひろく社会に伝え、定着させるためには、 なにか変換・翻訳の作業が求められた。 それに、会社というチームを失ったことで、 編集という得意の手法が使えなくなってしまい、 たったひとりで、別の方法で、伝えなければならなかった。 新しい手法を編み出すまで、孤独になるのも当然のことで。 才能のあるなし、可能性のあるなしでなく、 志しているものがまったく新しいもので、 そこに道がないほどに、本人はどんどん自信を失っていく。 抱えている内的世界が大きければ大きいほど、 それが出せない不満もたまり、 それが人に理解されない哀しみもつのるからだ。 独自の志を持ってしまった人は一時期「孤独」になる。 ひとりになったって、いいんだ。 そういう人を観たら、励まさなければならない。 私も多くの読者に励まされてここまでこれた。 だから、そういう人を観たら励まし続けようと思う。 「あなたはできる。続けなさい」と。 |
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2007-07-25-WED
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