おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson359 なりたい自分か? やりたいことか? 「将来の夢は?」 なんて聞かれて答えるとき、 あなたは、どっちを答えていますか? 将来自分が「やりたいこと」か、 それとも、「こうなりたい」という自分の理想像か? どっちも同じなんじゃないの、 と思うかもしれないけど この二つ、似ているようで、かなり違う。 「自己実現って、<こうなりたい>でしょ、 <これをやりたい>とは違うんです。」 友人にそう言われ、 あらためて、はっ、とした。 自己実現というのは、<こうなりたい私>。 たとえば、きれいになりたい、 学校の先生になりたい、 独立して自分の腕で食っていけるようになりたい、 強くて優しい人になりたい、 英語がしゃべれるようになりたい‥‥などなど、 内容は人さまざまでも、 いきつくところ、つまりは「自分」で。 だけど、「これをやりたい」っていうのは、 ちょっとちがう。たとえば、 世の中の女性たちをもっときれいにしたい。 考える力を伸ばすようにしてもっと教育を面白くしたい。 もうすこしフリーランスになりやすい環境をつくりたい。 優しさを育む街づくりをしたい。 だれでも使い物になる英語が習得できるような システムをつくりたい‥‥などなど、 のっけから、「外」に目が向いている。 <こうなりたい> と <これをやりたい>。 私がなにより驚いたのは、 両者の違いに気づかせてくれた友人というのが、 「自己実現」欲求というものが、まったくない、ことだ。 私は、この年になるまでで、はじめて見た。 「自己実現」にまったく興味のない青年。 その友人に、将来について尋ねても、 たとえば、何歳までに結婚したいとか、 何歳までにどんな地位を築いていたいとか、 この人のようなりたいという目標となる人物とか、とにかく 「こうなりたい」、というものがいっさいない。 というか、「自分のことに関心はない」と言い切る。 そういうことをポーズで言う人をみたことはあるが、 どうも、この人は、ホンモノのようだ。 どうもほっとくと、思考が、自分という小さなワクを出て、 ひろくひろく、普遍に普遍に、いってしまうようで。 つい、世界のこととか、そもそも生きるって何、 というような スケールの大きい、普遍的な問いを考えてしまうそうだ。 数学者が、実利にも役だたない、 自分のトクにもならない、 何百年と解けない「問い」を えんえんと考え続けるようなもので。 そういうことで、つい頭はいっぱいになり、 そういう視野から、ひょいとみると、 自分のことなんか小さすぎてどうでもいい という感じ、想像できなくもない。 でも、「これをやりたい」というビジョンなら ちゃんとある。 いまの社会の問題をこのように解決したい、と。 この友人と話していると、 こちらの言いたいことを、 なんのしがらみも、いっさいの余分なものもはりつけず、 100%理解しようと聞いてくれるので、 反射的にふだん、私たちがどれくらい、 人の話を、自分のせまい自我にとらわれて聞いているか に、気づかされる。 人の話に耳を傾けているようで、実は、 「こういう話をふられて、自分は次に何を言おう」とか 「ここでは、どう立ちまわれば相手の気に入るか」とか、 「これを言ってウケよう」とか、 「ウケなかった」と落ち込んだりとか、 自分自身を見ている。 友人は、なにしろ、そういう自我にとらわれない、 というか、そもそも自分のことに興味がないので、 まっさらな状態で相手の言わんとすることを聞きとり、 これまた、よく思われようなどといういっさいの 欲をおこさないで、自由な立場で考え、考えたことを話す。 話していてなんとも、平等で、平和で、幸福な感じがする。 ふと気がつけば、自分も含め、 「関心が内向き」というか、 「自分のことにしか関心がない」というか、 「自分のことで、いっぱいいっぱい」の人が 多いように思う。 そして、この「内向きかげん」は、 どんどんどんどん半径が 小さくなっているんじゃないだろうか。 最近、ある若者の集まりで思ったのだが、 何人かで集まって話していると、 自分から遠い話題、自分には関心のない話題で 座が盛り上がることがある。 そういうとき、気を消して、 まったく「無」になる若者がいる。 自分には遠い話題を、 それでもわかろうと聞き耳をたててみるとか、 質問してみるとか、 なんとか、そこに橋をかけようとする気配がない。 もちろん、そんな若者ばかりではない。 自分と遠いものに 橋をかけようとする若者もたくさんいるので、 だからこそ、 自分の関心のない話題にスイッチ・オフする若者に 目がとまる。 それがまた、根は優しい、いい人たちで、わからなくなる。 自分のワクから出て話題をつかみに行くことをせず、 話題のほうが自分に近づいてくるまで ずーっ、と待っている。 そして、関心の半径がめちゃめちゃ狭い。 自分の家族とか、自分の恋人の話、 そのあたりが、ぎりぎり圏内のようで、 へたをすると、自分のことにしか関心がない。 自分の趣味になると、とたんにスイッチ・オンになるが、 その話題がすぎれば、また、まったく気を消して無反応、 すべての情報がまた素通りしていく。 関心が内へ内へ。 そういう傾向のなかで、「将来の夢」を、 「なりたい自分」でとらえている人が多いことが どうも気になる。 自己実現か? やりたいことか? 「なりたい自分」になったら、結局、 世の中の役に立つのだから、 どっちから入ってもいいではないかという考えもある。 それも一理あるのだけど、ほんとにそうかなあ‥‥。 自分を磨くことも、とっても流行っている。 きれいになりたいと涙ぐましい努力をする女性も多い。 うちの母や姉のように、家族のためになりふりかまわず、 という生き方は流行らないようだ。 母や姉は、吉川十和子のようなきれいな主婦になることや、 キャリアウーマンのような自立は目指さなかったけど、 「こどもを一人前に育てたい」という やりたいことはあった。 自己実現は、「自分探し」からはいる。 どうも、そこが迷路にはいるツボかなと思う。 自分に欠けているものがあると、 どうしてもそこを補おうとするので、 お金に苦労して育った人が金持ちを目指したり、 権力に押さえつけられた人が権力に走ったり。 コンプレックスがいいほうにころぶといいのだけど、 わるくすると、自分の狭い枠だけで、 ぎったん、ばったんしてしまう。 もうすこし、せまい自分のワクをこえて、 未来をひろげられないものか。 自己実現が「自分探し」、からはいるなら、 「やりたいこと」は、なにからはいるのだろう? どうもそこに、社会を見るとか、 「テーマ」が要るような気がしてならない。 「テーマ」がないと、 あちこち旅して歩いても、 たくさんの目標となるような人物の話を聞いて歩いても、 結局は、関心が内向きのまま、「自分探し」をしてしまい。 自分のワクの外にあるものを リアルな情報としてとりこめない。 自分をふりかえっても、「考える力」の教育というテーマが でてきてから、格段に外の情報がリアルにはいってきて 自分の可能性の幅はグンとひろがったようにおもう。 どうして「考える力の教育」を目指すようになったのかと、 インタビューなどで、聞かれることがある。 聞く人は、私の生い立ちとか、 コンプレックスとか、そういう 内面の事情から、目指したキッカケを探ろうとするのだが。 自分の中をどう探しても、この「やりたいこと」は 出てこなかったと思う。 先にテーマありきで。 たまたま仕事で小論文の担当になったことで、 暗記型の学力ではない、自ら考える力を育てるとは、 というテーマが与えられ、 このテーマが、内向する自分の関心をいやでも 外へ外へとひろげてくれて、 小さい自分のワクをこえたところで、 可能性を見つけるに至った。 志が育たないということが、 いま、教育で問題視されているが、 こどもにたずねるのなら、 「大きくなったら何になりたい?」ではなく、 「いま、あなたの関心・こだわりのあるテーマはなにか?」 とたずねたほうが可能性の幅がひろがるのではないか。 そして仮にでもいいから、関心、こだわりのある テーマをもったほうが視野がひろがっていいと私は思う。 なりたい自分か? やりたいことか? あなたは、いま、どちらで未来を描いていますか? |
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2007-08-01-WED
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