おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson362 ちゃんと考えることをしなかった自分へ 占いやスピリチュアルがとてもはやっている。 今日は、こんなおたよりからお読みください。 <頭の仕事を、魂にさせちゃ、いかん!> 最近、友だちから薦められて、 『おとなの小論文教室。』『理解という名の愛がほしい』 『17歳は2回くる』を読みました。 本を読んで、今、頭の中が言葉でいっぱいです。 問いや要約って‥‥知らなかった‥‥ そういうのってあるんだって愕然としてます。 考えるということの意味を考えるようになりました。 今までは、ちゃんと考えることをしていなかった ような気がします。 自分の奥底に言葉の湖があるならば、 わたしは、水深1mくらいのところで息が続かず、 浮上してたように思います。 もしくは、地面を掘って、なにか固いものにあたると、 あきらめて掘り進めない という表現の方があってるかもしれません。 スピリチュアルな世界では、 考えるな、感じろ! と、魂に従え! とよくいうけど、 それは違うんじゃないかと疑い始めてます。 感じてちゃんと考え、表に出す、 それがとても大切なような気がして仕方がありません。 「ちゃんと考え」の部分がなかったから、 今まで苦しかったんじゃないだろうか‥‥ 今までの人生、 すごくもったいないことをしてたんじゃないだろうか‥‥ と思ってます。 以前、友だちがいってました。 「頭はたかだか数十年、魂は何千、何万年、生きている。 魂の方が賢い。だから魂の方の選択をしたらいい」 うむ、なるほど! と思っていたけど、 今はそうは思えないのです。 ちゃんと頭にも役割を、 頭の仕事を、魂にさせちゃ、いかん! と思いました。 なぜ、この40歳目前になってとも思いますが‥‥でも、 この時期でよかったのかもしれません。 (読者 あつこさんからのメール) これを読んで、 あ、痛てて‥‥とおもった。 自分にも考えるのを 軽視していた時期があったなあ、と。 地下鉄サリン事件以来、約10年、 テレビでは、 スピリチュアルなものをひかえていたけれど、 その前は、いまのように、けっこうテレビで バンバンやっていて、やっぱりブームだったのだ。 友人にはクリスチャンとして ちゃんとした信仰生活をしていた人もいたし、 魂の世界のことを本気で勉強していた人も いたのだけど、 私は、ただ安易にブームにはまっていたミーハーで。 いまから考えるとおかしいのだ。 自分にはもともと宗教もないし、 とりたててそういうことを勉強したわけでもないのに、 なぜか、 テレビとか、本とか、友だちから聞きかじった知識の 断片、断片をつなぎあわせただけで、 いわゆる魂の世界のことがわかったような気でいた。 何がわかっていたというのだろう? 実は何にもわかっていなかった。 そういう底の浅い、にわか知識の人間ほど みょうな自信があるもので、 現実のもろもろのことも、 いったん魂とか、そういうとこに話をもっていくと、 すっきり答えが出るような気がしてきた。 そういう自分の目からは、 疑ったり、検証したり、 地道にコツコツと考えていく人の姿は まだるっこしくて、「遅い」気がした。 「そんなの直感で一発きめればいいじゃん」とか、 「信じれば一発答えが出るじゃん」とか、 「ぐちゃぐちゃ考えてると直感が鈍る」とか、 とまで、人に言ったりした。 いま思い出しても恥ずかしい。 でも、やがてある友人がカルトにはまってしまい、 考えないで信じて一発答えを出す みたいなことを繰り返しているうちに ほんとに考えることをしなくなった。 友人には、やりたくてやりたくてやっとなった 大好きな仕事があったのに、ほんとは続けたいのに 辞めてしまい、 おしゃれだったのに、 おばさんのような保守的な服を着るようになり、 ほんとはやりたくないことをやるようになっていった。 考えることをしないと、 「想い」と「行動」は こんなにも離れてしまうのかと思った。 「考える」とは自分と交信することだからだ。 どんどん人が変わっていく友人をみているうちに、 さすがにゲンナリと幻想が冷めた。 友人に、というより、 安易にブームにのっかって、 ろくな知識もなく、 ただ自分の都合がいいように 世界を思い描いては逃げ道にし、 ちゃんと考えることをさぼっていた自分が、 あさましく見えたのだ。いつのまにか、 そういう世界からすっかり離れていた。 やがて、 世の中で霊感商法みたいなものが問題になったり、 どうも「ノストラダムスの予言」は ウソらしいよということになり。 若い人は信じられないとおもうが、 私がこどものころ、ちゃんとしたテレビ局の ちゃんとしたテレビ番組で、 1999年に世界が滅びるかも、 という「ノストラダムスの予言」を 正面きって、ばんばんやっていたころがあったのだ。 おとなでさえ、多くの人が信じた。 ましてやこどもの自分が影響を受けないはずはなく。 自分のベースをつくっていく幼少年期に、 1999年に世界が滅びるかもと言われて育つのと、 その先もずっと続くと思って育つのとでは、 その先に描く未来にも微妙にちがってくる。 自分の世界観の構築に影響を受けた、 それが問題だったと思う。 それがまったくのウソだとわかり、 テレビもウソをつく、おとなもウソをつくということに 虚しさを知り、 何よりそんなものをほとんど検証もせず 信じた自分の愚かさにゲンナリし、 ちゃんと自分の頭で考えていかなきゃいかんなあと思い、 やがて地下鉄サリン事件がおき、テレビは10年沈黙し。 ここへきて、また、占い・スピリチュアルがブームだ。 ごく日常の会話にも、前世とか、 占い的に何かをやってはいけない時期とか、 さらりと出てくるから、「そんなものなのか」と、 つい、するりと飲み込みそうになる。 いかん、いかん。 占い・スピリチュアル、それらの良し悪しを語る 知識も資格も私にはない。 でも、それらと自分の付き合いかたなら、 ほろ苦い失敗をこめて語れるものはある。 人は死んでも何回も生まれ変わると思うか、 一生はほんとにたったこの1回こっきりと思うか、 これは、たいそう大きな問題だ。 自分の世界観に影響する問題だ。 どちらの立場をとるかで、日々のちょっとした判断から、 未来の描き方にまで微妙に影響を受ける。 そんな大切なことを、 ろくな検証もなく、 安易に決めてしまっていいの? と思うし。 それに、スピリチュアルということは、 現実の中で困ったとき、「霊」に意見をきいてみる ということだし、 星占いなら、星占いで、 「星」に意見を聞いてみることだし。 でもそれだったら自分には、 一気に「霊」とか、「星」とかに行く前に、 まだまだ意見を聞いてみたい人、 聞くべき人がいる。 まず自分だ。 自分はほんとはどうしたかったのか? 自分は何を大切にしてきたか? 自分はこれからどうしていくのか? 自分の意見を聞くためには、問いを立てては、 自分の本心を引き出し、また問いかけては引き出し、 場合によっては紙に書き出し、といった 地道な「考える」作業を繰り返すしかない。 相手がある問題なら、相手の意見を聞きたいし、 ただ、ぼーっと話をしていても 相手の本心は聞き出せない。 そこで必要なのは「聞きだす」技術だ。 テーマがある問題なら、 その分野の専門家の意見も聞いてみたい。 そこで必要なのは、正確な知識と「調べる」技術だ。 自分をふりかえって、 現実が自分にとって受け入れがたいときに、 現実でないものの力を求めるのかなと思う。 そこに思考停止がしのびよる。 このトラップに再びはまるまい。 つらいけど現実を受け入れ、 自分の頭で考えて、できることを まずきっちりやりきっていこうと思う。 |
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2007-08-22-WED
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