YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson368
 学校で教わることと社会に出ないとわからないこと


この社会は、
激しい「利益の追求・競争・循環」の大海原だ。
多くの人は、その大海原で
なんとか金を稼いで食っていかなければならない。

学校は、利益競争から、
柵で囲んで守られた牧場のようなところにあり、
利益体質とはちがう風がふいている。

だから、学校で見た就職の夢は、
社会に出たとき、どこかにズレがあるんじゃないか。

社会に出てからのことは社会にでてみないとわからない

ということを先週のコラムに書いたところ、
私の次の発言を不快に思った先生が何人かいた。

「理解力をつけさせることの達人である先生たちも、
 大海原から金を稼いでくる方法は教えられない。
 なぜなら先生たちも牧場におり、
 大海原に金を狩りにいく日常をおくっていないからだ。」

これにたいして、
「上から目線で言われたくない」
「学校だって食っていく力は学べる」
「先生だって、こどもや親に対してサービス業だ」
という先生側からの声があった。

ほんとにそうだよなあ、
私、エラそうだ。説明もゼンゼン足りてない。

不快になった先生方、ごめんなさい。

今日は、ここを真摯に説明しようと思う。

現場の先生からこんな声もあった。


<キャリア教育に学校ができること>

新卒で小学校教員になり、1年目です。
「先生たちも大海原から
 金を稼いでくる方法は教えられない‥‥」
というところにはとても身がつまされました。

それには二点理由があります。

一点目は、自分自身がお金を稼ぐために仕事をしている
という感覚がない点です。

同期の新人教員とも先日、このことを話しましたが、
給料日にお金が振り込まれていることに違和感を感じる
ことすらあります。

もちろんそのお金で生活しているので、なければ困ります。
しかし毎日子どもに会っているだけで
利益を生み出してはいません。
自らの力でお金を生み出しているのではなく、
まったくの違った場所から(つまりは税金から)
実感すらなくお金が回ってきています。

毎日、仕事だと思って通勤していますが、
その仕事は同じ「仕事」という言葉で表すものの
お金を稼ぎに行くぞという気持ちはありません。

二点目は、子どもに牧場の外のことは教えられない
という点です。

今、学校の中で僕自身が行っていることは、
「もともと決まった答えを見つける方法」を
教えることです。

言い換えれば、
「牧場の柵の中に獲物がいるから、
 今日はこの道具で獲りに行こう」
と毎日新しい柵の中に新しい道具をつかって
獲りにいっているようなものです。
柵や道具が違うので目新しく感じても、
結局は予定調和の作業に過ぎません。

現在、何が求められているかを感じ取り、
最善の方法でアウトプットすることの指導をしていません。

しかし、自分の求めていることを追求し、
アウトプットすることを指導する時間は
多く準備されています。
ここがまた自己実現と仕事を混同する
遠因なのかもしれません。

以上を踏まえて、
実際に社会を教えることのできない
学校ができることはなにかを考えてみました。

学校でできること、それは
「柵の外で利益を探し出す力」
つまり状況を的確に読み取る力と、
「利益を狩る時に使えるかもしれない選択肢としての道具」
つまりなにがあっても対応できるように
オールラウンドな力を付けさせていくしかないのかな
と思いました。

最近はキャリア教育という言葉も現場に踊っていますが、
今後子ども達のために
なにをしていけばいいのか改めて考えてみたいと思います。

(新人教師のOさん)



スポーツや音楽をやってお金になる人、
税金のようなところから
ワンクッションあってお金をもらう人、
仕事といっても、お金の得方はさまざまで、
でも多くの人が、たとえば、
一件一件、営業でまわったり、
宣伝して、大海原にいる客に、
なんとかこっちを向いてもらい、
物を売ってお金を得る、というような、
利益に対して直接アプローチしていかねばならない。

私自身も、利益効率が厳しい企業につとめた。
よくもわるくも利益体質は企業でしこまれた。

そこから学校をみたとき、はじめは、
ことばにできない、なんか、
別々の風が吹いていると思った。

私はとくに教育系の企業だったので、
おなじ教育をやっているのに、
このトーンの違いはなんだろう?
とずっと思っていた。

たとえが悪いかもしれないけど、
企業が民放なら、学校はNHK。

お金の出所が違うだけで、
番組づくりも、世界観も、ずいぶんちがう。
アナウンサーのキャリアの進み方もずいぶんちがうなあと。

NHKの上品なつくりが、民放にくらべ
ときにおっとりしてるな、とおもうこともあるのだが、
じゃあ、NHKに民放のようになってほしいかというと
そうではない、
私がものすごく影響を受けた「NHKスペシャル」みたいな
あんな番組、やっぱりNHKしかつくれないし、
NHKはNHK独自の道を行ってほしいと願う。

学校の先生に利益追求の海で金を稼ぐ方法を
教えられるか教えられないか、
それはもちろん個人個人の考えがあっていいと思う。

百歩譲ってもらって、かりに、教えられないとして、
それが悪いのだろうか? という問題がある。

利益追求の競争から、
学校を柵で切り離しているのは意味があるからだ。

私がいた企業は、教育企業なので、
「教育がやりたい!」と情熱をもってやってくる人が多い。

ところが中には、
「教育と利益は共存できない。
 自分の目指す教育はここではできない」と言って
辞めていく人もいるのだ。

もちろん多くの社員は、教育と利益をなんとか
共存させてがんばっているし、教育に対して情熱もすごい。
でも、やっぱりそういう人がいるのも事実だ。

企業と学校に吹く風のちがい、これは、
企業のゴールが「利益」、
学校のゴールが「教育」だからだ。
どちらも、プロセスの段階で
教育のこともお金のことも考える
グレーゾーンはあるけれど、
ゴールの違いで、世界はすごくちがってくる。

企業のゴールは利益、
お金になるという条件を満たした上での、
教育であり、良心であり、貢献であり、
1人のこどもをものすごく成長させられる商品を出しても、
利益化できないと、その事業は撤退しなくてはならない。
赤字路線のバスを、一定の人にはどうしても必要と
わかっていながら廃線にしなければならない
私企業のように。

教育と利益を考えるとき、
私はよく、「ハンバーガーとほうれん草」のたとえを出す。

へたすると、企業では利益につながる教材が良い教材、
売れるものは教育的にもよいものと考えやすい。

でも、「教育」を考えたとき、それは違う。
これはたとえだけど、こども100人に
「ハンバーガーとほうれん草」をだせば、
圧倒的に、ハンバーガーを歓ぶ。

もし顧客アンケート調査にしたがって利益に走るとすると
こどもが主観的によろこぶ、ハンバーガーばかりだして
人気をとるようなことにもなりかねない。

「教育者だったら、こどものことを考えて、
 こどもが嫌がっても、ほうれん草を食べさせなければ」

というようなことを私が言ったとき、
信頼する人から、

「でも、それ、私企業がやったらまずいんじゃないの?」

そう言われ、はっとした。
私企業は、
「この志に共感するなら一緒に利益をあげましょう」と
集まっている仲間だから。

そこで、たとえて言えば、
こどもが嫌っても、こどもの成長に必要な
ほうれん草のようなものを食べさせようとしたら、
いかにおいしそうに見せて、いかに進んで食べてもらうか、
という工夫をしなければならなくなる。

学校の先生も当然そういう努力をされているだろうが、
企業で商品化するときは、正直「ここまでするか」
「ここまでしないと
 お客さんにこっちを向いてもらえないのか」
とおもうまでやるので、
そのベクトルはもう教育ではないというか、
純粋に教育を目指すなら、
そういう苦労は必要ないというか。

それもそのはず、お金は、いちいち
生徒自身、またはその親のおさいふから出てくるのだから、
「いいことはわかったけど買いたくないわ」
「いいんだけど、よその会社の商品のほうがいいわ」
とそっぽを向かれたら、それまで。

一発で「それいい!」と財布からお金を出してくれる域まで
商品を高めなければいけないし、
それ以前に、上司を説得し、企画を通すのに、
多大なエネルギーを要する。
それは教育とは別のベクトルだ。

私企業では、生徒に嫌われたらアウトなのだ。
あくまで顧客に好かれ、共感され、そこから先の教育だ。

学校ならば、ここは赤字路線だといって、
生徒に必要な教育を、金にならないから即見切る
ということもないだろうし、そうあってほしいし。

先生が利益に目覚めたら、
進学可能性の低い生徒をカット‥‥
そんな考えたくもないシナリオさえ浮上する。

教師と生徒の信頼関係ができれば、
よい意味で、そのときは生徒に少し嫌われても、
教育効果をあげるという選択肢もできる。

生徒にこびないで、サービスしないで、
よい意味でつきはなして、
生徒が自分のほうから食らいついてくるような力も、
学校でこそ引き出せる。

教育をする人を、
公的に利益競争から保護しているからこそ、
できる教育がある。

それでも、学校で利益と切り離されて育って、
いきなり利益競争に放り出された新人は
ギャップにとまどう。
ココの橋渡しをどうするか、あるいは、
社会にでてからのことは社会にでてからにしてしまうのか。

新人のOさんのように、学校は学校で、
利益競争の海にいるおとなはおとなで、
なにができるかを考えていかねばと思う。

最後にやはり読者からきたメールを紹介しておこう。


<学校でしか学べないこと>

先週のおとなの小論文教室。
「学校では自立して食っていけるようになることを
 学べない」で、
いままでの私の考え方と似た考えの方がいたと言うことに
不覚にも感動してしまいました。

利益を問われない場だから金にならないこと、
社会では決して学べないことが
学べるということが学校のよいところである。

損してもおこられないのは学生の特権である。
直接的に仕事に活きるのは難しいかもしれないが
間違いなく学生時代に学んだこと、
遊んだことは社会に出てから自分の特徴になる。

と私は考えています。

(読者 松尾敏弘さん)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2007-10-03-WED
YAMADA
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